第4話前編 迷い
「これで良かったんですか?」
「何がだ」
「彼女のこと。一緒にいなくていいのかなって」
「…俺はただの友達の一人だ」
アルヴのその返事を聞いてティルミは呆れた様に大きなため息をつく。
「じゃあ、私があなたを独り占めしますか…」ティルミはそう言って近づいてくる。
「おい、近寄るな」そう言って彼は距離を取る。
「お前聞いた話だと自分から俺の監視役に願い出たそうだな?いったい何のつもりだ?」
「別に。ただ…昔助けられて以来、好きだった人の監視役になれるチャンスだったから是非ともやらせてくださいと名乗り出ただけですが?何か?」なぜか強気なティルミ。
「いや、言葉だけだとお前ヤバいやつだな!」
「待ってくださいよ!私これでもちゃんと線引きは出来てますから!最低限の事は守ってますから!」慌てて弁明しようとする。
「まあでも、あの日のあなたの目を見て、今もその心が変わっていないようで良かったです」ティルミはエリムを助けに行った日、彼がバゼアとの対決に臨んだ時の表情を鮮明に思い出していた。
「…?」アルヴは首を傾げる。
「なんでもないです。気にしないでください」彼にまだ昔のような優しい心があって、それどころかより一層他人の事を大事にしていて本当に……本当によかった。
機関に着くと皆やけに忙しそうにしている。何があったのか聞こうと声をかけようとしたが皆それどころじゃないと断られてしまった。しかたないので任務を確認しに掲示板に向かったが今日は特に目立った任務はなかったので帰ることにした。
「で、結局なんであんなに皆が忙しそうにしてたのか聞けませんでしたね」ティルミは誰に聞いても相手にされなかったからか少し不貞腐れているようだ。
「まあ、それだけ忙しかったんだろ。俺たちに話す暇がないって事は逆に言えば俺たちが出るようなことでは無いってことだしな」
「…確かにそうですね」
「その辺で何か食べていくか」
「そうですね」
二人は夕食を食べる店を探しながら街を歩く。
店の中。流行りの音楽を聴き流しながら飲み物の入ったコップを回して中の氷の動きを眺める。
「決まったか?」アルヴは退屈そうに視線を動かし対面に座る少女を見る。
「まだです」ティルミはメニュー表に顔を突っ込む勢いで眺めている。
「そうか」適当に返事をしてまたコップを回す。
「先輩」
「なんだ?」
「先輩ってエリムさんの事どう思ってますか?」
「…なんだ?さっきも言ったけど別にただのクラスメイトだよ。たまたま助けたのがきっかけで話すようになった程度の友達くらいかな」
「助ける前の事は?」
「変わらず、ただのクラスメイト。今ほどじゃないけどな。友達とも呼べないくらい。授業で話す機会があればって程度だったかな」
「じゃあ…私の事は?」少し言い淀んだが、口にした。
「突然現れた俺の監視役で、後輩って以外に特にないけど」素っ気ない態度で返答する。
「…出会う前は」喉の奥に言葉が詰まる。
「出会う前って、お互い知らない誰かだろ?どっかで会ってたか?」
「いえ…わかりました」ティルミの声はわずかに震えている。アルヴは窓の外を見る。
ティルミは彼の状態を理解した。彼は自分を覚えていない。一年も前の事だけど、たったそれだけの時間で、あの事件を忘れてしまった。恐らく今の彼は自分がなぜ監視役が必要なのかも、なぜ禁忌の力と呼ばれるものを持っているのかも、知らない、覚えていないのだろう。なぜだろうか、そんな彼の心情を勝手に想像し悲しくなってしまった。時々彼の表情を確認するが特に変わらず気の抜けた顔をしている。こっちが勝手に悲しくなったとはいえあまりにも変わらないとそれはそれで…。
「…なあ、さっき機関に行ったときなんであんなに騒がしかったんだろうな」暇に耐え兼ねてアルヴが話を切り出す。
「もしかして、あの噂と何か関係あるんでしょうかね」
「噂?」
「機関で模造神器が盗まれてるって噂ですよ。知ってますか?」
「盗まれてる?」アルヴは視線を向けて興味を示す。
「どういう事だ」声を抑えて顔を近づけて周囲に聞こえない様に話そうとする。
「もう10個以上盗まれた挙句、その辺の管理部が上から圧力かけて情報規制してるみたいですよ」
「これ、こういうところで話していい内容じゃないよな」
「ええ、なので…。とりあえず普通にご飯食べて場所を変えましょう」姿勢を正してティルミは手を挙げる。
すぐに店員がやってきて注文を取る。数分後に注文した物を持ってきた。
二人は早々に食事を済ませて店を出る。外はもう暗くなっていた。それから二人は空を見上げた。
「で、どうする?」
「…お腹もいっぱいですし、少し歩きますか」
「確かに意外と食べてたな」
「先輩は逆に全然食べませんでしたね」
「あんまり食う必要ないからな」
「食事って必要かどうかってだけじゃないですよ?」
「わかってるよ」アルヴは以前も誰かとこんな会話をした事を思い出していた。その人の顔はもうぼんやりとしていて思い出せないが、目の前の後輩を見ていると、なんだかどこか似ている様な…。
「ん、何かついてます?それとも見惚れちゃいましたか?」ニヤニヤとしながらこちらを見てくる。
「バカ言え…考え事してただけだ」目を逸らす。
「本当ですかね」まだニヤニヤとこちらを見ている。曖昧な記憶が少しだけ輪郭を取り戻す。そういえば、前にもこんな事あったな…。思い出そうとするが、ほんの少しだけぼやけた輪郭が形を取り戻しそうになるだけではっきりとせず、結局何も思い出せない。
「…どうしたんですか?」目を開くと今にも鼻が触れそうな距離にティルミがいた。
「あー、近い…」顔を逸らす。
「すいません。あと数秒目を開かなかったらキスするところでした」
「冗談はいい。それよりさっきの模造神器の話だけど」アルヴはそのまま歩き出しティルミに話を促す。
「ああ、それですね。なんか一部のテロ組織が関係しているんじゃないかって聞きましたよ。模造神器でテロなんて…機関は一体どうするんでしょうね」
「模造神器を盗める組織なんているのか?前に保管庫が襲撃された時でさえ一つも盗まれなかったのに」
「相手側からの内通者、もしくは相当強力な後ろ盾があるんでしょうね…犯行の手口から相手側には相当腕のいい錬金術師がいるっぽいですし、専門知識に特化した人物を数人抱えてそうですし、もし本当にテロなんて起こされたら…」
「被害は相当やばいだろうな」横断歩道の前で歩みを止める。信号は赤、車通りは少ないが渡るのは危険だ。アルヴは辺りを見回す。
「お前、家どこだ。もう遅いし一人で帰るのは危ないから…」
「泊っていきます?」食い気味に彼女はそう言って一歩距離を近づけてくる。
「…違う。送っていくって話だ」
「泊っても」
「泊らない」今度はアルヴが食い気味に答えると、彼女は引き下がった。彼女はむすっとした態度で彼の袖を掴んで言った。
「…こっちです」彼女はその袖を引っ張りながら歩き、アルヴはそれについていく。
いつの間にか街の中心部まで来ていた二人は大きなマンションの前で立ち止まった。
「着きました」彼女は振り返ってアルヴを見る。
「ここがお前の家か?」
「まあ、そうとも言えます。機関との契約で提供されているだけですからね。先輩もそうでしょ?」
「…そうだな。じゃあ、俺はここで」立ち去ろうと振り返る彼の手を取り止める。
「どうした?」背を向けたまま尋ねる。
「ありがとうございました。また明日」それだけ言って彼女は走り去っていった。
「ああ、また明日」聞こえない返事をして、彼は街の闇に消えていった。
カードキーをかざしてロックを解除して部屋に入る。
