終章
「本当にあれ以来失踪者が出なくなったわね」
若干の気だるさを感じる週の始まりの月曜日。
追い打ちをかけるようにしとしとと降り続く雨の中を歩いて学校まで登校してきた結衣にそう話しかけてきたのは、先に教室にいた聡恵だった。
始業を告げるチャイムが鳴るまでまだ余裕がある。朝の挨拶を返して、チャイムが鳴るまでの時間を雑談しながらやり過ごす。
「うん、これも慰霊碑のおかげだね」
「思ったより早かったのね。そのうちって話だったのに」
犯人が捕まったのは今から五日前のこと。慰霊碑が設置されたのはそのさらに二日後で、拘留所に入れられていた犯人のお祓いが密かに執り行われたのはその日のことだった。
「もう完全に事件は終わったと思っていいのよね」
「お祓いが済んでも失踪者は出てないし、大丈夫だと思う」
予報通り降り出した雨はお祓いが行われた時も、そして今日も降り続いている。が、新たな失踪者は出ていない。犯人の霊は静まったと考えて良いだろう。
「発見された子達も無事意識を取り戻して現在は経過観察中みたいだし、良かったわね」
「それは本当に良かったと思うんだけど……犯人の人がね」
唯一事件の犯人だけは容疑を否認し続けているという話だ。
「そりゃあそうよね。とり憑かれてる間の記憶がないわけだし」
まさか自分が幽霊にとり憑かれて人をさらっていたなどとは露ほどにも思っていないだろう。警察も公にはしていないようだし、真相を知ってるのはごく僅か。
「こういう場合ってどう判断されるのかな? やっぱりその人の罪になるのかな」
「さぁあねぇ。ただ、当て逃げをしたのは間違いないから、それは罪に問われるだろうけど」
こればかりはどうしようもない。そう割り切るしかない。
とりあえず事件の話はそこで打ち切り、話題を変える。というか、急に聡恵が「それはそうと」と少し興奮気味に声を上げたのだ。
「ちょっとびっくりする話聞いたんだけど」
「どんなの?」
唐突に結衣達の会話に龍夜が入ってくる。おはよう、と挨拶を交わす龍夜と聡恵を見やり結衣が先を促すと、聡恵は周囲を気にすかのように若干声を落とし。
「あの洋館、なんか県が買い取ることになったんだ」
「洋館って……もしかしてあの廃洋館か?」
聡恵に倣ってというよりは、そうせざるを得ない内容に、龍夜も小声で問い返す。聡恵が「そう」と頷き返し。
「改修して観光施設にするらしいわよ」
登校中に近所でそんな話を聞いた、と続けると、初耳の結衣と龍夜は揃って首を傾げた。
「有名な心霊スポットだったのに?」
「曰く付きの建物だよ?」
なんでまた、と率直に疑問を口にすれば。
「築百年越えの木造の建物だからだって。しかも建築したのが海外の人でしょ? 歴史的にも貴重なものらしいわよ」
ああ見えて、と荒れ果てた洋館を思い出しているのだろう。聡恵が信じられないといった口調で言う。
「工事開始の予定はまだだいぶ先らしいんだけど、改修は決定なんだって」
「マジか。けどよ、あんな薄ら寒いとこに見物人なんてくんのか? 周り何もないぞ」
「だから、それに併せてあの辺りもきれいに整備されるみたい。飲食店やお土産屋さんとかも併設予定だって」
「だいぶ大がかりにやるんだな」
「みたいだけどねぇ。ただあそこって一つ大きな問題があるというか、いるじゃない」
聡恵が複雑な顔で唸る。それには結衣と龍夜も同意せざるを得ない。
確かに所々痛んではいたが、落書きや荒らされた痕はほとんどなかった。改修されればさぞ立派な施設になるだろう。だが、あの洋館には誰にも存在を知られていない住人がいる。
「知ってるのかしら? クオルさん」
「どうだろう。あれ以来会ってないし」
「え? そうなの? 暇つぶしに遊びに来てると思ってた」
予想外の返答に聡恵が驚く。かく言う結衣も内心意外に思っていた。
絶対暇を持て余してやってくると思っていたからだ。
しかし犯人を捕まえた夜以来、クオルとは顔を合わせていない。既に五日が経とうとしている。
「まだ知らないのかも」
あの屋敷も敷地も、クオルの安息の地だ。見せ物にするなど、絶対許すはずがない。もし知っているならば必ず不満をぶちまけにくるはずだ。
「だからっておれ達にも関係はないだろ」
あの洋館がどうなろうが、と龍夜が素っ気無く言う。
「それはそうだけど……」
でも、ほんと、どうしてるんだろう。
実を言えば結衣は、顔を見せないクオルのことが少し気になっていた。
傲慢で横暴な吸血鬼ではあったが、助けに来てくれた上に庇ってくれたりと、案外悪い人ではない一面を目の当たりにしたからだろうか。
(うーん、でも様子を見には行きたくないんだよねぇ)
如何せん場所が場所だ。もう何もないとは思うが、やはりあの屋敷を取り囲む雰囲気は怖い。結衣には近寄りたくない場所だった。
