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二章

 梅雨時期特有の鈍い色の雲が月光を遮る午後七時三十五分。すっかり夜の帳がおりた町には家々の窓から零れる明かりで見事な夜景が形成されていた。

 まるで天空の星空を地上で再現したかのような美しい光景。その輝きをひきたてるのは足下さえおぼつかないほどの深い闇。

 そんな夜の闇に支配された坂道を前にして結衣は言った。

「ああもうやだ、帰りたいぃ」

 自他共に超ど級の怖がりと認めながらも、欲に負け、亡霊が住み着いていると噂される廃洋館を調べる羽目になった結衣は、その屋敷へと繋がる坂の入り口で盛大に膝を震わせる。

 たかだか数メートル先しか照らすことのできない懐中電灯の明かりでは正直心許なさすぎる。

「こら、そんなに引っ張らないで。制服が伸びちゃうじゃない」

「しっかり歩けよ。まだ着いてもいないんだぞ」

 明々と照らされている住宅街を恋しそうに振り返りながら結衣が泣き言を漏らす。と、間髪いれずに叱責が飛んだ。

 先頭を行くのは、自身の背丈以上もある細長い袋を携えた男子生徒――幼馴染みの龍夜で、その後ろには、三つの影の中で頭が一つとび抜けている長身の女子生徒――親友の聡恵が続く。そして、最後尾を歩く見事なへっぴり腰の結衣は、その聡恵のブレザーの袖を必死に掴んでいた。

「この坂道だけでも雰囲気あり過ぎなんだもん。どうして電気ついてないの」

 完全に腰が引けている結衣は点滅すらしていない街灯に愚痴を零す。そんな結衣を見やり、聡恵と龍夜はほとほと呆れる。

「知るか」

「こっちは部活終わりで疲れてるってのに。言いだしっぺがそんなんでどうすんのよ」

 練習着の詰まったバッグを結衣の頭に乗せ、聡恵は細い首根っこを捕まえた。

 聡恵は中学の頃からバレー部に所属している。ぐりぐりと頭を押さえる手は大きく、片手でバレーボールを掴むことなど容易い握力を持ち合わせている。

「おーい、遊んでないで行くぞ」

 足を止めた二人を待ち、肩に担いだ荷物を抱え直しながら龍夜も嘆息した。

 龍夜は弓道部に所属している。自分の身長を越す袋の中には弓や矢が入っている。一緒に携えているのは胴着袋で、袴やゆがけなどが詰め込まれていた。

 そんな運動部員な二人について来てもらったのは、結衣も正直申し訳ないとは思う。のだが。

「だって、一人じゃこんなとこ怖くて来れないんだもん」

 そう口元でもごもごと言った。

 そんな結衣のことを理解している龍夜と聡恵は「だからついてきてあげてんでしょ」「さっさと調べて帰ろうぜ」と坂を上り始めた。渋々結衣もその後に続く。

 再び歩き出したところで「しかし」と龍夜が結衣を振り返って言った。

「見事に予感が的中したもんだな。しかもお前に調べろだなんて、おばさんも大きく賭けに出たもんだ」

 昨日冗談で言っていたことが現実になった。

「でしょ! 信じられないよね、あたしに任せるだなんて」

「そうだな、霊媒師としての信用を地に落としたいとしか思えねぇ」

「どういう意味よ、それ! 別にお母さんは霊媒師を名乗ってるわけじゃないからね。ただたんに知り合いの人達から相談されてるだけなんだから」

「じゃあ、今回もそうなの?」

「今起こってる失踪事件の捜査を担当してる刑事さんがお母さんの知り合いなんだって。例の噂が本当なのか確かめて欲しいって相談されたみたいなの」

「で、なんでそれがお前に回ってきたんだ?」

「お母さんも昨日行ってはみたらしいんだけど、特に何もなかったって。危ない気配もなかったって」

「なら亡霊なんていないんじゃない?」

「あたしもそう思って言ってみたんだけど、お父さんがそうとも言い切れないんじゃないかって。ほら、失踪した子達って十代の子ばかりでしょ? もしかしたらそのくらいの年齢の子の前にしか出てこないんじゃないか、って」