「ただいま」返事の返ってこない暗い部屋の中に向かって声をかける。玄関の開いたドアから入ってくる光が何もない足元を照らす。電気のスイッチに手を伸ばし点灯し、ドアを閉めて靴を脱ぐ。軽い溜息をついて学校カバンを肩から降ろし手に持ってリビングの電気をつける。ソファにカバンを投げてテレビをつけ、適当にニュースを聞き流しながら伸びをする。カバンを持って部屋まで行き制服を脱いでハンガーにかけ、クローゼットに片付ける。はだけたシャツと下着だけの状態になり風呂場へ向かう。
頭にシャワーの水が当たる振動を感じる。水が流れ落ち床や壁に当たる音が響く。瞼の裏に映るのはあの日の光景で、耳に響く音をかき消すのはあの日の彼の言葉…。
「―――無力でも力だ」彼女はその言葉を口にした。自分たちを守るために前に立つ彼の背中が見える。目を開けて水を止めた。
その後、パジャマに着替え部屋に戻った。ドアを閉めてベッドに飛び込む。枕に顔をうずめて叫び声の様な、唸り声の様な…とにかく声を上げた。
「くそぉぉぉ」大声を出した時に吐き出した空気が枕に当たって全部が顔と枕の間に溜まる。空気がおでこと枕の隙間を通って外に出ると前髪がぶわっと跳ね上がった。吐き出した空気のせいで顔が熱くなり顔を上げる。
「……もっと、力になりたいのに」起き上がりそのままベッドの上で背を丸めながら胡坐をかくようにして座り、脚の上に枕を置く。その手を見つめて少し黙り込む。そして枕を脚と胴の間に挟む様にして両手で膝を抱える。机の上に視線を向ける。両親とその間に自分の写っている昔の家族写真を見る。
「……」もう長いこと会っていないけど両親の顔は今でも覚えている。視線を向けて親だと脳が理解していても、言い知れぬ違和感がずっと幼い時から消えなかった。でも最後に機関に入る事を決めた日の二人の顔は忘れていない。偉大な父と勇敢な母を持っていても、その子がそれに見合った力を持って生まれるとは限らない。
『誰かに望まれていても、誰にも望まれていなくても、あなたはあなた』これは母の言葉だ。
『だから、お前は普通で、それでもお前は特別なんだ』これは父の言葉だ。
これは私がすべてを嫌った時に両親がくれた言葉だった。そして―――、
『誰でもいいならその誰かに自分がなってもいいはずだ』私を救った、彼の言葉の一つ。誰よりも眩しく、誰よりも尊敬に値し、そして誰よりも愛しく思える。
「…先輩の言葉」気が付けばスマホに手を伸ばして、前に彼と撮った写真を見ていた。懐かしく思う日々に思わず笑みがこぼれる。画面に触れる指を動かし懐かしい時間を進める。彼とみんなで撮った懐かしい写真、その最後の一枚で止まる。たとえ全員を先輩が忘れても自分は―――みんなは忘れない。二人で撮った記念写真は今もここにある。
「また、こんな風に…みんなで笑えたら」そう言って彼女は画面を消した。
暗闇に沈んだ街の中を街灯の明かりだけを頼りに歩いてく。アルヴは頭に浮かんでくる言葉に耳を傾けた。
「…うるさいな」ざわめきに似たその音は聞き取る事も難しいほど騒がしく彼の思考をかき乱していた。その音を振り払うように頭を横に振って、それから彼は後ろにいる人物に声をかけた。
「さっきからなんの用だ?」彼は背後に立つ人物の異様な魔力を感じ取っていた。振り返ると同時にアルヴは首から下に力を纏いつつ、平静を装いながら暗闇に光る六つの光に向かって言った。
「あんた、何者だ?」アルヴの問いの後、その六つの光が左右にゆらゆらと揺れ動く。それが仮に目だとするならきっとその者は顎に手を当てながら何と答えるかを思案しているのであろう動きだ。
「“オレ”は『グリエスプ』だ―――」彼は喉に何かが詰まった様な音を鳴らした後、そう名乗った。アルヴは自分の瞳に力を流し、無理やり暗闇の中の相手を見えるようにした。そこにいたのは巨大なトカゲの様な生き物で、目が六つあり、二足で人間のように立っていた。
「あんた、“オレ”に覚えはないか?」彼はアルヴと以前にも会った事があるかのように尋ねるが、心当たりがないようにアルヴが首を傾げると少ししょんぼりしたように姿勢を低くして残念そうに小さな声で『そうか…』と言った。
「じゃあ、あんたには手加減しなくていいな」彼は姿勢を正してその六つの瞳でアルヴをしっかりと捉える。
「あんたが管理している模造神器を一ついただきに来たんだが…、渡してもらえないか?」グリエスプはその手のひらを見えるように差し出しながら言う。
「悪いがそれはできない。第一に、俺は模造神器を管理していない」
「嘘だな」グリエスプはアルヴの発言を即座に否定した。
「あんたは“オレ”の主から模造神器を預かっているはずだ。…それを返してもらおうか」グリエスプは差し出していた手を握りこむ。
「……残念だけど、本当にそんなものは知らないんだ」アルヴは嘘をついていない。もちろん、彼がそれを忘れている可能性は否めないが、目の前の様な者を従えている友人は記憶にはいなかった。
「そうか、じゃあ無理やりにでも渡してもらわないと、な?」グリエスプは一瞬でアルヴの目の前まで距離を詰め殴りかかる。しかしその拳は触れる事無く空を殴る。目の前にいた少年の姿は見えなくなっていた。
「おいおい。もしかしてだけど、お前が噂の模造神器を盗んでいる輩か?それともその主ってやつが犯人なのか?ま、どっちでもいいけどさ」アルヴの声はグリエスプの背後から聞こえる。おかしいぞ。アルヴの姿は確かにこの六つの瞳で捉えていた。なのにどうして背後にいるのだ。グリエスプは考える。相手の体温を感じる。確かに背後にいる。距離もそう遠くない、拳を振ればきっと当たるだろう。
「前回の一件で相当消耗したにも関わらず、やるな」グリエスプはそう言いながら振り返ると同時に拳を振るった。振り返る瞬間、その瞳に姿を捉えた、体温も捉えたまま、確かに当たるはずだ。しかし、当たらない。姿がまた消えている。肩に何かが触れるのを感じる。
「お前、使い魔か」アルヴはグリエスプの背後に立ち、彼の肩に手を置いた瞬間、相手が使い魔である事を確信した。だが、やはりその使い魔の魔力は異様なもので、通常の人間であっても信じられない程に強大で大量の魔力を内包している様に感じられた。もしこの使い魔が今、主と直接的魔力によって繋がった状態でないならば、きっと彼の主は稀代の大魔法使いと言ってもいいだろう。アルヴはその使い魔と主の繋がりが無いか探ったがそれは見つからなかった。そうしているうちにグリエスプは彼に三度殴りかかるが、これまた空振りに終わった。
「お前の主は相当腕がいいみたいだな。お前との繋がりを悟られない様によく隠されている。居場所を知られない様に用心しているみたいだな。警戒心が高いと同時に、よほど勉強熱心な証拠だな。並みの魔法使いは使い魔との繋がりを意識しない。ある程度隠すことはあってもここまで完璧に隠しているなんて、相当魔力に詳しいんだな」アルヴは彼から少し離れた場所に立ち、冷静に話す。
「…勘違いしていると悪いんだが“オレ”は今、主とは繋がっていないぞ」それを聞いてアルヴは驚くと同時に隙を晒してしまった。グリエスプは一瞬で間合いを詰め、アルヴの腹に手をそっと当てると自身の持つ魔力をそこからぶつけた。アルヴの体が数メートル吹き飛ばされた。受け身を取ってすぐに相手を視認して追撃を躱し反撃の一手として力を込めた拳で相手を殴り飛ばす。今度はグリエスプが数メートル吹き飛ばされゴミ箱の中に突っ込んだ。
「痛ぇ…」グリエスプは立ち上がりアルヴの方を見るが姿がない。それどころか体温も音も、魔力も感じられない。
「逃げられたか…。まあいい、近いうちにまた会いに行くさ」グリエスプはそう言って自身の足元に伸びる長い影に溶ける様にして消えた。
「虚勢を張ってはいたおかげでバレていないみたいだが、長期戦になると前回の消耗のせいもあって結果的に不利になるな」アルヴはグリエスプと戦った場所からかなり離れた人混みの中に自身の纏う力の一切を解いて、身を潜めていた。グリエスプに魔力を流された瞬間、何かの違和感があったがそれについてはわからない。魔力追跡による追撃を防ぐために流し込まれた魔力は全て禁忌の力によって相殺したはずだが、それでも今は見つからない様にした方が良さそうだ。
