第4話後編 龍火を狙う理由
あれから一週間、ゼーテルからの襲撃はなかった。上の人間たちは何か対策を取る方法を考えているらしく、そっちも目立った動きはない。決められた一週間という期間を過ぎたので作戦も一度終了になり、次の命令を待つだけ…良い事だ。でもこれでいいのだろうか。休み時間、廊下でミリアと会った。
「…あれから何も音沙汰ない。模造神器もあの日を境に盗まれる事なく…やはり彼が犯人だと思う?」ミリアはこちらを横目で見る。
「わからない。だけど、龍火にあそこまで執着しているのが全部演技なら犯人の可能性もあるけど…あいつと会って、犯人じゃないんじゃないかって思ったんだ」
「…どうして?」
「龍火に対する執着…それが異常というか」
「確かに、彼には模造神器を狙う理由も、機関と敵対する理由もない。正直なところ、私も彼が犯人だとは思えないの…」
「そうですよねー……」
会話が止まる。騒がしい教室と廊下、ゆったりとした時間が流れている光景を前に二人は自分たちが機関の人間である事を一時的に忘れて、それを眺めた。
「平和ね…」
「これが日常ですよ。こんな日々が本来のあるべき姿なんです」
「…あなたは今の、この穏やかな時間はすき?」
「なんですか急に…」
「…いえ、気にしないでいいわ」普通の学生なら、目の前に広がるありふれた光景を気にも留めないが、彼のそれを見る目はどこか遠い世界を見ている様な、淡い憧れと期待、安堵と失う恐怖、それを守る覚悟、それらの感情がぐるぐると、かわるがわる映って、最後に彼はそれを隠す様に笑って返事をした。
「好きですよ」
「…えっ」
「このありふれた日常…守るに値する、価値ある大切な宝物です。俺にとっては、もうこれくらいしかないですし」彼は愛おしそうにそこに広がる日常を見てから、ミリアの方を向いて笑って言った。
「そう…」
アルヴに会いに来たティルミが、二人の会話を見つけて近づいてくる。
「先輩になんのようですか?」二人の間に立ってちょっと低い位置からミリアを睨んでいる。
「別に、ただちょっとした世間話よ」
「それは何か重要な会話をしている人が嘘をつくときに言うセリフですよねぇ?」ティルミがミリアに詰め寄る。
「そんなに近寄るとうっかりキスしてしまうわよ」ミリアはからかうつもりで彼女の頬から顎までそっと手を置いて指でなぞりながら言った。
「ば、ばかな事をっ!」ティルミは驚きつつ恥ずかしさで顔を赤くしながら彼女から離れる。
「あんまりからかわないでくださいよ」アルヴは自分の背後に隠れ半分だけ顔を出しながら猫の様に鋭い目つきで威嚇しているティルミに掴まれた制服の袖を気にしながら言った。
「ごめんなさい。久しぶりに会ったからつい…ね」
「…てか、二人とも結局何を話していたんですか?」
「別に、本当に何でもないよ」
「……ま、先輩もそう言うならそうなんでしょう。いいです。でもあまり先輩に近づかないでください、ミリアさん」
「別に私は…って言っても無駄ね」彼女はティルミの顔を見て諦めた。今のティルミは獲物を守る小動物の様な目つきだ。
「…で、どうなの?監視役、上手くやれてる?」
「そりゃもちろん、私は先輩の最高の監視役ですよ。ね?」
「まあ、助けられた事もあったし…最高というにはまだ早いけど。いい監視役ではあるよ」思いの外、素直に褒められると照れてしまうティルミだった。やっともとに戻った顔がまた恥ずかしさで赤くなった。
「あらあら…」
「うぅ…褒め、られた」
「嫌だったか?」
「そうじゃないでしょ」悪気もなく言ったアルヴをミリアが睨む。
「…嬉しいですよ。でも、恥ずかしいです」
「意外と単純だな。もっとめんどくさいかと思ってたんだけど」
「女の子にそういう言い方はどうなの?」彼のこういうところはまだ教育の必要があるな、と思うミリアだった。
放課後、帰る準備をしているとエリムが近づいてきた。
「この後、時間ある…?」
「ああ、あるけど…いいのか?」アルヴは彼女の後ろに見える女生徒数名がこちらを見ているのに気が付き、指摘する様に視線を一瞬だけエリムにわかるように向ける。
「うん、大丈夫だよ」エリムはそれに気が付いて振り返ってから、またアルヴの方へ向き直る。
「そうか…で、なんだ?」
「ここじゃなくて、ちょっと外で…」エリムは少し目を逸らしながら言いづらい事があるとわかるように言った。
「じゃあ、先行って待っててくれ。ちょっと用事を済ませてから行くから。…五分もかからないと思う」アルヴはスマホを取り出し、誰かにメッセージを送るとカバンを手に立ち上がる。
「わかった。じゃあ、先に玄関行ってるね」小さく手を振って彼の背中を見送る。
少しした後、二人は玄関で合流し、帰り道を歩いていた。
「…話、あるんだろ?」アルヴは学校を出てから全然話す気配のない彼女に問う。
「なんで…なんで最近避けるの?」
「え?」
「最近、学校でも全然話しかけてくれないし…なんかあの日が嘘だったみたいに君とは元通りの関係で、君が機関の人だってわかってるけど、それでも少し遠くに感じて」
「それは…」
「それにあの人…お昼休みに話していた人ってワイエルさんだよね。その、もしかしてだけど付き合ってたりするのかなって?」
「え?…え?なんでそうなったの?」
「だって…あの人と話している時のアルヴくん、すごく優しい顔をしていたし…聞こえちゃったの。あなたが、彼女に向かって『好きですよ』って言ったの」
アルヴは彼女とは逆の方を見てあちゃ~、という表情で片手で自分の額を押さえる。
『そこだけが聞こえたか~』と声を出さず、口を動かした。
「エリム、一つずつ答えていくけど。まず君を避けていたのは確かにそうだ」
「やっぱり…」
「でも、それは君も言った通り元通りにしたかったからだ。俺は今までの君の学校生活において関わりが少なかった。急に君と大きく関わるのは…前の事件もあったからあまり君に機関の事を意識してほしくなかったのもあるんだ」
「…そうなんだ。でも私はもう大丈夫だから…それにアルヴくんは私を二度も助けてくれたから。命がけで、こんな私の為に―――。確かに機関の人はまだ少し怖いけど、アルヴくんは味方だってわかってるから大丈夫だよ」
「そっか…なら、わかった。で、後はミリアさんの事だけど…」
「告白、されたんでしょ…?」エリムは顔色をうかがいながら恐る恐る訊いた。
「いや、あれは話の流れで言った言葉なんだ。ミリアさんは俺が機関の人間だと知っている人で…あの時は、この学校が好きか?的な感じの話をしていたんだよ」アルヴはなるべく誤解を招かない様にしつつ、ミリアが機関の人間である事をあえて隠して話した。
「そうなんだ…じゃあ、別に付き合ってたりはしないんだね」
「そうだよ。てか、俺があの人に告白されるなんて…ないない」アルヴは笑いながら首を軽く横に振りながら言った。
「…あんなお金持ちで、綺麗な人に告白されるなんてすごい事、…あなたなら、あんなに強くてすごい…アルヴくんなら、もしかしてって思ったの」エリムは心の中でホッと安堵すると同時に喜んだが、それを表情に出さない様に言った。しかし彼女の顔は笑っていてその顔からは隠しきれない安堵が滲んでいた。
「俺はすごくないよ。それに、君が思うほど強くない」
「そんなこと…」エリムは彼の瞳が曇っているのに気が付いて、言葉が止まる。
「俺が君を助けられたのは多くの人の助けがあったからだ。それに―――」アルヴは『エリムには言っても大丈夫か』と思い彼女を見る。でも目を見てすぐにその考えを捨てた。たとえ機関の人間でない彼女に対してでも、自分の弱さを打ち明ける事なんてダメだ、そう思い曇った瞳の上に笑顔を作って仮面の様に被せた。
「…俺より強いやつはもっといるからさ。あの時、最高管理者に勝てたのも偶然みたいなものなんだ」また嘘をついた。
「でも私にとって、アルヴくんは本当にすごい人だよ」
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいよ」嘘を見抜かれない様にほんの少しの本音を混ぜる。
「あ、あのさ…今度の日曜日、一緒にどこか行かない?」
「いいけど、急にどうして?」
「本当はちょっと前から誘いたかったんだけど…アルヴくんに避けられてたから」
「ああ…それはホントにごめん」
