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四章

 初めて顔を合わせたのは決行前日のことだった。

 人数は三名。お互いの名前も年齢も、顔さえ知らない。共通して分かっていることはただひとつ。とあるサイトからアクセスしたこと。内容は荷物の梱包、運搬作業だったのだが、蓋を開けてみれば空き巣の斡旋。いわゆる闇バイトだった。

 薄々そうではないかと思ってはいたのだが、背に腹は代えられなかった。

 あらかじめどこの家に侵入するか、何時に犯行に移るのかは決められていたようで、指示を伝える役目を終えた一人はそのまま車で待機し、あとの二人で実行する手はずになっていた。

 実行犯役になっていた自分はもう一人の実行犯役の者と目的の家へと侵入する。その為の道具も全て用意されていた。

 時刻は夕方の五時になる五分前。人の往来が増える時間帯ではあるが、天候は雨。それも視界を遮るほどの大粒の。それをふまえた上で今日が決行日だった。

 侵入口は裏口だった。

 道路に面した玄関には鉄製の門扉。家の周りには二メートル近いブロック塀に囲まれおり人目にもつきにくい。侵入口となる裏口は、表の道路から細い路地に入り込んだところにあり、雨に紛れて侵入するのは容易いことだった。

 裏口のガラスを割り鍵を開ける。雨音のおかげで気付く者はいない。

 入ってすぐの左手には風呂と洗面所があった。細い廊下を土足で進み、右へ曲がる。

 一階で見つけた貴重品をあらかたバッグに詰め込んだ後、もう一人の実行犯役の者が二階へと登っていった。自分は見張りを頼まれ玄関の近くで警戒していた。

 静寂に包まれた屋内に雨音だけが響く。

 困窮していたとはいえ、やはり犯罪を犯すのは、心の奥底では抵抗があったのだろう。早くここから引き上げたいと、時計ばかりが気になっていたその時だった。

 上からがたがたと物音がした。ついで言い争うような声がしたかと思うと、女がひとり駆け下りてきた。どうやらこの家の娘のようだ。

 事前に調べた情報によれば、今の時間帯は無人だということだったのに。

 思わぬ誤算だった。そのせいか、共犯仲間は不意を突かれたようでよろめきながらあとを追いかけてきていた。

 その仲間が叫ぶ。捕まえろ、と。

 女は玄関前で待機している自分を見て向きを変え、一階の一室へと入っていった。確かそこはリビング。前庭へと出られる窓があったはず。

 指示に従い追いかけると、思った通り外へと出ようとしていた。

 外は相変わらず雨が降っていた。庭木をばたばたと揺らし視界を遮る。

 娘は裸足だということもお構いなしに外へ駆け出した。夢中でその後を追いかけた。窓際の収納棚に飾られていた花瓶を手に取ったのは無意識だった。

 土砂降りの雨の中、女は足をもつれさせながらも門扉の前まで到達していた。

 ――まずい、逃げられる。

 焦燥感が足を動かす。花瓶を握りしめていた右手には力が入り、振り上げる腕は激情で支配される。

 そうしてはっと我に返った時には女は頭から血を流して倒れていた。手に持っていた花瓶は割れて地面に散らばっていた。

 自分が何をしたのか一瞬分からなかった。肩で大きく息を吐きながら、ただ呆然と立ち尽くす。

 そんな時、雨音よりもはっきりとその小さな悲鳴は耳に入ってきた。

 細い鉄格子の向こう側。青ざめた顔でこちらを見ている女子高生がいた。

 ――見られた。

 気が付けば逃げる女子高生を追いかけていた。

 後から考えればそのまま自分だけでも逃げてしまえば良かったのに、先程の仲間の声が耳に強く残っていて、そんな考えも沸き起こらなかった。頭に浮かんでいたことはただひとつ。

 ――見られた。捕まえないと。


 □□□


「それじゃあ、貴女が駆けつけた時にはもう、あの女子中学生は道に倒れ込んでいたと」

「は、はい。悲鳴が聞こえたような気がして、聞こえた方向へ行ってみたらあの女の子が倒れてて……」

「近くに誰かいた? もしくは逃げていく人影とか見てない?」

「…………いえ。動揺して、周りをあんまり見てなくて」

 警察署の中にある一室。事務用の机が置かれている殺風景なそこは、取調室と言うよりは資料室や休憩室のような感じの部屋だった。

 学校からの帰宅途中に女子中学生が倒れているのを発見した結衣は、駆けつけた警察に第一目撃者として同行を求められ、事情を聞かれていた。女子中学生は幸い怪我などはなかったのだが、念のため病院へ搬送された。

「おまけに雨も降り出してたからね」

「……すみません」

「あ、貴女を責めてるわけじゃないのよ」

 話を聞いているのは女性の刑事で名前を藤と名乗った。結衣が話しやすいようにと配慮してのことだろう。

「あの辺りは当て逃げの事故とか多くて、定期的に見回りもしているんだけど」

「それに、一番最初に失踪した子の持ち物も、あの辺りで発見されたんですよね?」

「そう」

 だから余計に警戒している区域だったのだけど、と藤は深く息を吐いた。

「やっぱり、まだ何の手がかりもないんですか?」

 結衣の質問に少し困ったような表情を浮かべた藤は「不安にさせるようなことは言いたくはないんだけど」と前置いてから小さく頷く。

「あ、でも、出回っている噂は嘘だからね。あの廃洋館の亡霊の仕業という変なやつ」

「そ、そうなんですね。なら良かった、あたし怖い話苦手で」

 知っているが敢えて話に乗る。昨日その亡霊本人から聞いたとは、とてもじゃないが言えない。

 そんな話をしていたところへ「親御さんがきました」と別の警察官が呼びに来た。わかりました、と藤が答え結衣を立つよう促す。

「とりあえず、今日のところはこれでおしまいね。もしかしたら後日、話を聞くこともあるかも知れないから、ご両親にも事情を説明するわね」

「はい」

 返事をして一緒に部屋を出る。廊下の先の方から、知らせに来た警察官とは別の警察官に案内されながら歩いてくる両親の姿が目に入った。その姿を見て、たまらず結衣が呼ぶ。

「お父さん、お母さん!」

 気付いた両親が小走りに駆け寄ってきた。

「結衣! 大丈夫なの!?」

「何があったんだい? 警察から電話がかかってくるものだから驚いたよ」

 心配げに様子を窺ってくる両親に結衣が答えようとすると、対面を見守っていた藤が事情を説明しようと両親に挨拶をした時だ。母を見て「あれ?」と首を傾げた。

「亜子さん?」

 名前を呼ばれた母が結衣から藤へと視線を移すと「あら」と目を丸める。

「藤ちゃんだったのね。ごめんなさい、気付かなくて」

「いえ、私も今亜子さんだと気付きました」

「お母さん、知ってる人?」

「今回の失踪事件のことを知り合いの刑事さんに相談されたって話したわよね? この方がその刑事さんよ」

「娘さんだったんですね」

 藤は改めて頭を下げる。

「それで、発見者として話を聞かせてもらっているって説明は受けたんだけど、何を見つけたの?」

「女子中学生が道に倒れていたところを、娘さんが発見してくださったんです」

「事故?」

「断定はできません。事件の可能性もありますし」

「なら犯人は?」

「突然のことに動揺されたようで、見てはいないようです」

「……」

 真剣に話をする母達を見て、結衣は迷った。先程事情を聞かれた時には黙っていたことがある。

 ――例の人影のことだ。

(どうしよう)

 あの場に漂っていた異様な雰囲気。声をかけても反応すら見せなかったことといい、女子中学生を襲ったのは人外の可能性がある。

(そう考えると、あの人影が女の子を襲った犯人かもしれない)

 しかしそれを話して信じてもらえるとは思えなかったから、結衣は見ていないと答えたのだが、今は母もいる。

(やっぱり、ちゃんと話さないと)

 決心した結衣は「あ、あの!」と声を上げる。

 三人の視線が一気に集まる。注目された結衣は少し戸惑いながらも口を開いた。

「えっと、中学生の女の子を襲ったのは、その……人じゃない、かも」

「それはどういう」

 藤が訝しげに問い返す。先程は見ていないと答えたのだから当然だろう。

 そういった手前、結衣も決意したものの話して良いものか考えあぐねいていると、察したらしい母が「もしかして」と結衣を見る。

「何か視たの?」

「みた、って」

 藤が結衣と母を見比べる。

「この子も私と同じで霊感があってね」

「そうなんですか? じゃあみたっていうのは、幽霊?」

 藤の問いかけに結衣は僅かに頷く。

「幽霊っていうか、たぶんとり憑かれた人が」

 結衣が話し始めようとすると「あ、ちょっと待って」と藤が止める。

「場所を移しましょうか。じっくりお聞きしたいので」

 こちらへと、促される。そこは先程まで藤と話していた部屋だ。

 再び舞い戻ったそこで、両親も交えて改めて自分が目にした出来事を全て話す。

「夕方、雨が降り出した時、急に変な気配がしたの。その後に女の子の悲鳴が聞こえた気がして、急いで声のした方へ向かったら倒れてる人がいて。その女の子を助け起こそうとした時、気配が強くなって、見回したら遠くからじっと見てる人がいた。その人はたぶん人間だと思う。けど……その人の顔の辺りにもう一つ顔があったの」

