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三章

「さすがにもう着いてるかしら」

 夕飯の副菜として盛り付ける為のキャベツを千切りにしながら、亜子あこはちらりと時計を見る。

 あと十五分程で八時だ。

 幼馴染みと親友の部活が終わってから行くと言っていたから、もう目的地に到着して盛大に膝を震わせている頃だろう。

 そう思い、我が子の情けない姿を想像していると、パタパタとスリッパの鳴る音が聞こえてきた。顔を出したのは昼から自室に籠もっていた夫の文人ふみひとだった。

「うーん、座ってばかりだと身体が固まっちゃうねー」

 言いながら肩を揉む仕草をする。もう片方の手には数枚の紙を持っている。恐らく執筆中のものの資料だろう。

「お疲れさま。お茶でも入れるわ」

 座って待ってて、と夫を促し、亜子は食器棚の方へと向かい湯飲みを二つ手に取る。

「ありがとう」

 にこやかに礼を言いながら文人が急須を用意する。お茶の葉を入れ、その後にカウンターテーブルに置いている電気ケトルのスイッチを押してから、ダイニングの椅子に腰を下ろした。

「それにしても、あの廃洋館って意外にしっかりと記事が残っていてちょっと驚いたよ」

 手に持っていた紙の束をテーブルの上に広げる夫に倣い、亜子も夕食作りの手を一端止めて向かいに座る。

「もしかして、昼からやってたのはあの洋館についての調べ物?」

「うん、興味が沸いてね」

 文人は楽しそうに頷く。心霊関係の話が好きな夫らしいと苦笑しながら一枚手に取り目を通してみると、古い新聞のコピーだった。

 日付は昭和。今から五十年ほど前の記事だ。その記事の一部が四角く囲われていた。見出しには失踪の二文字が入っている。どうやら何かの事件に関する記事のようだ。

「建てられたのは今から百年近くも前で、スウェーデンからやってきた建築家達が設計したものみたいだ」

「へぇ」

 亜子が手に取ったものとは別の紙を見ながら文人が言う。

「百年前というと明治時代くらい?」

 いつの間にか沸き上がっていたお湯を急須に注ぎ、それを二つの湯飲みに分けつつ問いかける。

 明治時代ならば諸外国からの伝統や文化、技術が入ってきていた。

「随分古いのね。しかも煉瓦づくりじゃなくて木造の洋館なんて」

「だからだろうね。建てられた当時は珍しくて、新聞でも取り上げられたりしてたみたいだ」

「それで、肝心の魔物が住み着いていたって言うのは本当のことなの?」

 亜子の質問に一つ頷き、文人は「それなんだけどね」と至極真面目な顔で返した。

「どうも本当っぽいんだ」

「まぁ」

「建築を依頼したのは日本のとある名家としか明記されていなかったけど、その名家が不死の一族と恐れられていたとか」

「不死の一族?」

 手に持っていたものとは別の紙を覗き込みながら言う。

「その一族は余所から移り住んできたようなんだけど、その全員が全く年もとらずに姿形が変わることがなかったらしいんだ。何十年もね。あと、五十年ほど前にも忽然と人が消える事件が起こっていたらしいんだけど……」

「この記事のこと?」

 持っていた新聞のコピーを見せる。それ、と頷いて記事の一部を指さした。

「犯人はその洋館に住んでいた一族だったとか。さらわれた人達が屋敷の地下から発見されたんだけど、全員失血死していたって」

「失血死?」

「そう。身体に特に外傷はないにも関わらず、ほとんどの血が抜かれていたんだって」

「血を抜くって、なんでそんなことを」

「だいぶ調べたんだけど、なぜかそこだけ分からなかったんだ。新聞もネットもこれ以上の情報が無くて」

 文人が怪訝そうに眉根に皺を寄せる。

 亜子も記事を最後まで読んでみるが、事件の詳細は書かれていても犯人については何も書かれていなかった。逮捕されたのかすらも一切。

 確かに不思議な話だ。

「この洋館に住んでた人達はどうなったのかしら? それに不死の一族っていうのは」

「そこもなんだよね。でも、その呼ばれ方と、この事件の内容を考えるとこの一族の正体って――」

 文人が何事かを言いかけた時だった。

 突然家の電話が鳴った。話に集中していた亜子は思わず肩を震わせる。一息落ち着いてから電話を取ろうと腰を浮かせたところで、それを制した文人が代わりに立ち上がった。

 受話器を取り、はい、と答え名字を名乗っていると、途中でその声が途切れる。代わりに「え、りゅうくん?」と驚いたように声を上げた。どうやら電話の相手は娘と一緒に廃洋館へと行った片割れの幼馴染みのようだ。

「どうしたんだい? え? うん、うん」

 最初は普通に応対していたのだが、しかし徐々に声音が低くなっていく。どことなく表情も険しく見える。

「それで、二人は大丈夫なのかい? うん、分かったから落ち着いて。それで? うん、うん。そうなんだね。いいかい、良く聞いて。二人とも今すぐ一緒に外に出るんだ。絶対に動き回っちゃいけないよ。おじさんがすぐ行くから」

 分かったね、と念を押してから電話を切った。夫のただならぬ雰囲気に亜子が不安げに「あなた?」と声をかける。

「どうかしたの?」

 受話器を置いて尚、険しい顔のまま文人はただ一言返した。

「洋館の中で結衣がいなくなったって」


 □□□


「……ん」

 暖かなものが肌を掠めていった気がして、結衣は無意識に頬をすり寄せた。しかし、そうして得たのはまったく逆の、冷たくて硬い感触。それが思いのほか痛くて眉間に皺を寄せると、ゆっくりと瞼を上げた。――だが。

「ここ……どこ?」

 開口一番、結衣の口からはそんな問いが滑り落ちたのだった。

 辺りは真っ暗闇だった。いくら瞬きをしてみても効果はなく、自分の手足すら確認できないほどの深い闇が包んでいる。

 唯一視認できるのは上空にぽっかりと空いた穴。

 どうしてこんなところに横たわっているのかと内心首を傾げれば、全身が、特に背中が鈍く痛んだ。疑問に思うと同時に記憶がフラッシュバックする。

(そうだ。あたし落ちたんだ)

 突然背後に現れた女の幽霊から逃げようとして、床が抜けていることに気付かずそのまま。

 そこではっと思い出し結衣は起き上がる。

「いっ、たた……」

 途端に激痛が全身を襲うが気にしている場合じゃない。

 ずきずきと痛む身体を叱咤して何とか辺りを探る。視界が闇に遮られているからか、かえって感覚が研ぎ澄まされる。そうして集中して探っても、先程の女の霊の気配はしなかった。

(良かったぁ)

 とりあえず結衣はほっと息を吐いた。その後で頭上を振り仰ぐ。

 自分が落ちてきた穴は遙か上。腕を伸ばしても到底届きそうにない。

(結構高い)

 自分が落ちたのは一階だったはず。一般的な床下なら屈んで入れるくらいの高さしかないと思うのだが、普通に二、三メートルくらいはありそうだ。

(もしかして、地下室とか?)

 そう考えると高さには納得できる。

「りゅうー! さとー! 聞こえたら返事してー!」

 結衣は大声で二人の名前を呼ぶ。

 落ちる直前、龍夜達の姿はなかった。恐らくあの女の霊の影響だろう。

 そのことを思い出し、あまり意味はないかもしれないが念のために。もしかしたら自分がいないことに気付いて探しているかもしれない。だが。

(……だめだ)

 やはり返事はない。自分の声だけが暗闇に木霊して消えていく。

「そうだ、電話は……」

 ごそごそと制服のポケットを探り携帯を取り出す。どうか衝撃で壊れてませんように、と願いながら暗闇の中、画面をタップする。するとちゃんと反応した。

「良かった」

 明かりがついたことに結衣はほっと胸を撫で下ろす。も、束の間。

「うそ……」

 画面上部を見て言葉を失った。そこには圏外の文字が表示されていた。

 そんな。

 急いでアドレス帳を開く。ダメもとで聡恵達に電話をかけてみる。が、通話不能のアナウンスが流れるだけだった。これでは両親にも助けを求めることができない。

(本当にどうしよう)

 結衣は必死に考える。

 持っていたはずの懐中電灯も、落ちた時にどこかへとやってしまったようで辺りを見回してもどこにもない。唯一の頼りは携帯の明かりだけだが、いつまでバッテリーが持つか。

(でも、ここで立ち止まってるだけってのもダメだよね。頑張れあたし!)

 出口があれば一番良い。それかせめて、足場にできそうなものでも見つかれば、落ちてきた穴から抜け出すことができる。

 そう思い、びくびくと身を震わせながらも結衣は一歩踏み出す。空虚な空間にローファーの音だけが響き渡る。そうして手探りの状態で足を進めること数十歩。

 そこはまるで立体駐車場のような閑散とした場所だというのが分かった。

 一階の床を支えるための木の柱だけが何本も並んでいる。広さはどれくらいだろうか。携帯のライト機能を使ってはいるが、その光りが端の方まで届かないから、かなりの広さだということだけは分かるのだが。

(うぅ、本当にここなに? 出口あるのかな)

 恐怖心と心細さがひしひしと押し寄せる中、結衣は足を動かし続ける。

 そんな中、明かりの中に突如として浮かび上がったものがあった。

(なんだろう、あれ)

 恐る恐る近寄ってみると、それは細長い木箱だった。結衣は首を傾げる。

 数は全部で五個。長さは二メートルほどで、高さは太股くらいまでの長方形。蓋ははまっておらず、中には布が敷かれていた。

 大きさからしてタンスの引き出しのようにも見えるが、それにしては高さがある。引き出す際に不可欠な取っ手やつまみもなく、人ひとりくらい余裕で寝転がれるぐらいの幅で、作りも頑丈そうだ。

 ふとそこまで考えて、結衣の脳裏にある一つの単語が過ぎった。

(……なんかこれって、アレっぽくない?)