「だから結衣に視てきてほしいってことか」

 なるほどな、と結衣の言葉に龍夜が納得する。

「でも、いくらなんでも結衣ひとりってのは無理があるんじゃない? せめてお母さんについてきてもらった方が良かったんじゃ」

 危なくないの、と心配する聡恵に結衣は答える。

「それだと出てこないかもしれないって」

「本当に十代の子達の前だけにしか出てこないってこと? 幽霊って案外拘りがあるのね」

「拘りっていうか、それがその霊にとって一番因縁があることなんだと思う」

 そんなことを話しながら歩いていると、噂の建物はすぐそこまで迫っていた。

「お、あれがそうか?」

 前を歩いていた龍夜が懐中電灯をかざして言う。その言葉の通り、のっぺりとした壁と恐らく鉄柵だろうか。細長い格子状の物体が微かに確認できた。その背後に控えているのは全てを飲み込むような漆黒の闇の中に佇む巨大な建造物。

 周りを鬱蒼とした木々に囲まれ、一層深い闇の中に聳える廃墟は、窓が縦に三段並んでいて横にもずらりと十はある。

 暗くて良くは確認できないが、建物は至るところに崩れた跡があり、窓も数箇所ないところが見受けられる。そこから吹き抜ける風に煽られるカーテン。

 力なく揺れる無機物が結衣の恐怖を否応なしに刺激した。

「あ、あれが噂の……」

 坂を上りきらずとも姿を曝した洋館を見上げ、結衣は独り言のように零す。

 山を切り開いて建てられたその洋館は、当然周りに民家などない。月明かりさえ遮ろうかというほどの鬱蒼とした木々だけが周囲を取り囲んでいる。そこからホウホウと太く低い鳴き声が届いていた。