「もういいの。私の為だったって、わかったから。じゃあ、次の日曜日ね。約束だから」
二人に気付かれないように隠れながら、それを少し遠くで見ていたティルミは二人の会話が聞こえてしまっていた。彼女は監視役だからと自分に言い聞かせてここまで後をつけて来た。
「そんな約束…私も監視役としてついて行かないと!」そして彼女はまた監視役だから、と立場を言い訳に二人について行く理由を作った。
当日、待ち合わせ場所として選んだのは学校の帰りにたまに利用している駅前の店。エリムはそこの奥の席に座ってアルヴを待っていた。いつもの制服とは違い、年相応の可愛さと少し大人びた雰囲気を感じさせる様に、しっかりとオシャレをして、髪もちゃんとセットして今日という日に臨んでいた。長すぎないスカート、体のラインを強調しすぎないノースリーブの服、肩や脇の露出を過度に見せないための羽織もの。今の彼女は美しい花。
そしてその後ろの席に座る、変装したティルミ。下手な変装であるにも関わらず、あまり怪しまれないのは彼女の纏う雰囲気がそうさせるのか。いつものツインテールからサイドテールにして、大きなサングラスをかけて、ぶかぶかのパーカーを着崩し、短いスカートから見える生足とその下部にあるだぼだぼの靴下。彼女の独特のファッションセンスと周囲を威嚇する様なオーラから誰もそれを指摘しようとする者はいなかった。
それから少し前、管理機関本部にて。
「さあ、返してもらおうか…」魔法陣が展開し、開いた空間の穴から現れるゼーテルと使い魔たち。杖を足元に展開している魔法陣に杖をトンッ、と突くと本部施設を丸ごと大きく包み込む様に魔力の壁が広がり、覆い尽くす。
機関本部内では異常な魔力を検知したシステムが警報を鳴らし、皆が廊下を駆け回り部屋を出入りする。そんな廊下の真ん中を最高管理者は一切動じず、表情を変えないまま堂々と真っ直ぐ歩き、自分のいるべき場所へ向かう。誰もが彼を見て道を開けると同時に、自分も冷静であるべきだと気を引き締めなおす。最高管理部門のドアを開き、席に座る。
「何が起きたんだ?」
「以前から危惧していた事が起きた。ゼーテルが裏切り、こちらに仕掛けてきた」一人がスクリーンに外の映像を映し出し言った。
「要求はあるのか?」
「龍火…ファルツを返せとの事だが。応じないなら容赦はしない…と言っているのだ」
「それはあの少年が管理しているはずだが…そうか。今は秘星の力でその在りかを隠しているのだったな」バゼアはすぐに次に取るべき行動を脳内でシミュレーションした。最適解は龍火を返す事ではない。あれをこちらの管理下に置いておくのは彼に対する保険の一つだ。まあ現実はその保険が爆弾に変わった訳だが。彼がそこまでしてファルツという一体の使い魔に固執する理由がわからない。実際に当時、龍火を機関に渡した時はかなりあっさりと取引が済んだというのに、なぜ今になって―――。
「彼がなぜ龍火を求めているかわかるか?」
「……」バゼアの問いに一同が黙り込み、顔を見合わせて口を開くか否かを考えている。
「どうした?何か重大な理由なのか?」
「……それが」長い沈黙の後、一人が口を開いた。しかし彼はそこまで言ってまた口を閉じ目を逸らしてしまう。
「…彼が先ほど、我々最高管理部門に送ってきたメッセージには“定められた結末”を超えるために必要だと書いてあった」別の者が口を開き、それを言葉にした。バゼアはそれを聞いて椅子にもたれ込む。視界の上側で天井を薄く見る。皆、彼の反応に驚きもせず、ただ黙って彼の次の言葉をおとなしく待っていた。バゼアはこの状況のきっかけになったある人物の言葉を思い出していた。
「そうか…来星はどう言っている?」バゼアは重い口を開き、鈍い声を吐き出した。その答えがここにないことも、もう聞けない事も知っていながら彼はそれを言って、次に自分で撤回した。
「いや、何も言わなくていい」手のひらを向け、何かを言おうとした他の者にその必要が無いことを伝える。
「どちらにせよ我々はあの星の神の言葉を信じるしかない……アルヴ・ソイルスを呼べ、彼の力が必要だ。全員、戦闘準備をしてすぐに正門前に集合だ」バゼアは立ち上がり自身の席の斜め後ろに待機していた部下にアルヴへの連絡を指示した後、最高管理部門に戦闘準備を命じ部屋を出た。
家を出ようとしたアルヴの元に一本の電話がかかってくる。
「なんだ?……そうか、わかった。すぐに行くよ」アルヴは簡単な返答だけして電話を切った。こんな日に現れるなんて、とは言っていられない。アルヴはすぐに家を出た。
すでにゼーテルから、本部に対しての攻撃が開始されていた。吹き荒れる数々の魔法の中で、職員のほとんどが施設内に逃げていく。そんな中でただ一人、敵に向かって歩みを進める。ゼーテルは彼に気が付いて、その者を見下ろした。彼は魔法札を一枚、破り捨てる。そしてその手の内に開いた小さな穴から一本の剣を取り出した。
「……。衆の一色、疑似神核解放―――」深く息を吸い込み、覚悟を以て力を解き放つ。剣に流れ込んだ魔力が震えている。刃の囁きが聞こえ、剣光が鋭く睨む様に閃く。それでも一切軸をズレさせる事無く真っ直ぐと歩き、剣を強く握りしめる。そっと彼はゼーテルに切先を向けた。
「トア・ティテス・アガリア」最高管理者バゼアは真っ直ぐとゼーテルを見つめ、呪文を唱えた。切先は寸分の狂いもなく彼を狙っていた。剣を流れる魔力が淡い光を放つ。切先より強い光が二度瞬く。頭上に暗雲が現れ、渦を巻き口を開くと、一筋の鋭い雷がゼーテルとその使い魔たちの元に降りかかる。そして激しい爆発が起きる。いくつかの氷片が爆風で飛ばされる。爆炎はうねり彼らのいた場所を貪る様に蠢いている。しかしそれはすぐに別の者によって制御された。爆炎が一匹の蛇の様に収束すると、その中心に魔法陣があるのが見えた。ゼーテルは杖を一定間隔で魔法陣に突き立てている。爆炎の蛇を操っているのだ。彼が素早く三度杖を突くと蛇はバゼアを飲み込もうとする。バゼアは剣を構える。肩の上、首筋の横に刃を持っていくと、そのまま静かに一呼吸おいてから、振るった。真横に裂けた蛇はただの炎になって力なく消えていく。
「ヴィヴェルメフェス・エクレンセプ」再び剣先をゼーテルに定め、呪文を口にする。一筋の赤い稲妻が切先より放たれ彼を目指して進む。目前まで迫った所で、巨大な氷塊が現れ彼らの前に壁の様に立ちふさがり、稲妻はそれに弾かれる。
「苦痛の魔法なんて卑怯な!」使い魔の一人、氷の使い魔エプリアが見下ろしながらバゼアに向けて言った。
「あるじ様…こいつはわたしが遊んであげてもいいですかぁ?」金髪の幼い少女が前に出る。ゼーテルは彼女と目を合わせ頷くと少女は嬉しそうに笑いながら魔法陣から飛び降りバゼアの前に着地した。
「ねぇ、最高管理者様ぁ?簡単に死なないでね」少女が笑うと彼女を中心に炎が上り、二人はその中に囚われた。
「炎の使い魔、ヴレア…。忠告だ、今回は手加減などしないぞ」バゼアは剣を構え魔力を込める。刃が輝き、影が濃く深くなる。
「いいね!いいね!じゃあ、本気でやろうよぉ!」ヴレアの瞳に灯った炎がより一層強く揺らめく。
剣光が鋭く閃き、周囲の炎が裂ける。ヴレアの髪が数本宙に舞う。頬が裂け血が吹き散り、地面に落ちて燃え盛る。彼女は驚き大きく目を開くが、徐々にそれは狂気的な笑みに飲まれ変わる。笑い声が響く。地に落ち、燃える血液が浮かび上がり、炎が意思を持っているかの如くうねる。赤い炎は青くなり口を広げる。
「焼き尽くしてあげるよッ!」ヴレアが手を大きく広げると、うねる炎は彼女に呼応して開き、バゼアを飲み込もうとする。炎が波の様に彼を飲み込んでしまう。
「ハハハッ!燃えろ燃えろぉ!」彼女はよほど楽しいのか踊る様に跳ね笑う。が、その笑顔は炎よりも早く消える。彼を焼き尽くす炎の中でバゼアは剣を構えて立っていたのだ。彼は剣を一振りするとその炎を振り払って見せた。
「この程度なのか、炎の使い魔ヴレア?永炎の金火が聞いて呆れる」バゼアはあえて彼女を挑発し誘った。
「は、はは…ハハハ!いいよ、そんなに見たいなら見せてあげようか。消えない金の炎の恐ろしさをさぁ!」彼女の瞳の中に宿る炎は激しく燃え、髪先は赤く染まる。だが、この誘いがバゼアの罠だと気が付いた他の使い魔が彼女に忠告をする。真っ先に声を発したのはガフラだった。
「いかん!ヴレア、罠ですぞ!」