「向こうから俺に来たんなら…噂について、調べる必要があるな」アルヴは制服のポケットからスマホを取り出した。
振り子が揺れて、波が揺らいだ。雫の落ちる音がする。目を開いた。ハイリアス・ケルタスは自身のいる閉じた空間の中に浮かんだ幾つかの泡の一つに視線を向ける。そこに映る少し先の未来に溜息をついた。
「ボクはどうしたらいいんだよ、王様」彼はそう呟き、宙に浮いた体をぐるりと回すと地面に足をつき、この空間の出口に向かっていき扉を開いて外に出た。
人混みの中に突然に現れた彼に驚く人はいない。多くの人が行きかう中で突然人が現れても消えても、誰も気には留めない。ここにいる人のほとんどは仕事終わりか、帰宅途中に寄り道をしている学生たちだろう。ハイリアスは喫茶店に入り、コーヒーを一つ注文すると静かにそれが運ばれてくるのを待っていた。そしてそれが目の前に来ると、店員にお礼を一つ言った。彼はカップを持つとまずコーヒーの香りを楽しむ様に、顔の前に持っていき少し離れた場所で止めてその湯気と共にその香りを静かにそっと吸い込んだ。次にそのコーヒーの色を楽しむ様にじっと数秒見た後、ようやくそれを口にした。
「懐かしいな。彼はこうやって楽しんでいたっけ……、君は今どこで何をしているんだい?」自分の顔と天井を映すコーヒーに向かって何かを思い出しながらハイリアスは呟いた。小さな溜息が零れそうになった時、向かいに人がやってきた。
「ここ、いいかな?」ハイリアスは顔も見ずに「どうぞ」とだけ言って二口目を口にした。
「また悩み事かい?」向かいに座った人物はハイリアスに対して馴れ馴れしい態度で尋ねる。
「…フルロフレト」ハイリアスは向かいに座る美しい女性らしき人物を見ると懐かしい日々を思い出した様にその名を口にした。
「久しぶりだね」フルロフレトはそう言って笑顔をつくる。
「髪が伸びたか?」ハイリアスは彼の胸元まで伸びた長い髪を見る。
「そうだね…、少し研究に没頭しすぎてさ。まあ、でもこれも気に入ってるんだ」フルロフレトは自分の髪を一撫でした。
「研究は上手くいったのか?」
「まさか。でも、いい事はあったんだ」フルロフレトは満足気に笑み浮かべた。
「じゃあ、研究は進展したのか?」
「いいや、研究は何の進展もない。でも一つだけ、理解できた……ああ、少し待ってくれるかい?」
「ああ、いいさ」ハイリアスは彼が誰かの話を聞いて頷く様な仕草をするの見ながらコーヒーを二口飲んだ。
「…それで、理解した事ってのなんだけどね。それは『命の尊さ』なんだ」フルロフレトはとても嬉しそうにそれを口にした。
「そうか。それは良かったね」ハイリアスはそう言ってまた一口コーヒーを飲んだ。
「君は前からこれを理解していたんだな。私はこれに気付くまでとても永い時間を必要とした。これからは世界中の命一つ一つとの関わりを大切にしようと思っているんだ」
「いい事じゃないか」
「でもまずは、私たちは王のためにやるべき事がある」
「そうだな」ハイリアスはフルロフレトの雰囲気が変わった事に気がつき、コーヒーを一口飲んだ。
「君はどちらにつく?」フルロフレトはハイリアスの手にあるカップに視線を向ける。
「答えはわかっているだろう?」ハイリアスはフルロフレトと視線を合わせる。
「まだ引き返せるんだぞ…」フルロフレトは視線が合わさった瞬間、ハイリアスの目にある確かな覚悟に気がつき、諦めながらもそう言って引き留めようとする。が、ハイリアスは首を横に振って最後の一口を飲むとカップをテーブルに置いて立ち上がった。
「これがボクの答えだよ。もう変える気も、帰る気もない」そう言い残してハイリアスは去って行った。一人残されたフルロフレトは空っぽになったカップを見つめて静かに安堵していた。
「そうか…、私たちは気付くのが遅すぎたのか―――」フルロフレトは一人、悲し気に虚し気に、ただ呟いた。
学校に登校すると、いつも通り校門のところに立っている先生からの挨拶を無視し、後ろから大声で呼ばれるのをさらに無視して玄関に向かう。
「おはよう」隣から声をかけられ視線を向ける。エリムが靴を取り出しながらこちらを見ている。
「ああ、おはよう」アルヴはそれだけ言って振り返らずに教室に向かった。
席に着くと数名の仲のいいクラスメイトがゲームや昨日のテレビの話をしにやってくる。ふとスマホを取り出し着信を見ると、この前の夜連絡した相手からの返信がある事に気が付いた。
「悪い、ちょっと電話してくる」と言って廊下に出る。もちろん電話をかける訳ではない。相手からのメッセージには機関の部屋の番号が書いてあるのみで、他には何もない。
「ここに来いって事か。放課後に向かいます、と」返信を終え、教室に戻ろうとした所でティルミが階段の方からこちらを見ているのに気が付いたが、気にせず戻った。
放課後、早々に学校を出て機関に向かった。メッセージで送られてきた機関の部屋の前で立ち止まる。
「あの人と会うのは久しぶりだな。大丈夫、緊張する事はない」自分を落ち着ける様に言って部屋のドアを開く。
暗い部屋の中に大きなスクリーンがある。そこに映し出されていたのは都市の地図だった。所々に丸で囲われた場所があり、近くに違う言語でメモが書かれている。
「痛っ」書類の積み重なった机から声がした。
「頭打った~」いくつかの山積みになった書類を足で退けながら別の書類を両腕に抱えて現れた少女がそう言って、抱えていた物を床に置いた。彼女はミリア・ワイエル、アルヴの協力者の一人だ。知る限りでは、この都市で彼女以上に富を持つ人間はいない。アルヴと同学年でありながら、機関に能力的にも金銭的にも多大な貢献をしている人物で、機関に所属しているか否かに関わらず、この都市に住む人間ならば誰もがその名を知っているほどの人物だ。彼女はその後頭部に手を当てながらこちらを見た。
「あら、いたのね」
「大丈夫、ですか?」アルヴは彼女に心配そうに尋ねる。ミリアは空いている方の手のひらをアルヴに向け頷いた。
「軽くぶつけただけよ。気にしないで。それよりも…」彼女はパネルを手に取って操作するとスクリーンに一人と男と複数の魔物の写真が映し出される。
「あなたが襲われたっていう相手は彼、ゼーテル・ラリエスの使い魔の一体。影の使い魔のグリエスプ。ゼーテルとの面識は?」ミリアは別の書類に目を通しながらアルヴに尋ねる。
「いいや、ないはずだが……」
「本当にそうかしら?機関の記録ではあなたとゼーテルが戦った記録が残っているけど?」
「ばかな。それは冗談だろ?」アルヴはそんなはずないと笑ったが、ミリアの真剣な表情に改めて聞き返す。
「…いつなんだ」
「あなたが禁忌の力を手にしてから一年が経たない内よ」それを聞いてアルヴはあり得ないと言った反応をしている。
「まあ、その力を手にしてすぐの頃は色々あったし、そのせいで記憶が曖昧なのも納得できるけど」そう言って彼女がパネルを操作するとスクリーンの写真が消え、また都市の地図が映し出される。
「さて、話が逸れたわね。戻しましょう。このマークの付いた場所は次に模造神器が盗まれると思われる保管庫のある場所よ。あなたには一番襲撃される可能性の高い第三保管庫に行ってもらう。学校の近くだから放課後そのまま行っていいわ。一応、この作戦は明日から一週間毎日行う。それで現れなかったら別の手を考えるわ」
「他の場所に来た場合は?」アルヴは手を上げて彼女に質問した。
「その場合はすぐにそっちに向かってもらうわ。と言ってもほぼ確実にここに来るでしょうけど」彼女はそれを疑っている様子は一切なかった。
「なぜ確実だと?」