 重なるようにもう一人、確かにいた。だから迫ってきていた人物の顔がうまく見えなかった。おまけに頭に響いたあの声。

「みられた、つかまえないと、って言ってた」

「どういう意味でしょうか?」

 結衣の話を聞いていた藤が結衣の母を見る。代わりに答えたのは父だった。

「見られたっていうのは文字通りだろうから、捕まえないと、と言ってることから考えると、見られたらまずいもの――何かの犯行現場とか、そういうのを見られたんじゃないかな」

「犯行現場って、何か事件があったってこと?」

「事件……ですか。うーん」

 あの辺りは事故は多いが事件などはあまり聞かない。

 ひとしきり頭をひねっていた藤は「ちょっと失礼しますね」と部屋を出ていった。しばらくして戻ってきた藤は、三つの段ボール箱を乗せた荷台を伴ってきた。

「あの近辺で起きた事件に関する資料です。私が配属される前のものもあるようなので、分かるだけ持ってきました」

 言いながら箱を床に降ろす。

「私達が見ても大丈夫なのかしら?」

「本当は駄目なんですけど、今回はご意見を窺った方が良さそうな案件なので」

 よろしくお願いします、と頭を下げた。

 そうと決まれば、と段ボールの封を切る。中からいくつものファイルを出していき、それを四人がかりで一つ残らず目を通していく。

 数十分で一つ目の段ボールが空になり、二つ目に手を伸ばす。これまた大量のファイルが詰め込まれていた。それを机に出している最中、結衣はふと一つのファイルに目を留めた。

「強盗事件?」

 今から十年ほど前の事件だった。

「どうかした?」

 結衣の視線に気付いた藤が声をかける。気になったファイルを手渡すと、受け取った藤が表紙を開いた。

 初めは普通にページをめくっていたのだが、読み進めていくにつれ表情が徐々に険しくなっていく。

 どうしたのかと結衣が見守っていると、別のファイルを見ていた両親も藤の様子の変化に気付き「何か見つかった?」と尋ねてくる。

「この強盗事件なんですけど……」

 読んでいたファイルを机の中央に置き、藤が内容をかいつまんで説明する。

 夕方の五時頃、逃走係も含めた三人の強盗犯が一軒の住宅に不法侵入した。十分な下調べを経てからの、住人の留守を狙っての計画的な犯行だったようだ。おまけにその日は警報級の大雨で、目撃者も少なかった。

「ただ、その日はたまたま娘さんが在宅していたみたいで、その娘さんが犯人と鉢合わせになったようです」

「鉢合わせ……」

 嫌な想像が脳裏を過ぎる。だが藤はそれを否定した。

「逃げようとしていたところを襲われて怪我をしていますが、幸い命に別状はなかったと。しかしこの犯人なのですが、その犯行を帰宅中の通行人に見られ、その通行人も襲おうとしたようです。この通行人というのは近くに住んでいた十七歳の女子高生で」

「まぁ、通行人まで?」

 えらく攻撃的だったのね、と母が顔をしかめる。そこで結衣は不意に頭に響いてきた言葉を思い出す。

 ――ミラレタ。ツカマエナイト。

 この強盗事件の犯人の行動と同じ言葉。

(でも、何で?)

 もしあれが強盗事件の犯人だったとしても、人の思考が直接流れてくることなんてない。幽霊は視えるが、それ以外の力は結衣にはない。

 そんな結衣の疑問は次に告げられた藤の言葉で解ける。

「この犯人なんですが、その通行人を追いかけている途中で交通事故で死亡しています」

「……え?」

「その場所が、今日、女子中学生が倒れていたところの十字路です。飛び出して車と衝突したようです」

 即死だったと、と報告書を読み終えた藤が言う。

 交通事故。それも死亡している。

「……なら、この強盗事件の犯人の霊が、あの人にとり憑いていたってこと?」

 呟く結衣に母も「でしょうね」と頷く。しかしそこで別の疑問が浮上する。

「もしそうだとしたら、何のためにあの場所に現れたんだろう? それに、とり憑かれている人は」

 気配は人ではなかったが、確かに身体は人間だった。まさか十年もとり憑かれているというのだろうか?

 何がどうなっているのか訳が分からず首を捻っていると、静かな一言が滑り落ちる。

「――捕まえようとしたんだろうね」

 それまで一言も発さずに事件の概要を聞いていた父がぽつりと零す。そして、予想していなかった言葉を発する。

「ねぇ、思ったんだけど、今起きてる失踪事件ってこの強盗事件の犯人の霊の仕業じゃないかな?」

「え?」

「状況がかなり似てるよね」

 強盗事件の犯人は、娘と通行人に犯行を見られたから捕まえようとした。雨の降っている夕方で、どちらも十代の女の子だった。

「そして今失踪している子達も十代の女の子で、雨の降っている日に行方が分からなくなっている。それも夕方の時間帯にね。極めつけは事件現場の近くで最初の失踪者の荷物が見つかっているってこと」

 そこまで言われれば、結論は自ずと行き着く。

「……じゃあ、みんなこの事件の犯人に捕まってどこかに連れて行かれたってこと?」

 手がかりがないのも霊の仕業だから。

「そう言われると、確かに」

 藤が神妙な顔で頷く。

「でも、何で今? それにどうして捕まえるの?」

 事件は十年も前のこと。記憶にある限りでは、これまで一度も今回のような出来事はなかった。

「この犯人は交通事故で亡くなったって話だったわよね?」

「はい」

「交通事故とかがあって人が亡くなった場所って、お地蔵様とか慰霊碑が建てられることが多いんだけど、あの辺りも事故が多い場所だし、もしかしたら近くにあるんじゃないかしら?」

「……その慰霊碑に何かがあった?」

 それが原因で今まで静まっていたものが起きてしまい、先ほど遭遇した人にとり憑いた。そして今、同じ犯行を繰り返している。当時と同じ、雨の日の夕方に。

「よっぽど心残りがあったのね」

 十年も経っているのに成仏することもなくこの世に留まっていた。それが犯罪を犯したことへの自責の念なのか、はたまた事故で死んでしまったことに対する無念なのか。どんな思いなのかは想像もつかないが。

「でも、そうなると連れて行かれちゃった子達はどこに?」

「もし失踪事件の犯人がこの霊だとすると、同じ条件下の犯行を繰り返しているから……」

「となると、事件のあった家が一番怪しいということでしょうか?」

「あくまで予想はね」

「でも、考えられる状況としては一番可能性がありますね」

 とにかく今はいなくなった子達を見つけるのが先決です、と藤が強く言う。

 最初の失踪者が出てから一週間以上経つ。確かに早く見つけなければ。

「今その家はどうなってるんだろう?」

 さすがに人が住んでいるんだったら、捕まった子達は既に発見されているはずだ。

「調べてみます」

 藤が頷く。

 思わぬ展開になった。ただ倒れている人を見つけただけだったのに、まさか失踪事件と関係があるかもしれないとは。

 調査の結果はまたおって連絡します、ということで、結衣達はそのまま警察署を後にしたのだった。


 □□□


「中に入れろ」

「いやだ」

「ミイラにするぞ」

「んなこと言われたら、なおさら入れるわけねぇだろ」

 部活から帰ってきて自室の電気を点けた後のことだった。

 荷物を机に置き、着替えようと龍夜がネクタイに手をかけたその時、不意に何かに窓を叩かれた。

 外は特に風は吹いていなかったと思う。夕方降り出した雨も、三十分ほど集中して降っただけでぱたりと止み、それ以降はかえって穏やかなものだ。

 自分の気のせいかと思い無視していると再び音がした。しかもちょっと強めにがたがたと、窓全体が揺れた。

 鳥か、或いは野良猫でも登ってきたのか。

 気になって着替える手を止めてカーテンを開けてみた。そうして開けてしまったことを激しく後悔した。

 窓の外。ベランダの手すりに腰掛けていたのは、雲の間から零れる月光を受けて幻想的な輝きを放つ銀髪の美青年。昨日の今日で見間違えるはずもない。廃洋館の魔物の生き残り。

「……何しに来たんだよ、吸血鬼」

 思いっきり嫌そうな顔で龍夜はそれだけ尋ねる。もちろん窓は開けずに。すると手すりに座ったままのクオルが嘆息しねめつける。

「本当にしつけのなっていない小僧だな。人と話すというのに窓くらい開けたらどうだ?」

「いやだ。断る」

 しかめっ面で頑なまでに拒む龍夜にクオルは「もしや」と柳眉を顰める。

「結衣の父上殿に聞いたな?」

「当たり前だろ。吸血鬼は招かれなければその家に入ることができないんだってな」

 当然のように言ってやるとクオルは盛大に舌打ちした。その口惜しそうな様子に龍夜はにっと勝ち誇った笑みを浮かべる。

「分かったらさっさと帰るんだな。うちには絶対入れないから」

 言って、カーテンを閉めようとしたのだが。

「まぁ良いさ。元より貴様には用はない」

 そんな淡泊な答えが返ってきた。龍夜の手が止まる。次いでクオルを見やる。ガラス越しのその美麗な顔が心なしか笑っているように見えるのは気のせいだろうか?