「ぅぅうるっさいなあ!あんたから燃やしてあげようかぁ苗木ジジイ!」彼女はガフラの忠告を無視して金色の炎をより一層強く激しく燃え盛らせる。
「さあ、行くよバゼア!ちゃんと斬ってねぇ!」金色の炎が彼を襲う。剣を一振りしてもそれは振り払えず、彼は魔力を流し最適な魔法を剣の中から探す。剣に記憶された魔法を複数組み合わせ彼はそれを発した。
「ラエ・カファニ・ケプテン・セバドアォカーナゼント」剣に流れる魔力が芯から刃を氷雷で包み、水が血液の如く刃を通う。振るった刃に触れた炎はたちまち散り消え、斬撃は金色の炎をそよ風の様に裂き消していく。一閃、たった一撃で彼女の渾身の一撃を打ち消した。同時に斬撃に斬られたヴレアはその身に纏っていた魔力を消され力を失い倒れた。
「なんッで…、私の金の炎が……斬られた?」ヴレアは薄っすらと開いた目でバゼアを見る。
「こんな力、以前はなかったのに…これがあんたの本気ぃ?」
「手加減はしないと言っただろう」
「はは…っ。最高じゃぁん……」痛みに笑いが止まるが、最後まで笑顔で彼女は満足そうに気を失った。
溜息をついてゼーテルが杖を突くとヴレアの下に魔法陣が現れる。瞬時にゼーテルの足元に転移させられたヴレアを他の使い魔たちが引きずってゼーテルの後ろに連れて行き魔力を分け与え始めた。その後にバゼアの後ろから多くの最高管理部門の者がやってくる。
「本当に簡単に返してはくれないみたいだな」ゼーテルはそれを見て首を軽く横に振る。笑みを浮かべ、一歩前に出る。
「オレがバゼアとやろう。お前たちは周りの者を相手してやれ。それと…」彼は振り返りヴレアを見る。意識を取り戻した彼女は半分体を起こしながらゼーテルと目を合わせる。
「お前はもう少しここで休んでいろ。ガフラ、ヤファターム。そばにいてやれ」
「ふん、鱗女と一緒なのは腹立たしいですが主様の言葉なら…」
「妾も気に入らぬがな…しかたない」
二人を残し、ゼーテルが魔法陣から降りると同時に他の使い魔たちも降りる。
「できればあまり戦いたくはないのだがな、バゼア」
「ならば退けばいい」
「それが出来ればこうはならないだろ」
二人は笑い、睨み合い、そして戦いが始まった。ゼーテルが杖を突くと使い魔たちはバゼア以外の最高管理部門の者たちに向かっていき、バゼアが剣を構えると周囲の者も武器を構えた。刃や弾丸が魔法や魔力のこもった拳と交わる。ゼーテルは杖を突き、足元から氷塊の刃を飛ばす。バゼアはそれを斬り払い、彼に斬りかかる。
「……呪文の組立は相変わらず正確だったな。さっきのあれは、複雑な混成魔法だと言うのによく成功させた、と褒めたくなったよ」ゼーテルが静かに杖を前に持ってきて両手を置くと魔力のバリアが彼を守り、バゼアの攻撃を防いだ。バゼアはそれに何度も、何度も、激しく叩きつけるように剣を振るい、刃をぶつけ斬りつける。徐々にヒビが入るバリアの中でゼーテルは杖をくいっと前に出した。バリアは弾け消えたが、同時に前に出した杖を淡い朱色の光が包み、それがカッと強くなるとバゼアは後ろに大きく吹き飛んだ。転がる体を何とか起こしつつ、剣を地面に突き立て吹き飛ぶ勢いを止めようとする。もう片手を地面についてやっと止まった所で前を向く。
「世界には五つの火がある―――」バゼアの眼前に迫ったゼーテルは杖を前に出す。淡い青い光が閃く。バゼアは瞬時に剣を地面から抜き、閃光を刃にぶつけ反射させる。反射した光が地面に触れ、綺麗に舗装された地面がその下の土まで貫かれ飛沫を噴き上げる。剣を振るいゼーテルから離れ、構えなおす。
「星の神が残した息吹である、星火―――」杖を振るう。バゼアの周りに水が生じ、渦となって彼を襲う。彼は剣を一振り、横に真っ直ぐ一回転する様に斬った。渦は裂け波になり、それが弾けて水飛沫にまで細かく刻まれ飛び散った。
「伝説の錬金術師と言われる黒帝の遺産、命火―――」ゼーテルは軽く地面を突きそっと身を宙に預け、浮かぶ。バゼアは剣の魔力に集中し、刃を凍てつかせる。
「ある超能力者から生じた、真火―――」杖を前に淡い黄色の光に身を包み自分を守るゼーテル。バゼアは剣を振るい、その軌跡が描かれると同時に空気が裂け凍てる。周囲に急速に冷気が広がり空気が裂け、凍てつく。淡い光が盾の代わりになってゼーテルを守り、彼の前でのみ冷気が止まった。それ以外の場所は周囲に円形に冷気の斬撃に斬られた空気の残りが広がっている。最高管理部門の者たちはその攻撃に気が付き反射的に斬撃を避けたが、ゼーテルの使い魔たちの数人は手や脚の一部がそれに触れてしまい、斬れた空気によって氷とくっついてしまった。誰かが無理やり氷から体を外そうと力を込めると、その大きな円形の氷にヒビが走り、砕け散る。
「第五世界での大戦時に英雄の剣より生まれた、剣火―――」杖を三度、等間隔で突く。地面が揺れ、軟体動物の様に蠢く土の触手が現れ叩きつけられる。全てを切り裂き宙に跳び、土煙の中から現れたバゼアはそのまま身を翻して斬撃を飛ばす。刃は雷を纏い、振るうと同時に雷鳴が轟き、雷光が空を裂き降り注ぐ。ゼーテルは杖を掲げる。雷を纏った斬撃はまさに“雷撃”と言える。大気に放電しきらなかった電気が一転に集中し発光した。杖と雷撃の接点が光る。その境目には絶妙な極薄の隙間があり、そこに魔力でさらに薄い膜を張る。それが雷撃の全てを吸収した。
「そして、最後の一つ。オレの使い魔にして、原初の魔法生物としての特性を引継ぎ、純粋な魔力を持つ存在ファルツを封じている、龍火―――」杖をそっと突く。
「模造神器として、オレの使い魔を封じるのはあくまでも一つの方法…いや、形状というべきだな。龍火はファルツの一つの姿に過ぎない。模造神器という扱いはお前たち側の都合によるものだったか?」杖を指で丁寧になぞり、傷が無いことを確認する。それをひゅっと回し、そっと地面に接触させる。
「いずれにせよ、お前たち管理機関はそれら五つの火を集め、何か…極めて壮大な敵を焼き尽くそうとしているのは知っている。だが、それは……上手くいかない」
「なぜそう言える?」バゼアは彼と真剣に向き合っていた。それは彼の瞳に映る光が、彼が嘘をついていない事を証明していたから。
「奴が、自分の口でそう言ったんだ…彼が、俺を倒した……ただ一人の凡人」ゼーテルは過去を懐かしむ様に口ずさみ、その幻影を目で追いかける。力の差を理解していなかった愚かな過去の自分が、誰にも負けないと己を信じてやまなかったかつての自分が、初めて負けた日の事を、その場所で見ていた。
「―――違うな」たった一言でゼーテルの幻影は形を失い、消えた。バゼアは彼の発言を否定した。
「彼は君にそんな事は言っていない」
「…なぜ断言できる?」ゼーテルは問う。まだ過去の幻影の余韻が意識の片隅で尾を引いている。
「彼は君を覚えていない様に、龍火の事も覚えていない。前者に関しての理由は我々にも不明だが、後者は我々が彼の記憶からそれを奪ったからだ」バゼアは彼に告げた。
幻影の余韻は程よく糸を引いて淡く消える―――なんてことはなく、ゼーテル自身の内から溢れた怒りによる心の内の炎によって意識の隅から隅まで燃やし尽くして、幻影の余韻は消えた。
「奪っただと…貴様、オレの―――オレ様のォ!ただ一人の好敵手の記憶に!」ゼーテルは怒りに任せて杖を振った。地が弧を描き砕け、烈火が噴き上げる。暴風が吹き荒れ氷雪が肌を小さく切り裂く。獰猛な獣の様に牙を剥いた風がバゼアに噛みつく。剣を振るい、牙を一本ずつ斬り、折る。連撃の終わりにその中心を一刀両断する。
「…っむん!」再び杖を振るう。わずかな自制心を取り戻しつつも、怒りに体を震わせながら、その腕も小さく振るえていた。杖を振るった直後には特別な魔法もなく、基礎魔法による一撃が放たれる。強大な魔力を持つゼーテルは基礎魔法でさえも加減を怠れば強力な一撃になる。彼は一切の手加減なしの一撃の基礎魔法をぶつけた。だが、バゼアはそれをなんなく斬ってみせた。涼し気な顔で何の悔いも無いように目の前に立つ男に再び怒りが燃え上がる。
「お前は、オレの唯一の好敵手に手を加えた!」ゼーテルは激昂していた。そして何度も杖を振るい、いくつもの魔法を放った。氷塊が槍となり飛び、雷撃が拳となって降る。炎が駆け回り飛び掛かる。激流が口を開き、その内では岩石や砂埃が暴れ狂い待ち受ける。土は周囲を覆いそれらをただ一人の標的に集中させる様に先導し、同時に対象を封じる牢と化す。