「あなたがいるんだもの」ミリアはアルヴを指さして言った。
「もしかして、俺を囮に?」アルヴは冗談のつもりで言ったが彼女は頷いた。
「でも…、俺がいるってわかりますかね?」
「この前の襲撃の事を考えたら、彼にはあなたを見つけるなんて簡単な事だと思うけど?」
「それもそうですけど…」
「何をそんなに心配しているの?あなたらしくない」
アルヴは彼女に自分が感じている違和感と実感の問題を伝えるべきかを考え、結局言えないまま誤魔化した。
「いや…最近の諸々のせいか、俺は少し慎重になり過ぎたのかもしれません。作戦は先ほどのもので問題ないです…。じゃあ、俺もう行きますね」
「もう少しゆっくりしていかない?」ミリアは不自然に態度を変えた彼を呼び止める。疑わしいところがあるからというだけじゃない、長い事彼と話す時間を確保できていなかったという個人的な感情からくる純粋な声かけだった。でも彼はそれを簡単に手を向ける仕草だけして断って部屋から出て行ってしまった。
久しくこちらの世界に出たハイリアスは、フルロフレトとの会話を終えてからこの世界を満喫しようと、街を歩いていた。そこで彼はある人物を見つけてしまった。
「あれは…」その先にいたのはアルヴだった。彼は自分を見ている視線に気が付いたようで、ハイリアスの方を見るとこちらに向かって歩いてきた。
「久しぶりだな、ハイリアス」
「覚えていたんだ」
「覚えているさ。俺が忘れると思ったか?」
「…はは。まあ、長い事こっちに来ていなかったからね」
「そうだな。本当に久しいよ」アルヴがそう言って、二人は互いに顔を見る。
「少し、歩くか」
アルヴはハイリアスの提案に頷く。二人は黙って数十歩進んだ。それからアルヴが先に足を止め、それに続いてハイリアスも足を止めた。
「どうしたんだ?」ハイリアスは後ろにいるアルヴの顔を見ずに、振り返らないまま尋ねた。アルヴが溜息をついた音が聞こえる。振り向こくと同時に彼が言った。
「俺は、間違えていると思うか?」彼が言った言葉の意味は理解こそできなかったが、その顔を見てハイリアスは彼が何か人に言えない事を隠しているのだとわかった。そしてそれを誰にも言えずにいる事も。
「…難しい事を言うな」
「……」ハイリアスの言葉に対し、何も反応を見せない彼を見て、アルヴが今いかに異常な状態なのかを理解した。普段ならば笑って誤魔化したり、冗談交じりに軽い言葉を言ってくるのだが、それもない。作り笑い一つも返さない程に彼が精神的に追い込まれていると思ったハイリアスは彼の肩を軽く叩いて意識を向けさせた。
「間違えているか、間違えていないか。正しいか、悪か。君がしようとしている事の善悪や正否は結局、ただの結果に過ぎない。……君が何をやっているのか、今のボクにはわからない。でも、君が正しいと思うならば、それで君の守りたい誰かが明日笑えるなら進めばいいと思うよ」そう言ったハイリアスの顔を驚いた様子で見るアルヴ。
「それが、君がボクに教えてくれた事だろう?」ハイリアスは続けてそう言って笑った。
「…ああ、そうだね」アルヴは何かに納得したように軽く笑顔を作る。でもその目が未だ迷いに満ちている事にハイリアスは気が付いてしまった。でもそれ以上に何を言えばいいのかわからなかった。今の自分が持ち得る答えはこれしかなかったからだ。
また会うときに必ず話す、とアルヴはハイリアスに言い残して背を向けて行った。
「彼は何を隠しているのだろうか。王様も彼も、何を考えているのかわからない」ハイリアスは空を見る。薄っすらと星が見える暗い青空に、ふぅっと息を吐いてそっと目を閉じる。ほんの一瞬だったけど、次に目を開いた頃アルヴはそこにいなかった。
次の日の放課後、クラスメイトの誘いを断って一足先に学校を出た。保管庫に向かう道を歩きながら徐々に力を体に流す。制服で隠れて見えていないが脚は既に黒く染まり、その一歩一歩は次第に力強くなっていく。そして走り出し、路地を曲がって人目の付かないビルとビルの間にある駐車場のゴミ置き場のゴミを踏み台のように踏み、壁を駆け上がっていく。空に飛び出した。街の景色が一気に視界に飛び込んでくる。
「…っは、はは。俺はまだやれるぞ」妙な高揚感に包まれ、宙でそう呟きぎこちなく笑った。黒く染まった手を見て力が流れている事を確認するとそのままビルの屋上に両手で着地して、また跳ね上がり半回転して今度はしっかりと脚で立つ。少しふらついたがしっかりと立ち上がり前を見る。そして体に力が流れているのを両手をじっくりと見ながら確認する。
「まだやるさ。代償を恐れてちゃ、何も守れないからな」そう言ってアルヴはカバンを持ち直してビルの上を走って、跳んで行った。
ゼーテルはドアを蹴破って部屋に入った。
「まったく、建付けの悪いドアだ」酒を片手に彼はソファに座った。それをぐびぐびと飲み込んで大きく息をつく。
「魔力濃度18%、アルコール度数9%、さすがだな。でもまだ、薄い。後腐れの無いすっきりした味わいだが、魔力濃度がもう少し低い方が一般人には受けるだろうな。オレには少々物足りないが」そう言ってまたぐびぐびと飲み込む。
「ゼーテル様、アルヴが見つかりました」鱗のある女性が横にやって来た。
「ああ、ヤファターム。ご苦労さん」
「彼は第三保管庫に向かっていますが、どうしますか?」ヤファタームと呼ばれた女性はその身を翻す様にして反対側に移動した。その際、彼女の脚が水のように溶けて床が濡れてしまった。
「おい!この鱗女、床が水浸しになっているではないか!せかっく掃除したというのに…主様、申し訳ございません。すぐにキレイにしますので」小さな苗木の様な、細かな枝や葉っぱが髭のように見える、小さな丸いコロコロした精霊が壊れたドアの前でそう言って掃除道具を取りにすぐに走って行った。
「ガフラ!あまり急がなくていいぞ!」ゼーテルは彼が転んで階段や廊下を転がってくるのを心配して大声で言った。が、もう遅かったようだ。
「ああ!ガフラさん!」奥から聞こえる物音と驚いた様な少年の声。きっとまた彼が転んで転がって掃除道具を散らかしてしまったんだろう。
「大丈夫、ですか?」少年はガフラの両脇を持って起こしてやると彼の顔を心配そうに見る。
「おぉ、タルクタ…すまない、まだ目が回っていてな」ガフラは目を強く瞑って自分の頬を叩く。
「掃除ならターも手伝いますから、そんなに慌てないでください」タルクタはガフラを床にそっと置き散らっている掃除道具を手に取る。
「いやダメじゃ。お前は水に弱いだろう。ここはガフラに任せておけ」ガフラはタルクタが手に取った掃除道具を受け取るとせっせとゼーテルのいる部屋に入っていった。
「おやおや、騒がしいようで」ヤファタームが主人を挟んでガフラを嘲笑うように見ている。
「誰かが床を汚さなければこんな事しなくていいのだがな!」ガフラは床にモップをべちゃりと置き掃除を始めた。
「悪いな、ガフラ」
「いえいえ、とんでもございません。主様が謝る事ではないのです」ガフラはそう言ってヤファタームを睨む。彼女はプイっとそっぽを向いて横目でガフラを見て笑った。
掃除が終わった頃、部屋の中の影がゆらゆらと揺らめき、家具がガタガタと音を立てて揺れる。
「戻ってきたか」ゼーテルは落ち着き払った表情で酒をぐびぐびと飲んだ。
「グリエスプ、やつはどうだった」ゼーテルは自分の背後に伸びる長く大きく濃い影に向かって尋ねた。するとその影はみるみるうちに起き上がり形を成し、グリエスプが姿を現した。
「逃げられた。“オレ”でもあいつを追えなかった」
「お前でも…か」ゼーテルは酒瓶を置いて立ち上がる。