 アレ、とすんなり名称が言えないのは、思い浮かんだ単語があまりにも恐ろしい物だったからだ。

 これって、もしかして……棺桶?

「――――よし、見なかったことにしよう」

 眼前の物体をソレと認めたくないのか。逡巡した結果、結衣は躊躇せず回れ右をした。

 上がるのに使えるかもしれないとも考えていたところだったが、もし自分の考えが当たっていたならば使うのは罰当たりだ。というか恐ろしくて触れるはずもない。

 そう思い、即座に踵を返したのだったが。

「ひっ!?」

 振り返ると背後に女がいた。文字通り音もなくだ。

 心臓が口から飛び出そう、というかもう飛び出たんじゃないかと思うくらい跳ね上がり、そのまま勢い余って木箱に引っかかり尻餅をつく。

「いっ、たぁ」

 強かに腰を打ち付けて涙ぐむ結衣だったが、慌てて顔を上げる。

 眼前の女――いや、女の幽霊を見上げて息を呑む。

 背中の中程までまっすぐに伸びた銀髪。儚げに半分ほど伏せられたその双眸は凪いだ湖面のように澄んだ碧眼で、口元のほくろが印象的な綺麗な女の人。年は二十代後半から三十代といったところか。服装は膝丈までの真っ白なワンピース。

 間違いない。ここに落ちる前に視た霊だ。

 さっき探った時は確かにいなかったのに。

(まさか気配を消していたの?)

 ずっと近くで結衣の様子を窺っていたのだろうか。

「な、なななに? あたしになにか用?」

 結衣は恐怖に慄きながらもそう問いかける。こんなところまで追ってくるからには何か理由があるはずだ。

(それともまさか、この人が廃洋館の魔物の亡霊?)

 そう考え結衣の背中を冷や汗が伝う。

(お母さんのうそつきー!)

 危ない気配はないって言っていたのに。

 軽いノリで大丈夫と豪語していた母に心中で恨み言を叫びながら、結衣はどうすべきか必死に考える。

 夜な夜な人の生き血を求めていたという不死身の人間。

 どうみても普通の人にしか見えないが、その正体は一体なんなのだろうか。

 得体の知れない存在に結衣の心拍数が否応なしに上がっていく。のだが。

(……な、なにも反応がない)

 びくびくと問いかける結衣を、女はただ見つめてくるだけだった。

 襲ってくるわけでもなく、ただそこにいるだけ。ひっそりと佇み、静かに結衣を見ている。

 その眼差しに結衣は首を傾げた。

(なんだろう)

 ――不思議と怖い感じがしない。

 普段目にする霊からは重苦しく辛い雰囲気が漂っているのに、この女の霊からはそれらしい気配がない。

 結衣はふと左手の数珠に手を伸ばす。

 ――話を聞いてみようか。

 何か伝えたいことがあるのかもしれない。だがこの数珠の力でその声が届かないのかも。

 そう一瞬考えた結衣だったが、しかし外すことは戸惑われた。外してしまえばこの霊以外も寄ってくるかもしれない。

 どうしようか結衣が逡巡する。そんな中、先に動いたのは女の方だった。

「……え?」

 不意に女が手を挙げた。細くしなやかな人指し指がすっと結衣の背後を指す。

 反射的にそちらを照らすと、そこにも一つ棺桶があった。

 ぽつんと離れた場所に横になっているそれには蓋がしてあった。おまけに幾重にも鎖が巻かれ、拳ほどの大きさの南京錠により堅く封じられている。

 棺桶には厚い砂埃が堆積しており、長年動かされた形跡がなかった。

「こ、これがどうしたの?」

 棺桶を見ながら恐る恐る結衣が問い返すと、女は下の方を指さした。

 何かあるのかと結衣が棺桶に近付いてみる。指し示す先を携帯で照らし、よくよく目を凝らすとそこには四角に区切れた部分があり、丸い輪っかがついていた。導かれるように引っ張ってみると、そこは小さな引き出しになっており、中には鍵が入っていた。

「鍵……」

 もしやこの鎖を留めている南京錠の?

「もしかして、この棺桶を開けてほしいの?」

 結衣が女を振り返る。すると女は小さく頷いた。その返答に困ったのは結衣の方だ。

(ど、どうすればいいの? どうすることが正解なの?)

 棺桶と女を交互に見比べながら結衣は葛藤する。

 棺桶とは遺体を入れるもの。

 他のは蓋がなかったから空っぽなのは明白だったが、目の前のやつは違う。もしかしたらこの中には入っているのかもしれないのだ。亡骸が。

 そんなものを開けろと言われてはいと頷ける度胸は結衣にはない。

 どうしたらいい。どうやってこの場を乗り切ればいい。誰か教えて!

 結衣が激しく自問自答を繰り返しいると、それまでただひたすらに見守っているだけだった女がふと口元を綻ばせた。

 怯えている結衣に大丈夫だと言い聞かせるように、優しく穏やかに笑いかけてくる。

 その笑みに促され結衣は決心する。

 ――開けてみよう。

(この女の人は大丈夫な気がする)

 確証はない。だが結衣はそう確信する。

 ――そうと決まれば。

 結衣は数回深呼吸をしてから鍵を握り直す。南京錠に降り積もっていた埃を払いのけ、しっかりと鍵穴に差し込む。

 どきどきとはやる心臓を落ち着かせるようにゆっくりと回すと、かちゃりと音を立てて鎖から錠が外れた。

 ジャラリと音を立てて鎖が地面に落ちる。その音に重なって。

『――ありがとう。これでようやくこの子を自由にできる』

「え……?」

 不意に聞こえた女の声に結衣が振り返る。見上げた先の女はやはり優しい笑みを浮かべたままだ。

 今の声はこの女の霊のものだろうか。

(でもこの子って? それに自由ってどういう?)

 意味、とその言葉を結衣が理解するより前に。

 ――カタ。

 ふと小さな音が届いた。反射的に結衣は音のした方を見る。いや、見ようとした。その瞬間。

「――――!」

 声にならない悲鳴が喉の奥であがった。

 結衣の視線の先。埃まみれの棺桶の蓋の隙間から伸びてきたのはまごう事なき『腕』だった。

 暗闇の中でもはっきりと分かるほどに白いそれはふらりとさまよい、何かを察知したかのように動きを明確にする。

 それが伸ばされた先は言わずもがな結衣の肩だった。がっしりと五指が結衣の右肩を掴む。

 そう認識するや否や、本日何度目かも分からない衝撃的な展開に結衣の意識は遂に限界を迎えたのだった。


 □□□


 再び曇天が広がった週の始め。午前中降り続いていた雨はすっかりと上がり、グラウンドには水溜りを埋める運動部の姿がちらほらあった。

 だが、同じ運動部でも足場が板の間である弓道部はそれらを横目にしながら黙々と練習に励む。

 最近ようやく着慣れてきた胴着に身を包み、龍夜は弓を構えた。遙か前方に設置されている的を見据え、高めた集中力を矢に乗せてから放つ。

 数秒後にタン、と短い音が耳に届く。しかし龍夜の口から零れたのは長い溜め息だった。

「どうした、珍しく不調じゃん」

 隣の的で練習していた二年の先輩部員がそう言葉をかけてくる。龍夜は苦い笑みを浮かべてから「ちょっと」と答えた。

 視線の先の的には、確かに矢は命中している。だが、かなりぎりぎりのところに、だ。

「我が部の期待の星も調子が悪い時があるんですねぇ」

 からかうような口調で冷やかしてくる先輩部員に「止めてくださいよ」と肩を竦める。

 龍夜が弓道を始めたのは高校に入ってから。つい二ヶ月前だ。その腕前は初心者とは思えないものだった。

 中学までは野球をやっていたのだが、高校に弓道部があるのを知り即決で入部届を出した。理由はなんてことはない。父が弓道をやっていて興味があったからだ。

 期待の星と褒めそやされるのはあまり好きではないが、弓道の緊張感や集中できる空気自体は好きだった。だが、今日はそれも満喫できない。それというのも、先程から背中にひしひしと感じる視線のせいだった。まさか気付いていないとでも思っているのだろうか。

(逆に目立つっての)

 内心で盛大に嘆息し、それでも雑念を振り払うように深呼吸をしてから龍夜は次の矢を番えようとした。だが、部内でも口の軽い部類に入るその先輩部員が、龍夜の肩を引いては集中力を途切れさせる。挙げ句「なぁ」とそっと耳打ちしてきた。