「…そうする他、なかった」バゼアは剣を指でなぞる。刃に血が流れる。彼の魔力が強まり、刃が光を放つ。血に濡れた剣はそれを飲み真紅の光を放つ。刃をそっと携える様に切先を地面に向け、片手で握っている手を優しく包む。刃を整え、真っ直ぐとその身へ並べ、息を吸い、そして―――斬った。
全ての魔法が淡く消えていく。美しくも儚く、その切り傷は甲高い音を立て、悲鳴の様に叫びながら崩れていく。そして、杖を振るおうとするゼーテルを一つの拳が殴り飛ばす。
「遅かったじゃないか」バゼアは刃を振り払いながら、目の前の少年を見た。
「こいつの張った結界の中に入るのに少し手間取ってな」アルヴは面倒くさそうに笑いながらバゼアを見て、それから周りを確認した。全ての魔法が消えていくのを見ると彼はゼーテルに視線を戻して構える。
「どうやって入った?」バゼアが隣に立つ。
「ちょっと、友達の手を借りて」
「…ハイリアス、か?彼はどこに?」一瞬アルヴの顔を見て、尋ねる。
「自分はここまでだ、って言って帰ったよ。あんたによろしくってさ」アルヴは彼を横目で見て、目の前の相手に集中する様に目で言いながら答えた。
「そうか…」バゼアは剣を構え、アルヴは拳闘に形を変えた力を纏う。魔力のバリアに包まれ、現れたゼーテルは二人を見て嘲笑う。
「ついこの前まで戦っていたお前たちが、手を組むか…そしてオレは、敵か」彼は何か言いたげな目でアルヴの方へ一瞬だけ視線を向け、その後すぐにバゼアを睨む。彼の後ろにヤファタームとガフラ、そしてヴレアが降りてくる。
「ゼーテル様、我々も力を貸します」ヤファタームは丁寧に頭を下げる。
「そうか。ヴレア、もう大丈夫か?」
「…はい!あるじ様が魔力を分けてくれていたお陰で、全力で戦えますよ!」ヴレアは嬉しそうに腕を上げる。
「戦いながら魔力を分け与え回復させていたのか……?」バゼアは驚き、彼と彼の横ではしゃぐ使い魔を見る。
「当然です…主様はこの世界で最高の魔法使い。この程度の事、造作もない。最高管理者殿、お言葉ですが、少々主様を甘く見過ぎではないですかな?」ガフラはその樹液の詰まったような瞳でバゼアを睨む。
「あらあら、珍しく良い事を言うじゃない…苗木ジジイ」ヤファタームが嫌味っぽくも、喜んでいる様に言った。ガフラは彼女の目を見て鼻で笑った。
「お喋りはいい」ゼーテルは会話を終わらせた。
「バゼア、お前たちは秘星の力を使ったな?」彼は問う。形だけの冷静さを偽って。
「……」バゼアは沈黙で返事をした。ゼーテルの顔がゆっくりと怒りに変わっていく様を眺めながら、間合いを図り、隙を伺ってた。
「この少年に!秘星の力で貴様は!」杖を持った手でアルヴを指さし、バゼアに向けて怒鳴り散らす。それから先を言うよりも前に、バゼアは彼の喉へ斬りかかる。ゼーテルはあっさりと斬られてしまった。が、使い魔たちは一切驚きも慌てもしない。彼の体は光の粒となって散って消えていく。間合いを詰めたせいで背後に立つ彼に反撃する隙を失い、気が付いた時には既にアルヴの隣にいたのはバゼアではなくゼーテルに変わっていた。
「なっ…何をする気だ!?」バゼアは彼が杖を持っていない方の手を大きく広げ、その腕を掲げているのを見て察してしまった。彼はアルヴの記憶に触れるつもりなのだ。
「アルヴそいつから離れろ!」そう言った時には既に遅かった。先ほどバゼアがゼーテルを斬ったのと同時にゼーテルが発動した魔法によって、アルヴの意識は虚ろになっていた。
「思い出させてやる!オレが…!オレが自らの手で!」ゼーテルは彼の額にその手を触れた。魔法陣がゼーテルの瞳と、アルヴの額に触れている手の甲に浮かぶ。彼は既にアルヴの記憶に触れてしまった―――。
―――少し時は戻って両者の戦いが始まった時に戻る。
ごつごつとした杖に体重を少し預けながら歩く老いた男性の姿をした岩の使い魔ツファーナと、高校生ぐらいに見える少女の姿をした氷の使い魔エプリア。二人の使い魔は目の前にいる男を見た。男の名はガラー・ムロフ。最高管理部門の一人で、錬金術師だ。男を見た二人は攻撃を始める。老人が杖を少し前に倒すと、彼の後ろの地面から岩がせり出し、生き物の様にガラーめがけて襲い掛かる。ガラーはそれを数歩動いて避けると頬を掠めそうになっている岩に指を触れる。普通なら指が擦れ、巻き込まれる様に吹き飛ぶのだが、彼が触れた岩はそこから砕け裂けていき、弾け飛ぶ。破片が様々な色の花びらになって舞い散る。背後から迫るもう一方の岩に先ほどとは逆の手のひらを触れる。岩が泥になり、水になり、うねり流れていく。ガラーの後ろを流れていった水はその先で凍って、その氷の中からエプリアが現れる。氷の主導権が彼女に移る。エプリアが手を触れると氷は向きを変え、大きく体を起こした蛇の様に立ちあがると、先端から裂け、六つの氷塊の槍になる。ガラーの上から氷塊が襲い掛かる。ガラーは手を伸ばし、その一つ一つが自分の身を貫き引き裂く前に、瞬間的に錬成していく。指先に触れた氷塊は、大量の光の蝶と花びらに錬成される。肌を撫でるのは冷たい氷ではなく、光の粉と淡く香る花びら。最後に残ったのはエプリアが立っている巨大な氷塊。老人が杖を地面に着けたまま捻るようにくいっと回すと、それと同じ大きさの岩石が地面から出現した。エプリアとツファーナに挟まれる形になったガラーは前後の使い魔を見る。
「こりゃあ、長くなるかな…」ガラーは怠そうに呟いた。そっと指を伸ばすと、その先に自分が作り変えた光の蝶が止まり、弾けて光になって散った。ガラーはその光の残りを握り潰す。そして、二人の使い魔は彼を押し潰そうと巨大な氷塊と岩石を捻じれさせるようにぶつけ合う。エプリアは氷塊から降り、ツファーナの隣に戻る。捻じれぶつかり合う氷塊と岩石を眺める二人。ぶつけ合う中心から金属が突き出し、衝突が止まった。薄い紫色の反射をする白い金属が数本中心から突き出して、その両方には氷塊と岩石の残りが静かに眠っている。すると突然、それらが透き通った結晶に変わって弾け飛んだ。破片は空中で水になって雨の様に降る。その中に立っていたガラーはその雨を浴びるが、服も髪も一切濡れず、綺麗に弾かれて地面に落ちて染み込んでいく。
同じ時間、少し離れた場所にて。戦いが始まったと言うのに、草の使い魔サーナと土の使い魔タルクタ、そして最高管理部門の一人ナナカは武器を見せず、互いを見合う。ナナカはさっと手を振ると地面から土が噴き上げ、そこに水が混じって形を作っていく。最後に岩を纏うとそこには数体の巨像、ゴーレムが跪くような姿勢で現れる。現れた巨像は立ち上がり、隊列を組む様に規則正しく横一列に並ぶ。
「こんな事、早く終わらせるよ。タルクタ」少し大人びた少女はナナカを見つめ、手を伸ばす。すると足元から草花が生え、彼女へ向けて伸びていく。ナナカの前に並んだ巨像に草花が触れると巨像はその手に持った槍で草花を切り落とす。だがそれらは成長を止めず、むしろ切り口からさらに分裂して伸び、巨像たちに巻き付くように絡まりその自由を奪う。
「タ、ターもゼーテル様の役に立つんだ」少年が地面に魔力を流すと巨像とナナカの足元が流砂の様に柔らかく解れ、その脚を飲み込んでいく。巨像たちは姿勢を崩し、互いにぶつかり合って徐々に元の泥や岩に戻っていく。しかし、ナナカは地面に脚が飲み込まれるどころか、一切足元の土を揺らす事も無くそこに立っている。
「できれば、あんまり戦いたくはないのよね」ナナカは気の進まないような表情で手をそっと振る。彼女の周りに見えない壁でもあるかのように彼女から一定の距離を保ち、曲がり避けるようにサーナの草花が伸びる。サーナは草花に命令しナナカに触れようとするが、どうしても何かに阻まれて届かない。
「どう?自慢の防衛魔法なの。見えない壁、バリアの様に使えるのよ。範囲も自由に変えられる」そう言った途端にその範囲が広がったのか二人の足先に触れるギリギリの所まで草花が押し返され、足元の土や砂も吹き飛ばされる。
「ちなみに、お姉さんの得意魔法は見ての通り防衛魔法。得意属性は土、岩、水」ナナカは余裕に満ちた声色でそう言って、とても優しい笑みを浮かべながら二人に向かって歩いていく。
「…嘘でしょ?ウチは使い魔の中でも妖精に近い存在なの。そんな嘘が見抜けないとでも思ってるの?」サーナは向かってくるナナカを睨みながら言った。