「ヤファターム、お前の言っていた第三保管庫とはどこだ?」ゼーテルは体を伸ばした後、小さな魔法陣を展開するとそれに手を入れる。そこからトップハットを取り出し被る。そして手を叩くと杖が彼の右脚の横にまるで渦を巻くようにして立った状態で現れた。彼はそれに右手を置き、杖を掴んで一度床を軽くトンっと叩く。すると荒れた部屋中の家具がガタガタと言いながら揺れ、壁紙が剥がれ落ち、床もバリバリと剥がれ、天井にはひびが入る。窓のガラスが割れ、窓枠も飛び散る様に砕けた。しかし壊れると同時に壁紙や床、天井が張り替わり、窓枠も新たなものが壁からせり出しガラスが張られる。家具は古い壁にびたん!とぶつかると壁に吸い込まれるように消えていき、新しい壁から新品同様の全く違う模様の家具が現れた。蹴飛ばしたドアも床に飲まれ、入り口には新しいドアが現れる。それと同じようにゼーテルのボロボロで薄汚かった服が先ほどの杖のように渦を巻きながら真新しい紳士服に変わった。首元の蝶ネクタイを整える。足先まで巻かれた渦がしゅんっと整い、破れていた靴もピッカピカの革靴になった。足をトントンと踏み靴を慣らす。
「さて、久しぶりにあいつの顔を見てやるか」ハットを軽く押さえる。杖で床をトンと叩くと移動用の魔法陣が目の前に展開する。
少し離れた場所から第三保管庫を見下ろすアルヴ。と、そこから更に離れた位置に現れるゼーテル。どうやらアルヴは彼の出現に気が付いていないようだ。
「ふん、オレの気配も察知できないとはな。お前もだいぶ弱くなったな」彼は杖をそっと立てて、がっかりしたように溜息をつく。杖を突いて魔法陣を展開する。
「もういい。期待したオレが馬鹿だった。…グリエスプ」彼が名前を呼ぶと背後に伸びた影からグリエスプが現れる。
「どうした?」
「アルヴと戦ってこい。今回は逃げられない様にしといてやる」ゼーテルは一度も顔を見せなかったが、その声から彼の本気さを感じ取ったグリエスプは断ろうと思っていたのをやめ、しかたなく引き受ける事にした。
「はぁ…わかったよ」グリエスプはゼーテルが手のひらの上で展開している小さな魔法陣に気が付いた。そこには短剣が握られていて、彼は今それに魔法を施しているのだろう。数秒間その剣を握り、魔法を施したのか、その辺に向かって投げ捨てるように剣を手放した。手放された短剣は落下せず、ゼーテルの隣を浮遊している。そしてまた新たな短剣を魔法陣から取り出しては魔法を施す。一連の動作を繰り返し、合計で三本の短剣を用意した。
「さて、後はこれを…」ゼーテルは三本の短剣をすっとなぞる様に手を横に振ると、三本の短剣は互いに寄り合って宙を舞い、アルヴのいる付近の上空に停滞した。
「ん?何を見ている。早く行け」ゼーテルはグリエスプの視線に気が付き、彼に行動を促す。グリエスプは何も言わず短剣の方を見て、視線を下に落としアルヴを見る。
「殺せばいいか?」
「…ッハ。できるならやってみろ」ゼーテルは鼻で笑った。グリエスプは彼を六つの目の一番外側にある一つで見た後、影に溶け消えた。それを確認してゼーテルは短剣に目をやる。
「頭上にオレの魔法を施した物があっても気が付いていない……今のお前なら本当に、グリエスプにすら負けてしまいそうだな。奴はオレの使い魔だが、オレ以外の奴に負けるのは気に入らないな。だから……証明してくれよ、お前が強いと。」
ゼーテルは手を伸ばす。指をくいっと下に動かすと寄り合った三本の短剣が宙で弾ける。ゆっくりと落下するそれは徐々に広がっていく。もう片方の手にしている杖で地面を強くつく。トンっという音と共に宙をゆったりと落下していた短剣は鋭く地面に突き刺さる。そして三本の短剣を円を描くように結び、魔力によるドーム状の空間が形成された。
異変に気が付いたのは既に空間の形成が終わってからだった。アルヴはすぐさま外部との連絡を取るべくスマホを取り出すが、どうやら魔力によって電波が遮断されているらしい。仕方ないので内外を仕切る壁に向かった。壁に触れた物の通り抜けられず、魔力を流したり、取り込んだりしようとしても上手くいかない。
「独立した魔力の壁?固定されている?いや、魔力に干渉できない様に細工をしているのか。形状や性質の保護ではなく、構造の崩壊に対する防御?魔法で作っている様だが、発動者が常に魔力を送っているわけではない。どこかに設置された装置か何かで常に発動している状態にしているだけか?でも内側にはない。発動者以外は外側からしか開けられないのか。ミリアさんたちが早く気づいてくれればいいけど…」幸いにも第三保管庫の入り口を巻き込んでいる様で、正面から入ろうとする者も侵入不可能な状態にある。入れても玄関でこの魔力の壁に阻まれて先には進めない。逆に言えば、相手はアルヴを封じ込めたまま安全に保管庫に侵入できるって訳だ。とはいえ、それも保管庫の厳重な壁を破壊できればだが。
そんな事を考えながら閉じられたこの中を歩き脱出の方法を探っているアルヴの前にグリエスプが現れた。彼はアルヴの足元から伸びる影から姿を現した。
「またお前か」アルヴは彼を見てすぐに周囲にも意識を向けた。他の敵、あるいはゼーテル本人がいないかを確認する。が、どこにも目の前の黒いトカゲ以外の姿も気配もない。
「お前を倒す…必要はないが。戦ってこいと命令された。それと、前回言った模造神器だが、返す気にはなったか?」グリエスプは淡々と言った。とてもつまらなそうだった。
「当然、答えは一緒さ。俺はそんな模造神器知らない」
「そうか、なら戦って奪う…しか、ない……ナ」グリエスプの背中から数本のとげが突き出し、腕や脚にも刃の様に鋭く弧を描くとげが突き出る。そしてその腕を振るった。アルヴはグリエスプが腕を振り上げたのを見た瞬間、回避するため後ろに飛んた。アルヴがいた場所を真横に切り裂く魔力の斬撃が飛ぶ。背後にあったビルの壁が大きく裂ける。
「久しぶりにこの姿になったが。やはり力の制御が難しいな」振るった腕のとげが溶けた様にどろどろになっているのを見てグリエスプはそう言った。魔力をもう一度腕に集中させ、とげを再形成するが少しの間は切れ味が落ちている様だ。
「あぶないな」あの斬撃を避けながら時間を稼ぐか、あいつをどうにか倒すか。難しい選択だな。前回とは違って相手は本気らしいからな。程よく時間を稼ぎつつ隙を伺うか。アルヴは着地してすぐに力を剣の形状に変えて構える。
「正面から戦う気か?…そうか、そうか」グリエスプは頷く。直後に一瞬で距離を詰め斬りかかる。アルヴは剣で受け止めようとしたが、それが再形成した方の腕ではない事を確認すると体を横にずらし剣の先端を掠めさせ、その切れ味を確かめる。剣は簡単に折れ、破片が宙を舞った。アルヴはそのまま距離を取ろうとしたが、すぐさま次の一撃が迫る。それを残った剣の一部を投げつけ斬撃の軌道を変えさせる。再形成した方の腕だったので剣が砕ける程度で、それ以上先に斬撃は通らなかった。
「もっと丈夫な作りにしないとあれを受け止めるのは難しいか」アルヴは地面に手をつく。時間を稼ぐ…のを重視した方がよさそうだ。あまり力を使うと消耗が激しくなるから他の方法を考えるか。
「魔法は…だめか」魔力を使おうとしたがこの囲まれた空間せいか、上手く地面に魔力を流せない。
「でも錬金術はできそうだな」幸いにも学校で錬金術の基礎は習っている。簡単な壁を作る程度は出来る。元の物質の性質を大きく変える事は難しいが、簡単な形状の変化は出来る。アルヴは地面に含まれる金属成分を操作し目の前に壁を立てる。そして残った成分で簡易的な足場を作りつつ、後ろに下がり、使った足場をさらに壁に変えていく。
「意外と難しいな。集中しないとめちゃくちゃになりそうだ」アルヴはそうして距離を稼ぎビルの中に入った。作戦の為に第三保管庫周辺の建物は早々に人払いをしてあるため無人になっているので当然消灯されている。照明をつければ相手に気が付かれる可能性がある事からアルヴは暗いビルの中を階段を使って移動した。地上五階まで来てオフィスらしき部屋の中に入る。窓はあるが壁際の机の近くでしゃがんでおけば見えないだろう。
