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第2話 わがまま

 アルヴはこの日、機関に呼び出されていた。が、その場所は機関の施設ではなく、学校の使われていない空き教室だった。

「悪いな、日直の事で遅くなった」アルヴは教室に入るなり衝撃を受けた。それは物理的なものではなく、意識的なもので、目の前の光景に妙な既視感を覚えた事によるものだった。

揺れる長いツインテール、薄い青紫色の髪をなびかせ、その少女は窓際の机に腰を掛ける様にしていた。身長が低いのか、床に足が付いておらず、その脚をゆらゆらと交互に揺らし、まるでブランコで遊ぶ子供の様にして、外の景色を眺めていた。そして少女はそっと振り返りアルヴの方を見る。視線が重なる。一瞬、脳裏に何かが浮かんでくるが、それはぼやけたまま鮮明にならず輪郭はもちろん、色さえ掴めない。

風が頬に触れて現実に戻ってくる。視線を少女に戻す。少女は自分の頬に触れる髪を手を触れる様に指で優しく押さえて微笑む。

「こんにちは、先輩」その言葉から数秒間、アルヴは彼女の事を見つめてしまう。

「どこかで会ったか?」アルヴは先ほどから感じる既視感を確かめるため、彼女にそう尋ねる。彼女は心の内で思った。『この人は本当に自分の事を覚えているのだろうか』尋ねようと思ったがそれを言葉にして、確かめるのが怖かった。だから彼女はその気持ちを隠すように、いたずらをする子どもみたいな目で、からかう様に笑って言った。

「どうでしょうね?」その表情にアルヴは既視感を感じなかった。だから彼はその感覚を気のせいと思うようにした。

 机から降りて本題に入る。彼女は自分の端末を取り出し簡単に操作してアルヴの方を見てポケットを指さす。すると彼の端末の通知音がタイミングよく鳴り、画面を確認すると彼女の機関員としての情報が送られてきていた。

「今日からあなたの特別監視役になった。ティルミ・ファリニアです。改めてよろしくお願いします、先輩」彼女は両手を後ろにしてアルヴの顔を覗き込む様に首を傾げながらアルヴと視線を合わせてそう言った。アルヴは端末を制服のズボンのポケットにしまって彼女を見る。

「特別監視役、以前から話は聞いていたけど…まさか同じ学校の中等部の生徒だったなんてな」

「危険指定、あるいはそれに準ずる人物につけられる安全装置的役割。先輩はそんなに危険だと判断されたという事ですね。さすが…と言っておきましょうかね?」いたずらな笑みを浮かべる少女の言葉に対してアルヴは何も言わず、ただ彼女を見ていた。

「そんな怖い目で見ないでくださいよ」彼女は姿勢を起こしてアルヴを見た。

「んで、どうしてお前なんだ?まだ中学、子供だし、実力的にも俺の監視役には不十分なんじゃないのか?」

「ほーぉ、言いますね。試してみます?」ティルミはアルヴを挑発する様に言った。二人は力を一切発せず、ただ見つめ合う。その間には沈黙が流れ、視線が交わる。数秒して二人は口を開く。

「俺の力が何かわかった上でその挑発をしているのか?」

「当然です。私は先輩を触れることなく無力にできます。だから先輩には勝ち目はありません」

「それが人間の感覚で捉えられない程の速さでもか?」アルヴは彼女が言葉を言い終えた直後に既に背後を取っていた。

「たとえ神であっても、私の前ではただの無力な存在になります。こんな風に」彼女は背後に立ったアルヴの手を握り指を絡ませる。アルヴはその行動に驚き視線を向けるがそこには何もなかった。本来その手にはアルヴが力で作り出した刃があるはずだった。だがそこには確かに絡み合った二人の手があるだけだった。

「なんでだ。いつ解除された」

「だから…あなたは私の前では“普通の先輩“に過ぎないんですよ」彼女は嬉しそうにその手を握り笑った。

「……。」アルヴは認めざるを得なかった。かつて自分の能力を解除できた人物は記憶にある限りで彼女で二人目になる。一人目はもう思い出せないが、二人目が自分の監視役になった事は何かの縁だろう。これはある意味、自分の力を制限するいい機会になる。そして彼女の実力の証明にはこの手の接触だけで十分だった。

