悲劇的な想いと、あるいは救い
朝起きて、最初に思い浮かべるのは彼のことだ。
彼の名前は内田 騎真。
私が世界で一番大好きな人の名前だ。
キシンは自分の名前を好いていないようだけど、私はとっても大好きだ。
真の騎士、なんて冗談じゃない。
憂鬱な雨の日の彼は、昔から私にそんなぼやきを聞かせる。
そんな彼の言葉を私はいつも無言で聞いてきた。昔から、ずっとだ。
私は彼にかけてあげる言葉を持っていない。悲しいことだけれど、私は生まれながらにそういう性質なのだ。
ただ普段強気な彼の、そんな愛しい一面を見ることができる雨の日が、私は結構好きだったりもする。
だから雨の日が多い六月は、私が一年で一番好きな月なのだ。
外を見れば、今日は一雨来そうな天気である。
彼が迎えに来るのを想って、私は胸を弾ませた。
◇◇◇
遠くからチャイムの音が聞こえてくる。
これでようやくキシンの高校は放課後だ。
私は待ちくたびれて欠伸が漏れそうになったが、キシンにそんな恥ずかしいところを見せたくなくて、慌てて欠伸をかみ殺す。
だけど、だんだんと騒がしくなる昇降口に彼の姿はなかなか現れない。
外は雨も降っているし、彼が私をおいて帰ったなんてことは考えられない。
どうしたのだろうか。 まさか校内のどこかでケガでもしているのだろうか。
いつもならもうとっくに現れてもいい時間なのに。
不安はつのる一方なのに、体はまったく動かない。
そのことがとても悔しい。
そうやってやきもきしていると、ようやくキシンは昇降口へ現れた。
その横にはクラスメイトだろうか、女の子を連れている。
たったそれだけのことに、私の胸は張り裂けそうになる。
女の子がキシンに笑いかけると、キシンもそれに笑顔で応える。
別におかしなことじゃない。
笑顔でお話をするくらい誰にだってすることだ。
そんなことは分かっている。
だけど、たったそれだけのことに体の内側から軋むような音が聞こえてくる。
苦しい。
胸中は嵐のような激しさだというのに、私はやはり言葉を紡ぐことができない。
私にできることは、胸の内で口汚く神様を罵ることだけだった。
こんな私の本性を知ったら、きっとキシンも私に愛想をつかせてしまうに違いない。
ただ、そんな罵りでさえも私の口からは発せられない。
口下手なんて言葉じゃフォローしきれない私の性の、それが唯一の救いなのかもしれない。
二人は私の前に来るものの、なおも会話を続けている。
私の内側に綺麗じゃないものが溜まっていく。
「うん、じゃあそんな感じで。あ、じゃあ内田くんさぁ、明日の予定とか、どうかな?」
まるで彼女には私のことなど見えていないかのようだ。
いや、実際彼女は私のことなど見えてはいないのだろう。
これだけ近くにいるのに、彼女は私と一度も視線を合わせない。
認識されていない、というのはいないのと同じだ。
「いや、悪い。明日は外せない用事があるんだわ」
キシンの即答に、少しだけほっとする私。
「そっか。じゃ、また今度だね」
彼女はそう言うと、軽く手を振って去っていった。
「ふぅ」
キシンは小さくため息をつくと、ようやくこちらを向いてにこっと笑った。
ふん、そんな笑顔には騙されないんだから。
いっそのこと、思い切って言ってやろうかと思った。
そうしたら、キシンはどれくらい驚くだろうか。
私がそんなことを言ったら、腰でも抜かすかもしれない。
だけど、やっぱり口は動かない。
バカ。バカバカバカ。
涙がにじみそうになるのを懸命にこらえる。
もうキシンがバカなのか私がバカなのか、自分でもよく分からなくなってきた。
ううん、きっと両方とも大バカ者だ。
そんな私の胸中など知るはずもないキシンは私のほうへ手を伸ばした。
「やっぱ置き傘しておいて正解だったな」
そして、そんなことを言いながらキシンは傘をさす。
その後頭部を見つめながら、この男は私の気持ちも知らないで、なんとのん気な口調でしゃべるのだろう、といらだちさえ覚えた。
きっと、彼は置き傘の想いなんて、考えたこともないのだろう。
いつ来てくれるともしれないご主人様を、まるで忠犬のようにいつまでも待ち、いつでも役に立てるように控えているその在り方に、思いを馳せることなんて一生ないのかもしれない。
それはまるで、成就することのない恋のようですらある。尽くすのも、想うのも常に一方通行。そのことに、私はひどく悲しさを覚えた。
なぜなら、私はカサだから。
もし私のご主人様がこんなやつだったら、それだけで悲劇だ。
認識されない忠義なんて、悲し過ぎる。
しかもそんなことをキシンに言っても、きっと彼は傘に気持ちなんてないよ、なんて鼻で笑うに決まっている。
「ったく。中学校ってのはこんなに終わるのが早いのか?」
キシンは雨に向かって独り言のように呟いた。
「時間が違うなら、行きはともかく、帰りはわざわざ一緒に帰る必要はないだろ」
「…………」
彼は私以外誰もいない場所でひとり言葉を吐き続ける。
「ほら、いつまでむくれてるんだよ、香沙。いくぞ」
その言葉に、カチンと来た。
人の気も知らないで、この男はなにを言うか。
「カサじゃないもん。香川 紗英だもん!」
「分かってるよ、すまんすまん。……ほら。いくぞ、サエ」
「ふんだ!」
だって私の幼なじみはとっても鈍感だから。
カサと呼ばれる私は、あの子に同情を禁じ得ないのだ。
いつも昇降口で私と一緒に彼を待つ、彼の置き傘に。