「さっきから入り口のところでちょろちょろしてる女子生徒って入部希望者だと思うか? 赤のネクタイだから一年生だろ?」

 そう言って見やる先にはこそこそと挙動不審な影が一つ。龍夜の溜め息の原因はまさにそれだった。

「……さぁ、違うんじゃないんですか」

「にしてはずっと覗いてるよな」

「ただの暇人でしょ。あんまりおしゃべりしてるとまた部長に怒られますよ、先輩」

 部活の最中、というかほぼ始めからだ。

 恐らくほとんどの部員達も気付いているであろうその不審者は、見覚えのありすぎる女子生徒。そう、幼馴染みの結衣である。

 当人はひっそりと覗いているつもりなのだろうが、動きに落ち着きが無く逆に人目を引いていた。他の部員達も、結衣の方を見てはしきりに首を傾げている。

「よし、声かけてみっか」

「え!?」

 思わぬ提案に龍夜は普段は出さないような驚きを露わにした。そして、その驚愕は次の発言にますます膨れ上がる。

「実は結構可愛いと思ってたんだよなー」

 だらしなくにやけた顔を曝す先輩部員は既に足をそちらへと向けており、龍夜の顔には若干焦りが滲んだ。

「ちょ、先輩っ」

「水沢、お前もこい」

「は!?」

 引き止めようと伸ばした手をそのまま掴まれる。だがその前に別の者が近付いていく。部長だ。

 入ってくる様子もなく、いつまでも留まっている結衣に「見学なら中でどうぞ」と声をかけにいったようだ。

 当然それに慌てたのは結衣の方である。本人はちゃんと隠れていたつもりだったらしく、結衣にとっては予期せぬ事態だろう。

 案の定「あ、ち、違うんです! あたしは、そのっ」とあたふたしている。龍夜はげんなりと肩を落とした。

 小さく息を吐き、この後の先輩部員への対応をどうするか真剣に思案しながらそちらへと向かったのだった。


 □□□


「何やってんだよ、お前は」

 盛大に呆れた顔で龍夜が小言を言えば、隣からは「ごめんなさぃ」と尻すぼみな反省の言葉が返ってきた。そこにはこうべを垂れて小さくなっている結衣の姿がある。

 龍夜が避難場所に選んだのは弓道場と部室を繋ぐ渡り廊下。行き来するのはもちろん弓道部の人間だけで、密会にはもってこいの場所だ。

 念には念を入れて無人であることを確認した龍夜は、座り込みながら切り出す。

「先に言っとくが、ふざけた理由なら怪談話と都市伝説聞かすからな」

 毎日、と付け加えれば、同じく隣に腰を下ろした結衣からは「いや、そのぉ……」と決まり悪げな声が返ってきた。

「りゅうが真面目に部活やって」

「確かあれは入学してすぐだったか。校内の見学と称して学校の中を探検していた時だ。旧校舎を歩き回っていた時に不思議な教室を見つけた。ガラス越しに白い影が浮かんで――」

「ちょ、たんま! 嘘! 今のは冗談で!!」

 早速どこかで聞いたことがあるようなお決まりの学校の七不思議を語り出すと、結衣はすぐさま頭を下げた。涙目で見上げるてくる幼馴染みを無言で威圧してやれば、素直に話し出す。

「実は、この間のことを聞きたくて。あたしを見つけた時のこと」

「見つけた時?」

「……どうやってメインホールまで行ったのか、全く覚えてないんだよね」

 覇気のない声でそれだけ呟いて結衣は立てた膝の間に顎をうずめる。

 そう。洋館の亡霊を確認しに行ったあの夜、はぐれていなくなっていた結衣はなぜかメインホールで発見された。

 結衣の両親が到着し、どこまで一緒だったのか確認の為に再び洋館へと入った時に、二階へと上がる階段のところで気を失っていたのを見つけた。

 駆け寄って声をかけると結衣はすぐに目を覚ました。が、どうしてこんなところにいるのか結衣本人も分かっておらず、龍夜達ももちろん分からない。

「女の霊がいたって話だけどよ」

「うん。その人から逃げようとして地下に落ちたんだけど……」

 結衣の話によると、一階を調べ終わって戻っている最中に女の霊に遭遇し、それから逃げようとして地下へと落ちたらしい。

 その場所へと行ってみると、確かに床に穴が空いており、下には異様な広さの空間があった。そこへ落ちたという話だが。

「どうやって登ったのか、メインホールまで自分で歩いていったのかも全く記憶がないの」

「病院には行ってみたんだろ? なんて言われたんだ?」

「特に異常はなし。こぶができていたから、もしかしたら頭を打ったせいで記憶がないのかもって言われただけ」

 発見した時、結衣には特に目立った外傷はなかった。後頭部に小さなこぶが一つと、首筋に二つほど虫さされがあったくらいだ。

 こぶは地下に落ちた際に出来たものだろう。しかし結衣は落ちたことはちゃんと覚えている。問題はそれから先の、発見されるまでの空白の数十分間。

 ――その間に何があったのか。

 そこまで話して結衣は黙り込んだ。

 ようは不安なのだ。幽霊が絡んだ出来事だから。

 その気持ちが分かるからこそ、龍夜もこうやって部活を抜け出してまで話を聞いている。

「もしかしたら、その女の霊が連れてきてくれたとか?」

 半分冗談、しかし半分は考えられなくもない可能性として言ってみる。その考えに結衣は「……なのかな」と呟いて再び口を閉ざす。その態度に龍夜は妙な違和感を覚えた。

 普段の結衣なら確実に怖がるところだ。助けてくれたとはいえ、相手が幽霊となると先ずは怯えるのが常だ。不安なだけで聞き流すなど絶対にしない。

 そう思い結衣の顔を覗き込んでみると、なぜか目を反らした。反らされた視線を追いかけて再度覗き込むと、またしてもその逆を向く。

「……」

 その反応に覚えがあり、龍夜は心中で息を吐いてから結衣の頭をがしっと掴んだ。逃げられないよう自分の方に顔を向け、真正面から断言する。

「お前、まだ何か隠してるだろ」

「べ、別に」

「嘘だな。目が泳いでる」

 言い切ってやると結衣は「うっ」と言葉に詰まった。

 結衣は嘘をつく時や隠し事をする時、人の目を見ない。

 ちょっと怖い話を聞いただけでもすぐさま泣き付いてくるくせに、いざ危険なことになったら逆に隠そうとする。それが霊がらみのことなら、なおさら。

 しかしそうなってしまったのは子供の頃に受けた扱いにあった。

 やれそこのカーブのところに白髪の老婆がいるだとか、片足のない男が立っているだとか。そんなことを口にする子供を不気味に思う周りの目がそんな癖を付けさせたのだ。

 両親の庇護と聡恵の存在のおかげで今では随分、というには甚だ騒がしさが増してしまったが、改善はされた。だが、たまにこうやって顔を見せる瞬間がある。そんな時に気付いてやるのが幼馴染みである龍夜の務めになっていた。十年近い付き合いは伊達ではない。

「言いたいこと、っつーか聞いて欲しいことがあるから来たんだろ? ならさっさと全部吐き出してすっきりしちまえ。ちゃんと聞いてやるから」

「りゅう……」

 ぶっきらぼうな言い方だとは自覚しているが、こちらがはっきりと受け入れてやらないと結衣は話そうとしない。

 少しの間考え込んでいたかと思うと、結衣はおずおずと口を開いた。

「……落ちた地下でなんだけど、そこでなにか恐ろしいものを見たような気がするの」

「恐ろしいもの?」

 聞き返す龍夜に結衣は朧気に記憶に残っている『とある箱』の話をする。

 それは暗闇の中にひっそりと横たわっていたもの。

「人がひとり入れるくらいの細長い箱、ねぇ」

 結衣の話を黙って聞いていた龍夜はそれだけ呟いて考え込む。しばらくしてからふとある単語を思いついた。

「なんか、棺桶みたいだな」

 それって、と頭に浮かんだその言葉を口にすると、結衣も倣うように「かんおけ……」と繰り返した。のだったが。

「っ」

 突然結衣が頭をかかえて俯いた。龍夜は慌てて声をかける。

「お、おい、どうした?」

 気分でも悪いのか、と聞けば「大丈夫」と返してくるが、全然そんな風には見えない。

 苦しそうに眉間に皺を寄せ、額には冷や汗が浮かんでいる。顔色は血の気が引いていて、様子がおかしいのは明らかだ。

 保健室へ連れて行くべきか。

 迷ったが、しかし龍夜はそうしなかった。代わりにそっと結衣の背中をさする。結衣も黙ってそれを受け入れる。

 恐らく体調不良からきたものではない。いわゆる霊的な障害だ。そういう時、決まって龍夜は側で見守っていた。昔からずっと。

 しばらく無言の時間が続く。

 会話の途切れたそこには、部活に勤しむ生徒達の微かなかけ声だけが風に乗って届く。

「……もう、大丈夫」

 落ち着いた、と一つ息を吐いてから不意に結衣が顔を上げた。見れば若干赤みは戻ってきてはいるが、まだ顔色は良いとは言えない。

「本当か? まだ辛そうだぞ」

「とりあえず、平気。頭痛も治まった」

「なら、良いけどよ」

 言いおいて、龍夜はさする手を止めた。代わりに、その手を結衣の頭に乗せ、ぽんぽん、と軽く数回叩いてやる。すると、きょとんと丸まった双眸が見上げてきた。かと思えば。

「ありがと、りゅう」

 安堵したように結衣が笑みを浮かべた。それを見届けて、龍夜も今度こそ手を退いた。

 この流れもいつものことだ。

「とりあえず、暗くなる前に帰れよ。んで、おばさんに相談してみろ。それが確実だ」

「うん」

 龍夜の意見に結衣が頷く。それが最善の解決方法なのは結衣にも分かりきっていることだし、さすがにこればかりは龍夜では力になれない。

「ありがとう」

 話聞いてくれて、と結衣が立ち上がる。それに続いて龍夜も腰を上げる。手を振りながら渡り廊下を後にする結衣を見届け、龍夜も一先ずは大丈夫か、と部活へと戻る。

「……」

 そんな二人の様子を眺める影が一つ、弓道場の屋根の上にあった。


 □□□


(何で思い出せないのかな)

 一人帰路についた結衣はまだ考えていた。

 相変わらず空には雨雲が垂れこめ、どんよりとした雰囲気を撒き散らしている。その重苦しさが結衣を思案の世界へとあっさりと飲み込む。

(女の人の霊を視たのは覚えてる)

 それから逃げようとして地下に落ちたことも。問題はその先。

 ――記憶に残っている箱は何?

 思い出そうとするとまたこめかみがずきずきと疼き始める。知らず首筋に手が伸びる。そこには小さな虫さされがある。

(うー、もやもやする)

 頭上の空模様と同じくすっきりしない自分の記憶に結衣は大きく溜め息を吐く。そして不意にそのまま固まってしまう。

「……」

 硬直したままで結衣は耳を澄ませた。

 ――チダ。

「!?」

 ふと耳元で声がした。まるですぐ隣にいるのかと思えるほど近くで。

 思わず結衣は辺りを見回した。しかし、行き交うのは家路を辿る学生や会社員、買い物帰りの主婦など。

 どれも面識のない顔ばかりで、同校の制服や近所の顔馴染みの姿は見当たらない。

(気のせい?)