 そしてアルヴは彼女に向かって言った。

「わかった。今日からお前が、俺の監視役だ」それを聞いて彼女は花が咲く様な明るい笑みで喜んだ。

 空が震えた。ティルミはそれに気がつかなかった。が、アルヴは気が付いた。その震えは誰かの心からの叫びによるものだと。

「ごめん、ちょっと用事ができたかもしれない」アルヴはティルミにそう告げて教室を飛び出していった。一人残されてティルミは呟く。

「また、私は……結局力になれないんでしょうか?」彼女は俯きながらそう呟いた。自分の無力感に、不甲斐なさに、彼の背中を見るたびに強く感じてしまうんだ。彼の監視役に選ばれても私はまだ足りない。そして彼女は髪を指でそっと流してから窓の外を見る。流れる星はない。ただ世界を見下ろすだけだ。


 空が揺れる。破壊の力はその矛先をあらゆる者に向けられている。管理者、そう名乗った者は彼女に対して持っていた対抗手段を既に半分も使ってしまっていた。残ったのは自分の持つ模造神器、そして魔法札数枚のみ。彼はその手を空に掲げて笑った。

「何がおかしいんですか?」エリムは彼の突然の行動に首を傾げる。それは彼にとっての最大の演技だった。いつもこうして窮地を乗り越えてきた。笑う事、そうして相手の思考や行動を止める事、そこで生まれた時間に全てをかける事。これまでずっと上手くいった。だから今回もそうだろうと思っていた。

だが違った。彼は掲げた手で空気を握る様にして腕を振るった。そして取り出した魔法札をその手で掴み、拳を地面に叩きつける。足元に魔法陣が展開される。

「これは…」エリムは彼を見ていた。興味なく、ただ無駄な行動であると、そう思う。実際彼女にとっては無駄な時間だった。いつでも相手の命は自分の手の届く範囲にある。だから待つ必要なんてない。でも、なぜだろうか。何かを期待しているのは。この手を汚さずに済むならばと思ってしまうのは。誰かが自分を止めてくれると思っているからか。

「錬金術だよ。自然の全てに魔力があるなら空気からも魔力を変換できるはずだろう。この魔法札はな、決められた属性の魔力以外では発動も出来ない上に、その要求量も多い。そして錬金術師はその性質上、肉体に乱れた魔力を蓄積してしまう。簡易的な魔法程度であれば問題なく使えるが、これらの物は使えない。だが自然の物を魔力へ、魔力の属性の変換を異なる物へ、それらを錬金術で行えるなら使用できるって訳だ」彼は勝ちを確信していた。今この瞬間さえも、この言葉さえも時間稼ぎなのだから。言葉にした通り要求量が多い、だから発動の為の最初の段階、つまり魔法札に印された魔法陣の展開。これだけでさっき変換した魔力を使ってしまった。だがこの話の間に半分の魔力を変換できた。

「魔力を、錬金ですか……そういう事も出来るんですね。もっと学んでおけばよかったですかね」エリムは悲しそうに遠い日々を思い出す様な表情で言った。

「なんでそんなに悲しそうな顔をする。君は破壊の力ですべてを壊してしまう存在なのに」男は疑問を抱いた。情に流され戦況を不利にして敗北した仲間を多く見てきた。だからこそ彼は冷静に彼女を分析する。ただきっと彼には理解できない。どこまで行っても一人の人間である少女の心は、ただの化け物としか思っていない人間には理解できるはずがない。

「あなたにはわからないですよ」少女はその美しい顔で美しい声でただ平然とそう告げた。それはもはや慈愛の感情を錯覚させるほどのもので、男は一瞬思考を止めてしまった。

「―――しまった」そう気づいた時、彼女は手を前に伸ばしていた。そして彼が回避行動を取ろうと叩きつけた拳を持ち上げ、魔法札の使用を中断すると同時に彼女はその指を鳴らした。手のひらが上に向くようにして綺麗な腕を伸ばしきって、その細い指が鳴らした音が周囲に響く。そして男の肉体に穴が開く。それは地面についていた右腕、右肩、それから腰の右半分までの胴体を綺麗にとらえた一撃が直撃した。破壊の力の矛はそこから彼の肉体を抉る様に貫いて血しぶきと骨肉、臓物を混ぜ合わせた肉塊をまき散らした。彼の肉体を貫いた矛は彼の後ろまで突き抜けた後ボロボロの崩壊し、新たな矛が彼女の周りに作られていく。男は思う。『ああ、こうやって自分は死ぬのか。自分と同じ手段で隙を作られて……思考を止めてしまって。……そうか』