(……今頃、どうしてるのかな)
あの日以来顔を見なくなった吸血鬼のことを脳裏に思い浮かべ、結衣は雨の降り続く空を見上げたのだった。
――が、その十数時間後の真夜中。
「おい小娘。あの男共は一体なんだ。事件はもう解決したのだろう? 何故まだ出入りをしている」
見るからに不機嫌そうな顔を貼り付けて銀髪の青年が結衣の前に現れた。
既に寝息を立てていた結衣は、背筋を凍らせる奇怪音――ガラスを引っ掻いた時に出る耳を劈く不快音で起こされた。枕元の目覚まし時計を見れば、夜中の一時。噂をすれば何とやらだ。
渋々窓を開けると頗るご機嫌ななめな様子で部屋に入ってきて、窓際に背を預けて座ったかと思えば先の台詞である。まさに予想していた通りの反応だ。
「ようやく人が安息を手にしたと思ったら今度はあれだ。しかも、話を聞いていれば俺の住処を改修して見世物にするだと? 許さん、全員血を吸い尽くして二度と寄りつく気も起こさんようにしてやる」
招き入れたのも束の間。言いたいことだけ言ったクオルは今にも部屋を飛び出していこうとする。結衣は慌ててその背中を止めた。
どうやら理由も知っているようだ。それなら話は早い。
「ちょっと落ち着いて、なにもとり壊すわけじゃないんだから。修復していろんな人が見学できるようにするだけ。地下までは何もしないはず」
「落ち着けだと? 貴様、正気か。あの場所は俺の寝床なのだぞ。それに母の形身でもある。どんな理由であれ他人に踏み荒らされたくない」
「それは分かってるけど、もう決まったことらしいし。どうすることもできないよ」
「ではやはり全員食料になってもらうしかあるまいな」
「だからそれは駄目だって。そんなことしたらまた何かの事件だと思われていろんな人が来るかもしれないよ」
「別に構わん。もしそうなったら全員始末するまでだ。食事には困らなくなるから結果的には問題ない」
「いや、それじゃあクオルが危険な目に合うだけじゃない。そりゃあ簡単にはやられたりしないだろうけど、でも大勢でこられたりしたらさすがに危ないでしょ? そうなるくらいだったら大人しく工事を受け入れた方が安全だと思うよ」
以前のように守ってくれる両親もいないのだ。
「ね? せっかくお母さん達が守ってくれた命なんだから大切にしなきゃ」
吸血鬼にいう言葉ではないだろうが、それをいうとクオルも押し黙った。さすがに反論しにくいのだろう。このまま素直に頷いてくれればこの話は終わりだ。そう結衣が頭の片隅で思っていた時だった。
「……ならば貴様が新しい住処を見つけろ。それならば屋敷は明け渡してやる」
不承不承という口調でとんでもない要求をしてきた。今度は結衣が頬を引きつらせる番となった。
「ちょ、ちょっと待って、なんであたしがそんなことしなきゃなんないの」
「貴様が止めろといっただろうが。俺はその要求を呑んでやる」
「で、代わりにあたしが替わりの住処を探せって?」
「それくらいのことはしてもらわねばな」
「えー! なんであたしがそんな面倒なこと」
つい本音を吐露してしまい、結衣ははっと口を押さえたが時既に遅し。
「ほう、随分な言い草だな」
涼しげな目元に一層冷ややかさを加え、クオルが見下ろしてくる。ぎくりと肩を震わせるが、避ける暇もなく冷たい指先が結衣の顎を捕らえる。目の前に碧眼が迫り、結衣の心臓はどきりと跳ね上がる。
「俺のために働くことが面倒というのか。たった五日会わなかっただけで口の聞き方を忘れたらしいな」
しっかりと固定された顔は逸らすことなど不可能で、不敵に笑む唇が目の前に迫ってくる。呼気が感じられるほど近くに。
背中を押されれば間違いなく大惨事になる。その至近距離で、クオルは結衣に言った。
「俺のことを気にかけてくれているのならば、それくらい安いことだろう?」
「そ、それは……」
様子が気になっていたのは事実だが、吸血鬼に適した住処などそう簡単に思いつくわけがない。
どこかないかと結衣は必死に頭を回転させる。するとそこへ「あら、そんなの簡単じゃない」と暢気な声が割って入ってきた。
振り返れば、妙に笑顔の両親がドアのところに立っていた。どうやら一部始終を傍観していたようだ。
「話は聞かせてもらったよ」
「ていうか、二人の唇が重なりそうなところからじっくり見てたわ」
ふふ、と笑みを浮かべながら母が言う。絶対楽しがって見ていたに違いない。
ならもっと早く声をかけてほしかったと胸の中で両親を恨めしく思った結衣だったが、それを非難するよりも早く父が口を開いた。
「そのことなんだけどね、クオルくん。――ここなんてどうかな?」
相変わらずにこやかな表情を浮かべたままの父から放たれた謎の言葉。
――ここ?
