月に携帯を掲げて
夜、携帯を夜空に掲げると、電波を受信した携帯が震えた。
『お嬢様。明日の晩、こちらから迎えを送りますので、出立の準備のほどをお願いいたします』
堅苦しい文面を見て、私は思わず笑いが漏れた。
毎日だと煩わしく思うこともあるが、久しく会っていないとなれば少しだけくすぐったい。他にも長らく会っていない面々を思えば、旅立ちは決して憂鬱なものではなかった。
もうこの地に思い残すことはなにもない。初めて見た海も、驚くほど深い緑も、そして初めての同級生も。たくさんの初めてと喜びを私は心に刻んだ。ただ、唯一の心残りと言えばそのクラスメイトたちとは最後まで仲良くなれなかったことだろうか。
明日の晩、私は生まれ故郷へ帰る。元々帰る時期は決まっていたが、具体的な日を決定したのは私自身だ。もう担任を通して学校にも伝えてある。あとは明日の迎えを待つだけだ。思い残すことはなにもないはずだ。
寮の窓辺から月を見上げながら、私はこちらへやってきてからの一年をとつとつと思いだしていた。
そんな時、夜空へ掲げていない私の携帯が震えた。
『明日の晩、時間取れるかな?』
差出人はミヤコ。私の隣の席に座るクラスメイトの名前だった。
携帯のメールアドレスを交換するほど深い仲でもなかった彼女が、今日になって突然聞いてきたのはこの連絡をするためだったのだろう。私は『遅くならなければ大丈夫ですよ』と簡素に一文だけを打ち込むと、送信ボタンを押した。
掲げなくてもいい携帯を、私は癖で夜空へ掲げていた。
翌日。
メールでの指示通り、私は夜七時を数えて学校の屋上への扉を開いた。
そこには、
「お、主賓が来たぞー」
「ちょっと! 男子つまみ食いしないで!」
「あー、待ってたよー。こっちこっちー」
総勢三十名以上の男女――私のクラスメイトたちだ――が、ござの上に料理を並べている光景が広がっていた。
「えっと……?」
どういう光景を予想していたわけではないが、それでもあまりに想定外の光景に私の思考は停止した。
私が戸惑っていると、ミヤコさんが私の元へやって来た。
「ごめんね、ホントはみんなで出迎えるつもりだったんだけど。知っての通りまとまりのないクラスでさ」
クラスのリーダー格で姉御肌のミヤコさんは、これまでも今一クラスになじめない私を気遣ってたびたびこうして話しかけてくれていた。でも、これはいったい何事なのだろうか。
「ほら、みんな! とりあえず集合!」
ミヤコさんがパンパンと手を叩くと、騒いでいた男子もお喋りをしていた女子もぞろぞろと集まってきた。
しばらくすると私の前にはクラスメイトが勢ぞろいした。
「説明遅れちゃったね。今日はお別れ会兼お月見大会ということで、学校の屋上を借りちゃいました!」
お月見。そう言えば、今日はちょうど十月三日。今年の十五夜だ。今日が満月なのは知っていたが、そんな風習のことなどすっかり忘れていた。
しかし、そんなことよりも、
「お別れ、会?」
「うん、そう」
ミヤコさんは軽く頷いた。
「私の?」
ミヤコさんは満面の笑みで頷いた。
なんだろう、目の前にある事実が驚くべきことだというのは分かるのだが、頭がびっくりしすぎて全然現実感がない。お別れ会。お別れ会。えーっと、お別れ会ってなんだっけ? 仲の良い人同士がお別れをする時に、相手を惜しんで送り出す時に催してくれる会、のことだろうか。したこともされたこともないけれど。
そんなことをぐるぐると考えていると、ミヤコさんが私の背中を押してみんなの中心へ立たせた。みんなは用意していた紙コップを手に取った。私の手にも紙コップが渡され、中へはオレンジジュースが注がれた。
「堅苦しい挨拶はめんどいから、一気に行くよ! カンパーイ!!」
ミヤコさんの威勢のいい一声に、みんなの声が続いた。そうしてみんなコップのジュースを一気に仰いだ。私も、一口だけジュースを舐めた。
それからは質問ラッシュだった。
転校って聞いたけどどこへ引っ越すの? またこっちに戻ってくるの? 連絡先聞いてもいい? 引っ越し落ち着いたら遊びに行っていい?
主に女の子がメインだったが、ちらちらと男子も混ざり、その他の人たちも騒がしい私たちを見て笑っていた。大勢の人にびっくりした私をミヤコさんはフォローしてくれた。質問はひとつずつだと仕切ったり、時たま誰かをからかって周りを笑わせたり。
料理もおいしかった。お団子や栗、豆などをメインとしたお月見料理、それらの他におにぎりやウインナーや卵焼きなどのお弁当の定番が並んでいた。クラスの女子で分担して作ったらしい。ミヤコさんは、あたしは料理はからっきしでさ、なんて笑っていたが。ただ、やはりというかこのお別れ会を企画してくれたのはミヤコさんなのだと言う。他の子から話を聞いて改めてお礼を言ったら、彼女は照れくさそうに頭をかいた。
そんな風に、楽しい時間はあっという間に過ぎた。気がつくと、もう家の者に連絡を取らなければならない時間になっていた。
「そっか、もう行っちゃうか」
ミヤコさんは残念そうに言った。
「はい」
私は本当はもっと居たい気持ちを押さえて答えた。
「みなさん、今日は本当にありがとうございました」
私はそう言って深く頭を下げた。
「必ず、私ここに戻ってきますので、その時は、よろしければまたみなさんとお会いしたいです!」
言葉にしたら少しだけ涙が出てきた。クラスメイトと仲良くなれなかったのが心残りなんて、恥ずかしい。本当はただ私の歩み寄る勇気が足りなかったのだ。でも、もう過ぎた時は戻せない。それならこれからは後悔のないように生きなくてはいけないのだろう。
「うん、あたしらも同じ気持だよ。だから、さよならじゃなくてさ」
ミヤコさんはそう言って一度背後のクラスメイトと目を合わせると、
「またな!」
ニカっと笑って手を振った。
「はい!」
私も笑って手を振ると、涙をこらえて屋上を後にした。
学校を後にすると、私はすぐに携帯を打った。
『私、もう少しだけ地球に残ってもいいかしら?』
私は携帯を満月へ掲げて送信ボタンを押した。