「さようなら。せめてもっと人の気持ちを理解できたなら、あなたを殺さずに済んだのに」彼女はまた悲しい顔をした。それを見て男は気が付いた。彼女も一人の人間なのだと。なぜなら今この瞬間、自分を殺そうとしているにもかかわらず、彼女はそれをしたくないという意思を持っているのだから。それが表情に現れているのだから。そしてさっきのあの表情はきっと、もっと。

「普通の人間として生きたかったよな」男は微かな声で音を出した。その音は少女の耳に届いた。彼女はその手を止めた。男に致命傷を与えたままとどめを刺すのを躊躇った。

「だから負けたくないんだよ」男は呟いた。こんな事に気が付いて、抹消した後に罪の意識を抱えたくはないんだよ。

「お前たち…抹消対象を、同じ……人間だと…思ってしまったら。―――ダメだなぁ」男は自分の血に濡れた顔で笑みを浮かべて残った左腕を伸ばした。その手に突然現れたのは彼が持ってきた模造神器。それを使おうとするが、エリムはそれを許さない。それが視界に映った瞬間、彼女は指を鳴らした。破壊の刃が彼の腕を斬り飛ばす。宙を舞う腕とそれに握られた模造神器は半回転した後、地面にぼとりと落ちた。

「あーあ、ほらね。やっぱり完全にこっちが悪役じゃんか…」男はそのまま、笑ったまま地面に倒れて気を失った。

王は玉座の前で杖を掲げる女の表情が緩んだのを見て尋ねる。

「オリアーグ、彼女は見届けたか?」

「はい。我の魔法は確かに彼女に未来を見せました。その上で、彼女の力を解放してしまいましたが……些細な事です。どうせいつかはあのようになってしまうのですから」

彼女は不敵に笑った。

「そうか、ならあとは彼女の意思にゆだねるか…」そう言うと王は安堵したように溜息をつき立ち上がる。そして玉座の後ろに向かって数歩歩き、その壁に描かれている星空を見る。

「あの少年のことは気にしなくてもいいのですか?」

「構わない。どうせもう答えは知っている」

「そうですか…ならいいのですが。では、我はニフィスを探しに行ってきます」

彼女は王の背に一礼するとその場を離れた。

「……。」王は静かに目を閉じる。

「エリム、君はいずれ僕が……」それから先は聞き取れなかった。言わなかったのかもしれない。彼は心のどこかでその言葉を口にすることを恐れていたのかもしれない。震える唇を数秒かみしめてから解く。彼はまた溜息をついた。そして何かを決意した表情で玉座の前に立った。そこには何もない。ただ広いだけの空間が広がっているだけだった。


 教室を出て廊下を走るアルヴの前にこの学校では見る事のないはずの人物が現れる。彼は生徒会室前の掲示板を興味深そうに見ていた。彼はエリムの護送を頼んできた時と同じ黒いスーツを着ていた。

「ああ、やっと来たか」男はアルヴに気が付き挨拶代わりに右手を軽く挙げた。

「なんでお前がここにいる」アルヴは彼の数歩前で脚を止めた。

「いや、君に伝えるべきことがあってね。急いでここに来たんだよ」

「伝えるべきこと?」

男はアルヴに向かって静かに頷く。窓際まで歩いていき空を見上げる。

「まず、俺の名前はエノードというんだが、今は君にしか頼めない特別な依頼を取り扱っている。そして今回の依頼も君にしか頼めないものだ」エノードと名乗った彼はアルヴに視線を戻す。

「君がエリム・ヴァレインを助け、裁定者と取引を終える直前。機関の上層部が彼女の抹消処分を決定した。機関上層部、それも最高管理部門がその決定を下している。故に他のどの部門によってもそれを取り消す事も、処分を遅らせる事も出来ない状況にあるんだ。そこで君にはそれを止めてもらいたい」彼はアルヴにここで殺される覚悟でその事実と現状を告げた。そしてその身に彼の力が及ぶのを待っていたが、返ってきた言葉はエノードの予想とは異なっていた。

「…なぜ俺に名乗った」アルヴは落ち着いた様子で彼に問う。一切の怒りを見せず、ただ目を見て尋ねる。エノードは疑問に思った。なぜ彼はそんな事を聞いたのか。なぜエリム・ヴァレインの居場所や決定を下した人物のリストを要求してこないのか。なぜ彼は力を解き放たないのか。