「タ、ターも…一応、そういうのだから……その」タルクタは慌てた様子でどうしたらいいのかわからず、怯えた表情でナナカを見る。
「あら、そうなの?じゃあ、隠さなくてもいいのね」
「隠せない、の間違いでしょ」サーナは目の前にいる女性の魔力を感じる。全身の魔力が危険信号を送っている。タルクタもナナカの魔力に気が付き、動揺からか片脚が土になってしまい、その脚を形作る土が崩れ、尻もちをついてしまう。
「お姉さんの本当に得意な魔法は造物魔法、得意属性は空間属性なの。…ねえ、かわいい使い魔さんたち、次元の狭間に落ちた事…あるかな?」ナナカは不敵な笑みを浮かべ、そっと両手を伸ばす。そして、両の手のひらを向かい合わせ、何かを持っているようにその手を回すと二人の周囲の空間が歪んでいる事に気が付く。その時すでに三人は元居た場所から消えていた。三人の周囲は歪み、光は引き延ばされては捻じれ、地面も空もめちゃくちゃになった空間の中にいる。二人は何とか逃れようと自分たちを囲んでいる見えない壁に触れようと手を伸ばす。が、触れたはずの壁はそこになく、確かに到達しているはずの境界は届かない。
「見える情報も感じる魔力も、ここでは意味がないの。正しい言い方をするなら、確かな事では無い、と言うべきね」ナナカは二人を覆っている見えない壁に手を伸ばし、触れて見せる。そして、その中で怯えるタルクタと焦るサーナの表情を見て笑みを浮かべる。
「怖い?大丈夫、お姉さんはあなた達を傷つける気はないの。と言っても、信じられないでしょうけどね。二人をもう少しだけ、ここに引き留めておくのがお姉さんの役目なのよ」ナナカは元々あまり戦いを好まない性格からか、多くの敵に対してこのような“時間を稼ぐだけ”の行動を取る。このままナナカの魔法から逃れられないのか、と二人は諦めかけていた。
その時、捻じれた光の流れの中から影が伸び、その空間に満ちた魔力を引き裂いた。それはグリエスプの腕だった。三人は元居た場所へ、互いに吹き飛ばされる形で再び現れた。地面を転がる二人と、自分の魔法でその勢いを殺し何事もなかったように立つナナカ。二人は立ち上がり、ナナカを見る。その二人の影から全員が元の場所に戻れた事を確認した後、グリエスプは影の中のさらに深い場所に戻った。
また別の少し離れた場所で―――。薄目で空を見上げた後、両手に持った双剣を握り直し、静かに歩みを進める最高管理部門のジュウ。彼の前にいるのは真新しい紳士服に身を包んだ雷の使い魔ゾスワルと、宙に浮かび揺れる風の使い魔ラユナ。
「お前たちが俺の相手…だな」彼はゾスワルの右側に視線を向ける。何かがあるようにそこを数秒見てから宙に浮かぶラユナを見る。
「そうです。今回あなたの相手をする、雷の使い魔ゾスワルです」彼は丁寧に一礼した。
「ボクはラユナ、風の使い魔だよ。あなたは誰?」ラユナはふわりと地面に降りてジュウを見つめる。
「俺はジュウ、高羽 十だ。最高管理部門では珍しい超能力者ってやつだよ」
「なるほど、超能力者ですか。一度、戦ってみたかったんですよね」ゾスワルは怪しげな笑みを浮かべる。瞳に青い稲光が走る。その時、ジュウは体を左に動かした。直後、彼の体の合った場所に向かって鋭い雷撃が走る。飛び散った雷撃の一部を右の剣で受け止める。
「おっと、避けましたか。素晴らしいですね」ゾスワルは嬉しそうに笑みを浮かべ、細かく拍手する。
「その攻撃は見えていたからな」ジュウの超能力は反響。反響は光や音など、あらゆるものから生まれる。ジュウはそれに触れられ、反響の持つ情報を見聞きする事ができる。ジュウはこの能力で反響を操る事も可能。超能力の影響なのか、彼の身体能力は異常に高く、常人の数倍から数十倍の速度で活動が可能。
「次はこっちか」ジュウは数歩下がる。するとそこに突風が吹き荒れ地面に裂かれた様な傷跡ができる。
「本当に見えているんだ」ラユナは自分の風が避けられた事に若干驚きつつ、冷静になぜ避けられるのかを考える。
「もしかして、未来予知的な能力?」
「あー…おしい。けど大体当たってるよ、少年」ジュウは笑顔でラユナを指さして言った。
「ボク、一応女の子なんだけど…」ラユナはまたか、という様に呆れた表情をする。
「それは、悪かった…悪気はなかったんだ」
「いいよ、よく間違われるから。もう慣れたし」ラユナが手をパタパタさせて気にしていない事を表現する。
「あ、そろそろかな」ジュウは数歩前に出て、剣を体の周りで回す様にしながら右に歩く。彼が動き出した瞬間、彼の立っていた場所に雷撃が落ち、それがパチパチと跳ね彼に飛びつく。しかし彼は先に歩き出していたので雷撃に当たらず、跳ねた雷撃の一部も剣に弾かれて飛び散る。
「うーむ。どうしましょうかね」ゾスワルはどうしたら攻撃が当たるのかを思案する。ジュウは一瞬だけ、周囲に散らばる反響に視線を向け、剣を構える。
「まあ、次は俺から行こうかなって…」構えた剣の刃を弾くようにそっと触れさせる。そこから反響が生まれるのと同時に彼はゾスワルに斬りかかる。一瞬で間合いを詰め、鼻先に刃が触れる直前、ゾスワルの周りに張られた魔力がビリビリと反応した。
「反響爆破」直後、刃と魔力の接触した場所から小さな爆発が起きる。
「やっぱこれ、避けれるか」ジュウは剣が空を切ったのを感じ、ゾスワルの移動先に視線を移す。
「あぁ…危ないですね」攻撃に反応した魔力で反射的に回避行動を取ったゾスワルは斬られる事無く、十歩ほど離れた位置に移動していた。攻撃が当たらない事は反響で既に予測済だった。だが、ジュウの攻撃は意味がない訳ではない。今回ジュウはゾスワルの雷属性の魔力の力場による反射速度を計るために攻撃をしたのだ。この情報を得た事で反響で
見える少し先の未来にも変化が起こる。ジュウはゾスワルの足元に数秒視線を向け、今度は彼の左肩に視線を向ける。
「反響爆破」足元で反響による小さな石ころ程度の爆発が起きる。その勢いを使い、一瞬で距離を詰め、右手に持った剣で左肩を斬りつける。当然それは回避され、ゾスワルがさらに数歩後ろに下がるが、ジュウの左足裏で再び反響爆破が起き、深く踏み込む形で前に出る。斬り下ろした右手の剣をそのまま返し、ゾスワルの脚を斬りつける。血の代わりだろうか、青と白の電気が傷口から走る。ジュウはそのまま体を起こしながら左手の剣を彼の腹部に突き刺した。ゾスワルの背中に刃が貫通すると同時に真っ赤な雷が吹き出す様に飛び散る。
「ぐっ…なかなか、痛いですね」ゾスワルは強がり、笑みを浮かべながらジュウの目を見る。彼はゾスワルの顔を睨みつけるように見ている。が、その視線は彼の背後に生じた反響を捉えていた。ジュウの頭から足先までを細かく引き裂くほどの強く鋭い風が吹くより先に、彼はゾスワルの腹部に突き刺した刃を抜き後ろに跳び退いた。
「ゾスワル、大丈夫?」ラユナはゾスワルの少し上で浮遊しながら、横目で苦しむ彼に視線を向ける。彼が損傷部分に手を当て、赤と白の稲妻が体に流れると傷口を稲妻が縫い付けるように這い、傷口は塞がり元通りになった。服も魔法で縫われているのか、彼が魔力を流すとすぐに刺されて切れた布が元通りになる。
「僕の反射を予測するだけでなく、単純な速度勝負にも勝った上での一撃。なかなか…じゃないですか。ジュウさん、あなたには本気でやらなくてはいけないですね」ゾスワルの表情は笑っているが、彼の瞳には悔しさが宿り、それでもどこか無邪気な子供が持つ好奇心の様な光が見える。立ち上がり、姿勢を正した彼は魔力を放ち、周囲に赤と青の雷が走る。
「あーあ。あなた、負けたよ」ラユナはゾスワルから遊ぶための手加減がなくなったのを彼が纏う魔力から感じ取り、ジュウに向かって言った。そして彼女はゾスワルの雷撃に巻き込まれない様に少し彼から離れる。
「焼き焦がします」ゾスワルは攻撃命令を下す様にジュウを指さす。すると彼の周囲の魔力から雷撃が放たれる。ジュウはそれを流れるように躱し一歩ずつ歩みを進め、着実に距離を詰めていく。
「ならばこれは!」次の雷撃は横ではなく縦方向に突き刺す形で脚、胴体、頭を狙って放たれる。ジュウは右手の剣で脚を狙った雷撃を受け止め、それを右に切り払う。そのままの流れで剣を逆手に持ち、胴体を狙った雷撃を斬り弾き、その体の勢いを利用して頭部を狙った雷撃を左手の剣で叩き切る。