「なんというか、リアルお化け屋敷ね」

 聡恵がぽつりと零す。その言葉に龍夜も賛同した。

「それに想像以上にでかいな」

 遠目にも廃れた佇まいに、さすがの二人も固唾を飲む。これは誰が見ても躊躇するだろう。漂う空気はもはやホラー映画の世界だ。そんな廃墟を前に結衣はというと。

「…………」

「おい、しれっと後ずさるな」

「逃げても意味ないでしょ」

 完全に気配を殺して一歩ずつ後退していた。しかしその腕を龍夜と聡恵が両側から掴んで逃亡を阻む。身動きが取れなくなった結衣は半泣きで(かぶり)を振った。

「あそこやだ。入りたくないっ」

「それは霊感があるやつとしての直感か? それとも、ただたんに怖いだけか?」

「両方。すっごい嫌な感じがする」

「ってことは、確実にいるわけね」

 霊感のある結衣が言うのだ。ここには間違いなく何かがいる。

「もうここまできたんだから覚悟を決めなさい」

「そうだ。これもケーキの食べ放題に釣られた自分のせいだ」

 甘んじて受け入れるんだな、と言う龍夜に結衣は目を剥いた。

「なんでそのこと知ってるの!?」

 依頼のことは話したが報酬のことまでは言っていない。驚く結衣に龍夜はなんてことはないという風な様子で。

「前におばさんから聞いたことあるぞ、結衣は好物さえちらつかせれば簡単に操作できるって」

「う」

 あながち間違いではない。言い返せずにいると、ふと隣から「なるほどね」と得心する声が聞こえてきた。そういうことだったの、と聡恵が目を光らせている。

「いくら頼まれたからといって、あんたが一人で受けるはずないもんねぇ。へぇー、自分だけご褒美もらうつもりだったんだぁ」

 わたし達には内緒で、というところを強調して言われ、結衣の額に冷や汗が浮かんだ。

「そ、それは……」

 言い淀んでいるところに「お前もずるい奴になったもんだな」と龍夜からのトドメの一言が吐かれる。結衣は観念して肩を落とした。

「……分かった。さと達の分もお母さんに頼んどく」

「よーし、そうと決まったらちゃっちゃと終わらせてご馳走にならなきゃ」

 楽しみ、と聡恵が喜びの声を上げる。聡恵も案外甘い物が好きなのだ。黙っていたことを怒られなかっただけ良しとしよう。

「ほら、さっさと行こうぜ」

「うぅ」

「唸ってもしょうがねーだろ。引き受けたのは他でもないお前自身なんだからな。おれ達はただの付き添い」

「そうよ。ここで帰ったらケーキの食べ放題はナシになっちゃうわよ。それで良いなら話は別だけど」

 わたしは別に良いけど、と言われてしまえば結衣は口を噤むしかなくなった。反論の余地はない。

 ここまできたら行くしかない。

 正直心の底では帰りたい結衣だったが、もとはといえば自分の欲深さが招いた災禍。渋々覚悟を決め、結衣は眼前の廃墟を振り仰いだ。

 しかし見るからに出そうな雰囲気に足が進まない。そんな結衣に代わり足を踏み出したのは呆れ顔の龍夜だった。引っ張られる形で次に弱腰の結衣が続き、最後尾を肝の据わっている聡恵が歩く。