「どうしてそれを聞く」

「俺が尋ねているんだ」

「……俺が君の仲間、いや違うかな。協力者だという事を伝えたかったんだが、その前にまず名乗るべきだと思ったからかな。今まではその必要がなかったが、今回は必要になった……というところかな」エノードは少し考えた後、それを言葉にしながら丁寧に曖昧な考えを伝えた。

「わかった。なら、今はお前を信じる」アルヴはそう言って頷くとまた走り出した。

「ああ、場所は!」エノードが彼を呼び止めようとする。

「まずは機関に向かう。だからいらない」アルヴはそう言って去って行った。

 玄関を出て学校前の通りの横断歩道を渡り、その先の路地まで行くとアルヴはその先のビル街に出る直前で真上に跳躍し屋上まで壁を蹴り上げて登っていく。軽快な足取りで空中に飛び出したアルヴは機関本部のある方を睨むように見る。アルヴは力を解き放つと辺りに黒い力の波動が広がる。霧の様に見えるそれは辺りを包み込む。霧が晴れた頃にはアルヴの姿はそこにはなかった。

「俺は、絶対に助けるって約束したから」彼が向かった先は当然、機関本部。力を纏い、黒い翼を広げ飛ぶ。アルヴは本部につくなり正面から堂々と入っていった。翼は霧になり彼の周りで細長い渦になり彼の望む物の形へと自由自在に変異する。自分が機関の最高機密に指定されている存在だという事を無視して、というよりもはやそんな事など今の彼にとってはどうでもよかった。彼が向かったと通報を受けたのか数名の職員と警備システムが彼の行く手を阻んだがそのどれも彼を止めることができなかった。彼はまだ理性がしっかりと働いているのか、制止しようとした職員の命を奪わず最低限の攻撃で瞬時に無傷で無力化していた。

 全ての制止を振り払い、最高管理室の前に到着する。彼は一呼吸おいて自身の周りを漂う力の渦を右手に集め纏いそして、目の前の扉を殴り壊した。そこにいた人物たちは全員彼の登場に驚いたようで声を上げて動揺している者もちらほらいる。

「……エリムの抹消は、本当の事か?」アルヴは彼らに問う。その瞳は全員を強く睨みつけ、視線だけで彼らを刺し殺してしまえそうなほどだった。

「そうだ」肯定した。

「だが、それは権限が失われる前の事だ。何も問題ないだろう」別のものが当然のことの言う。

アルヴは呆れた様に溜息をつくと今度は左手に力を集めてテーブルを強く殴りつける。一同は息をのみ、黙り込む。

「お前たちは彼女を、エリム・ヴァレインを何だと思っている」彼は振り下ろした拳を見たまま、怒りを込めた声色で言った。

「化け物…」誰かが言った。そこでアルヴの怒りは頂点を突き抜けた。しかし彼は怒りに任せ暴れる訳でもなく、ただそこにいるものを冷静に一人ずつ殺す訳でもなく、彼らの主張に耳を傾けた。

「我々はとても重大な……世界の未来を見据えた決断を下した。エリム・ヴァレインはとても強大で危険極まりない破壊の力を有している。それに彼女の力はいずれ我々を見下ろす星にも及ぶものになる。そんな彼女はもはや、人間と呼べるのだろうか。たとえ君が彼女を何度助けたとしても、彼女の存在そのものが危険だと判断された以上、抹消する他ない。アルヴ・ソイルス、これは我々機関の判断だけではない。この世界の総意と言っても過言ではないのだよ……だから、残念だが受け入れてくれ」最高管理者が彼に淡々と、諭す様に語る。

「君とて例外ではない。が、君の力は星には届かない。我々を見下ろす星たちは君を封じる事ができる。そう断言している。しかし彼女はそうではない。彼女に対して星たちは沈黙したままだ。このような事は過去に一度だって起きたことがない。いいか、世界と彼女の命を天秤にかけた時、我々は世界を選んだ。彼女の命一つ、たった一人の化け物の少女を抹消するだけで世界が救えるんだ。逆の場合を話そう。彼女の命一つ、たった一人の化け物の少女を抹消しない事で世界が滅ぶんだ。なら当然、抹消だろう?我々は、君の理想も十分に理解しているつもりだ。そしてそれには我々も大いに賛成だが、今回は違う。君の理想は多くの者にとって……いや、君と彼女以外の全ての者にとってはただの“わがまま”に過ぎない。だから、諦めるんだ」最高管理者は続けてそう語った。