「…反響連撃」ジュウは小さく呟き、常人では捉えられない速度で連撃を放つ。彼は既にゾスワルの前に到達していた。刃が周囲の魔力を水に注がれた油の様に切り裂いて、放たれる前の雷撃を流し斬る。ジュウの背後に切り払われた雷撃の残り火が散る。ゾスワルは魔力による反射回避を行うが彼の胴体と四肢、その接続部は深く傷つき魔力が零れて止まらない。それだけでなく斬り傷の周囲の肉体を構成している魔力の結束が解けていくのを感じる。
「なん…何をしました?」
「俺の能力で反響を使って魔力の結び目を斬った。そのままならお前の体は綻んだ服みたいに徐々に解けていく」
「は、はは……ジュウさん強いですね。超能力だけでない。それを活かした戦い方もなかなかよく出来ている」ゾスワルの肩が解けて腕が落ちる。膝をついて、胴体が解けても倒れない様に姿勢を保つ。
「笑っている場合じゃないよ」ラユナが彼に触れる。そよ風が落ちた腕を持ち上げ繋げ合わせる。
「ボクの魔力であなたを治してあげるけど…属性は自分で合わせて」ラユナは彼に癒しの風を纏わせる。ジュウを見て彼に暴風の弾丸を浴びせる。ジュウは吹きすさぶ風の中で剣を構え振るった。双剣が円を描くように風を切り裂き暴風の弾丸を全て切り弾き、風が止む。ラユナは風を呼んで、彼を切り刻む様に命令する。ジュウは風の中でその刃を弾きながら次の攻撃のチャンスを伺うため周囲の反響を見ていた。
「ラユナ、もう大丈夫だ」ゾスワルは元通りになった体を馴染ませるように軽く肩や腕を回しながら立ち上がる。そしてジュウを襲う風に雷を混ぜる。ジュウは風の音に耳を傾け、その刃を斬り弾いていたが、周囲に突然雷鳴が響いた事に気が付き、反響が乱れるのを感じる。握っている双剣の刃を風と雷の間に沿わせて反響を拡張させていく。彼にしかそれは見えないが、その反響は数メートルの大きさの球体状に広がっていき、やがて破裂する様に弾け飛んだ。
「反響爆破」ジュウがそう口にすると同時に二人の作った風と雷の嵐は強制的に終わった。周囲にそっと風が吹き、纏まりを失った電流が地面に張り付くように落ちる。刃を降ろしてジュウは二人を見る。
「まだやるか?」ジュウは遊び足りない子供の様な目で、それでも乾いた声でとてもつまらなそうに二人に言った。
ある店のお手洗いにて。エノードは悩んでいた。鏡に映る自分を見て問う。本来なら監視役であるティルミだけを呼ぶのが正しい。だけど、この現状を打破するためにはきっとエリムの助けが必要になる。彼女は望んで力を使おうとはしない。我々機関は彼女に協力する事はできるが、機関から協力を求める事はできない。何よりも、今回はエリムの協力を得るために、彼を餌に使おうとしている。自分が情けない。
「どうしたものか…。もっといい方法がないか。考えても見つからない。きっと彼女は彼の助けになるならと力を使う事を選ぶだろう。それはティルミも、同じだが…。あの二人はどうしてそこまで―――彼がこれまでしてきた事を思えば理解もできるが。でもなぁ……」溜息もでないほど、肩が重くなった。結局、『彼を助けるために』と言ってもその実、機関の為にと言っているのと同じ事。いや、包み隠さず言うならば、そうなる。
「ああ、俺はなんて情けない」彼は俯き、蛇口から落ちる雫の音が響く。もう一度鏡を見た時、自分の顔が笑っていないと思っていたが、そこにあったのは仕方なく作った笑顔を浮かべる顔だった。それを見て哀れに思った鏡の自分が笑ったのと同時に、彼は手を流すとハンカチで手を拭きながら店内に戻った。
すぐに近くの席に座っていたティルミを見つけ、彼女の隣に歩いて行きテーブルを軽く指でトントンっと叩く。彼女は自分に気が付くと開口一番にこう言った。
「なんであなたがいるんですか?」隣のテーブルにいるエリムや周りの客に聞こえない様に抑えて小さな声で。
「少々、個人的な頼みがあってね。手伝ってほしい」エノードは彼女の向かいの席に座った。
「嫌です。私も個人的な用事があってここにいるんですから」彼女は断ると腕を組んでそっぽを向いた。
「それは大丈夫」そう言ってエノードは立ち上がり、隣の席に座っているエリムの横に立った。ティルミはそれを見て慌てた様子で止めようと必死で合図を送るが、エノードはティルミを見て一瞬笑みを返し、エリムにも先ほどと同じ様に声をかける。
「あなたは…」エリムは警戒している様で席の奥に移動する形で距離を取る。
「そんなに警戒しなくても大丈夫。君に危害を加えに来たのではない。ただ、知らせに来たんだ」エノードは彼女のそんな態度を見て一歩退いて両の手のひらを見せるようにして言った。
「…何を知らせに来たんですか」エリムは彼の手から顔まで二回ほど視線を往復させる。
「それは……」エノードは目を瞑って言葉を探す。何から伝えるべきか。そもそも本当に伝えるべきなのか。決断したからここに来たはず、決断したから声をかけたはず、なのに。やはりまだ自分は決めかねているのか。彼女たちを巻き込むことを申し訳ないと思っているのか。それでも口は勝手に動いた。言葉は案外素直に出てきて、一度言葉を発したら後は勝手に話していた。
「今日、アルヴは来ない」目の前の少女は疑いの表情を浮かべ、もう一人の少女は驚いた表情をしている。
「彼は今、機関を守るため旧友と戦っている。ティルミ、君ならわかるだろう?ゼーテルが龍火を取り戻しに来たんだ」エノードはティルミの方を見る。エリムは彼女がいる事にこの時初めて気が付いたので非常に驚いた表情をした。
「あ、あなた…確か、あの時アルヴ君を助けに来て、この前の昼休み彼とミリアさんと一緒に話してた中等部の生徒だよね。どうしてここに…」驚きながらも冷静に尋ねるエリム。ティルミは自分が来ている事をバラされた事からかエノードに怒りながら席を立った。
「あーあ。はいはい。私はね、先輩の監視役なの。だから二人が変な事をしない様に監視に来ていたんですー」
「監視…役?本当なんですか」当然、エリムはその言葉を信じられず、エノードに確認をする。
「本当だ。機関では特に危険な人物や組織などには専用の監視役が付く。アルヴ、彼は機関の中でも特に危険な人物とされている。特異な力、独断で判断し、自由に戦い、機関の上層部の意思決定にも反抗する者としてね。だから彼の能力を無力化できる彼女が監視役を任されている。もちろん、本来なら君にも監視役が付くはずだった。が、彼が君を守るために取引をし、それらを含めた機関からの一切の干渉をやめさせたんだ」初めて聞かされる事実に情報の処理が追いついていないようでエリムは少し頭を抑えながら考える。
「…つまり、いつも私の近くで笑っていたアルヴ君は……あなた達機関からずっと監視されている中で、私に危害が及ばない様に守っていたって事ですか」
「そういう事になるな。最も彼が笑っていたと言うのは信じ難いが……彼は俺の前ではあまり笑った事がないからな」エノードは冗談交じりにそう言ったつもりだったのだが、エリムに強く睨まれ、失敗したと思った。
「監視役って言っても私は別に先輩の敵ではないですよ。むしろ味方でありたい……と思っています。先輩はどう思っているかわかりませんけどね」ティルミはエリムの認識を訂正する様にそう口にした。
「…アルヴ君は今、どうしているんですか?」エリムは
「龍火を取り戻しに来たって言ってたけど。もしかして、この件ミリアも絡んでたりするんですか?」
「彼女は関係していた。が、今は別の方を追っている。アルヴは恐らく今、バゼア…最高管理者と共にゼーテルを止めようとしている。だが、今の彼らだけでは止められないと思う。そこで…」エノードは二人を見る。
「君たちに力を貸してほしい。これは機関に属する者としての頼みではなく、彼の…味方としての、個人的な頼みだ」彼は正しい姿勢で二人に向かって深々と頭を下げる。エリムは当然、もう力を使うことなど望んでいないし、ティルミはエノードの頼みを聞く理由はない。だが、アルヴという人間のため、彼の味方としての頼みであれば別だ。
エリムは考える。悩み、それでも力を使うのは怖いと思った。上手く力を使えなければ、もしまた暴走すれば、きっと彼や彼の守ろうとするものまで傷つけてしまう。それを自分は望んでいないし、きっと彼も望んでいない。では自分が本当に望んでいるのは何か?