「じゃあ、何しに来たんだよ?」

 嫌な予感がして、龍夜が若干声音を低くしながら問えば、クオルはあっさりとその名前を口にした。

「結衣はどこだ?」

「……結衣に何の用だ」

 あからさまに敵意剥きだしで聞き返す。昨夜目の当たりにした光景が蘇り、知らず邪険になる。するとクオルはふっと口端を上げ。

「そう警戒するな。別にとって喰いはせん」

 あんなやかましい小娘に興味はない、とまるで龍夜の心中を見透かしているような口振りだ。

「ただの暇つぶしだ。話し相手のひとりでもおらんとつまらんだろう」

「だからって結衣かよ」

 この見た目ならば一声かければ誰だって相手になってくれるだろう。そう言いかけて龍夜は口を噤む。

 百歩譲って僻みととられるのはまぁ我慢しよう。だが、それよりも気にくわないのは、相手に結衣を選ぶところだ。誰が近付けさせるか。

 しかしそんなことはお見通しのようで、クオルが更に笑う。

「妬くな小僧、男の嫉妬は醜いぞ」

「や、妬いてなんか!」

 図星をつかれ、かっとなって言い返す。するとクオルは至極真面目な顔で小首を傾げ。

「違うのか? お前達は恋人同士なのだろう? 昨夜も血相を変えて助けに来ていたではないか」

 怪訝そうに眉根を寄せる。それに言葉が詰まったのは龍夜の方だ。

「こっ、こいびとって、おお、おれ達はそんなんじゃ」

 どもりながら何とかそれだけ言い返す。

 先程までの険悪な態度はどこへやら。顔を赤くして酸欠の魚の如く口をぱくぱくさせる龍夜を見て、クオルはなるほど、と得心したように口端を上げる。

「貴様の片思いか」

「っ!」

「情けない。想いを寄せているのならば、そう伝えればいいではないか」

「う、うるせぇ、お前には関係ないだろ!」

 ついに羞恥が限界を越えた龍夜が窓を開けて怒鳴る。

 耳まで真っ赤にして肩で荒く息を吐く様に、クオルはさも愉快そうに喉を鳴らす。

「まったく、意気地のない小僧のくせに良く吠える」

「だれが意気地なしだと!」

「好きな相手に気持ちも伝えられん男がそれ以外の何だというのだ」

「こ、こっちだって事情があんだよ!」

 別に勇気が出なくて伝えていないわけではない。そう言外ににおわせれば「ほう、どんな?」と興味深そうに目を光らせる。

「返答次第では助言してやらんでもないぞ。あんな小娘を手玉に取ることなど造作もない」

 遠慮せず言ってみろ、と何故か恋愛相談の様相を呈している。そんな手に乗るわけがない。

「てめぇに答える義理はない!」

「なんだ、折角ひとが手を貸してやろうとしているのに」

「面白がってるだけだろうがっ」

 魂胆は見え見えなんだよ、と龍夜が言い返してやれば、クオルは「気付いていたのか」と白けたように肩を竦める。

「つーかマジでもう帰れ! 結衣達みんないないんだからよ」

 明かり一つ点いていない隣の家を指さして言う。

 龍夜が帰ってきた時点で結衣の家は真っ暗だった。大方家族揃って夕飯でも食べに出ているのだろう。待っていてもいつ帰ってくるかは分からない。クオルもそれは理解したようで。

「仕方がない、今夜は帰るか」

 一つ息を吐いてからようやく腰を上げた。手すりの上に立ち、遙か上から龍夜を見下ろす。

「貴様でもいくらかは気が紛れたしな」

「……二度と相手なんかしてやらねぇ」

 龍夜が苦々しく吐き捨てると、クオルはふっと意地の悪い笑みを浮かべ。

「では、結衣と話していても邪魔をしにはこないというのだな」

「それとこれとは話が別だ! 結衣に近付くんじゃねぇ」

「その台詞は名実共に恋仲になってから言うんだな」

「っ」

 正論を突きつけられ、龍夜はぐっと言葉を飲み込む。そんな時だった。

 キィ、と車のブレーキ音が耳に入ってきた。龍夜とクオルは反射的に音のした方を見る。

 車が停車したのは隣の家の前。結衣の家だ。しばらくしてから助手席と後部座席から人が降りてくる。

 龍夜の部屋のベランダからはその玄関先の様子が窺える。

 車のライトにより、降りてきた人影が結衣と結衣の母親だということが見てとれた。では車を運転しているのは父親だろう。結衣の母親が門扉を開けると、車を敷地内に納めていく。

 その一部始終を龍夜と共に見届けていたクオルは「これは運が良い」と軽やかに結衣の部屋の前へと飛び移った。

「ちょうど帰ってきたようだ」

「あ、てめ」

 待て、と引き留めようと腕を伸ばしかけ、しかしふと龍夜は眉を顰めた。

 引っかかったのは結衣の服装だ。玄関へ向かう結衣が何故か制服姿だった。おまけに鞄も持っている。

 部活もしていない結衣がこんな時間に制服姿でいるのは妙だ。ましてや荷物もそのままなんて。

(何でだ?)

 訝しんでいると結衣の母親の行動に確信を得た。

 結衣に続いて、車を車庫に納めた結衣の父親が玄関に向かう。最後に母親が家へ入ろうとしていたのだが、ドアを閉める直前で何かをまく素振りを見せた。それを目の当たりにし、龍夜はすぐさま身を翻した。

 窓も開けっ放しに、急いで部屋を出る。そのまま階段を駆け下り、一階のリビングで寛いでいた両親に外出する旨を告げて自宅の玄関を飛び出した。

「どうした?」

 突然部屋に引き返した龍夜に、屋根から降りてきたクオルが問う。振り返ることはせずに龍夜は答える。

「今おばさんが玄関の前を清めてた。たぶん結衣に何かあったんだ」

「何かとは?」

「わかんねぇ。でも霊がらみなのは間違いない」

 これまで何度も見た光景だ。予想が外れた試しがない。

 一抹の不安を覚え、龍夜は隣家のチャイムを押す。しばらくすると結衣の母親が応答した。

「あ、おばさん。おれ、龍夜だけど」

 名乗れば「ちょっと待ってて」と言われた後、結衣の母親が玄関を開けて出てくる。門の外にいる龍夜とクオルを見て小走りで駆け寄ってきた。

「りゅうくん。と、あら、クオルくんも」

「こんばんは、母上殿」

 先程までの龍夜に対する不遜な態度とは打って変わって、クオルは優美に挨拶をする。

 なんだその態度の違いはと思いつつも、二重人格な吸血鬼は放っておいて龍夜は尋ねる。

「結衣のやつ、どうかしたのか? さっき清めてるの見えたけど」

「あら、気付いちゃった?」

 言って結衣の母親は困ったように笑う。「なら、黙ってても意味はないわね」と中へと通される。

 招かれたリビングでは、やはり制服姿の結衣と、父親の文人が難しい顔で頭を付き合わせていた。テーブルの上には数枚の紙が置かれている。

「二人とも、どうしたの?」

 現れた龍夜とクオルを見て結衣は驚いたように目を丸める。龍夜が正直に清めてたのが見えたからと答えると、結衣は特に気にした様子もなく「そっか」と頷いただけだった。

「何があったんだ?」

 みなまで言わず問いかけると、結衣達三人は一様に難しい表情を浮かべた。そして、しばらくしてから結衣が「それが……」と重い口を開いた。その内容は龍夜達がまったく予想していないことだった。