アルヴはしばらくの間、少しだけ俯いたまま黙っていた。その場にいた全員が薄暗い部屋の中で見えない彼の表情をうかがっている。アルヴは拳を握りこむ。握りこんだ手が震えているのを隠すように気持ちを抑えながら口を開く。

「……そんなのが、一人を消して世界を救えるのが良いなんてことはない。絶対に。……あいつだって生きてるんだ。みんな、俺もお前も、ここにいるやつも、いないやつも―――みんな同じ世界で必死に生きてるんだ。一人を救って、世界も救う。俺はそのためにこの力を手にした。だから俺はあいつを諦めない。たとえ俺のわがままでも。俺は今、あいつを救いたい。だから救う。お前たちに抹消なんてさせない!」彼はそう言った直後に力を解き放ち首の背面に翼を作り出した。その翼は広げられ、徐々に螺旋を描きながら腕に成った。アルヴは怒りを力に込めた。首から生えた腕が赤黒く染まる。背中側でその腕を合わせるとそれは最高管理室の部屋の扉を貫き、通路の奥まで伸びた。伸びきった二本の腕が融合し巨大な剣を作る。そしてその剣はそのまま通路から天井を裂く様に地面に対し水平から垂直に動いた。最高管理者たちは彼が開いた大きな裂け目から見える空を見上げる。アルヴが作った剣は分離し小さくなり元の腕の形に戻ると今度は翼に形を戻す。彼はその翼で羽ばたき裂け目から外に飛んで行った。

最高管理者は遠のくアルヴの背中を静かに眺め、見えなくなるとそっと椅子にもたれかかる。

「行ってしまったか…」

「ですが、どうでしょうか。今回ばかりは彼女を救う事は出来ないのでは?」

「我々が勝つか、彼らが勝つか…賭けてみますか?」

「模造神器を含むあらゆる管理対象の使用許可を出した上で、我々が選んだ精鋭部隊が相手だぞ?俺も今回は無理だと思うがね」

「……」その場にいた者たちが彼のわがままが通るか否かについての会話を楽しんでいる中、最高管理者は一人ただ黙っていた。


 アルヴは空を飛び、街を見下ろす。

「絶対に見つける。だから力を貸してくれ」アルヴはそう言ってその身に宿る黒い力に語り掛ける。内側に感じる力の濁流が自分の意識を飲み込もうとするのを感じると共に、その力が体から溢れ出るのを感じる。

「…っ!」赤黒く染まった力が純粋な黒に沈んでいき爆発的に広がる。それはみるみるうちに空を覆い尽くしていき街には星のない夜が訪れる。そして星の代わりに多くの光が目を開く。それは地上を見つめ彼女を探している。

 黒い空、光が瞬き彼はエリムを見つけた。姿は見えないが、もはやこの都市全域を覆い尽くすほどに広がった黒い空の下で彼女の力を感じた。

「見つけた。今、行くからな!」彼は広げた空と繋がる翼を切り離し羽ばたき飛ぶ。力の源から切り離された黒い空は徐々に霧の様に消えていきやがて元の空を取り戻す。羽ばたいた衝撃で上空の雲は吹き飛び本部の周辺までの辺り一帯が晴れ渡る。

 エリムの元へ向かった精鋭たちのほとんどは彼女に届く前にその武装のほとんどを破壊される。それでも、と彼らは立ち上がり彼女に向かって刃をあるいは銃口を向ける。

「消えてよ」エリムは彼らに向かってそう言って手を伸ばす。

放たれた弾丸は彼女の前で弾け、刃はひしゃげる。何者も彼女に触れること能わず。もうあの優しいエリムはない。伸ばした手を握りこむ。彼らの足元が崩壊する。それは物質が自分の構造を忘れていくように何もない空間が足元に生まれ、ただひたすらに名もない物になっていく。精鋭たちは間一髪のところで後ろへ飛びそれを回避した。

「なんという力だ」「この肉体でなければ戦闘不能になっているところだったな」彼らの傷口からはジェル状の液体が漏れ出し、その裂傷は火花を上げる。マギアやデウスの解析によって得られた技術によって、彼らはその意識を機械に投影する事で脅威との戦闘に耐えうる体を手に入れている。彼らの人間としての肉体は本部にあるため、何度破壊されようと彼らが死ぬことはない。