ティルミは凡人同然の自分が行った所で何の役に立つのかと考える。自分にできるのは力の無力化だけで、攻撃などは一切できない。魔法や魔術はもちろん、錬金術だって使えない。超能力がある訳でもない。あるのは彼と同じく原理不明の無力化の力だけ。自分は彼にとって何てことない人間で、でも彼は誰かが傷つくならそれを庇うだろう。はっきり言って足手まといだ。でも少しでも大切な先輩の役に立ちたい、そう思った。
エノードは頭を上げ、二人を見る。
「答えは決まったか?」彼は口にしたとき、既にわかっていた。どんな言葉が返ってくるのか。でも、本人たちの口から聞きたかったのだ。その答えを。
「私をアルヴ君の所へ連れて行ってください。」
「私を先輩の所へ連れて行ってください。」
そうだ。きっとそう言うと思った。そう答えたならやる事は一つだ。
「わかった。行こう」エノードは二人を連れて機関本部に向かった。
何も聞こえず、何も見えず、辺りを見渡すが何もない。暗い闇の中にいるのかと一歩、歩みを進めてみる。水の音が聞こえる。一面に水が張られているのだろうか。自分が水面の上に立っている事に気が付いたゼーテルは一度しゃがんで足元に手を伸ばす。水がある。そっと触れると波紋が広がったのを感じる。手を水の中に向けてぐっと入れてみる。かなり深さがある。きっとこの下がアルヴの記憶なのだと思った。立ち上がり、思い切って水の中に飛び込んでみる事にした。何も見えない闇の中で彼は跳び、水の中に―――入った。瞬間、闇が終わり、色とりどりの光がその瞳に飛び込んでくる。目が光に慣れた頃、その光の一つ一つがどこかの記憶の中の一瞬の光景である事に気が付いた。どれも美しく、でもどこか寂しい感じがした。さらに深くに潜っていく。息をする必要はない。ここは記憶の中だから。でもなぜか深く潜る程、胸の中が苦しくなって、息が出来ない、軽く窒息している様な感覚に襲われた。しかたなく適当な記憶の中に入ってみる事にした。そこで息をした彼はその美しい記憶に目を向け、そして―――逃げ出した。動き出した記憶は美しさを壊し、絶望を叩きつけてくる。悲しみ、憎しみ、怒り、これは悲劇の記憶なのだろうか。いや、違うはずだ。だってこんなにも、美しかったじゃないか。必死に走って噴水に飛び込んだ彼はまた記憶の海の中にいた。よく見ると一つ一つの記憶が糸の様な物で繋がっているではないか。彼はそれを辿ってさらに奥に進んでいく。記憶の匂いが変わった。空気もなんだか嫌な感じだ。悲鳴が聞こえた気がして振り返った。他の誰かがいるのだろうか。だが、今はそれどころじゃない。これを隠した秘星の力を解いて、龍火の記憶を探すのだ。再び彼が前を向いた時、違和感を覚える。何かがいる。そうだ、この下に、奥には何かがいる。だがそれは今もこちらを見つめている。なぜだ?なぜそんなことがわかる。どうしてオレは逃げようとしない。彼は逃げなくてはいけない。でもそれは出来ない。もう見つかってしまったから。
「ごぼっ。ごぼっごっ」彼は息を吸おうとした。ここは記憶の中だ。そんなものは必要ないはずなのに。なぜ、オレは息を吸おうと必死にもがいている。なぜ、上に向かおうとしているのに体はさらに深くに進もうとする。もう彼の首には刃が触れていた。それはゆっくりと彼の首筋をなぞって舌で彼の頬を舐め、顎をさすって、そして―――。
『サッ―――。』彼の首を掻いた。刃ではなく、わざわざその鋭い爪で。そして彼を手放した。さらに深くに落とすために。血が記憶に染みこんでいく。滲んだ記憶の海の中で、美しい記憶の光は淡く消え、辺りにはまた暗闇が訪れる。夜は深く、眠りについた子供の命を狙っている。でも一番彼らが狙うのは、そんな夜の中を無謀にも冒険しようとする旅人だ。彼は背中を何かに貫かれる。息を吐こうとした口に何かを突きつけられ、それが銃だと分かった時、既に弾丸は放たれていて、それでも彼は死なず四肢を引き千切られる。離れた手足を針の上で弄ばれ、炎に投げ入れられた。それを引っ張り出して、まるで壊れた人形を直す様に、丁寧にその黒く焦げ爛れた四肢と血肉で膿んだ胴体との繋ぎ目を縫い合わせられる。ケタケタと笑うそいつは彼をマリオネットの様に躍らせた後、子供が飽きた玩具を投げ捨てるみたいにさらに深くに投げ入れた。動かない四肢を必死に動かそうと魔力を流すが、ここは記憶の中、自分の体を保護する魔法は先ほどの攻撃で消えてしまっていた為、もうどうにも出来ない。彼はただ真っ直ぐ沈んでいくだけだ。悲鳴、絶叫、怨嗟、どれも耳元で聞こえる。感情が流れ込んでくる。その一つ一つをその身で受け止める事しかできない。憎悪、悲哀、孤独、欺瞞、憤怒、殺意―――衆悪の渦の中に落とされ流れてくる記憶達。それらがまるで自分の身に起きた事の様に感じる。一人になっても立ち上がり、それでも誰かに称賛されず、何かを守っても、恐れられるばかりで、裏切られても誰かを信じて、また騙されて、怒りに我を忘れて全てを失い、己が生んだ悲しみに呆れ果て、何も残らないとしても戦って、また一人になって絶望する。
この言葉は誰にも届かない。
『“―――たすけてくれ”』現実でアルヴがわずかに口を動かした。声は出ない。誰にも聞こえず、誰も見ていない。バゼアはゼーテルを見つめ刃を向けている。朦朧とする意識から一瞬だけ覚めて、その刃に反射する自分を見て、なんて無様なんだ、と思わず笑ってしまいそうになる。また意識が…虚ろになっていく。記憶の奥で、ゼーテルが叫んだ。記憶の断片がそれを響かせ、この深い水底から暗い闇の広がる水面まで、その声は響いた。でも誰もそれを聞く者も、聞き入れる者もいない。彼は記憶の水底に辿り着き目を開いて、その奥にいるそいつと顔を合わせた。そして、ぐさりと胸に刃が入り、裂かれる。溢れ出すのは血ではない。感情だ。そいつは溢れ出た感情をグラスに注いで、まるでワインを飲むかの様に香りを楽しんだ後、一口含んで飲み込んだ。彼がここに来るまで見て聞いて体験して感じた新鮮な感情。鮮やかな色を持ち、甘美な味わい。癖のある香りが鼻に着くが、それもまたこの感情の一部だ。
「なかなか品のある味だね。ゼーテル」彼は目の前で胸を裂かれた状態で感情を垂れ流し浮ぶゼーテルに笑いかける。
「お、お前は……誰、だ」ゼーテルは記憶の世界で感じるはずのない痛みを感じながら、それを耐え、彼に問うた。彼は不思議そうにゼーテルを見て、それから不敵な笑みを浮かべて両手を広げ、白々しくこう言った。
「誰って、アルヴだよ。アルヴ・ソイルス。君のよく知っている友人だ」
ゼーテルは彼を強く睨み、痛みに呻きそうになるのを堪えながら必死に声を出し、それを否定した。
「嘘を、つく…なッ!」お前は誰だ。ここに記憶の中にアルヴがいても、外にいるはずはない。記憶の海の水底で、こんな狂気じみた空気の満ちた場所で、感情の濁流に耐えながら正気を保っていられるハズがない。それこそ、魔法や能力による保護なしでは…。
「そうか、狂っているのは……オレの方か…」ゼーテルは笑って、このふざけた記憶の世界から出るために自らの舌を噛んだ。だが、元の現実には戻らない。
「無理だよ。さっきみたいに、たすけてくれと叫んだって誰にも聞こえない。ここは記憶の海の底なんだ。誰が聞いているっていうんだい?」
「んぐ、ごぼっ」溺れてしまう。記憶の味が口の中に広がって、とても不快だ。血と泥でトッピングした生焼けの腸を食べている気分だ。