 まるで収容所のように鉄柵に囲まれた敷地に進入すると、伸び放題の雑草が足に絡んできた。

 その中を、三人は進んでいく。

「……」

「近くで見るとまたえらいでかいな」

「ほんと、さすがにこれは迫力があるわね」

 門をくぐってから五分と経たずに目の前に立ちはだかったそれを見上げ、三人は一様に息を飲む。

「わたし、何気に心霊スポットって来るの初めてなのよね。ちょっとドキドキ」

「そうか? こんなの、遊園地のお化け屋敷と同じようなもんだろ」

 幾分か度胸のある龍夜と聡恵はすぐさま気を取り直す。だが。

「…………」

「ちょっと、結衣」

「しっかりしろよ」

 建物を見上げたまま結衣が気絶している。些か呆れた顔で肩を揺すってみれば、ややあってから「はっ!」と正気付いた。

「お前、本当に大丈夫か?」

「へ、平気なわけないじゃないっ。怖いぃぃ!」

「うん。見れば分かるから」

 だからそんなに主張しなくて良い、と聡恵が一蹴する。

「何でそんなお気楽なことが言えるのよ、二人とも。信じらんない」

 忙しなく辺りを窺う結衣はもはや限界寸前だった。対照的に、龍夜と聡恵は比較的平然としている。口を揃えて「慣れてきた」とのたまう始末だ。

「お前の怖がり具合いを見てたらそこまではないなって」

「あれね、自分が緊張してる時に、それよりも更に緊張してる人を見たら緊張がほぐれるってやつ」

「だってぇ……」

 怖いものは怖いのだ。

 誰一人理解者を得られない結衣は心の中で嘆いた。

「ほら、手を繋いでてあげるから」

 固まっている結衣を見かねて聡恵が手を差し出す。結衣はすぐさまそれに飛びついた。実を言えば、申し出がなくてもそうするつもりでいた。

「絶対離さないでね! もし置いて行ったりしたら化けて出るからっ」

「お前なら本当に出そうだな」

 結衣の涙ながらの懇願に龍夜がすかさずツッコミを入れる。とりあえずはこれで準備は整ったかと、ドアノブに手をかけた。その時だ。

「あ、一つ忘れてた。入る前にこれ」

 いざ突入しようと龍夜がドアノブを半分ほど回した後、少しだけ心に余裕ができたらしい結衣が、今頃思い出したかのように慌ててバッグを探った。

「お母さんから預かってたんだった。用心のために二人にも渡しておけ、って」

 そう言って結衣はお守りを渡す。魔除けのお守りだ。一緒に洋館へとついてきてくれる二人のために母が準備してくれていた。

 ちなみに結衣は普段から魔除けの数珠を身につけている。

 それは父の知り合いの住職に特別に作ってもらっていたものだった。

 力がある分、幼い頃からいろんなモノ達に目をつけられていた結衣は、その数珠のおかげで影響を最小限に抑えることができている。

「肌身離さず持っててね。もし手放したりするととり憑かれちゃう――」

 かもしれないから、と言おうとしたのだが、それを遮って怒号が飛ぶ。

「そんな大事な物は先にやっときなさい!」

「おれ、危うく開けちまうところだったじゃねぇかっ」

 剣幕を凄めた二人に頭ごなしに叱られ、結衣は目が点になった。ただただ「ごめんなさぁい」と平謝りだ。

「罰としてお前、先行け」

 すっかりへそを曲げた龍夜が口を尖らせてから結衣の手を引いた。

 今にも朽ちてしまうのではないかと思わせる木製のドアの前から身を引くと、そのまま結衣が扉の前に突き出される。

 入り口に押しやられた結衣は絶叫した。

「ええ!? それだけはイヤ! 本当にヤダー!!」

 顔だけ振り返りながら結衣は泣き叫んだ。

 それでも高校生かと疑いたくなるほど「りゅうぅ……おねがい、先に行って」と本気で涙ぐんでいる。

 昔から霊的なことがあると結衣は必ず龍夜の背中に隠れていたのだ。その癖は何年経とうと変わらない。

 初めて家に来た小ウサギよろしく怯えきっている幼馴染みを見やり、龍夜は隠そうともせず盛大に嘆息した。

「……ったく、仕方ねぇな」

 龍夜が腕から力を抜くと、すぐさま結衣はその後ろに回り込む。実は龍夜も本気ではなかった。

「ありがと」

「甘いわねー、水沢くんは」

 後ろで成り行きを見守っていた聡恵が肩を竦めた。

 いつまでもこんな茶番を繰り広げている暇はないと、今度こそドアノブを回す。

 ギイィィ……、と軋む音が静寂の中に響き渡った。開け放たれたそこには、見渡す限りの闇が三人を出迎える。

 外よりも更に濃い暗黒に支配されている空間に息を飲みながら龍夜が結衣を振り返る。

「もちろん人数分懐中電灯持ってきてるよな?」

 背中にぴったりとくっついていた結衣は「当然」と頷いて手際よくバッグから出していく。

 二人の部活が終わる前に一度家に帰り、いろいろと準備してきたのだ。

「切れた時のために代えの電池も持ってきてる」

「さすが。こんな時だけは用意が良いな」

 揶揄するように龍夜が口端を上げた。あながち間違いでもないので、結衣は口惜しげな顔で睨みながら懐中電灯を手渡していった。

「さて、どこから調べようか」

 懐中電灯のスイッチを入れた聡恵が適当に辺りを照らす。

 光源は三つに増えたが、それでも屋内の全貌を曝し出すには強さが足りない。せいぜい四、五メートル先が限界だ。

「とにかく一階からしらみつぶしにしていくしかないと思う」

「やっぱそれが妥当だな」

 部屋の数も建物の広さも分からない結衣達は、お互いの手が届く範囲を保ちながら暗がりに身を投じたのだった。


 □□□


「どう、なんかいるっぽい?」

「んー、いないか――――うひゃあ!?」

「ぐえっ」

「あ、ご、ごめん!」

「て、てめ……ゆい……」

 思いっきり引っ張られた襟元を戻しながら龍夜がドス声を吐き出す。地を這うような恨みの籠もった声に結衣の顔が青くなっていった。

「お前は何度おれを窒息させれば気が済むんだよ!」

「ほんとにごめん! もうしないからっ」

「そんなこといって、これで五回目よ、水沢くんの呻き声聞くの。そろそろ痕つくんじゃない?」

「そ、そんなに強くは引っ張ってない……はず」

 結衣の声は段々と小さくなる。

 屋敷に入って三十分あまりが経過した頃だろうか。結衣達三人は未だに一階を調べていた。

 理由は多々あるが、大まかに上げるとその広さと先住民達、そして結衣のせいと言えよう。

 長年放置去れ続けていた廃洋館はすっかり野生動物達の住処となっており、今もちょうど、一匹の子猫が三人の足元をすり抜けていった。これに結衣が一々反応するものだから、全く先に進まない。はた迷惑この上ない。