「魔力は力を使って変換して体に残さない様にして…後は体温だな」相手が音と視覚だけでなく体温でも位置を把握している事に気が付いていたアルヴは階段を駆け上がった際に上昇した体温を気にしながら対策を練る。普段なら魔力で全身を覆って温度を誤魔化すこともできるのだが、今回の相手は魔力に対して非常に強い感知能力を持つ魔物の類。だからこの手段は使えない。人間は変温動物ではない。だから体の温度を好き勝手に変える事はできないし、力を使って無理やり体温を変えればそれは肉体に非常に負荷が掛かるし、内臓だって正常に機能しなくなって最悪死んでしまう。錬金術に深く理解があり高い技術のある者なら、自分の臓器の性質や肉体の作りを変えられるのだろうが、残念ながらアルヴには学校の授業で義務付けられている程度の知識と技術しかない。こんな時、本来なら真っ先に禁忌の力を使いグリエスプと正面から戦う事を選ぶのだが、なぜか前回の最高管理者バゼアとの戦い以降、力の制御が不安定なうえ、前よりも引き出せる力の限界が低くなっている。そのため、アルヴは現状の自分の力だけでは負ける可能性があると判断したのだ。
「しかし変だな。体の消耗自体は回復したのに…くそっ。どうしてこんな時に使えないんだ」その理由には少しばかり見当がある。以前のバゼアとの戦いの際に力の代償を支払う過程を無視してしまったのが原因だろう。あの時、強制審判権による戦いをする前、彼が意識を手放し代償を支払うはずの状況で、ティルミの力によってその苦痛から解放された事で代償を払えなかった。
「あいつの力のお陰で助かったのに。俺は…俺が少し楽になると誰かが変わりに苦しむ」自分の力が弱まり他人にその埋め合わせやしわ寄せが行くのが嫌だった。アルヴは代償が何なのかを理解していないが、それを払う事で以前と同じ様に力を使える事には随分と昔に気が付いていた。だからずっと支払い続けてきた。先に払う事は試した事がない。
「できるだろうか…」目を瞑り意識を集中する。あの空間を想像する。耳鳴りが聞こえてくる。代償を払う、その瞬間を想像する。アルヴは誰に聞こえる訳でもないのに言った。
「代償を払う。だから、力を…」答えも聞こえなかった。誰も答えてはくれない。力が戻ってくる訳でもない。
「だめか。」そう呟いた瞬間、アルヴは迫る魔力に気が付いた。すぐに立ち上がり窓を破って外に出る。落下しながら自分のいた階が裂けるのを見る。破片や瓦礫と共にアルヴは落下していく。そして地面に着地すると下敷きにならない様にすぐにそこから移動した。
「いつまで逃げる?“オレ”はお前が動かなくなるまで戦えるぞ」逃げた先でグリエスプが斬りかかる。首をかすめる寸前でアルヴはそれを避け、距離を取る。すぐに追いかけるようにグリエスプが迫り、今度は背を丸めその身から突き出した背のとげで彼を突き刺そうとする。アルヴは壁を蹴り上げそれを避ける。宙を舞い、グリエスプと位置を入れ替える。丸めた体を戻し、壁に突き刺さったとげを抜き、アルヴに歩み寄る。
「なあ、頼むから渡してくれ」
「俺は本当に知らないぞ」アルヴの答えにグリエスプは再び斬りかかる。腕のとげは既に鋭さを取り戻しており、軽く一振りするだけでも空気が切れた。それを躱しつつ一歩ずつ後ろに下がる。
「嘘はいい。お前以外にあれを持っている者はいない!」もう一度全力の斬撃を放つ。アルヴはそれを避けつつ瓦礫に触れる。そして瓦礫を錬金術で壁に変えつつ、また距離を取る。しかしグリエスプはそれを切り裂き追ってくる。
「お前たちの探している物はなんだ!」アルヴは力を脚に流し跳ぶ。斬撃を避けつつ建物の隙間を移動していく。ビルの壁に着地すると、グリエスプがそれを追って着地し、ガラスが砕け散った。二人は互いに正面から見合う形になった。
「“オレ”の主の使い魔の一人。ファルツを封じ込めた模造神器・龍火。管理権限を持っているのはお前ただ一人だ。今この場になくとも、どこにあるのかは知っているはずだが?」グリエスプは構えを解いて、落ち着いて冷静に言った。
「俺は…本当に知らない」その回答は聞き飽きていた。もちろん、彼が嘘を言っていない事には既に気が付いていた。だが、グリエスプはそれでも彼に問う。
「本当に知らないか…」そして切り裂く。斬撃が壁を伝う。瓦礫とガラス片が散って降り注ぐ。アルヴは斬撃を避け、覚悟を決める。逃げられない。時間ももう十分と言っていいほど稼いだはずなのに助けは来ない。もうここで戦うしかない。そして倒すしかない。
「くっ…!やるしかないか」アルヴは力を引き出す。今出せる限界まで。剣を作る。今度はより精巧に、硬度に、強く、鋭く。全身に纏うのは体を速く動かす為に必要な最低限だけ、反応速度の為に意識にも少しだけ力を流し、残った全部を剣にする、刃に込めるんだ。
「……。」グリエスプは彼が本気になったのを悟った。心の中で溜息をついて、自分も覚悟を決めないといけないな、と思いつつもなかなか気がのらない。だが、彼が作った剣のその刃を見てグリエスプはようやく自分が引き返せないと知って全力で戦う事を決める。
「ついて来れるか?」グリエスプは挑発する様に言って手を前に出し、かかってこいと手招きする。アルヴは剣を構え、目を開く。真っ直ぐと自分を見つめる彼の目は飛び散るガラス片に反射したわずかな光さえ切り裂くほど鋭く、肌が裂けるような感覚に襲われる。全身の鱗が逆立ち自ずと変異を始める。腕と脚、背中のとげのある周辺の鱗が変異して鋭い逆鱗になる。皮膚が触れるだけでも裂ける程の鋭い逆鱗はわずかな風の動きでさえ切り裂き、ひゅぅひゅぅ、と小さな音を立てている。
剣を振るった。真っ直ぐと上に向かって。壁に立っているこの状況的には横に振るったと表現するのが正しい見方かもしれないが。振るった剣の先は寸分の狂いもなく、一切の揺らぎも生まず、ぴたりと止まる。静かに空気が裂ける。衝撃も音を消して、忍び寄る様に静かに斬撃が走る。グリエスプの反応が少しでも遅れていれば、きっと今頃半身が斬り離れていたかもしれない。間一髪で避けた彼はその身を揺らす様に動き、横回転してその勢いを生かしたまま腕を振るった。魔力の斬撃が飛び散る。身を反らして斬撃を躱しつつそのまま体を重力に任せ壁に擦らせながら落下しつつ距離を詰める。目前にして身を起こし飛び上がると同時に落下の速度と重力を利用して刃に勢いをつけ振るう。グリエスプは片腕のとげの刃で受け止める。今度は刃こぼれ一つ起きない事を確認したアルヴはそのまま剣を弾きつつ身を回し、もう一度落下しつつ斬りかかる。グリエスプは彼を跳ね除けるように弾き飛ばす。壁に手をついて、片脚で蹴り上げ向かいのビルの壁に跳び移る。六つの眼でしっかりとアルヴを捉えたままグリエスプ彼を見ていた。着地してすぐにもう一度、壁を蹴り上げグリエスプに斬りかかるアルヴと、それを見て同じく壁を蹴り上げ斬りかかるグリエスプ。二人の刃は宙でぶつかり合った。激しく魔力と火花が飛び散る。一秒か二秒ほど、二人は宙で停止したように見える状態になる。拮抗した力が互いの勢いを殺し合う。同時に力を込めて相手を押し出す形で元いた壁面に着地する。道路を挟んで二人の視線は地上から離れた位置で交わる。静かに二人は視線を交差させつつ、壁をゆっくりと歩く形で上に向かう。そして走り出し屋上にたどり着き壁がなくなる所で同時に再び斬りかかる。宙を舞った二人の刃がすれ違い、その瞬間に生まれた発光が辺りに散る。ビルの間を抜ける風が大きく震える。