「――では、今起きている失踪事件の黒幕は幽霊だと?」

「んで、お前が遭遇したのはその霊にとり憑かれてる奴だってのか?」

「たぶん……」

「まだ憶測でしかないけれど、そうじゃないかなと思ってる。十年前の事件の内容と今回の状況が酷似しているんだ」

 言って、文人が机の上の紙を差し出す。どうやらその、十年前に起きたという強盗事件の新聞のコピーのようだ。ざっと目を通して内容を確認する。

 失踪している者達の年齢といい、雨が降っている日に限定して起きていることは確かに見過ごすには余りあるが。

「偶然ということは考えられないのか?」

 訝しげにクオルが問い返す。しかし結衣はその疑問に首を振り。

「声を聞いたの。見られた、捕まえないとって。この強盗事件の犯人もそうなの。見られたから捕まえようとした。その時に事故にあって亡くなったって」

「ふむ……」

 その言葉にクオルもそれ以上異論を唱えることはなかった。

「それより、お前は何ともないのか? 声を聞いたって、干渉されたり、怪我とかしてないのか?」

「うん。あたしはただ通りかかったというか、変な気配がしたから確認しにいってみただけで、特に影響は受けてない」

「でも、この子自分でも気付かないうちに連れてきちゃったりするから、念のために清めておこうかと思ってね」

 それが先程の亜子の行動というわけか。

「なら良いけど。あんま危ない真似すんなよな。下手したらお前も襲われてたかもしれないだろ」

 呆れたように龍夜は結衣を見やる。「気付いたら身体が勝手に動いちゃってて」と苦笑いを浮かべる結衣に溜め息を吐きながらも、内心ほっと胸を撫で下ろす。

「しかし、犯人が幽霊だとするとどう対処を? 犯行を止める手だてはあるのか?」

 クオルが首を捻る。それに答えたのは亜子だ。

「そのとり憑かれている人を捜し出して霊を祓わないといけないわ。で、その後――」

 説明している途中で唐突に亜子の携帯が鳴った。電話をかけてきた人物の名前を見て慌てて通話ボタンを押す。

「もしもし、どうしたの藤ちゃん?」

 今回の事件を相談してきた知り合いの刑事だと結衣が龍夜達に教える。何かあったのだろうかと電話が終わるのを待つ。

「えぇ、分かったわ。私はいつでも大丈夫だから」

 それじゃあまた明日、と藤からの話を聞きながら何度か頷いた後、亜子は通話を切った。そのまま電話の内容を結衣達に伝える。

「強盗事件のあった家なんだけど、今は空き家になってるんですって」

 事件の後、住んでいた家族は引っ越してしまったそうだ。襲われた娘が精神的に病んでしまい家を出たのだと。

「今は賃貸物件として不動産会社が管理を任されているらしいんだけど、その事件以降入居した人はいないって。それで、管理してる不動産会社に協力してもらって明日捜索することになったみたいなんだけど、できれば私にも同行してほしいってことで連絡してきたみたい」

 万が一とり憑かれた犯人に遭遇した時のために、対処できる者がいてくれると助かるとのことだった。

「空き家か。なら、そこにいる可能性はありそうだね」

「あとは、犯人の霊が動き出した原因だよね。そっちを調べてみないことには根本的な解決はできないだろうから」

「なら、できるだけ早く調べた方が良いんじゃねぇか。明後日くらいからしばらく天気悪いって予報だったし」

 梅雨前線が停滞しまとまった雨が降る予報になっていた。だから、できればその前に解決、もしくは犯人を捕まえなければ。新たな被害者が出る前に。


 □□□


 翌日。

「話した矢先に遭遇するとか、あんたも運が良いのか悪いのか」

 おかげで事件には進展がありそうだけどさ、と聡恵が何ともいえない顔で話を聞いている。

 すっきりとした青空の下。恒例の広場ではなく、今日は場所を変えて人気の少ない校舎裏の木陰で弁当を広げていた。話の内容が内容なだけに知られるとまずい。

「それにしても、犯人は幽霊だったとはねぇ」

「確実にそうとはまだ断定できないんだけど、ほぼ間違いないんじゃないかと思う」

「あながち噂も間違ってはいなかったってわけね。廃洋館の亡霊ではなかったけど、幽霊も同じようなものでしょ」

「まぁ、そうかな」

 だから手がかりが見つからなかったのね、と納得する聡恵に結衣も同調する。

「でも、そうなるとどうやって捕まえるの? 霊感ある人にしか視えないんじゃ」

「それはたぶん大丈夫。とり憑かれてるのは人間なんだし。ただ、何があるかは分からないから、お母さんが一緒に行くことになってる」

「失踪してる子達を探してるのよね。見つかると良いわね」

「うん」

「さすがにもう捜索してるよな。おばさんから何か連絡きてるか?」

「……それがまだ」

 箸をおろし、結衣は制服のポケットから携帯を取り出す。

 捜索を開始する前に藤が迎えに来る手はずになっているとのことだったが、今朝結衣が家を出る時にはまだその影はなかった。

 それから休み時間ごとに携帯を確認しているのだが、それを知らせる通知は来ていない。今もだ。

 やっぱりまだ連絡は来ていない、と結衣が首を横に振ったその時だった。

「――それは俺が答えよう」

 ふとどこからともなく声が聞こえてきた。辺りを見回していると、頭上から木の葉と共に何かが結衣達の側へと降ってくる。

「こんなところにいたのか」

 探したぞ、と三人の傍らに着地したのはここ連日顔を合わせている銀髪の美青年。

「ク、クオル!?」

「お前、何でここに」

「え? じゃあこの人が二人が言ってた吸血鬼?」

 突然現れたクオルに結衣と龍夜がぎょっと目を剥く。ひとりクオルの顔を知らない聡恵だけがきょとんとした表情で瞬きを繰り返す。

 そんな三人の前に何食わぬ顔で降りてきたクオルはくるりとその場を見回したかと思うと。

「やぁ、可愛らしいお嬢さん」

 迷うことなく聡恵の前に片膝をつき「初めまして」とその手を握った。

「俺はクオル・ディシャという。君の名前を教えていただけるだろうか?」

 結衣と初めて会った時にも見せた艶やかな笑みを浮かべ、名前を名乗る。いきなりのことに呆気にとられながらも、聡恵も「あ、初めまして」と返す。

「えっと、夏木聡恵です」

「聡恵か、良い名だ」

 言いながら、まるでどこぞの貴族の挨拶のように手の甲に軽く口付ける。その一連の動きが見事なまでに自然で、現れたことに驚いていた結衣が正気に戻ったのはその後のことだった。

「こ、こらー! さとに妙なことしないでよ!」

「まだ名乗っただけだが?」

「手にキスしてるじゃない! さとから離れて!」

「挨拶の基本だろう」

 何を怒っている、とクオルが心底不思議そうに首を傾げながら聞き返してきた。が、思い出したかのように「ああ」と声を上げ。

「そう言えば貴様にはしていなかったな。なんだ、して欲しかったのならば早くそう言え」

 言って、聡恵の手を解放した後、おもむろに結衣の手を取り。

「人を渾身の力で殴るような粗野で粗暴な奴でも、一応は貴様も女性の端くれだ。望みとあらば応えてやらんこともない」

 不承不承といった風な言い方ではあるが、取った手を引き寄せ唇を近付けてくる。それに慌てたのは結衣の方だ。

「そ、そういうことじゃなくて!」

 ひぇぇ、と顔を赤くしてあたふたと手を振り払おうとしていると、間髪入れずに龍夜が割って入ってきた。

「てめぇ、結衣に変な真似すんじゃねぇって言っただろうが!」

 いつぞやの剣幕でクオルの手を振り払う。それにクオルが一瞬むっと表情を歪めたかと思えば、ふとほくそ笑んで龍夜を一瞥する。

「求められれば応えてやるのが男として当然だろう。まぁ、どこぞの意気地なしの小僧には荷が重いかもしれんがな」

「なっ」

 昨夜と同じように小馬鹿にされた龍夜は言葉を詰まらせる。だが負けじと睨み返し。

「だ、大体、何しに来たんだよ!」

 吸血鬼がこんな昼間の学校に、と言い返せば、不意にクオルは笑みを真面目な表情に変えた。

「随分な言い草だな。折角俺自らが貴様らの疑問の答えを伝えにきてやったというのに。それに言っただろう、太陽の光も平気だと」

「吸血鬼と人間のハーフなんだっけ」

 確か、と聡恵が思い出したように言えば、クオルはすぐさまそちらへと向き直り。

「俺のことが気になるか? では、今夜辺りにでも教えてあげよう。君の家にお邪魔しても良いだろうか?」

 すっと聡恵の手を取り、お決まりの台詞を放つ。それが家に潜り込むための吸血鬼の常套句だということは、結衣は父から教えてもらっていた。

 龍夜の背中に隠れたままで結衣は聡恵に忠告する。

「さと、認めたらダメだからね。吸血鬼は招かれた家に自由に出入りできるようになるんだって。だから絶対頷いちゃダメ」

「へぇ、そうなんだ。分かった」

「ち、余計なことを」

「ごめんなさい、わたし軟派な人はあんまり得意じゃないから、普段通りに接してもらって大丈夫です」

「おや、これが本来の俺だが?」

「そう? 結衣達の話だと不遜で横暴なイケメン吸血鬼だって聞いてたけど」

「……貴様ら、口が軽いだけならまだしも」

 あとで覚えておけ、とクオルは冷徹な目で結衣達を睨みつける。

「そうそう、それで良いです。軟派な人って胡散臭いじゃない。信用できない」

「ふむ、君は清々しいまでにはっきりしているな」

 先程から全く取り乱してもいない聡恵にクオルはあっさりと手を引いた。

「頬に触れただけで慌てふためいていた小娘とは大違いだ」

 今後はちゃんと相手を見極めて対応せねば、と至って真面目に対策を講じている。その姿勢に「安心して」と聡恵は笑う。

「大体の人はそうだから。こんな美青年に声かけられたら誰だって狼狽えるわ」

「それは良かった」

「……なんかすんなり打ち解けてるな」

「さとすごい」

 平然と吸血鬼と会話している聡恵を見て結衣と龍夜はもはや感服する。っと、そんな場合ではない。

「あたし達の疑問ってことは、もしかして空き家の捜査は終わったってこと?」

 話を元に戻し、結衣がクオルに確認する。するとクオルは「ああ」と頷き。

「行方知れずになっていた娘達だが、その空き家から見つかったそうだぞ」

「本当に!? みんな無事?」

 結衣の問いにクオルが首を縦に振る。

「衰弱していたが、とりあえずは大丈夫だろうと」

 少女達には特に目立った怪我もなく、ただ気を失っていただけだったそうだ。恐らく霊障により昏睡状態に陥ってしまっていてのだろう。今は病院に搬送され、治療を受けているとのことだった。それを聞いて結衣は良かったと胸を撫で下ろす。