 嫌に逸る鼓動を落ち着かせながら結衣は首を捻る。しかし。

 コッチダヨ――。

 またもやそう声が響いた。空耳なんかではない。確かに誰かが呼んでいる。

 ――あたしを、呼んでるの?

(でも、知り合いなんて……)

 どこにもいない。

 通り過ぎていくのは知らない顔ばかりで、そしてその誰もが結衣など見てはいない。呼びかけてはいなかった。

 結衣の背筋に嫌な汗が流れる。

(ど、どうしよう……)

 知らず結衣は数珠を強く握り締めた。早く帰れと気遣ってくれた龍夜の声が耳の奥に蘇る。

 頼れる人は今誰もいない。無意識に身体が震える。不安な心はつけ込まれやすい。

(早く家に)

 帰らなきゃ、と結衣は歩く速度を上げた。

 家に帰れば母に視てもらえる。

 霊感体質の結衣には、昔からいろんなモノが依ってきていた。たまに帰っては「また憑いてるわよ」と問答無用で灰塩をぶちまけられたりするが、三日前の廃洋館の件もあり、いつもに増して結衣は敏感になっている。

 ゆったりと流れる人波の中を駆け出し、全速力で家を目指した。だが。

(あーもう、どうしてぇ!)

 どんなに急いでも声は離れない。それはもうぴったりと背後――というか耳に張り付いて『コッチダ』と誘い続けてくる。

(やだやだやだー!)

 もはや半泣き状態で結衣は走った。だから気付けなかった。目の前に立ちはだかる高い影に。

「――ぶっ!」

「おっと」

 前もろくろく見ずに走っていた結衣は突然壁に衝突してしまった。

 跳ね返って後ろに傾きかけた身体を、力強い手が繋ぎとめる。

「いったた……」

「大丈夫か?」

「あ、へ、平気で」

 す、と続けようと鼻っ面を押さえて顔を上げたその瞬間、結衣の声は喉の奥へと引っ込んでしまった。

「そんなに急いでどうしたのかな、お嬢さん?」

 硬直している結衣にくすりと喉を鳴らして口端を上げているのは、人目を引く見事な銀髪に澄んだ碧眼を持った、顔立ちの良い美青年だった。

 そりゃもう、世の女性の誰もが振り返り悩ましげな視線を投げそうなほどに見目麗しい。心なしか後光が射しているようにさえ感じる。

 当然、結衣も食い入るように青年を見つめてしまった。

「怪我はないか?」

「は、はいっ! すみません、ちゃんと前を見てなくて」

 柔らかく笑みながら青年は首を傾げる。その笑みに苦笑が混じっていて、自分が阿呆みたいにぽかんと口を開けているのだと自覚した。

 言うまでもなく見惚れていたのだ。

 慌てて頭を下げて謝ると、何故か青年の方が「すまない」と非礼を詫びる言葉を口にした。

「こちらこそ、可愛いお嬢さんの道を妨げてしまって申し訳ない」

「い、いえ、ただの不注意です、あたしこそごめんなさい」

 へこへこと結衣が頭を下げていると「それなら良かった」と穏やかな声が降ってくる。

「何やら必死な様子だったから恋人との約束にでも遅れそうなのかと心配したよ」

「そ、そんな人いません!」

「そうなのか? こんなに可愛らしいのに」

 言いながら青年が柔らかな微笑を向けてくる。たちまち結衣の頬に朱が差す。途轍もない破壊力だ。

 一気に心臓が暴れだし、言葉にならない声が口から零れる。しかし。

「――では、誰かに呼ばれていた、とか?」

「!?」

 不意に青年の口から発せられたその一言に、寸前まで高揚して結衣の気分は途端に鎮まる。

 普通なら「なにを言っているんだ」と怪訝に思うだろうが、今の結衣には聞き流せない発言だ。そして、そこではたと気付く。

 あれほどしつこく呼んでいた声が全くしない。

 結衣は呆然とする。それを見下ろす青年の口角は上がったままで、凪いだ湖面のような双眸はひたと捉えているだけ。その碧眼に、恐怖とまではいかないが、言い知れぬ恐れを感じた。

(初めて会った)

 ――はずだ。

(あたし、そこまで物忘れ激しくないし)

 それにこんな美青年、一度顔を合わせれば忘れるはずもない。

「……っ」

 いっそ妖しくさえ映る笑みをまじまじと見つめた瞬間、結衣のこめかみにもう何度目かも分からない痛みが走った。

 なに、と顔を顰めると、脳裏にある残像が蘇る。

 ――腕?

「どうした? やはりどこか痛めたか?」

 突然俯いた結衣に青年が心配げに声をかける。

「だ、大丈夫、です」

「そう言うが、顔色があまり良くないぞ」

 眉根を寄せて、少しだけ身体を屈めた青年は結衣の顔を覗き込む。

 まっすぐに注がれる碧眼には苦悶の表情を浮かべている自分の顔が映っていた。

「家まで送ろう。どこだ?」

「そ、そこまでして頂かなくても平気ですっ」

「ダメだ。倒れでもしたら大変だろう?」

 さぁ、と手を取られ、結衣はびくりと肩を竦めた。

 冷たい。

 確かに気温は低めで肌寒くはあるが、触れてきた指先はまるで氷のように凍てついている。

 結衣は声も出ない。青年は無言でその様子を見下ろしていた。


 □□□


「じゃあ、クオルさんはお母さんの方が外国人なんですか?」

 夕闇の迫る道を歩く結衣は傍らの青年を見上げながらそう尋ねた。隣からは「ああ」と短い返事が降ってくる。

 あの後、結局は断りきれずに、結衣は送ってもらうことにした。まぁ、半ば押し切られる形で、と言った方が正しいのだが、如何せん見つめられると緊張してうまく話せないのだ。

 ここに至るまでも、名前が分からずどう呼んだら良いのか迷っていると、察した青年が自ら教えてくれた。それがクオル。

 青年の名前はクオル・ディシャといった。

「母は数少ない女性の建築家で、この国に自国の建築技術を広めるために建築家仲間と共に来た。もちろん日本の技術も学びにな」

「へぇ」

「母はスウェーデン人だが、父は日本人だ。俺はこの国で生まれた」

「ハーフなんですね。だからそんなきれいな顔立ちなんだ、羨ましい」

 出生を聞き、結衣は素直に羨む。すると「何を言う」と驚いたような声が返ってきた。

「結衣も可愛らしいじゃないか」

 言いながら、おもむろにクオルが手を伸ばしてきた。それが向かう先は結衣の頬だ。

 体温の低い指先がそっと輪郭をなぞり、一気に結衣の顔に熱が上がる。落ち着いていた心臓がどきりと高鳴った。

「そ、そそそそんなことないですっ。あたしなんか」

「謙遜しなくても良いんだぞ? 俺は好みだ」

「――っ!」

 このみ。

 その三文字に結衣の頭は爆発した。そして思いっきり後ずさって俯く。

「あ、あた、あたしっ。こっ、ここここの、このみだなんて!」

 からかうならもっと別のことにして欲しい。

 完全に湧き上がった脳みそで何とかそれだけ言い返すが、クオルは目を細めるだけだ。

「結衣は顔に出やすいな」

 結衣の羞恥などとっくに見抜いているクオルは、穏やかな口調で顔を上げるよう促してくる。

「困らせるつもりはなかったんだが……。悪かったな」

「いえっ、その、」

 謝ることでもない。ただ慣れないだけなのだ。

 大人の色気とでも言えばいいのか、身近にいる異性の誰にもない艶やかな存在感に、結衣がついていけないだけだった。

「……因みにクオルさんって何歳ですか?」

「? 十八だが」

「!? 十八!? たった二つ上!!?」

 クオルの年齢を聞いた瞬間、結衣は驚愕の声を上げる。それまでしおらしく俯いていた結衣の変わりようにクオルは目を丸め、次いで苦笑を浮かべた。

「いくつだと思ってたんだ」

「えと、二十歳は越えてるかと……」

 あまりにも落ち着いた物腰や雰囲気にすっかり騙されていた。今月の末に十六を迎える自分とたった二つしか離れていないとは。

 そんな話をしているうちにいつの間にか家の前に着いていた。

「ありがとうございました」

 門扉の前で丁寧に頭を下げる結衣に「そう畏まらなくていい」とクオルが頬に指を伸ばしてくる。

 またもや突然添えられたそれに、静まったばかりの結衣の鼓動が早鐘を打つ。相変わらず冷たい指先は、火照った肌に気持ち良いくらいだ。

「可愛いお嬢さんのためだ。礼には及ばないさ」

「…………」

「そう絶句されると俺がおかしいことを言っている気がしてならないな。言っておくが本心だぞ」

 微笑と言葉に結衣はぽかんと口を開ける。

 卒倒させられそうなほど艶のある微笑みを向けられ、結衣の心臓は途方もなく暴れまわり、吐き出されるのは片言ばかりの単語だった。

「あ、あああのっ、て! 手を!」

 退いてください、と言いたいのにうまく言葉が出てこない。それというのも、結衣の声に反応したクオルが「うん? どうした?」と首を傾げながら自然に顔を近付けてきたからだ。

 結衣は胸中で声にならない悲鳴を上げた。その時。

「おかえり、結衣。お客さんかな?」

 のんびりとした口調で和服姿の壮年がひょこりと顔を出す。父だ。

 声がしたから、と庭の方からやってきた父は、門の前で突っ立っている娘と見知らぬ青年を交互に見比べて尋ねてきた。

 呂律の回っていない口でなんとかいきさつを説明すると「なるほど」と頷く。

「それはわざわざすまなかったね。どうだい、お礼にお茶でも」

 柔和な声音で父が青年を招く。

「いえ、僕はただの通りすがりですので」

「遠慮しなくても良いんだよ?」

「じき夕飯時ですし、そんな時間にお邪魔するなど」

 お気持ちだけで十分です、と申し出を断る物腰も紳士的だ。容姿も秀麗で性格までも控え目など、まさに完璧な好青年である。

「そうかい? だったらまた今度、時間のある時にでも来ると良い。歓迎するよ」

「……では、もしまたご縁がありましたらその時は」

 そう返事をしてクオルは去っていく。

 曇天の暗がりの道には片手で足りるだけの人影しかない。その中に紛れる青年の後ろ姿を、結衣は呆然と見送った。

 なんとも不思議な青年だった。

 容姿はもちろんだが、その雰囲気に妙に引きつけられた。

(でも、さすがにもう会うこともないよね)

 偶然の出来事だ。そう思いながら結衣は先に家へと入っていった父の後を追う。

 ――しかしその数時間後、ことは起こった。


 □□□


 時刻は日付が変わって一時間ほど経った頃。

 コツンコツン。

(……ん?)