「化け物に容赦はいらない確実に抹消するぞ」一人がそう言うと全員が頷き、その身に内蔵されている武装を展開する。

 「エリム…!」アルヴは翼を広げて空を裂く。だが突然頭上から何らかの攻撃を受ける。彼は咄嗟に翼を盾に変え防御する。だがその身は攻撃によって地に落ちていく。

「なんだ!」瓦礫と砂ぼこりを翼で払いのけると彼は周囲を見渡す。砂煙の中からわずかに漏れ出る電撃のような光を視認する。それと同時に彼の首元めがけて殺気の込められた刃が振るわれる。アルヴの首がマフラー状に変異させた黒い力で守られる。

「何の真似だ」彼はその持ち主を睨みつける。

「あなたを妨害する事が我々の役目なので」

「あわよくば殺してやるよ」ぞろぞろと敵が姿を現す。周囲を囲まれている事に気が付く。人数も多いが、一人一人の戦闘力もそれなりにある事を直感的に理解できた。

「なんで俺の邪魔ばかりするんだ…俺は友達を助けたいのに」彼は胸の内が痛み、苦しむ様に心臓とは逆の方を抑える。彼は最初、その痛みが自分の心の痛みだと思っていたが、それが自分自身の怒りであると理解すると彼はそれを抑えず解き放った。ただ衝動的に力に任せて解き放つと彼の背中からは幾本もの黒い螺旋状の槍が突き出しそれが触手の様にうねりながら周囲を囲む者たちへと襲い掛かる。一同は咄嗟に避けるがほとんどがそれによって心臓のある位置を貫かれあっけなく絶命する。彼らは皆魔力とジェル状の液体を吹き出しながら溶ける様にして消えていった。残った数名はアルヴのいた場所に視線を向けるが彼はもうそこにはいなかった。ふと、背後に気配を感じ振り返ろうとするが間に合わず自分の首が回らない事と若干視界の高さが普段より高いことに気が付く。その時すでに全員の首は刎ねられ切り口からは魔力が吹き出し、肉体は溶けていった。彼らは精鋭部隊同様、特殊な肉体に意識を接続しているだけだが、この様な形で肉体と意識の接続が突然失われた事によって、本部にある体にも同様の感覚がフィードバックし意識から肉体へそれらの痛みが伝わり本当に自分の身に起きた事だと錯覚を起こす。それによって意識と肉体に大きな負担がかかるため、確実に後遺症となるだろう。その時、機関本部に設けられた接続室では耳を裂くような悲鳴が多く上がっていた。

「邪魔すんなよ」彼はそう言い残すと再び翼を作り広げ羽ばたく。


 周囲を取り囲む人の姿をした機械や魔力で構成された肉体を持った精鋭部隊。それらに敵意を向け破壊の力を振るうエリム。

「どうして普通に生きる事も許されないのかな」エリムは迫る攻撃の一切を退け彼らに問う。

「化け物として生まれた時点でお前はこうなる結末だったんだ」

「運命を恨め…としか我々には言えないな」精鋭たちが出す答えは下された決断に対して忠実で、それを執行される側にとってはどこまでも非情な物で。だから―――。

「だからって、私も人間だよ」エリムはそう言って笑った。涙が零れる。その雫が地に落ち散った。彼女の周りに破壊の力場が形成される。そこに至ろうとする一切は塵となっていく。弾丸、刃の斬撃、魔法、模造神器、召喚物、どれも彼女の力場に呑まれた瞬間に崩壊しボロボロと土が崩れる様に消えていく。

「これがエリム・ヴァレインの力……アルヴ・ソイルスの禁忌の力に至るであろう力。やはり彼も抹消すべきか審議が必要だな」精鋭たちは彼女の力場を回避するため下がりつつ一人が唱えたその言葉に同意を示す。

 彼女の力場は発生から約十秒で閉じられた。エリムはその破壊の力自体を閉じる様にゆっくりと目を閉じて胸に手を当てる。そっとそれを噛みしめ、彼女はその手を伸ばし指を鳴らした。力場によって崩壊した物が浮かび上がり形を成していく。それは彼女の周りを周回する三枚の盾と二対の矛に再構築された。

「私も人間だよ。こんな力を持って生まれたけど、友達も家族も、傷つけて……いつか大切な人も傷つけてしまうかもしれないけど。その傷は私には癒せないかもしれないけど」一歩、また一歩、彼女は歩み出し、落ち着いた声色でそう言って空を見た。