「ということは、予想通り十年前の強盗犯の幽霊が犯人で間違いないってことよね」

「そうだろうな。侵入経路も裏口で、ドアの壊され方が当時と同じだったそうだ」

「なら、その霊が動き出した原因の方は?」

「それも予想していた通りだ。当時の事故現場の近くに慰霊碑があったと」

 家の捜索が終わった後、そのまま母と藤が事故のあった交差点を見に行ってみたらしい。そこから少し離れた場所に慰霊碑が建てられていたそうなのだが。

「壊されていたと」

「壊されていた?」

「あてにげ、と言っていたな」

「当て逃げ……」

 事故があったのは今から二週間以上も前に遡るそうだ。

 早朝の出来事で、蛇行する車が慰霊碑に突っ込んでいくところを運動中の通行人に目撃されている。おかげで車種やナンバー、事故を起こした人物の身元と住所も判明している。らしいのだが。

「その者が行方知れずになっているのだそうだ。事故を起こした直後からな」

 職場や自宅、果ては実家にも張り込みをしているのだが、全く姿を見せていない状態だという。

「なら、とり憑かれているのはその当て逃げの犯人ってこと?」

「母上殿はそうみているようだ。壊した時にとり憑かれたのだろうと」

 そして今、失踪事件を起こしている。

「その人はどうだったの? 一緒にその家にいた?」

 その質問にはクオルは首を横に振った。

「残念ながら空き家にはいなかったそうだ」

「いなかった?」

「というか、気配が掴めなかったと母上殿は言っていた。恐らく条件が揃っていないから霊が活性化していないのだろうと」

「条件……」

 というと、十代の女であることと、雨が降っている夕方ということか。

 呟いて結衣がふと黙り込む。その表情が妙なまでに真剣で、龍夜と聡恵が揃って眉を顰める。

「お前、何考えてんだ?」

「もしかして、犯人捕まえようとか思ってないわよね?」

 まさかと思って尋ねてみると、結衣が若干言葉を濁しながら。

「いや、さすがにそれは無理かなって思ってるけど」

「けど?」

「気になるっていうか……せめて、どこにいるのかの手がかりが掴めればなぁって。ほら、相手は霊なわけだし、視える人の方が対処しやすいかなって」

 焦ったように口早に答えた。するとすかさず二人は「危ない」と止めに入る。

「怖がりが何言ってんの!」

「そうだ、ただでさえ影響を受けやすいくせに自分から探しに行くとかバカなこと言ってんじゃねぇ」

「警察に任せておきなさい」

 犯人はもう分かってるんだからと諭すが、結衣からは「で、でも」と反論の言葉が返ってくる。

「標的は十代の女の子だけなんだよ?」

 いくら警察が張り込んだとしても現れる可能性が低い。

「このままじゃ、また誰かが襲われるかも」

「それはそうかもしれないけどよ……」

「だからって結衣がどうにかする必要もないでしょ?」

「けど……」

 まだ何か言いたそうな顔で結衣は二人を見る。

 偶然とは言え、犯人に遭遇してしまったからだろうか。普段は怖がって関わらないようにしてるくせに、珍しく引き下がらない。

 そんな結衣に龍夜と聡恵はお互い顔を見合わせる。それからしばらく無言の時間が続く。だが、結局は諦めたように龍夜達が深く息を吐いて。

「……なら、おれも一緒に行く」

「仕方ないわね……」

「二人とも、良いの?」

「相手が幽霊だからあんまり意味はないだろうけど、一人よりは心強いでしょ」

「お前ひとりだと、霊から干渉された時動けなくなるだろ」

「それは、そうだけど……でも、本当に良いの?」

「……お前が危ない目に合うのが分かってて放っておけるか」

「ま、そういうことだから」

「りゅう、さと」

 ありがとう、と改めて礼を言うと、早速聡恵が本題に入る。

「それで、今日行くの? 雨は降らないって予報だったけど」

「まずはその家を見てみようかなって。そこで何か犯人の痕跡でも見つけられればいいかなって」

 条件のことを鑑みれば、今日行っても意味はない。しかし結衣にとっては逆にそれが狙い目でもある。

 とり憑かれている人間といきなり対峙しても結衣にはどうすることもできない。結衣は視えるが祓う術は知らないのだ。

 霊が活性化していない状態ならば、遭遇せずに居所を掴むための情報を探せるかもしれない。

「――では俺も同行しよう」

 それまで静観していたクオルがふと口を開く。思ってもみない申し出に結衣は目を瞬かせる。

「クオルも来てくれるの?」

「この事件が落ち着けば、洋館の亡霊が犯人だという噂に翻弄された者達が屋敷に踏み入ることもなくなるだろう。そのためならば力を貸そう」

 ちょうど暇を持て余していたところだしな、と続けながら結衣達に協力するという。

 ならば遠慮なくお願いしよう。捜し物は一人でも多い方が良い。

「じゃあ、今日、二人の部活が終わった後で」

 結衣の提案に龍夜達が分かった、と頷く。と同時に、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴ったのだった。


 □□□


 その家は昨日、女子中学生が倒れていた場所から十メートルと離れていない場所に建っていた。

「って、結構人がいるわね」

「まぁ、失踪者が発見された場所なんだし、当然だろうな」

「これだとさすがに近付けないなぁ」

 時刻は七時半。

 昼間に予定していた通り、龍夜と聡恵の部活が終わるのを待った後、ここまで来た。

 失踪者が発見されたこともあり、家は警察によって立ち入りを禁止されていた。おまけにその話を聞いた辺りの住人が様子を窺いにきたり、テレビ局の報道陣や取材班などが人だかりをつくっている。結衣達はその様子を遠巻きに眺める。

 家は二階建ての一軒家だった。道路に沿って建てられたブロック塀は二メートル近くあり、そこからは内側の様子を確認することはできない。

「入り口はがっちり警察がいるし、だからってあの塀を乗り越えるのは厳しいな」

 難しい顔で龍夜が呟く。その横でクオルが「俺なら問題ないが」とあっさり言い切る。

「これしきの高さ、飛び越えることなど造作もない」

「そうかもだけど、今はやめておいた方が良いと思う。問答無用で捕まっちゃう」

 塀を見据え、今にも飛び出していきそうなクオルを聡恵が制する。すると、その言葉を聞いたクオルが柔らかな笑みを浮かべ。

「俺の心配をしてくれるか」

 聡恵嬢は優しいな、とやんわりと聡恵の手を握った。その様子に呆れた眼差しを向ける龍夜が「心配と言うより事実だからな」と吐き捨てれば、すかさず鋭い肘が脇腹に入る。

 クオルの容赦のない一突きにせき込む龍夜に「大丈夫?」と声をかけながらも、結衣は辺りを探る。そして隣の家との間に延びる細い通路に目を留めた。

「あの細道の方はどうなってるんだろう」

 周りに怪しまれないように近付いてみる。

 見れば下は側溝になっているようで、コンクリートで出来た蓋がはめ込まれており、裏の方へ通り抜けられるようになっていた。だが、こちらもブロック塀が続いていて、敷地の中を窺うことは出来なかった。

「こりゃ無理だな」

 結衣に続いて塀を見上げた龍夜が諦めたように嘆息する。結衣も頷くしかない。たいした情報も得られないまま、結衣達は一旦家をあとにした。

 こうも取り巻きがいては集中して気配を探ることもできない。それに、結衣にはもう一カ所気になるところもあった。先にそちらへと向かうことにする。

 そこは家から三十メートルほど歩いた所にある十字路。

「ここが当時の事故現場か」

「壊された慰霊碑ってどの辺りにあったのかしら」

 通行する車に注意しながら辺りを見回してみる。日が落ちてきていて薄暗い。そんな中。

「あ、あれかな?」

 ふと結衣があるものに気付く。それは道路脇にぽつんと置かれていた石の台座。近付いてみて、側に献花用の花立てと線香をあげるためのくぼみがあるのを見つけ確信した。

「ここに慰霊碑が建っていたんだ」

 この辺りで起こった事故で亡くなった人達の安息を祈るための。

「慰霊碑を元通りにすれば犯人の霊も静まるの?」

「たぶん」

 聡恵の問いかけに結衣は頷く。

 それで今まで一切問題はなかった。だからそのためには、とり憑かれている人を見つけて引き離さなければ。

 今は台座しかないそこで結衣は自然と手を合わせる。もしかしたら同じようにさまよっている霊がいるかもしれない。

 その背中に「新しい慰霊碑は近いうちに置かれるそうだ」とクオルが静かに言った。

 慰霊碑の状況の確認も済み、再び家の方へと向かう。

 時刻はもう八時を回っておりすっかり夜の帳が落ちている。

 まだ警察や野次馬はいるだろうか?