 ふと奇妙な物音で結衣は目が覚めた。それは何かが窓を叩くような音。

(なに?)

 結衣はうっすらと瞼を上げる。

 結衣の部屋は、ドアから入って正面に窓がある東向きの部屋だ。毎朝目覚ましより先に朝日で起こされる。

 入り口から右手側にベッドやクローゼットがあり、左には勉強机、ドレッサーや収納棚などが置かれていた。

 頭を窓側の方へ向けて寝ている結衣は、首を反らせてそちらを見る。

 いつも閉めてから寝るはずのカーテンは片方だけ開けられ、その向こうからは月明かりが射し込み床を照らしていた。夕方まで空を覆っていた雲は晴れていた。

(あれ、カーテン閉めてなかったっけ)

 そんなことを思いながらぼんやりと窓を見ていると。

 コツン、コツン。

 間を置かずして、窓ガラスを叩く小さな音が寝静まった部屋に木霊した。それが一定の間隔で何度も続く。

(風で飛んできた何かが窓枠に引っかかってるのかな?)

 段々と意識がはっきりとしてきた結衣は、その音が妙に気になった。

 結衣の部屋は二階だ。窓の外には遮蔽物はない。結衣はベッドから起き上がって音のする方へと向かう。

 カーテンを開け放ち窓の鍵に手をかける。カチャリと音を立てて施錠を解くと、両開きになってる窓を押し開けた。そして音の正体を確認しようと窓枠から身を乗り出そうとした時だった。

「――やぁ、こんばんは。可愛らしいお嬢さん」

「!」

 不意に頭上に影が差したかと思えば、その影が結衣の目の前へと舞い降りてきて微笑を浮かべた。その笑みに結衣は声を失う。

 見紛うはずもない秀麗な顔立ち。月の光により一層きらきらと映える銀糸は記憶に新しい。

 月光を背に結衣の前に現れたのは夕方出会った青年・クオルだった。

 これは一体どういうことだ。

(なんでこの人が……ていうか、その前にどうやってここまで登ってきたの!?)

 窓の外には一階部分の屋根はあるが、そこへ登るには脚立が必要だ。

 家を囲む石塀もあるが、せいぜい一・五メートルほど。その上に立ち上がったとしてもこの高さに登ってくるのは不可能。

 驚きに声も出せずにいると眼前の青年がふっと笑う。

「ひどいな。もう俺の顔を忘れてしまったのか?」

 この声と言葉。やはりそうなのか。

「クオル……さん?」

「夕方振りだな、結衣」

「な、なんでクオルさんがここに……それにどうやって」

 驚愕に目を見張る結衣をクオルはただ柔らかな笑みで見つめる。心を乱すような甘い声もあの青年のもの。間違いなくクオル本人である。

 結衣は訳が分からず無意識に一歩後ずさった。それを追うように、クオルがゆっくりと室内へと入ってくる。

「何故って夕方結衣の父上殿が招いてくれただろう? だから来た」

「いや、それは」

 確かに招いたが、こんな夜中に、しかも窓から来るようにとは言っていない。

(この人、普通の人じゃない)

 結衣は直感で確信する。

 幽霊の類ではないようだが、しかし明らかに普通の人間とも思えない。

 今思えば出会った時から不思議な存在だった。

 自分を呼ぶ声のことにも気付いているようだったし、触れられた瞬間に襲った激しい頭痛と頭を過ぎったあの残像。

「……あなたは一体」

 何者なの。

 目の前に迫る得体の知れない存在に結衣の足は更に後退する。結衣の疑惑を察したクオルは不敵に笑んで。

「どうしても知りたいか?」

 軽く首を傾げた。そこで言葉を切り、不意に目を伏せる。

「そうだな。結衣には目覚めさせてもらった恩もある。良いだろう、特別に教えてやろう」

 そう告げるとゆっくりと瞼を上げた。そこに現れた双眸はあおではない。燃えるような真紅だ。その瞳を見た瞬間、頭痛が結衣を襲う。

「っ」

「抗うな」

 ふらりとよろけた結衣に手を伸ばしてクオルが抱き留める。もう一方の手で頬を撫でた。

 ひんやりと体温の感じられない指先。その冷たさに頭の中の何かが弾けるように、封じ込められていた記憶が呼び起こされる。

 半分朽ち果てた木造の廃洋館。その地下の、暗闇の中に横たわっていた細長い木箱。鎖が巻きつけられ、南京錠で堅く封印されていた。女の霊に導かれ、開けたその中から伸ばされる青白い腕――。

「――あの時棺桶から手を伸ばしてきたのって、まさか」

 その先を察したクオルが更に笑みを深める。

「そうだ、他でもない俺だ。礼を言う。おかげでようやく自由になれた」

「自由?」

 あの女の人の霊も同じことを言ってた。

「あなたは、人間じゃないの?」

「俺は不死の魔物――吸血鬼だ」

「……え?」

 さらりと告白された事柄に、結衣の口からは唖然とした声が零れた。

 目の前の男は普通の人にしか見えない。生身の人間となんら変わらないように映るのだが。

「吸、血鬼?」

 結衣の耳の奥にいつぞやの龍夜の言葉が蘇る。

『夜な夜な人の生き血を求める不死身の人間だったらしいぜ』

 不死身とはそういうことだったのか。

「それじゃあ、あの廃洋館に住んでいた不死身の一族って吸血鬼のことだったの?」

「ほう、あの洋館の一族の事を知っているのか」

 口元の笑みを深めたクオルがあっさりと肯定する。対する結衣の身体は、驚愕と恐怖に震え出した。顔から血の気が引いていく。

 まさか吸血鬼だなんて。

 吸血鬼といえばホラー作品上の怪人だ。

 日の出ているうちは地下や屋根裏などで眠り、夜半に目を覚ましては人の生き血を吸って生きる魔物。

 蝙蝠や狼、霧にもなれるといわれていて、その退治方法は心臓を杭で打ち抜くこと。他の弱点は太陽の光と十字架、聖水、にんにくなど。

 映画や本の中ならいざ知らず、この現実世界に吸血鬼など、およそ信じられることではない。

(けど、嘘を言ってるようにも見えないし)

 実際、こうやって目の前にいる。説明のできない状況で。

「ほ、本当に吸血鬼なの?」

 驚きに目を見張るばかりの結衣を見下ろしクオルは口端を上げる。

「完全にではなかったが、今の今まで、結衣はあの地下でのことを覚えていなかっただろう? それは俺が暗示をかけていたからだ」

「暗示?」

「正体を吹聴されては困るからな。だから暗示をかけた。地下で見たものは全て忘れるようにと。吸血鬼は血を吸った者に暗示をかけて意のままに操る。その者に直接語りかけることだってできる」

「語りかける……」

 今日の帰り道でのことを思い出し、結衣ははっと息を飲んだ。

「あの声、クオルさんが?」

「ああ。俺の声はちゃんと届いただろう、結衣?」

 言ってクオルは更に笑みを深める。耳に滑り込んでくる低音はまさに耳元で響いていた声そのもの。

「血を吸ったって……」

 いつ、と呟きかけて結衣は首筋に残っている小さな赤い痕を思い出す。

「なら、首のこの痕ってもしかして」

 単なる虫さされだと思っていたそれが吸血鬼による噛み痕。

「五十年ぶりの食事はなかなか美味だったぞ」

 結衣の疑問を見透かしてクオルは目を細める。逆に結衣の顔はみるみる青褪めていく。

「だからまた来た。さぁ、いただこうか。清らかな生き血を。俺の糧となれ」

 言うや否や、クオルは抱き留めていた手に力を加える。ぐっと距離が近くなる。

 結衣の肩を掴み、噛み跡の残る首筋を露わにしてそっと指を這わせた。

 ひんやり、というよりもまったく体温の感じられない指先が肌の上を滑ると、途端に結衣の背中を言いようのない感覚が駆け上る。

 逃れようと身を捩るが、不意に耳朶をくすぐった甘い吐息に動けなくなった。

「大人しくしていろ、すぐに済む」

 その一言に、意識に靄がかかる。身体からは力が抜け、クオルの言葉に逆らえなくなった。

「いい子だな」

 背中に回されていた手が結衣の後頭部へと移動する。普段は結わえている黒髪がはらはらと青白い指の間から零れ落ちる。

「……」

 頭が右の方へと傾けられ、撫でられた首筋が剥き出しになる。そこへ蠱惑的な唇が押し当てられた。鋭い牙が今まさに柔肌に穿たれようとしている。

 ――だめだだめだ抵抗しないと。

(じゃないと、このまま血を吸われちゃう)