「それでも私は生きていたい」それを許してくれた人がいたから。たとえその人が私を抹消しに来たとしても。

 誰も彼女の言葉に耳を傾ける事はなかった。そこにいた全員が彼女に向かって同時に攻撃を仕掛けた。だが、彼らが彼女の言葉に耳を傾けなかった様に、彼女も彼らの攻撃に対して無関心にただ髪を靡かせる様に指で星をなぞる。その無邪気な動きに反して彼女の周りを周回する盾が攻撃を全て防ぎ、矛が精鋭たちの肉体を貫いた。盾は触れる全てを塵にして、矛は触れる全てを抉り裂き、彼女の周りには精鋭だった物が散らばった。

 散らばった残骸の上で彼女はまた空を見上げてた。

「おいおい、先行した俺より先に全滅したとか笑えないな」男の声がした。声の方を向くとそこには最初にエリムと戦い、確実に負けたはずの男が五体満足で笑顔で立っていた。

「なんで俺が生きてんだって思ってるよな?ほぼ半身を吹き飛ばされたはずなのにこの通り、しっかり腕も体もある。これが模造神器・京の寝処!どんな傷でも癒せる。人類の最高傑作の一つ、まさか俺もあの状況から回復できるとは思っていなかったがな」男は笑った。

「……あなたは普通の人間なんですね」エリムは目の前の彼が他の精鋭たちと違い、生身の肉体である事に気が付いた。

「俺はこういう、誰かの命が関わる事には自分の生身で向き合いたいと思っているんだ。ま、そのせいで今回もくっそ痛かったがな。運よく死なずにすんだってとこだな」男がそう言った瞬間、彼の頬をかすめる様に矛が通り過ぎる。

「死にたくないなら早く消えてください。せっかく生き残ったんですから」エリムは彼を突き放すように言った。

「そうはいかないね。俺の役目はお前を抹消することだからさ…」男は右手を伸ばした。その手に握られていたのは魔法札。その魔法札に描かれた魔法陣が光ると魔法札が彼の手の内で踊る様に動き出し球体の形状になった。

「模造神器・ファスドネイオ。形状を固定、全魔力解放、出力最大…」彼が唱えるとその球体はいくつかに分裂し、彼の手に握られている球体以外の分裂した全てが槍状になった。

「頼むからこれで死んでくれよ」男が球体を彼女に突き出すようにすると彼の周囲に形成されていた槍がエリムめがけて飛んでいく。エリムが手を前に出すと盾が彼女の前へ移動する。盾と槍が衝突し槍は盾に触れた部分から塵になっていく。しかし何かがおかしい。

「どうして?」エリムの盾に触れている槍は確かに塵になっているはずなのに、いつまで経っても完全に壊れきらない。塵になった部分から絶えず槍が再生しているのだ。

「これがこの模造神器の特徴、魔力が供給される限り再生され続ける。そして俺はその模造神器に魔力錬成陣を刻んである。知っての通り、魔力は自然に満ちている…つまり半永久的にそれは再生を続ける。それに、お前を仕留めるまで俺はその攻撃を止める気がない。諦めてくれ」男は得意げに語る。そして続けた。

「こいつを起動するためには相当な魔力がいるんだがな……こいつらのお陰でそれを集める時間が稼げたんだ。感謝しなきゃだな」彼は周りに散らばった残骸に一度目を向けて言った。だがエリムは彼の発言からこの攻撃の攻略法を見つけていた。魔力がある限り再生し、錬成陣によってそれを可能にしている。彼が錬金術師でなければ彼にも勝機はあったのだろうが、何よりもここまでお喋りでなければ……。

「…口が過ぎましたね」エリムは指を鳴らす。その瞬間、彼女に向かって飛んでいた槍は弾け消えた。驚きの表情を浮かべ硬直する彼を破壊の矛が貫いた。腹部にぽっかりと開いた穴からは臓物がべったりと粘液を垂らし、血肉がぼとぼとと零れる。しかしそれは京の寝処によってすぐに治療された。彼の傷口から赤いうねりが這い回って、それが傷を全部埋め尽くすと元の皮膚と同じ色、感触、機能、臓物、血肉になった。

「な、なにをした……」男は状況が理解できていなかった。自分の腹部に穴が開いた時の矛が触れた感触、その直後にやってきた激痛は確かにあったが、それが肉体から脳に伝わり、処理をしている間に回復していた。何よりもこの模造神器・ファスドネイオを使用した攻撃が失敗した事に彼は驚いていた。