 思いながら歩いていくと、先程までの人だかりはどこへやら。立ち入り禁止のテープは張られたままだが、見張りの警官の姿がなくなっていた。あれだけ集まっていた野次馬もひとっこひとりいない。

「一気にいなくなり過ぎじゃねぇか?」

「うん……かえって不気味な感じ」

 見やすくはなったんだけど、と一変したそこに言いようのない不安を感じながらも結衣は門の前に立つ。

 警察によって硬く施錠された鉄の門扉越しに見上げるその家は何の物音もしなかった。

 塀に阻まれて見れなかった前庭は草が伸び放題になっており、雨戸も閉め切られていて異様なまでに静まり返っている。

 昨日感じた、身体の底から震えるような気配もない。

「どう? 何か感じたり視えたりする?」

「ううん」

 聡恵の言葉に結衣は首を横に振る。

「まぁ、予想はしてたけどな」

「うん……」

 確かにその通りなのだが、ここまで何の気配もないとは。

 これでは家の中に入らない限り、痕跡を探すのは無理だろう。だが当然玄関の鍵は警察が締めているはずだ。雨戸のせいで屋内の様子も確認することはできない。これではどうすることもできない。

「もう警察に任せようぜ。とり憑かれてるっていっても相手は人間なんだし、そのうち捕まるって」

「……だと、いいんだけど」

 釈然としない気分だが、それしか手はないか。

 些細なことでもいいから、何か手がかりが見つかればいいなと思っていたのだが、やはり条件が揃っていないとだめなようだ。

 静寂に包まれた家を見上げたまま結衣は気配を探るために集中する。しかし返ってくるものはない。

「おい、何してんだ」

 帰るぞ、と既に立ち去ろうと歩き始めていた龍夜達が結衣を呼ぶ。結衣は慌ててその後を追いかけた。

 龍夜の言う通り、あとは警察に任せよう。それでも見つからないようだったら協力を申し出てみよう。

 そんなことを考えていた時だった――。

「!」

 不意に結衣の全身にぞくりと寒気が走った。と同時に後頭部に衝撃を受ける。

(な、に)

 突然のことに目の前に星が飛ぶ。直接脳を揺らされたような感覚。そのせいで身体が大きくぐらつく。

 そんな結衣の異変に気付いていないのか、龍夜達は振り返りもせず遠ざかっていく。

(なに、が)

 起こったの、と徐々に薄れていく意識の中、ふと耳元で声が聞こえた。

 ――見られた。捕まえないと。

「っ」

 その言葉で結衣は何に襲われたのか理解する。

 だが何故。今の今まで全く気配はなかったのに。

(だめ……もう、意識が)

 遙か先へと行ってしまった幼馴染み達を呼び止めることも出来ず、結衣の視界は暗くなっていった。


 □□□


「まぁ、こればっかりは仕方がないよな。条件が揃わないと犯人が出てこないってんだから」

「今度雨降るのって予報だと明日の昼からだったっけ? その時にまた来るの?」

「さすがにそれは危なくねぇか? 犯人に遭遇する可能性があるだろ」

「結衣のお母さんも一緒だったら大丈夫じゃない?」

 家を後にしながら龍夜達は今後どうするのかを結衣に尋ねる。しかしいくら待てども肝心の結衣からの返答がない。

「ねぇ、結衣ってば」

「聞いてんのか?」

 不思議に思い龍夜と聡恵は背後を振り返る。そして唖然とする。

 そこには誰もいなかった。

 後ろを歩いていたはずの結衣の姿がない。

「結衣? おい、どこだよ?」

「こんな時に変な冗談はやめなさいよね」

 きょろきょろと周りを見渡しながら結衣を探す。

 ほんのついさっきまで一緒にいた。会話もしていた。なによりも結衣本人が何の気配もないと言っていた。なのにどこにも結衣がいない。

「結衣! 返事しろ!」

「ねぇ、結衣ってば!」

 龍夜達が大声で呼ぶ。だが返事はない。完全に夜の闇に包まれた住宅街には二人の声だけが響き渡る。

「ちょっとこれ、タイミング的にまずくない?」

 いつもは強気な聡恵が不安気な顔で見てくる。龍夜はちょっとどころじゃない、とにわかに焦りを募らせる。

 いつからいなかった?

 何故いなくなったことに気付かなかった?

(くそ、またかよ)

 まだ一週間も経ってはいないあの廃洋館での苦い事態を思い出す。

 あの時も音もなく結衣が消えた。それに気付かずにどれほど後悔したか。今度もまた同じようなことが起きた。

(いや、今日はあの時よりまずい)

 なんと言っても失踪事件の犯人について調べていた。その最中に姿を消したとなると行き先は恐らく――。

「――戻るぞ」

 それだけ言っておもむろにクオルが踵を返す。

「戻るって」

 どこへ、と龍夜が問いかけるより先にクオルが険しい顔で答える。

「微かにだが、結衣の血の匂いがする」

「!」

「血って、怪我してるって事!?」

 クオルの言葉に聡恵も動揺を露わにする。そんな龍夜達を置き去りにし、クオルは足早に歩みを進める。

 既に向かう先は決まっているようだ。それを慌てて追いかけると、いくらも経たずにたどり着いたのはやはり先程様子を窺った空き家。

「ここにいるの?」

「ああ、この家から匂いがする」

「でもどうやって」

 入り口には鉄の門。当然鍵がかかっているし、警察が追加したと思しき鎖が何重にも巻かれていた。周囲は高いブロック塀に囲われているし、入り込めそうな場所はない。

 どうやって入る?

「どいていろ」

 焦燥感に駆られながら龍夜が必死に考えていると、クオルがすっと前に出る。門の前に立ち手をかけた。かと思うと、一瞬の間の後ふと振り返り龍夜と聡恵の方を見る。じっと二人を見比べながら何事かを考え込んでいたかと思えば。

「――仕方がない。我慢するか」

 ひどく残念そうに零し龍夜の方へと身体を向けた。

 なんだと訝しむ間もなく頭と肩を掴まれる。と思った次の瞬間、おもむろに首を傾けられ。

「いっ!?」

「え?」

 容赦なく首筋に噛みつかれた。そのまま目の前でクオルがごくりと喉を鳴らす。

「おまっ、今、おれの血」

「この程度でがたがた騒ぐな。いざという時の為だ」

 本当ならば聡恵嬢の方が良かったが、と口元を拭いながらクオルが龍夜を解放する。再び家の方へと向き直ったその瞳が瞬時に真紅に変わる。

「急を要する」

 言うや否や、クオルは軽く地面を蹴って跳躍する。軽々と門扉を越え敷地内に入る。

 およそ人間離れした動きに呆気にとられていた龍夜ははっと我に返り。

「待て、おれも」

「貴様達はそこで待っていろ。万が一聡恵嬢の身に何かあっては大変だ」

 クオルは振り返ることもせずそれだけ言って玄関のドアノブに手をかけた。そのまま力任せに引きはがす。盛大に音を立ててドアが外れると、家の中へと滑るように消えていった。

「むちゃくちゃだな、あいつ」

「本当に吸血鬼なのね」

 たった今目の前で起こった出来事に、改めてクオルが吸血鬼なのだと確認させられた龍夜と聡恵はその場で待つしかなかった。


 □□□


「うっ……」

 ずきずきと疼く後頭部の痛みで結衣は意識を取り戻した。しかし目を開けている感覚はあるのに視界には何も入ってこない。

 そこには自分の手足すら見えないくらいの深い闇が広がっていた。

(ここは……)

 暗闇に包まれたここがどこかなんて考えなくても分かる。強盗事件のあった家だ。

(でも何で?)

 初めは何の気配もなかった。雨も降っていなかったし、夕方の時間帯はとうに過ぎていた。条件は揃っていないはずなのに。

(……もしかして、あたしだったから?)