 判然としない意識の片隅で呆然とただそれだけを思うと、ほんの僅かにだが指先が動いた。それを引き金にして結衣は自分の意志を取り戻す。

「や、やだぁぁぁぁ!」

 絶叫を上げた結衣は無我夢中で腕を振り上げ、その手を渾身の力で振り下ろす。直後、バチーン! と小気味良い音が辺り一帯に木霊した。

「……」

「……」

 二つの無言が静寂を作る。それは恐れと呆気で形成され、何とも言えない空気を醸し出す。

 初めに動きをみせたのはクオルだった。

 ひっぱたかれた頬に触れ、ぱちぱちと目を瞬かせた。真紅だった瞳が元の碧眼に戻っている。その双眸が呆然と結衣を見下ろす。

 あまりにもまじまじと見つめられ、襲い来る牙に怯えていた結衣の心に僅かないたたまれなさが芽生えた――のも束の間。

「良い度胸だな、小娘」

 一瞬の間の後、ドスの利いた低音が頭の上から降ってくる。たちまち結衣の肝が冷えた。

 クオルの口調に冷たさが加わっている。それどころか、眼差しにもぎらつく怒気が滲んでいた。

「この俺に楯突くとは命はいらんとみた。ならば望みどおり血を吸い尽くしてやる」

 完全に化けの皮のはがれた吸血鬼は遠慮なしに結衣の身体を拘束した。肩を押さえられ、身動きが取れなくなる。

「ご、ごめんなさい! 悪気はないんですっ」

 怖さのあまりつい、と主張しても「謝っても遅い」とすげなくあしらわれた。目が本気だ。

「恨むなら素直に血を差し出さなかった己を恨め」

「そんな横暴な」

 どうして襲われそうになってるのに抵抗したことを悔やまなければならないのだ。

 理不尽な言い分に不満を覚えながらも、視界をちらつく鋭い牙の前には死期を早めるだけに過ぎないと痛感した。

 もはやここまでか。

(うぅ、こんなことになるなんて)

 全てはあの時、女の霊を信じ、棺桶を開けてしまった自分が悪いのだ。

 そう結衣は半ば諦め、心中で両親や幼馴染達に別れを告げようとしていた時だった。

 不意にクオルの動きが止まった。かと思うと、突然結衣の身体を解放し後ろへと飛び退く。そのまま外へと出た直後。

 結衣の顔の横を何かが高速で通り過ぎていった。

 ぼす、と音を立てて背後の壁にぶつかったのは枕。同時に向かいから怒声が聞こえる。

「てめぇ、結衣に何してやがる!」

 龍夜だ。

 結衣の家と龍夜の家は隣同士だ。部屋もお互い二階で、向かい合わせの位置にある。

「り、りゅう!」

 間一髪のところで助けてくれた幼馴染みの名前を呼べば、あろうことか龍夜は自室のベランダから身を乗りだし、屋根を飛び移って結衣の家の屋根へと渡ってきた。

「大丈夫か!?」

 結衣の前へとたどり着くと、窓枠越しに無事を確認する。

「う、うん、なんとか……」

 下手をすれば怪我じゃすまされない行動に驚きながらも、駆けつけてくれた龍夜に結衣が返事をするとほっとしたように息を吐く。が。

「いきなり物を投げつけてくるとは、礼儀を知らん奴だな」

 安心していた龍夜に向けて冷ややかな声が投げられる。見れば二階の屋根の上に移動したクオルが龍夜の方を見て肩を竦めていた。負けじと龍夜が睨み返す。

「結衣に妙な真似しやがって、なんだお前」

 頭上を振り仰いで言えば、クオルが「口の聞き方もなっていないな」と辟易とした様子で見下ろしてくる。

 その物言いに龍夜が更に言い返そうとしていたが、そのままでいるのは危ないからと、とりあえず一端部屋へ入るよう促す。

 それに続いてクオルも二階の屋根から降りてきた。悠然と窓枠に腰掛け二人を見る。

「お前、絶対人間じゃねぇだろ。なんなんだ」

 音もなく舞い降りてきたクオルに、さすがに龍夜も気付く。結衣を背中に庇い、余裕の表情で構えるクオルを睨みつける。

「ふん、生憎と小僧には用はない。失せろ、食事の邪魔だ」

「食事だと?」

 意味の分からない台詞に龍夜が眉を潜める。背中に隠れていた結衣が耳打ちする。

「りゅう、気をつけて。このひと、あの廃洋館に住んでた不死身の一族――吸血鬼だって」

「……なんだって? 吸血鬼?」

 結衣の言葉に更に眉を潜める。対するクオルは「口の軽い小娘だな。ひとの正体を明かすとは」と嘆息する。

「地下に落ちた時の記憶がなかったのは、この人が暗示をかけてたからみたいなの」

「面倒事を起こされてはかなわんからな」

 だから忘れるように暗示をかけた。

「分かったらそこを退け。それとも、貴様の方から先に血を吸い尽くされたいか?」

「退くわけねぇだろ、この変態野郎が」

 龍夜がそう吐き捨てるとクオルの眼差しが一層鋭さを増した。

「口には気を付けろ。俺は手加減が苦手でな。気に入らん奴には容赦はせん」

「やれるもんならやってみろ」

 売り言葉に買い言葉。お互い火花の散る睨み合いを繰り広げながら間合いを取る。そこへ騒ぎに気付いた両親が遅れて登場だ。しかし。

「あらやだ、なんだか修羅場よあなたっ」

「結衣も罪作りな子だねぇ」

 室内の様子を見て何とも的外れな台詞を零しただけだった。娘が襲われそうになっていたというのに、と結衣は声を荒げる。

「呑気に観察してないで助けてよ!」

「おじさん、おばさん、警察!」

「俺を誰だと思っている。警察など呼んでも無意味だぞ」

 龍夜の言葉を一蹴し、クオルがふん、と胸を反らす。

「吸血鬼だろうがなんだろうが、この状況なら誰だって捕まえるだろ!」

「そういう貴様も窓から乗り込んできたではないか。同罪だろう」

「んだと、てめぇ!」

「まぁまぁりゅうくん、落ち着いて」

 ご近所さんにご迷惑がかかってしまうよ、と父が二人の間に割って入る。龍夜を宥め、それからクオルの方を向きにこやかに話しかける。

「君は夕方結衣を送ってきてくれた子だね? えっと、名前は……」

「クオル・ディシャという」

 穏やかな口調で尋ねる父にクオルも幾分か丁寧に答える。

「クオルくんだね。それで、君はどうしてここにいるんだい? それに、さっきりゅうくんの言った吸血鬼って」

 どういう意味だい、と問いかける。

 表情や口調こそはにこやかだが、その眼差しは笑ってはいない。どこか確信めいたものも窺え、しばらく逡巡していたクオルが一つ息を吐いた。「もう気付いているようにも窺えるが」と一言言いおいて、その場にいた全員を見回して答える。

「如何にも、俺はあの洋館に住んでいた不死の一族――吸血鬼だ」

「本気で言ってんのか?」

 警戒したまま龍夜が訝しげに問う。結衣もそうだったが、到底信じられる話ではない。疑いの目を向けたままの龍夜に向かってクオルは口端を上げた。

「信じられないのならば証拠を見せようか?」

 言って瞼を閉じる。一瞬の瞬きの後、瞼の奥に現れたのは碧眼ではなく真紅の双眸。不敵に笑む口元には鋭い牙が二本光っている。

「これでも冗談だと思うか?」

 漂う異様な気配に人ではないと認めざるを得ない。目の当たりにした光景にその場にいた全員が息を呑んだ。と思いきや。

「――まさか本当にそうだったなんて」

 結衣の父がぽつりと呟いた。かと思うと、そのままクオルの方へと歩み寄り、ぐっと手を握る。その目はまるで少年のようにきらきらと輝いている。

「いやー、不死の一族と呼ばれていたことや五十年前の事件の内容から、もしかしたらとは思っていたんだけど。まさか本当に吸血鬼だなんて。詳しく聞きたいよ!」

 胸が躍るとはまさにこんな状態なのだろう。「やっぱり生き血を吸うのかい? 太陽は駄目? 蝙蝠やネズミに変身できるって本当かい?」と質問責めだ。

 珍しく落ち着きのない父に結衣達は呆気にとられる。当のクオルも目を丸めている。全く予想外の反応だったようだ。

「だって吸血鬼だよ? 映画や小説の中だけの存在だと思っていたのに、こうやって話もできるなんて。感動だな、すごいよ!」

 両の手をがっしりと掴んで喜びを露わにする父は興奮が冷めやまないようだ。「どうだろう、お茶でも飲みながらゆっくり話でも」と、クオルの手を引いてリビングへと誘おうとする。それに倣って母も「あら楽しそうね」と賛同する始末。それには結衣と龍夜が驚愕を禁じ得ない。