「君は秘星の力で隠された龍火の記憶を取り戻しに来たんだろう?彼に約束を思い出させに来たんだろう?でも彼は力なく、君の相手もロクに出来ない。それどころか、あのバゼアという男。最高管理者とやらを名乗るあの男との戦いでさえ、君はがっかりしている。見ていたんだろう君のお得意の魔法で?ん?どうなんだい?」彼はグラスにまだ残っている感情をゆらゆらと回し弄びながらゼーテルの額に鼻先が触れそうになるほどの距離まで来て言った。そしてそのグラスの感情をまた一口飲んだ。
「こうして解してあげると感情はよりまろやかな味わいになる。君のは少し…マイルドだ」満足げに彼は笑みを浮かべて言った。それから既に持っていたグラスを宙に浮かばせ、そのまま固定して、どこかから取り出した別のグラスを持ち、今度はゼーテルの首を裂いた。そこからはサラサラとした感情が溢れてくる。今度はそれをグラスに注ぐ。が、何か物足りない表情。彼はさっきゼーテルが自ら噛み千切った舌の端が宙を漂っているのを見つけるとそれを指で摘み、グラスの中に落とす。その感情の香りと色を楽しんで、満足げに息をした。ゼーテルは自分の舌が元に戻っている事に気が付く。
「秘星の力は…龍火の記憶はどこにある?」
「そう…焦るなよ。もう目の前だ」彼は感情を一口飲んでとても満ちた表情で喉から声を上げ、それからゼーテルに言った。そしてそっと横に動き、彼の背後に隠れていた物が露わになる。そこには秘星の触れた痕跡、淡くぼやけ、薄い闇が膜の様に覆っている…壁。
「これは秘星の力で作られた、隠したい記憶とそれ以外の記憶を隔てるための壁」啞然とするゼーテルに彼は見せびらかす様に彼の後頭部を掴んで彼を一面が見える様に動かした。
「でも不思議だと思わないかい?なぜ、見せたくない記憶以外の部分…つまり君が潜ってきた場所に、こんなにも深い、秘星の力など比べ物にならない程の闇があるのか。そしてなぜ、こんなにも丁寧に説明してくれる“本人”がいるのか……ってね?」彼は掴んだ後頭部からそっと手を離し、淡々と語る。その顔は段々と興奮と感嘆と愉悦に満ちた笑みに変わる。彼から出た大きな刃がゼーテルの心臓を貫いた。彼の体はその重さでさらに深く刃が食い込み、四肢は意思なく揺れて、首は力なく垂れ、それでも目は彼から離れない。離さなくてはいけないのに。なぜ、離れないのか。
『わかっているだろう。この記憶の全てが、見てはいけない、知ってはいけない、触れてはいけないものだから―――もう君は、記憶された。ここからは逃げられないぞ』彼の皮膚が剥がれ、その大きな刃で自らを引き裂きながら姿を現していく。
「…ッフ、バケモノ……かよ」ゼーテルは笑った。目の前にいるそれに引き裂かれる瞬間に彼はそいつを嘲笑って―――。
光が射し込む。記憶が発するそれとは違う、他の何か。優しく、温もりに満ちた光が目の前のバケモノを照らして、そいつは苦しみながら叫びをあげてゼーテルを手放した。刃が抜けて体から血の様な感情が、記憶が溢れていく。バケモノは急いで走り去ってどこかの記憶に消えていった。光がそっと近づいてきて、ゼーテルに触れる。傷口を見て、それは周り散らかった彼から溢れ出た感情と記憶を集めて、再び彼の中に流し込んでいく。
『このままだと、あなたは消えてしまう。あなたと言う感情、記憶、それらを失って。でも大丈夫、また注いであげるから。あいつに飲まれた分は大した事ない。ここのどこかに…』光が手を伸ばした様に思えた。近くにあったいくつかの記憶と、遠くの上の方にあったはずの記憶を寄せ集めて、そこから何かを取り出している。
『あいつが飲んだ記憶、他の場所に捨ててあった。これで完全にあなたは元通り』光が傷口を撫でるとそれが塞がり、四肢も元の様に動かせるような感覚が戻る。
『あいつは彼の記憶以外は奪えないから。こうしてどこかに捨てられる。でもお陰であなたは助かった。もう戻って―――。ここはあなたの居場所じゃない』光がゼーテルの頭を優しく撫でる。赤子を撫でる様にとても優しく撫でる。そして額に指が触れるような感覚の後、ゼーテルは現実に戻った。
ゼーテルが張った魔力の結界の外で、三人は立ち止まっていた。
「この結界は…これじゃ中に入れない」ティルミはそれを殴りつける。ティルミは結界に片手をついて、自分の力に集中し、目の前の結界を無力化しようとする。でも上手くいかない。無力化してもすぐに再構築される。根本から消さないといけない。それも上手くいかない。きっとティルミがやってくる事を彼は予想していて、そのための対策魔法を組み込んでいるのだろう。
「ちっ…あの男、面倒ですね」ティルミが試行錯誤している横でエリムはまだ悩んでいた。
「君たちの力ならこれを突破できるだろう」エノードはエリムが悩んでいる事に気が付き、言った。
「力を使うのが怖いのか?」エリムはエノードの問いに答えなったが、それが答えだった。
「…彼は、アルヴは君を何度でも止めると、助けると言った。なら、それを信じればいい。今回は君が彼を助けるんだろう。彼は君が間違った事に力を使わないと、誰かの為に力を使える人間だと言っていた。そう信じていたし、今もきっとそうだ。なら、君も自分がそうであると信じるべきじゃないか?それで、もし間違ったとしても、きっと彼は君を責めない。君を助けようとまた全力を尽くし、そして君に笑っていつものように―――」
「もう、いいです。もう十分です。わかりましたから。」うんざりする。呆れるほどの綺麗ごとだ。どうせこの人もきっと個人的な頼みと言っておきながら、彼の言葉を使って、彼と言う存在を利用して、自分に力を使わせようとしているのだろう。だからこうして、わざわざ言葉にして、それを促しているんだろう。それでも、彼が言った言葉が、彼が自分を信じていると言うのは本当だと、エリムも十分に理解している。だから、もういいんだ。エリムはそっと結界に片手をつく。
「エリム…先輩」ティルミは彼女が手を触れたのを見て驚いた。ここに来ても思い悩み、迷い、己の力を助けたい人の為に使う事さえ戸惑う彼女が自らの意思で手を伸ばした事に気が付いたから。ティルミは隣に立つエリムの目を見て、その覚悟が見えた。だから、確信した。この人はやっぱり、すごい人なんだって。
「ティルミちゃん、行くよ。二人で、アルヴ君を助けに」そう言って彼女は隣に立つティルミを見る。
「は……はい!」ティルミは合わせる様に彼女の手の横に自らの手を並べ、結界に触れる。
「これを壊して」確たる自らの意思を以て力を使う。
「先輩のもとへ」たとえ彼が覚えていなくても、大切な人の為に。二人は力を込める。片方は破壊の力を、片方は無力の力を。二つの力が合わさって、結界は弾け、砕け、崩壊した。
エノードはそれを見届けると二人に背を向けて歩き出した。
「あなたは来ないのですか」ティルミは彼に尋ねた。彼は背を向けたまま手を振りながら言った。
「俺は君たち二人を巻き込んだ事の始末書と、他の用事があるんでね。それに、俺がいない方が何かと楽だろう?本部への道ならティルミが知っているし。ってな訳で後は任せたよ」そう言って彼は遠ざかっていく。
「幸運を祈っている」小さくその言葉を呟いて。
「まあ、いいです。行きましょう、こっちです」ティルミはエリムの手を引いて歩き出した。
「あ、大丈夫。ついて行くから」エリムは手を引かれる事に若干の抵抗をしたが放そうとする気配がなく、敵意も悪意も感じられない事から、諦めてそのまま手を引かれていった。ティルミはエリムが自分の意思で決断を下した事と思いの外息の合った相手だと感じ、嬉しくなった勢いで手を引いてしまった事に少し照れてしまって、それを隠そうと顔を見られない様に必死に前を歩いていた。