 ふと結衣はそう思った。

 偶然だったとはいえ、結衣は昨日、犯人の姿を目撃した。

 目撃者である結衣が現れたため、条件など関係なく捕まえようと動き出したのか。

(とにかく、ここから逃げなきゃ)

 そう思い辺りを見回してみるが、雨戸が閉まっているせいで外からの明かりがなく、漆黒の闇が広がるばかり。

 手探りで周りを確認してみるが触れる物は何もなく、長年の間に積もったほこりがざらざらとまとわりつくだけだった。

(携帯は)

 視界が遮られている中、必死に制服のポケットを探る。指先に硬い物体が当たった。それに安堵しつつ、急いで取り出す。

 落とさないようしっかり手の中に納め、足下を照らそうとしたその時だった。

「!」

 背中に痛烈な視線を感じた。反射的に後ろを振り返り携帯をかざすと、照らしだされたそこには男が一人立っていた。

 瞬時に結衣の心臓が跳ね上がる。

 この身体の底から這い上がってくる寒気。昨日感じたものと一緒だ。間違いない。この失踪事件の、そして十年前の強盗事件の犯人。

 ずっとこの暗闇に潜んでいたのか。母や警察の目をかいくぐって。

(ど、どうしよう)

 立ちはだかる男を前に結衣の身体は動くことが出来ない。目の前の恐怖に全身が震える。

 無意識のうちに数珠をきつく握り締める。

 条件が揃っていないからこそ確認しに来てみたのだったが、まさかこんなことになるなんて。

(どうにかして外に出ないと)

 しかし構造も広さも全く分からない。おまけに足下もおぼつかない。そんな中どう動けば。

 必死に考えていると不意にぎしりと床板が鳴った。途端に結衣の全身がびくりと震える。立ち上がろうと浮かせた身体がそのままの体勢で固まる。

 その間にも、ぎ、ぎぃ、と軋む音は止まず、近付いてくるその手には白い固まりが握られていた。

(なに?)

 ふと事件の内容を思い出す。娘を襲った時の凶器は花瓶。ではあの白い固まりは――。

 それが何か理解した結衣は、恐怖で力の入らない四肢を叱咤し勢いをつけて立ち上がった。

 じっとしていれば確実にやられる。今ここには自分しかいないのだ。

(震えてる場合なんかじゃない!)

 結衣の思惑に気付いたのか。花瓶を持った腕を振り上げ、男が大きく踏み込んでくる。

 それを何とか避け、開けた先を目指して結衣は必死に足を動かす。さほど長くはない廊下が途切れ、下へと延びる階段が現れた。

 結衣がいた場所は二階だったようだ。

 携帯で足下を照らしながら階段を駆け下りていくと、間を置かずに後ろから追ってくる足音が聞こえてくる。

 その音が否応なく結衣を焦らせる。そのせいで足下への注意が散漫になってしまった。

「あっ」

 最後の一歩を踏み外す。

 残り数段を転がり落ちてしまい、結衣は強かに身体を打ち付けた。その衝撃で唯一の頼りの携帯が手元を離れ床の上を滑っていく。一気に自分の身体が闇に包まれた。

「っ……」

 早く起き上がらないと。

 急がないと追いつかれる。そう思うが遅かった。

 気付けば異様な気配がすぐ後ろまで迫っていた。暗闇の中、階段の下に倒れている結衣に向かって白い固まりが振り下ろされるが微かに見える。

 ――だめだ。間に合わない。

 結衣は反射的にぎゅっと目を瞑る。

 陶器の割れる甲高い音が屋内に響き渡る。だがどうしたことか、痛みはなかった。代わりに、身体がちゅうに浮く感覚と、すぐ真上から最近聞き慣れた低音が降ってくる。

「――間一髪だったな」

 恐る恐る目を開ければ、ここにはいないはずの銀髪の青年の顔が間近にあった。

「クオル!」

「大丈夫か?」

 言いながらクオルは腕に抱えたままの結衣をじっと見下ろす。普段の碧眼ではなく真紅の双眸が結衣を映し出す。

 夢ではない。

「ど、どうしてここに……」

 突然現れたクオルに結衣はただただ目を見張る。そんな結衣を見下ろすクオルは「それはこちらの台詞だ」と呆れたように息を吐いた。

「急に音もなく消えたのはどちらだ。まったく、貴様の血の匂いがしたから急いできてみれば……」

 そっと結衣を降ろしながら頭から足の先までを確認する。

「とりあえず、さほど大きな怪我は無いようだな」

 手間をかけさせおって、と小言を漏らしつつも、その声音からは気遣いの色が垣間見えた。結衣は状況も忘れてクオルに見入る。

「あ、ありがとう」

 まさかクオルが助けに来てくれるなんて思ってもみなかった。

 若干呆け気味で礼を言えば「それは後回しだ」と床に転がっていた携帯を拾い上げて結衣に手渡す。

「先ずは奴をどうにかしてからだろう」

 言ってクオルはすっと視線を結衣の背後へと向ける。その先にはじっとこちらの様子を窺っている男がいた。

「あいつが犯人か」

「うん、間違いない」

 結衣を背中に庇いながらクオルが対峙する。

 クオルを警戒しているのだろうか。男は微動だにせず結衣達の方を見ているだけだ。

 手に持っていた花瓶は大半が割れて床に散らばっているが、残りはまだ握られたまま。鋭利になったそれはかえって危険度が上がっている。

「お前は先に外へ出ろ」

 男と間合いを計りながらクオルが背後へと促す。見れば微かに外の明かりが漏れていた。その先に出口がある。

「でも……」

「良いから行け。外で小僧と聡恵嬢が待っている。早く行って安心させてやれ」

 心配していたからな、と気遣うように結衣の方を見やる。しかしその一瞬の隙をついて男が先に動きをみせた。

 ばりばりと足下の欠片を踏みならしながら猛突進してくる。結衣の方へと気を取られていたクオルの反応が僅かに遅れる。

 咄嗟に結衣を後ろに押しやり避けようとするが、花瓶の切っ先がクオルの左腕を掠めた。

「っ」

「! クオル!」

 駆け寄ろうとした結衣を来るなと手の動きだけで制する。

「掠っただけだ。たいしたことはない」

「でも、血が……」

 ざっくりと裂かれた腕から鮮血が滴り、ぽたぽたと床を濡らす。

「問題ないと言っているだろう、さっさと行け」

 一人の方が動きやすい、と言い方はぞんざいだが、危険から遠ざけようとしてくれているのは聞かなくても分かる。それに足手まといなのは明らかだ。結衣は素直に従うしかない。

 そんな束の間のやりとりの間に男は身体を反転させる。

 再び間近に迫ってきた男を今度は難なくかわし、その勢いを利用して蹴り飛ばした。

 激しい音を立てて男の身体が壁にぶつかり、そのままずるりと床に転がる。うつ伏せに倒れる背中をすかさずクオルが押さえつけた。

 男が拘束を振り払おうと暴れる。とり憑かれている影響か、その力が尋常ではない。

「霊を祓うことはできるのか?」

「あたしには……」

「ではこのまま俺が押さえておく。早く何らかの手を打て」

「わ、分かった」

 なおも暴れ続けている男とクオルをその場に残し、結衣は明かりの漏れている方へと駆け出す。

 とにもかくにも、先ずは警察を呼ばなければ。犯人を逃がすわけにはいかない。

 外界からの明かりに導かれてたどり着いたのは玄関だった。そこから外へ出ると、門の前で心配げに様子を窺っていた龍夜と聡恵を見つけた。

 飛び出してきた結衣に気付いて二人が門へと飛びつく。

「結衣! 大丈夫か!?」

「怪我してるってクオルさんが」

「あたしは平気、それより警察に」

 連絡を、と結衣が言うより先に、どこからともなくサイレンの音が聞こえてきた。けたたましく鳴り響くその音が段々と近付いてくる。どうやら物音を聞きつけた付近の住人が通報していたようだ。

 場所が場所なだけに、駆けつけたパトカーの数が多い。大勢の警察官達が家を囲み、たちまち辺りが騒然となる。その中に運良く藤の姿を見つけ、結衣は藤の名前を呼んだ。藤の方も、門の内側にいるのが結衣だと気付き慌てて鎖を外すよう指示を出す。

「どうして貴女がここに」

 どうやって入ったのと驚きを露わにする藤に結衣は口早に答える。

「あ、後で説明します。今は事件の犯人を! クオルが――知り合いが中で取り押さえてくれてて」

 結衣の口から出た犯人という言葉に一気に緊迫した空気が流れる。

「犯人って、失踪事件の? 中にいるの!?」

 門扉の施錠を解きながら藤が確認してくる。結衣が間違いないと頷くと、門が開くや否や、数名の警察官が建物へとなだれ込んでいった。

 結衣は藤と一緒にその場で事態の成り行きを見守る。

 屋内からは物音と喧噪が漏れ聞こえてくる。それが止んだかと思えば、程なくして突入した警察官達が男を連れて出てきた。どうやら無事確保してくれたようだ。

 尚も逃れようと抵抗している男を後ろ手に拘束し、その両脇をしっかりと押さえてパトカーへと連行していく。身動きがとれないでいる男はなす統べなくその中へと押し込まれた。