「二人とも!?」

 なに言ってるのと結衣が目を剥く。同じく龍夜も「そうだよ」と待ったをかける。

「あの洋館の魔物っていったら、もしかしたら失踪事件の犯人かも知れないのに」

 二人で両親の暴走を止めようと試みるが、しかし立ち止まらせてくれたのはまさかのクオルだった。

「失踪事件? なんのことだ?」

 未だに手を離さない父に困惑気味だったクオルが龍夜の言葉に反応する。

「なんのことって、今この町で起きてる失踪事件のことだよ。噂じゃ廃洋館の魔物の亡霊が犯人だって」

 お前のことだろ、と今騒ぎになっている失踪誘拐事件のことを話す。

 目撃者がいない上に、犯人について何の手がかりもない不可解な事件。

「それに、前にも似たような失踪事件があったって。それがあの廃洋館に住んでいた一族の仕業だったって話だから、今回の事件もそうじゃないかって噂が流れてるんだよ」

「ほう、そんなことが」

 黙って話を聞いていたクオルが神妙な顔で頷く。しかし。

「だが生憎だったな。犯人は俺ではない」

 あっさりとそれを否定した。当然龍夜は「信じられるか」と一蹴する。

「お前じゃなくても他の奴がやったんじゃねぇのか?」

 訝しむ龍夜にクオルは息を一つ吐いたかと思えば。

「確かに五十年前の失踪事件は一族の仕業だ。しかしそのせいで一族は討伐され滅んだ。生き残っているのは俺だけだ」

 肯定した後、何の躊躇もなく自分の一族がこの世から消え去ったことを告白した。それに驚きの声を上げたのは結衣の父だ。

「そうなのかい? 新聞には何も書かれていなかったけど」

 自分が集めた情報を思い出しながら問う。

 確かに事件のことは新聞にも取り上げられていたが、一族がその後どうなったのかはいくら調べても出てこなかった。その真相が吸血鬼本人の口から語られる。

「吸血鬼は人の生き血を必要とする。餌となる人間が必要になるわけだが、その者達を確保するために少々手荒なまねをする輩が一族の中にいた。その粗暴な行いのせいで事が明るみになり、一族の正体が人間達に知られ、逆に討伐された」

「討伐って、どうやって?」

 人間にやられるようなもんじゃないだろ、と龍夜が当然のような疑問をぶつける。確かに人間が何人束になっても歯が立たないように思うのだが。するとクオルはさもあっさりと。

「昼間に襲撃されれば抵抗のしようもない」

 肩を竦めてそう返した。

 ようは眠っているところを襲われたということか。

 その理由には納得するしかない。だが、そこで新たな疑問が沸く。

「あら、でもあなたは?」

 それを口にした母にクオルは「俺は他の者達と違う」と否定を示した。

「昼間でも眠らない」

「眠らない? 君は普通の吸血鬼とは違うということかい?」

 父の問いかけにクオルは頷く。

「俺は混血種だ。父が吸血鬼、母が人間のな」

「混血種って、つまりハーフということ?」

 驚いたように聞き返す母の言葉に、結衣は夕方クオルと交わした会話を思い出す。

「そう言えば、お母さんがスウェーデン人でお父さんが日本人だって言ってたっけ」

「なら、君のお母さんはあの洋館を設計した建築家のどなたかということかな?」

 あの廃洋館の設計及び建築は、海外から渡来していたスウェーデン人の建築家達だったことを思い出しながら父が聞けば、クオルが「そうだ」と首を縦に振る。国籍間のハーフだけではなく、まさか吸血鬼と人間のハーフでもあったなんて。

「どこがどう違うんだよ?」

 龍夜の質問にクオルはそうだな、と考え込んだかと思えば。

「血を吸った者を操ったり暗示をかけたりすることはできる。しかし吸血鬼にすることはできない。先程父上殿が尋ねてきた変身能力もない」

「そうなんだね。なら銀や聖水は?」

「少量ならば平気だ」

 それはすごいね、と父が驚嘆する。だが、次の瞬間、そんなことよりも遙かに重要な違いをクオルは言ってのけた。

「一番の違いは、太陽の光で灰になることがないということだ」

「それって、昼間でも出歩けるって事?」

 聞き返す結衣に「無論」と即答する。これには驚愕しかない。

 吸血鬼最大の弱点である太陽の光が効かないというのならば、どうすればいいのか。

「なんだよそれ。ほぼ弱点ないようなもんじゃねぇか」

「まぁな。だが、不死身というわけではない。肉体が大きく損傷すれば死ぬ」

「良く映画とかでやってる、杭で心臓を貫くとかかしら?」

「分かりやすく言えばそうだ」

「じゃあ、やっぱり犯人はお前しかいねぇじゃねぇか」

 他に仲間がいないのならば、疑わしきは目の前の自称半吸血鬼ただ一人。そう龍夜が疑惑の目を向けると。

「だから俺ではないと言っているだろうが、このたわけ」

 盛大に嘆息しながらクオルが再三否定する。次いでその理由を明らかにする。

「俺はあの地下の棺に閉じ込められていたのだぞ。そこの小娘に棺の鍵を外されるまでな」

「閉じ込められていた? 誰に?」

 またしても気になる発言だ。吸血鬼を閉じ込めるだなんて。

 何のためにそんなことをしなければならないのか。

 素直に疑問を口にすれば、クオルはそれにもきっちり答えてくれた。

「両親だ。討伐にきた人間達から俺を守るために棺に閉じ込め、地下に隠した」

 曰く、あの屋敷は至る所に隠し部屋や地下室があるのだそうだ。そう設計するよう一族が指示したようで、用途は自分達の隠れ場所、餌となる人間達を保管するためだったとか。

「日の出ている時間で全てを捜索するには数日はかかる上に、特にあの地下室は母が秘密裏に造っていた場所で、その存在を知っていたのは両親だけだった」

 クオルのいう秘密裏に造られていた地下というのは、結衣が落ちた地下のことだろう。

 そこまで聞いて結衣はふとあることを思い出す。

「あの時の女の人の幽霊って、ひょっとしてあなたのお母さん?」

 結衣の目の前に現れた霊は銀髪の女の人。顔の作りも見るからに日本人ではなかった。棺桶の鍵を開けた時もこの子と言っていたし。

「この女性だろうか?」

 おもむろにクオルが首元からペンダントを引き出す。蓋を開き、中はめ込まれていた女性の写真を見せてきた。

 間違いない。あの洋館で結衣の前に現れ、棺桶を開けて欲しいと頼んできた女の幽霊だ。

 死んでもなお、ずっと自分の子供を見守っていたのか。

 だから怖い感じがしなかったんだ、と一人納得しながら結衣が頷くと、クオルはただ一言「そうか」と呟いただけだった。

「でも守るって、日中でも動けるなら問題ないだろ」

 寝てるところを襲われる心配はないんだし、と龍夜が投げかければ。

「混血種といっても人の血は必要だ。襲い続けていれば、いずれ正体がばれるだろう。見つかれば殺されるのは分かりきっている。他に味方もいないのに、多勢に無勢ではいかに吸血鬼といえども勝ち目はない」

 クオルはそう断言する。しかしそれでもだ。

「だからって閉じ込める必要まではなかったんじゃ……」

 母親は人間なのだから、一緒に逃げられるはずだ。

「俺ならばな。しかし父は無理だ。父だけを残して逃げるなど、母にはできない。だから二人は俺を閉じ込めた。開けられるまで眠りにつくようにと」

 そうすることで極力力を温存できるように。騒ぎが落ち着き、いつか一族の存在が風化して、吸血鬼がいたなどと知る者がいなくなるその時まで誰にも見つからないようにと。

「そうして年月が経ち、ついにその時は来た」

「もしかしてそれって……」

「ああ、お前があの鎖の鍵を外した時だ。それにより父からかけられていた暗示が解け、俺は目覚めた」

 ならば話は本当だ。なにせ鍵を外した張本人だ。

「本当に他に生き残りはいないのか?」

「疑り深い小僧だな。確かに俺は全員が死ぬところを見たわけではない。現に棺に閉じ込められた時、父はまだ生きていた。だがもう五十年も前のことだ。仮に生き残りがいたとして、あの屋敷に留まっているわけがない。ここ数日で屋敷はもちろん、この周辺のめぼしい場所は調べ尽くしたがどこにも痕跡はない」

「疑いの余地はない、ということだね」

「そうだ。当てが外れて残念だったな」

 言ってクオルは龍夜を見てふっとほくそ笑む。龍夜は口を噤むしかない。

「そうと分かったら、明日にでも噂は関係ないって教えてあげなくっちゃね」

 そう呟いて母がふと時計を見た。そして「あら」と声を漏らす。

「もうこんな時間」

 見れば時刻は深夜三時になろうかというところ。

「二人とも、明日も学校なんだからもう寝ないと」

「寝ないとっていわれても」

 できるならばそうしたい。しかしこの状況ではいささか問題がある。

 はたと思い出した父が「そうだった」とクオルを見る。

「結局クオルくんはなにをしにうちへ?」

「あたしの血を吸いに来たって」

 龍夜の背後に身を隠したまま結衣が怖々と言うと。

「そのつもりだったのだが、今日のところは父上殿に免じて帰るとする」

 どこか嬉々とした表情を浮かべ、クオルは父を見る。父は「僕?」と目を丸める。

「吸血鬼を恐れない――いや、それどころか歓迎してくれるとは。嬉しい限りだ」

「いやー、そんな。むしろ僕の方が楽しみが増えたよ。是非また、いろいろと話を聞かせてほしいな」

「もちろん、俺で良ければ」

 そう約束しクオルはあっさりと帰って行った。それを見送り父と母も自室へと戻っていく。先程までの騒ぎが嘘のように一気に静かになった。

「……おれも帰るか」

 静寂に包まれた部屋に不意にふぁ、とあくびが一つ零れる。

 緊張状態が解け、気疲れした様子の龍夜が窓枠に足をかけた。そのまま乗り越え外に出る。

「こんな時間にごめんね」

「別に謝る事じゃねぇよ。起きて正解だったし」

「うん、りゅうが来てくれなかったら今頃どうなってたか」

 あのままなす統べなくクオルに血を吸われていただろう。それに、失踪事件の噂の真相も判明するのが遅れたかもしれない。

 改めてありがとう、と礼を言うと龍夜は「礼もいらねぇ、って」とそっぽを向いた。

「そんなわけにはいかないよ。りゅうにはいつも頼りっぱなしなんだから。本当にありがと」

「……」

「りゅう?」

 急に口を噤んだ龍夜に首を傾げる。顔を覗き込もうとしたが、その前に大きな手が結衣の頭を押さえた。わしゃわしゃと髪を乱される。

「わっ! ちょ、なにっ」

「……さすがにさっきは焦った」

 そうぽつりと零す龍夜の横顔は何ともいえない表情をしていた。

 思い返してみれば、あんなに余裕のなさそうな顔は子供の頃以来見ていない。

「そんなに?」

「あのな、あんな襲われそうなとこ見たら、焦らない方がおかしいだろうが! おれがどれだけお前のこと――」

 言い掛けて何故か途中で押し黙る。隠すように逸らされた頬が若干赤いようにも見えるのは気のせいだろうか。

「りゅう?」

 どうしたの、と聞き返そうとしたのだが、それを察した龍夜が背中を向けた。

「と、とにかく、あいつには気をつけろよ。もしまた来たら呼べ。時間とか気にすんなよなっ」

 それだけ言い切って難なく屋根を飛び移る。ベランダの手すりを乗り越え自分の部屋へと帰って行った。

 言い掛けたことが気にはなったが、閉め切られたカーテン越しには聞く術もない。

(とりあえず、無事に帰ったことは見届けたし)