結衣とクオルは揃って首を傾げ。
「何言ってるの? お父さん」
「……ここ、とはどういう意味だ?」
息もぴったりな結衣とクオルを眺め、両親は更に笑みを深める。
妙に生き生きとした表情に結衣達がきょとんと目を丸めていると。
「ここで一緒に暮らしましょう、ってことよ」
「クオルくんの生い立ちなんかを是非聞かせて欲しいんだ。同じ屋根の下で」
「…………え?」
「ほう、なるほどな」
ようやく話が飲み込めたクオルが神妙な声を出して頷いた。未だに『?』マークを浮かべていた結衣だったが、それも次にクオルから放たれた台詞に『!』マークに変わる。
「つまりこの家を、俺の新たな住処として提供してくれるというのだな」
「「当たり!」」
見事に言い当てたクオルに父と母が盛大に拍手を送る。結衣は時間も考えずに叫んだ。いや雄叫びを上げた。
「…………ええええええええ!?」
「黙れ」
「ぶっ!」
クオルの冷たい手が結衣の口を押さえる。それも、後ろから羽交い絞めにするように。
「妙案だな。その申し出、有り難く受けよう」
「!?」
即決するクオルを驚愕の目で見上げる。抗議の声を上げたいのだが、口を塞がれた状態ではそれもままならない。その間にも三人は、
「あのお屋敷に比べたらちょーっと狭いかもしれないけど」
「『住めば都』というしね」
「大きさは気にしない。何せ眠る場所は棺桶だからな」
それくらいの広さが確保できれば十分、などと結衣などそっちのけで話しを進める。そして次にクオルの口から放たれた一言に結衣は凍り付く。
「あとは――餌、だな」
餌、とクオルが口にした瞬間、ばっちり目が合った。
ちょっと待って。なんかすごく嫌な予感しかしないんだけど。
結衣は顔面蒼白になりながらも、なんとか口を押さえている手をどかし振り仰ぐ。
「え、餌ってまさかあたしのこと!?」
「安心しろ、餌といっても非常食として、だ。獲物が見つからなかった時のためのな」
「い、いやだからね! なんであたしがっ」
「そんなことを言える立場か? 助けてやっただろう」
忘れたとは言わせん、と指摘され、結衣は五日前のことを思い出す。
間一髪の所を助けに来てくれたこと。その挙げ句、自分を庇って怪我まで負わせてしまったことを。
「礼をいただいても良いくらいのことはしたはずだが?」
「そ、それは……」
確かにそうだが。
尤もな意見に結衣は言葉に詰まる。この流れはもう……。
「どうなのだ? もしそれでも拒むのならば、代わりに貴様の血を全てもらうぞ」
死ぬか一緒に住むか。
そんなの、答えは決まっているではないか。
「……どっちにしても最終的には失血死するんじゃないの、あたし」
「それは大丈夫だ。ちゃんと考えながら吸ってやる。隣に小うるさい小僧もいることだしな」
「……うぅ、だれかたすけてぇ」
りゅう、さと、と幼馴染みと親友の名前を呼ぶが、消え入りそうな声量では届くはずもなく。
「どうやら決まったみたいね」
「いやー、今か今かと待っていたんだよ。クオルくんと話せるのを。すごく楽しみだよ」
「それは何より」
項垂れる娘を余所に年甲斐もなくはしゃぐ両親とそれを受け入れる吸血鬼。がっくりと膝をついた結衣には慰めの言葉もない。
明日は掃除をしなくちゃ、と浮き足だって部屋を後にする両親をしり目に、結衣はただただ自分の境遇を嘆く。
これからどうなるのだろうか。
ただでさえ超ド級の怖がりなのに吸血鬼と一緒に生活するとか不安しか感じないのだが。
「――結衣」
静けさの戻った室内にクオルの呼び声が落ちる。半ば投げやりに、どうしたのかと振り返れば。
「喉が渇いた。今夜はまだ一滴も口にしていない」
「……はい」
早速《食事》の要望だった。機嫌を損ねると後々怖いので、結衣はもう素直に従う。
相変わらず冷たい指先が、す、と肌を撫でた。
「もとはといえば、貴様が俺を目覚めさせたのが全ての始まりだ。因果応報だと思え」
「……そんな因果すっぱり断ち切りたい」
そう足掻いたが、結局は何の意味もなかった。
初め、あの屋敷を調べて欲しいと母に頼まれた時に感じた嫌な予感は、もしや幽霊屋敷の調査ではなくこのことを予知していたのかもしれない。
この、傲慢で横暴な半吸血鬼と送る、少しだけ現実離れした生活の方を――。