 間もなくして犯人を乗せたパトカーが動き出す。騒ぎに集まってきた人だかりを押し分けるようにゆっくりと遠ざかっていく。そのサイレンを耳にして、結衣はようやく詰めていた息を吐き出した。

 無事に犯人を捕まえることができた。予想してはいない事態だったけど、これでもう誰かが捕まることはない。

(良かった)

 安心すると瞬く間に全身から力が抜けていく。それと同時に思い出したかのように身体中がずきずきと痛み出し、立っているのもままならなくなった。

 ふらつく結衣の肩を慌てて藤が支えようと腕を伸ばす。が。

「全く、世話の焼ける奴だな」

 別の力強い手がやんわりと結衣の身体を支えた。振り返ればそこにはクオルがいた。

「クオル……」

 呆れた顔で見下ろしてくるクオルに結衣は「あはは」と力なく笑う。

「いやぁ、安心したら気が抜けちゃって。それに、今更身体中痛くなってきちゃった」

「……しょうのない小娘め」

「わっ!?」

 嘆息しながらも、クオルは結衣を横抱きに抱え上げた。急に足が地面から離れ、結衣は反射的にクオルにしがみつく。しかしはっと我に返り、その顔を見上げた。

「クオル、怪我は」

 犯人から受けた傷を思い出し、慌てて腕を見る。確か切られたのは左腕だった。結衣の膝を持ち上げている方の腕だ。大丈夫なのかと目を向けると。

「……治ってる?」

 そこには切り傷一つない滑らかな肌があった。袖には確かに血が付いているのに、そこから覗く肌は羨ましすぎるくらい真っ白で綺麗だった。

 結衣が驚きに目を丸めていると、クオルが少し首を傾け。

「あれくらいの傷などすぐにふさがる」

 声を潜めて言った。近くにいる藤に聞こえないようにだろう。怪訝そうな目をクオルに向けていることに気付き、取り押さえてくれていた知り合いだと説明すると「そうでしたか」と表情を和らげた。

「ご協力、感謝します。それに結衣ちゃんも」

 ありがとう、と藤が頭を下げる。

「まさか貴女が狙われるなんて」

「行方不明だった子達が見つかったって聞いて、気になって見に来てみたら犯人に捕まっちゃって」

「二人には詳しく話を聞きたいんだけど……でも、先ずは貴女の怪我の手当てをしないと」

 もうすぐ救急車が来ると思うからと言う藤の言葉通り、しばらくして救急車が到着した。救急隊が結衣達の元へと駆けつけてきて怪我の具合いを確認した後、応急手当のために救急車へと連れていかれる。そのまま消毒液と包帯まみれにされること数十分。

「結衣!」

「大丈夫!?」

 無事に手当てを終え、救急車から解放されたところで龍夜と聡恵が結衣の元へと走り寄ってきた。そう言えば玄関で顔を合わせて以来二人とまともに話もしていなかったことを思い出し、笑顔で迎えるとほっとしたように息を吐いた。のだが。

「大丈夫なのか!? 傷だらけじゃねぇか」

「痣もこんなに。制服も埃まみれじゃない」

 先程は月明かりの元で、しかも一瞬しか見ていなかった結衣の身体を改めて間近で見た二人がひどく驚く。結衣は笑って答える。

「追いかけられてる時に階段から足を滑らせちゃって。でも平気、見た目ほど深くはないから」

「本当か? やせ我慢してないだろうな」

「うん」

「怪我以外でどっか痛いとこもないの?」

「ないよ」

 見るからに不安そうな顔で安否を確認してくる二人に笑って答えれば、今度こそ龍夜と聡恵は安心したように息を吐いた。

「ほんと、いなくなった時はどうしようかと思ったんだから」

「おまけに、あいつが急に結衣の血の匂いがするとか言い出すし」

 マジで焦った、と龍夜が眉を下げる。同様に聡恵も唇を引き結ぶ。そんな二人に結衣が「心配かけてごめんね」と言うと、益々眉尻を下げた。

「お前が謝ることじゃないだろ。……気付けなくて悪かった」

「わたしも……。近くにいたのに」

 龍夜と聡恵が申し訳なさそうに謝る。そこへ。

「そんな顔をしないでくれ。君に悲しそうな顔は似合わない」

 さぁ笑って、とどこからともなく現れたクオルが聡恵の手をやんわりと握り優しく声をかける。

 突然湧いて出たクオルに初めは目を丸めていた龍夜だったが、やがて大きく息を吐いて思い切り顔をしかめた。

「……なんだよこの変わり身の激しい吸血鬼は。おれや結衣には上から目線でふんぞり返ってるくせに、夏木に対してのこの態度の違いはなんだよ」

 心苦しく思っていた龍夜達の心境など全く意に介していない風なクオルに、もはや嘆息しか出ない。

 先程結衣を助けに向かった毅然とした背中に、不覚にも頼もしさを感じてしまった後のこれだと殊更だ。それに対してクオルはさも当たり前のように。

「悲しんでいる女性を慰めるのは男として当然だろうが」

「お前の場合、女たらしの間違いだろ」

 そう龍夜が溜め息とともに吐き捨てれば「聞き捨てならんな」と片眉を跳ね上げた。そんな二人を手を握られたままの聡恵が「まぁまぁ」と仲裁する。

「クオルさんのおかげで結衣を助けることができたんだし、ここは素直にお礼を言わないと」

 本当にありがとうございました、と聡恵が礼を言えば、クオルは口端をあげ「どういたしまして」と慣れた手付きで手の甲に口付ける。それから龍夜の方に向き直ったかと思うと、ふっと意地の悪そうな笑みを浮かべ。

「ほら、聡恵嬢を見習って小僧も敬え」

「こ、こいつ……!」

 人の血を吸っておいて何が敬えだ。そう思いはしたのだが、そこはぐっとこらえ龍夜は小さく呟く。

「…………ありがとう、ございました」

 苦虫を噛み潰したかのように顔を歪めながらも礼を言う龍夜に、クオルは拍子抜けしたように目を瞬かせた。

「珍しく素直だな」

「うるせぇ、今回はだ!」

 次はない、とそっぽを向く龍夜をからかうようにクオルは口角を上げる。その様子はいつもの余裕しか感じない。

 そんなクオルを結衣はじっと見上げる。視線に気付いたクオルが真面目な顔で結衣の方を見返す。

「何だ?」

「いや、本当に大丈夫なのかなって」

 庇ってもらった時のことを思い出し、結衣が申し訳なさそうに眉を下げると、クオルは一つ息を吐いてから。

「何度も言わせるな、問題ないと言っているだろう。――俺のことより、お前の方はどうなんだ?」

 そっと結衣の頬に触れた。

 ひんやりとした指先が手当てを施された小さな擦り傷をなぞる。

 階段から滑り落ちた時についたものだ。他にも膝や腕には小さな切り傷があったり、全身至る所に細かな傷がある。だが全てたいしたことはない。連れ去られた時に衝撃を受けた後頭部も僅かに血が滲んでいる程度だ。

 そう告げるとクオルは「ならば、いい」とゆっくりと頬から手を退けた。

「ありがとう」

 声音は素っ気ないが、気遣ってくれるクオルに結衣は素直に礼を言う。そこへ「けどよ」と龍夜が疑問を投げかける。

「あの犯人にとり憑いている霊を祓わないと意味はないんだよな? 誰がやるんだ? おばさんか?」

 結衣の方を見て尋ねる。その問いにはクオルが「いや」と答えた。

「世話になってる住職に祓ってもらうと刑事の娘が言っていた」

 クオルは、結衣が手当てを受けている間に藤から事情聴取を受けていたらしく、その時にさり気なく聞き出したそうだ。

「公にはされていないが、こういった霊がらみの事件もごく稀にあるのだそうだ。その伝手で交流があるのだとか」

「へぇ、知らなかった」

 思わぬ裏事情だ。

「なら、あとは予定通り慰霊碑が元通りになれば収まるってこと?」

 聡恵も首を傾げる。結衣はうん、と頷いた。それで事件は解決するはずだ。

「――これもクオルのおかげだよ」

 言って結衣は傍らのクオルを見上げる。その言葉にクオルは目を瞬かせた。

「俺は特に何もしていない」

「そんなことない。クオルが来てくれたからあたしは助かったんだし、犯人も捕まえられた」

 本当にありがとう、ともう一度頭を下げる結衣にクオルが更に目を丸めた。かと思うと、ふっと口角を上げ。

「ならばこちらも、改めて礼を言っておこう。目覚めさせてくれて感謝する」

 そう言われ、結衣ははたと思い出す。

 そうだ。見た目は人間にしか見えないが、目の前にいるのは正真正銘の吸血鬼――いや、正確には人間と吸血鬼の混血種。半吸血鬼なのだ。

「……なんか、別の事件が起きそうな予感がする」

「安心しろ。折角自由になれたのだ」

 目立つ真似をするはずがないだろう、とクオルは結衣の懸念を不敵に笑うのだった。

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