 まぁ良いか、と結衣も窓を閉めた。

 今度こそカーテンをしっかりと閉め、朝日が昇ってくるまでの束の間、ベッドへと入ったのだった。


 □□□


「なにそのおもしろそうな展開、わたしも見たかった」

 どうにか持ちこたえている曇天の下。昼ご飯を食べながら今聞かされた信じられないような話に、聡恵は率直に思ったことを口にした。

 すると当人達はあからさまにげんなりと重い息を吐いて。

「あんなあぶねぇ奴、会わない方が良いぞ」

「そうそう。危うく干物にされるとこだったんだから」

 昨夜の濃すぎる出来事を思い返し、一層陰鬱になったようだ。

「だから二人とも眠そうにしてたわけね」

「いきなり悲鳴が聞こえたら、そりゃ起きるだろ」

「ほんと、りゅうが来てくれなかったらどうなってたか」

「それもそれですごいわね、屋根飛び移って助けに行くとか」

「……他に方法が思いつかなかったんだよ。悠長にしてられる場面じゃなかったし」

 腹の底から重い息を吐く龍夜は見るからに疲れた様子だ。聡恵は内心苦笑する。

 行動や言動から分かる通り、龍夜は幼馴染みである結衣に好意を持っている。それは子供の頃かららしく、もうかれこれ十年ほど経つのだとか。

 しかし結衣にはそれが全くと言っていいほど伝わっていない。

 その結衣が吸血鬼、しかも男に襲われているところを見てしまっては焦りは相当のものだっただろう。心労は計り知れない。

「ほんと、お疲れさま」

 心中を察し、こっそりとねぎらいの言葉をかける。龍夜からは「……どうも」と短く返ってきた。

「何こそこそ話してるの?」

 不思議そうな顔で結衣が見てくる。聡恵は何でもないと返した。

「でも吸血鬼ねぇ。本当にそんなのいるんだ」

「あたしもびっくり。しかも超イケメン」

「へぇ」

 その辺の芸能人なんか目じゃないくらいの美青年だと豪語する。そんな結衣には気付かれないようにちらりと龍夜の方を見ると、あからさまに不機嫌なオーラが増しているのだが、当の結衣は気付いてもいない様子。

 少し不憫に思いながら、聡恵はそのまま話を続ける。

「それにしても、噂が無関係となると犯人は一体誰なのかしら?」

「もう単なる家出とかじゃねぇのか?」

「でも、所持品とかは見つかってるんだよ? 家出なら道端に置いてったりしないんじゃ」

 二人目の失踪者が出てから一週間。それより先にいなくなった子は、十日以上も行方が分からない。

 少女達はどこへ行ったのか。もし誘拐ならば、どんな手口を使って連れ去ったのか。その目的は何なのか。

 警察の捜査は今もなお続いている。それでも一切の情報がなく、謎に包まれた事件。

 その行方を暗示するかのように、空一面に広がった黒雲は一層厚みを増していくのだった。


 □□□


 午後の授業も終わり、部活動に精を出す生徒達を横目に結衣は校門へと向かう。

 結衣は徒歩で通学している。家から学校までは歩いて三十分ほどで、そこまで遠くもない。余程天候が悪くない限りは自分の足で通っている。

 部活をやっていない結衣にとって、せめてもの運動代わりである。因みに朝は言うまでもなく龍夜も一緒だ。

 同じように帰宅している生徒達に紛れ、結衣も帰路につく。しかしいくらも経たないうちにその足が止まった。

「あれ?」

 いつも使う通学路の真ん中に通行禁止の看板が置かれ通れなくなっていた。

 よくよく看板を見れば、水道管の補修工事の説明と、夕方六時までは通行できない旨が記載されていた。腕時計を見るとまだ五時になる前。

(朝通った時は看板とかなかったのに)

 今朝の記憶を思い返しながら結衣は首を捻る。

 学校に行った後で工事が始まったのだろうか。

 どちらにしろこの道は通れない。結衣は仕方なく来た道を引き返し、もう一本先の道へと向かった。

 少しだけ遠回りにはなるが、途中から同じ道へと繋がるようになっていた。しかし本音を言えば、今から向かう道はあまり通りたくはなかった。

(こっちって昔から事故とか多いんだよね)

 道幅はさほど広くないのに、住宅が密集しているため通行人はもちろん交通量も多い。

 よく新聞やニュースで通行人とバイクの接触事故だとか、塀に車が衝突したなどの話を聞く。軽い怪我で済む場合もあれば、それこそ命を落としたものもある。そういった場所は出来れば避けたかった。

 いろいろ視えたり訴えられたりするから。

(それに、最初に行方不明になった子の所持品が発見されたのってこの近くだったって話だし)

 そんなことを考えながら歩いていると、不意に鼻先にぽつんと水滴があたった。手のひらを出してみれば、ぽつぽつと冷たい雫が肌を濡らす。

「あ、降ってきちゃった」

 ここ数日は梅雨の中休みで天気は良かったのだが、午後以降はにわか雨が降るとの予報になっていた。結衣は慌てて折りたたみ傘を出す。念のために持ってきていたのが功を湊した。

 スライド式の骨組みを押し伸ばせば、ばっと頭上に小花柄の生地が広がる。

 初めは小さな粒だったそれは次第に大きくなっていき、あっという間にばたばたと地面を叩くまでになった。

 ――その時だった。

(なに?)

 ふと妙な気配を感じた気がした。唐突にだ。

 結衣は辺りを見渡す。周りに人の姿はない。

 先程まで帰宅中の学生や買い物帰りの親子連れの姿があったのだが、なぜか今は一人も見あたらない。

(雨が降り出したから?)

 そう思いはしたのだが、それにしては雰囲気が妙だった。

 静かすぎる。

 生活音も環境音もなりを潜め、奇妙なまでな静寂が漂う。

(なんか、変)

 いやな予感がした。

 肌寒さとは違う悪寒が全身に広がり、鳥肌が立つ。その直後だ。

 ――!

(なに? 声?)

 どこからともなく声が聞こえた気がした。

 甲高い女の子の声。短く微かにだったが、悲鳴のように聞こえた。

 結衣は反射的に声のしたであろう方へと向かって走り出す。進むにつれ、寒気がますます強くなる。間違いなく近付いている。

(あの十字路の、たぶん右の方)

 感覚に従って角を曲がる。その目と鼻の先。五メートルも離れていないところに女の子が倒れていた。

 見覚えのある学生服。結衣がついこの間まで通っていた中学校の制服だ。

「だ、大丈夫ですか!?」

 慌てて駆け寄り声をかける。しかし返事がない。土砂降りの雨の中、うつ伏せの状態で横たわり、ぴくりとも動かない。

(ど、どうしよう)

 再度声をかけながら軽く揺すってみた。が、やはり反応はなく、どうすればいいのかと必死に考えていた時だった。

「っ」

 結衣の背筋にぞくりと寒気が走った。

 身体の奥底から震えるほどの強烈な悪寒。それを感じ取った瞬間、心臓がどくどくと早鐘を打つ。

(な、に)

 はやる胸を押さえ、ゆっくりと視線を巡らせる。

 視線の先。結衣と女子中学生のいる場所からわずかに十数メートルほどだろうか。離れた所に立つ電柱の側に人がひとり立っていた。

 背格好から見て成人の男だろうか。降りしきる雨の中、傘もささずにじっとこちらを見ている。

 その姿を視界に入れた瞬間。

 ――ミラレタ。ツカマエナイト。

 直接結衣の頭に声が響いた。途端に全身がぞわりと総毛立つ。

 まずい。

(あの人、危ない)

 直感でそう感じた。

(逃げないと)

 そう思うのだが身体が動かない。まるで金縛りにでもかかってしまったかのように固まって指先一つ動かすことができない。

 その間に人影が一歩踏み出した。さらに一歩。もう一歩。

 確実にその距離をつめてくる。

(早く、逃げなきゃ)

 頭では理解しているのだが、恐怖で身じろぎひとつできない。人影が近付いてくるごとに結衣の背中を冷や汗が伝う。

 すると、不意に人影の動きがぴたりと止まった。同時に微かに人の話し声が耳に入ってくる。

 声のした方に顔を向けると、結衣達のいる場所の向かいの家から五、六十代の年輩の男性が顔を覗かせた。

 結衣と同じように悲鳴を聞きつけたのか、外の様子を確認しに出てきたようだ。

 目の前の結衣達を見た瞬間、慌てたように駆け寄ってくる。

 どうしたんだい、と声をかけられ事情を説明していると、それまで何度声をかけても応答がなかった女子中学生が小さく声を漏らした。

 それを確認し、救急車を呼ぶために男性が家へと戻っていく。結衣も良かったと安堵する。が、先程の人影のことを思い出し慌ててそちらへと目を向けた。

 ――見れば人影はどこにもなかった。

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