互いに屋上に着地し、向かい合った。刃を再形成しようと力を流しつつ、グリエスプはそのとげを見せつけるように自分の顔の横まで持っていき振るって見せた。アルヴは再び構えを取って剣先を相手に向けたまま姿勢を少し低くする。反撃の構えだ。グリエスプはそれを知った上でアルヴの元に飛び込んだ。道路一つを跨いで宙を舞ってその身を翻しつつ、回転によって勢いを生むと同時に空気を裂いて、その一撃がより鋭くなるように全身を振るって繰り出した。一切の抵抗を受けずに叩き付けられるその一撃を刃で受け止める。それと同時に体を捻り力を受け流し、刃がとげから離れると同時に受け流した力を逆転させるように剣を振るい斬り返す。グリエスプはもう片腕の刃でそれを受け止めるが、その一撃は強く鋭く、とげに数センチ食い込むと綺麗にスパッととげが切れてしまった。そのまま腕の半分、人間ならば骨の通っている位置まで刃が食い込み痛みを生んだ。
「…ッッ!」グリエスプはすぐに冷静に腕を刃と同じ方向に動かし引き抜く。アルヴの上を飛び越える、というよりかは上に飛び込む形で後ろに倒れ込んだ。しかし地面にほんのわずかに片腕を擦った程度で姿勢を正し身構える。腕から魔力が零れるが、それをそっと押さえると全身の鱗を震わせ、すぐに手を離す。傷口は塞がり、魔力が止まってる。驚異的な自己回復能力、というべきなのか。この空間に満ちる特異な魔力の流れの恩恵なのだろう。彼は使い魔だから、主の魔力を使って治せたが、人の身のアルヴではそうはいかない。力を使って自己再生は出来るが、今はそんな事に力を割いてはいられないし、それをした上で戦えるほどの余裕はない。
「さすがだな…アルヴ・ソイルス、以前よりも洗練された動き。何よりも力の使い方が素晴らしい。真っ直ぐと獲物を狩る眼、鋭く丁寧な一撃、的確な間合いの維持……本当にお前は強い。全くもって弱くない」グリエスプは彼の戦闘を評価する様に語る。
「成長したという事か…。変わるべきは“オレ”の主なのかもしれないな」グリエスプは立ち上がり、アルヴを六つの瞳で見ながらとても穏やかな声色で言った。
二人はある気配に気が付いた。大きすぎる魔力が頭上に迫っている。視線を向けた先には一人のゼーテルが宙に展開された魔法陣の上に立っている。
「グリエスプ、今のは聞かなかった事にしてやる。それとアルヴ・ソイルス、久しいな。オレの事を覚えているか……というのは散々いろんな奴から尋ねられた事だろうから、この際どうでもいい。が、やはり龍火の在りかについては…白を切るか。困ったな」ゼーテルは杖を足元の魔法陣にトン、トン、と一定の間隔で突き考える素振りを見せる。
「お前がオレに渡してくれないとなると、俺は管理機関に尋ねる必要があるな」妙に含みのある言い方をする彼を睨むアルヴ。
「お前がゼーテル・ラリエスか」アルヴは彼から溢れる魔力でそれを確信した。
「そうだ。オレがゼーテル・ラリエス。かつてお前と戦い、そして負けた。だが、今回はそうはいかない。オレが勝つ。そして、もちろん龍火も返してもらう」ゼーテルが杖で足元の魔法陣を強くトンッとつくとグリエスプを囲うように球体状に魔力がバリアのようにして張られる。そしてそれは徐々に上昇しゼーテルと同じ高さで止まる。
「だが、今回はここまでだ。また、近いうちに会う事になるだろうが。まあ、待っていろ」彼がそう言うと二人の背後に大きな魔法陣が展開される。その中心が歪む様にねじ曲がり暗くなる。二人はその中に吞み込まれる様に消え、魔法陣が閉じる。
「逃げられたか…」アルヴは力を解く。それと同時にこのあたり一帯を囲っていた魔力の壁が消えていく。ようやく終わったのかと安堵しその場に座り込む。夜はまだ明けない。暗い街の中、ビルの屋上で空を見上げた。
後に、アルヴはミリアに呼び出され、またあの部屋を訪れていた。彼がグリエスプと戦っていた間に、外では何者かに第三保管庫が襲撃を受けていたらしく、模造神器が二つも盗まれていた。アルヴの状況については、外からあの魔法の存在に気が付いた者は現場には一人もいなかったようで、保管庫の襲撃中に一切の動きを見せないアルヴを不審に思ったミリアがその事態に気が付いたという。
「今回の作戦は失敗ね…」
「すいません」
「謝る事はないわ。ゼーテルに関して言うなら足止めもしていたし、進展だってあった。彼の狙う模造神器が分かっただけでも十分な成果と言える。ただそれはあなただけを見た場合の話だけど」ミリアは手元の書類をまとめて投げ捨てた。
「保管庫の中の模造神器が盗まれた以上、機関としては損失が大きい。というか、都市内でも最高レベルの内部警備をされている第三保管庫が破られたという事実が大きな損失になる。今は情報規制でなんとか誤魔化しているけど…」
「そう長くは騙せませんよね」
「……」深く考え、思い悩む。沈黙が部屋を満たしていく。もうすぐ朝がやってくる。今日はとりあえず帰宅しよう、とアルヴが提案するとミリアもそれに同意し、二人は解散した。
ソファに体を投げ捨てるように座り、深く溜息をつく。後ろにいる数人の、あるいは数体の使い魔が彼の背中を不安そうに見て、時々顔を見合わせては何も言わずに首を振ったり、手を伸ばしては触れずに戻したりしている。
「……挑むか」ゼーテルは閉じていた目を開き、天井を眺めながら呟いた。使い魔たちは耳を疑い、恐る恐る聞き返したが、返ってくるのは沈黙だった。もう数分そのまま動かずに静かに呼吸を繰り返してゼーテルは何かを決断したのか、勢いよく立ち上がる。
「よし…、決めたぞ。世界管理機関、そしてアルヴ・ソイルスに宣戦布告をする。勝って『龍火』、もとい『ファルツ』を取り戻す」彼の言葉にその場にいた使い魔のほとんどが驚きか喜びの声をあげた。彼らに挑むのは危険すぎると忠告する者、それでこそゼーテル様だと歓喜する者。そして、つまらなそうに部屋を出て行く影。
夜の闇に溶けて、グリエスプは空を見ていた。
「…らしくないな」一人で呟いた。誰にも聞かれていないと思っていた。だが、そいつは気が付いた時には既に隣にいた。
「どうしたんだ」静かにそこに座ってその鱗を撫でてくる彼はゼーテルの使い魔の一人、雷の使い魔ゾスワル。
「ああ…、いたのか」
「いた、というか来たですね。僕は主に呼ばれてここに来ました。数分前までは都市の中心にある一番高いビルの屋上で眠っていました」
「……。ゾスワル、お前も参加するのか」
「管理機関とアルヴさんに挑む…というのはあまり気乗りしないですが。これも主の決定ですからね」男は鱗を撫でるのをやめ、明けていく空に残った夜を名残惜しそうに眺めた。
「お前の意思はないのか?」グリエスプは彼を少しバカにしたように尋ねる。
「いえ、ありますよ。個人的に管理機関が現状、この世界の脅威に対してどれだけの力を持っているのか、それからアルヴさん……彼が今どうなっているのかを知りたいのです。主や我々という大きな勢力一つ、余裕で退けられないなら―――こうして話している事もできなくなるでしょうし」そう言ってゾスワルは立ち上がり、激しい光と共に姿を消した。残った影は一人また溜息をついて昇る朝日を見る。
「―――あいつらには、十分な力がある。それに、アルヴ・ソイルスは、“オレ”……いや、“オレたち”が挑んではいけない相手だ」それでも彼もまた自分の意思を隠して、主の命令に忠実な使い魔を演じるのだ。影が長く伸び、朝日が昇り、溶けるようにその場から消えた。
ミリアはまたあの部屋にいた。それは前回の反省をするため……ではなく、今回はエノードと、ある事について話し合う必要があったからだ。
「―――で、あなたの能力で彼の記憶に干渉してその場所を探る…というのは?」
「言われるまでもなくやろうとしたけど……彼の記憶を覗くのは危険すぎる―――」ミリアは一度顔を背けた後、天井を見た。
「……。記憶を覗くというのは出来ないなら感情は?」
「そもそも彼の内面を覗くという行為がどれだけ危険だか理解していないようね」ミリアはエノードの提案に呆れた様に溜息をついた。