「だいたいな、ビビりすぎなんだよ。たかが猫やねずみだぞ」

「だって、急に飛び出してくるんだもん! びっくりするのは当たり前じゃないっ」

「確かに意識が周りにいってるから気付きにくいけど、だからって水沢くんの首絞めるのはどうかと思うわ」

「うっ……それはつい、癖で」

「おかげで、小さい頃はしょっちゅう痣ができて親に驚かれたよ」

「……」

 結衣は口を噤むしかなかった。

 そんなやりとりをしながらも探索は続く。木造のためギシギシと軋む床板の音がやけに大きく木霊する。

「家具とか全部そのままみたいね」

 タンスや机などの家具はもちろん、牡鹿の剥製だとか絵画だとか、前の住人が飾っていたであろう装飾品の数々が残されていた。それがまたただならぬ空気を醸し出している。

「もっと荒らされてるかと思ったんだけどな」

「ね。見たところ落書きとかもされてないし、想像してたよりはきれいかも」

 奥へと進みながら屋内を見て回る。

 木造のため雨風による腐敗はあるものの、良く心霊番組で映し出される廃墟のような荒廃は見受けられない。巷では有名な心霊スポットなのに、と聡恵達が軽く驚いていると。

「……本当に危ない心霊スポットって落書きとかがないんだって」

 昨日父の口からぽろりと零れた不穏な一言を結衣が教える。それを聞いて二人は「え?」と若干顔を強ばらせた。

「それって、荒らす気も起きないくらい怖いことがあったってことか?」

「かもしれない」

「でも、今のところそんな感じしないわよね?」

「うん……」

 確かにそうだが、結衣は人一倍神経を尖らせていた。

 どうも落ち着かないのだ。

 屋敷に入る前から、得も言われぬ寒気が付きまとっているというか、視線を感じるというか。

(敵意とかは感じないけど、でも何かがいるのは確か)

 こちらの様子をただじっと窺っている。それが魔物の亡霊なのか、はたまた五十年前に起きたという事件でこの屋敷にさらわれてきた人達の霊なのか。

 未だに姿を現さないその気配に注意しながらも、とりあえずその後もいくつかの部屋を確認した。しかしこれといった収穫はなかった。

 一様に無人の空間が広がっているだけだ。

「さて、ここで一階は終わりなわけだが」

 一階の最奥の部屋の確認も終わり、龍夜が通ってきた廊下を照らす。

「階段って入り口のところにしかなかったよな」

 今まで歩いてきた道程を思い出しながら踵を返す。

「うん。二階に行くには一端メインホールまで戻らないとだめね」

「うぅ、そのままもう帰りたいぃ」

「はいはい、見終わったらね」

 口を開けば泣き言しか言わない結衣を宥めながら聡恵も龍夜に続く。そんな二人の後を結衣はとぼとぼと追う。

 その時だった。

 ――。

 何かが聞こえた気がした。同時にぞわり、と肌に絡みつくような陰湿な空気が結衣の身体を撫でた。

 反射的に結衣は足を止める。

 気配は背中の方から。

 どくどくと逸る心臓を押さえ、ゆっくりと振り返る。

「!」

 視線の先。

 たった今折り返してきた廊下の真ん中。そこにその影は佇んでいた。

 膝下までの真っ白なワンピースを着た女だった。その身体は仄かに透けていてゆらゆらと陽炎のようにゆらめいている。

 瞬く間に結衣の顔から血の気が引く。息と鼓動が同時に活動を停止した。かと思うと。

「――で、でたあああぁぁぁ!」

 空気を震わせるほどの叫び声を上げながら再起動する。

 静寂の中に突如湧いた悲鳴――もとい絶叫は、当然他の二人の鼓膜に突き刺さっただろう。しかし。

「え!?」

 振り返った結衣は初めて自分が置かれている状況に気付く。

 そこには結衣一人しかいなかった。

 龍夜と聡恵がいない。

 なぜ。

(さっきまで一緒だったのに)

 それこそ会話もしていた。目を離したのは気配に気付いて振り返った時だけだ。

(もしかして、あの霊の仕業?)

 あの二人が自分を置いてどこかに行くとは思えない。自分だけが現実とは異なる空間に引きずり込まれたのか。

 そう考え一気に結衣の心臓が冷える。

 結衣は視ることはできるが、祓う方法は心得ていない。

(ど、どうしよう!)

 焦りにうまく思考がまとまらない。逃げようにも膝が震え、思うように動かない。

 そう逡巡している間にも背後の気配が強まった。慌てて結衣は振り返る。

 見ると女が僅かにその距離をつめていた。それに気付いて結衣の足が自然と下がる。その刹那。

「……へ?」

 がくん、と右膝が崩れた。そのまま身体が後ろへ傾く。

 何事かと思い足元を見ると、あるべきはずの床が無かった。長年の雨風で床板が腐って崩れたのか、ぽっかりと黒い穴が口を開けていた。

(落ちる――)

 そう思った時にはもう、結衣の身体は重力に従って暗闇に飲まれたのだった。

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