「多くの人が、彼の内面に触れようとして失敗している。何も見えないだけならまだしも、何かを見てしまった者たちは皆、精神を何かに蝕まれたかのように異常をきたしている。それまで何の異常もなく、問題もなく、健康だった者でさえ関係なく問答無用でね。私のように能力的にほぼ絶対の耐性を持っていないと正気を保ったまま内面に触れる事さえできない」
「でも、耐性があるあなたなら可能なのだろう?」エノードは懲りずに言った。
「はぁ…。あのね、確かに私は『ほぼ耐性がある』と言ったの。完全じゃない。確かにそれで正気を保って内面に触れられるけど、でもそれ自体が正気じゃないわ。そもそも、私も触れる事は出来てもその後は正気を保つ事で精一杯。もし少しでも気を抜けば狂ってしまいそうになる。それに、一度頼まれて触れた時でさえ万全を期して臨んだのにも関わらず、一時間以上思考に乱れが生じたのよ。これでわかったでしょ?大体、彼が嘘をついていない事は内面に触れずともわかるわ」彼女は少し苛立っているようだ。
「あなたの言葉を疑っている訳じゃないが、彼が嘘を言っていないという理由がわからない。まさか、姉として―――とか言う訳じゃないだろうな?」エノードは言葉の通り、彼女を疑ってはいなかった。が、単純な好奇心から更に挑発する様にそう言ってしまった。それがまずかったようでミリアは完全に起こった顔でエノードにずかずかと歩み寄る。大きな足音が聞こえてきそうな、そんな歩き方で彼の前に立つと彼の眉間を指さすように人差し指で触れた。
「そんなに言うなら私が見た“断片”をあなたに直接共有してあげるわ」
彼女が触れた瞬間、エノードの脳内に流れる断片の記憶。数々の悲鳴と絶叫、苦痛と怨嗟の感情。絶望が脚を掴み、死が肩を叩く。目を覆うように血にまみれた手が背後から伸びる。視界の端には砕け散ったガラス片に映る美しい思い出の数々。それに手を伸ばして救いを求めるが、すぐに終わりがやってくる。ガラス片は全て粉々に砕け散って風に吹かれてしまう。体は背後から大きな刃で貫かれ足が浮く。地面に届かず浮いた脚と無力にも垂れた腕をさらに槍で貫かれ、体には銃弾が撃ち込まれ、さらに切り刻まれ、終わらない苦痛が彼を襲ってくる。その痛みの一つ一つを感じると同時に美しい思い出が砕けるのを感じる。体はとうに限界を迎えているというのに死ねず、心も壊れる事を許されない。彼は叫ぼうとしたが声は出ず、涙を流そうにも何も流れない。それでも彼が本当に絶望しないでいられたのはその全ての瞬間にたった一瞬だけ、希望に満ちた光があったからだ。それはまるで誰かの笑顔のように温かく、その音は微笑みのように優しく、心地よかった。
手を軽く叩いた音が聞こえた。
「もう戻って来なさい」ミリアの言葉で現実に戻される。床に崩れ落ちるように膝をついて呼吸を整える。全身から発汗し、涙が流れる。直後にエノードは機関の綺麗に掃除された床に向けて嘔吐した。
「うわっ…ちゃんと後で掃除してよ」ミリアがそれを見て後ずさりしながら言った。
「あぁ……。すまない。俺が悪かったよ。もうこんな事頼まない」エノードは反省したようで立ち上がった後、ミリアに対して深く頭を下げて謝罪した。
「わかればいいのよ。それと、もういいかしら?」
「ああ、何とか狂ってはいないらしい」
「当然よ。一応、私があなたの精神が壊れない様に守っていたのだから」
「それは、ありがとう。でもよくこんなものを見て君は狂わずにいられたな。耐性があってもこれは―――きつすぎる」エノードはもうこんな事は御免だという様に目を背けた。
「私も耐性があってもかなりのダメージを受けた…ってのはさっき言ったけど、この程度ですんでいるのは何よりもあの光のお陰だと思うわ。あなたも見たでしょう?」
「ああ、あれは一体何なんだ?」
「さあ?本人に聞いてもわからない、としか言わないから。わからないのよね。ただ彼の内面に触れた全ての人があの光を見たと言っている。もしかしたら彼の内側が侵入してきた他人を壊さない様に、反射的に守ろうとしているのかもしれないわね。分かりやすく言うなら、あれはアルヴの“優しさ”に位置する感情の一つかもしれないわね」
誰かの期待を背負う事には慣れているつもりだ。負担も、非難もそうだった。
「誰かに背負わせたくないだけ、と言えば聞こえはいいが―――」それは自分勝手なのかもしれない。アルヴは握りこんだ手のひらをそっと開いた。何も握られていない。何も掴めないこの手で、自分はいつか何かを掴めるのだろうか。そんな事を考えながら街を歩く。
ふと歩みを止めて空を見上げる。
「あの星の全てがいつか、あるいは既に消えた光なら―――俺たちは何を希望に歩いて行けばいい」惰性で過ごす日々も悪くはない。当たり前の様にある目の前の日常の些細な事に幸福を見出して、そういうものを大切にして、いい人生だと笑う。でもそれには光が必要だ。どんな日常にも光が無ければ些細な幸せも不幸も見えないのだから。でも、もう俺にはそれが見えない。別に日常に不満はない。いつも通りだ。みんなが笑って日々を過ごしている。何も悪い事なんてないのに。なぜだろうか。見えないのだ。その先に自分が共に生きる未来も、これまで歩んできた道にあるはずの自分の足跡も。
別の日。ティルミは裁定者に連れられ、ある場所に来ていた。暗い、大聖堂のような作りの大きな部屋。高い天井から吊るされたシャンデリアが揺らいでいる。裁定者が持った燭台の光を頼りに奥に進んでいく。囁く様な息遣いが聞こえる。何か大きな…いや、大いなる者がいる。
「ここはなんです?」ティルミは不安げに周りに広がる暗闇を見ながら尋ねる。
「以前に、取引をしたのを覚えているわね。あなたの慕う先輩を助けるために力を貸す代わりに、あなたの力を借りたいと。そう伝えたはずなんだけど」
「覚えています。でも、それは…秘星の力を借りた時点で果たしたはず」
「そんなに簡単な望みなら、エノードにだって叶えられるわ」彼女は鼻で笑うように返す。
「……」ティルミは少し不機嫌な顔をして裁定者の背中を睨む。
「あなたにしてもらいたいのは彼…」裁定者は手に持っていた燭台をそっと宙に投げる。すると燭台は自らの意思で飛んでいる鳥の様にゆっくりと上へ向かい、次第に明かりは強さを増して周囲を照らす。天井まで光が届くと一斉にそこに吊るされていた明かりのない蝋燭に光が灯り、この広い部屋を照らす。
「…っ」ティルミはそこにいる者を見て一歩退いてしまった。
「彼は、来星。八星集会の一人にして、星天が恐れた星の神の一人。終着点を知る者、かつて超越者と呼ばれていた者」淡々と裁定者は語る。そこにいる者をまるで本物の神であるかのように厳かなものとして、英雄の様に讃えられるべきものの様に。しかし、そこにいた者はどうだろうか。とても神というには醜悪な、英雄というにはちっぽけな、ただの黒い肉塊の様な姿の何者か…だった。
「私は、彼との対話の機会が欲しい。でも、見ての通り、今の彼は話すことも、聞くことも、見ることも、ここから出る事も出来ない。ただ感じる事しかできない」
「これが、来星…これもあの恐ろしい力のせいで…」ティルミは驚きを隠せなかった。それはそこにいるどちらか片方の者に、ではなく、等しい二者に対しての驚きだった。そしてそれに裁定者は気が付いていた。
「この…そうだな、おぞましい見た目にそう狼狽えてしまうのも理解できる。それに…裁定者とはいえ来星との“対話”の機会を望むなど少々身勝手な事だと十分理解している…が、それでも必要なんだよ」裁定者は真剣な眼差しでティルミを見た。彼女は最初、戸惑った。しかし、それも数秒で普段通りの彼女に戻って、真っ直ぐと立って、裁定者の方をしっかりと見て、頷き、承諾した。
「…ありがとう。」裁定者はとても丁寧に深く頭を下げた。