「あなたがペラペラと喋っていたので意外と簡単に壊せましたよ」エリムは彼が模造神器に施した魔力錬成陣を破壊する事によって槍への魔力の供給を絶ち再生能力を実質的に無効にする事で壊したのだ。だが、目の前にいる自分を抹消しに来た者はそれに気が付くまで数十秒を要した。

「そうか……そりゃそうだな。お前はそんなこともできるのか」納得いかない表情で納得したような素振りで、彼は頷いた。

「あとはその、京の……寝処でしたっけ?それを破壊するだけで、あなたは死にますよ」エリムは淡々とした声色で冷たい眼差しを向ける。

「どうしたら壊れてくれるんでしょうかね」彼女は男の手に握られている正方形の模造神器を掴み取る様に宙に手を伸ばす。まるでその手の内にあるかのように、手を動かしつまむようにしてから、片目を瞑ってそれを覗き込む。そしてそれを離す動きをしてから指で弾く動きをすると、男の腕が再び吹き飛んだ。彼女の指で触れることなく弄ばれた正方形の模造神器は空中で男の腕とともにバラバラになった。

「意外と簡単に壊れますね。構造はよくわかりませんでしたが、内側の力場に私の力が触れるだけで簡単に内部のバランスは瓦解しましたけど……こんな程度の物が人類の最高傑作なんですか?」彼女は吹き飛んだ腕のあった場所から血をだらだらと垂れ流し立ち尽くす男に問う。男はその傷の痛みからか声が出せずにいたが、いつものように誤魔化すみたいに笑って時間を稼ごうと頭を働かせる。

「もう、それには飽きましたよ」エリムは彼の狙いがわかっていた。だから容赦なく彼の心臓を矛で貫いた。もう話す事もできない。不出来な笑みを浮かべる事もできない。痛みがどうだとか、相手が化け物だとかじゃない。体が、本能が、自分へ死を告げている。これまでにないほどの速さで死が迫ってきて、脳内で危険を知らせるアラートがけたたましく鳴り響く。

「あなたはよく頑張りましたよ、他の…彼らと比べたら、ですけど」エリムは彼の心臓を貫いている矛を引き抜き、彼の体が地面に倒れた後、周囲の残骸に目を向けながらそう言ってから最後にもう一度彼に視線を向けて、それから彼に背を向けその場を離れた。


 何が違うのか。なぜ、私は化け物と呼ばれるのか。なぜあの星たちは私にこんな運命を強いるのか。わからない。

「もしも願いが叶うなら、普通の女の子として…」エリムは空を見上げて呟いた。

「エリム!」そこに響いた声。ずっと待っていた人の声。

「アルヴくん…そうだよね。やっぱり来るよね」声の方を振り返る。そこに立つ少年に視線を向けた後、彼女は静かに俯いた。彼がその黒い力を纏っていたから、エリムは彼が自分を抹消するためにここへやってきたのだと確信した。

「ごめんね…せっかくあなたが助けてくれたのに。私は―――化け物として生まれたから」彼女は精一杯の笑顔で自分の心を騙した。アルヴが、自分の抹消に来たのだと思っているから。だから彼女は抵抗の意思を示そうとした。彼が自分を殺める事を躊躇わないようにするために。全力で彼に攻撃を開始した。

 矛がアルヴの頬をかすめる。一歩退いて流れる血を拭った。力を剣に変えて構えを取る。

「エリム、俺は戦いたくない」無意識にも剣を構えるその手は震えていた。アルヴは震える手に気が付いてそれをもう片方の手で抑える様に構えなおす。

「わかってるよ。抹消しに来たんだよね。人間としての私はあなたに殺してほしかった。助けてくれたあなたに」彼女はその腕を靡かせる様に振るって矛を彼に突きつける。アルヴはそれを剣で受け止め流し、地面に矛が突き立てられる。

「でも、今の私は……化け物だから。化け物としてあなたと戦う」彼女の元に矛が戻っていく。

「どうしてもそうしないといけないのか?」アルヴは彼女に震える腕で握った剣を向けながら問う。そして彼女は頷いた。

「あなたが一番、よくわかっているでしょう」そう言って指を鳴らす。それは開戦の合図だった。

最初の攻撃は二本の矛がアルヴめがけて飛んできた。アルヴは片方の矛を剣で背後に流し、もう片方の矛は流したその勢いで飛び上がりながら身を翻して避けた。着地の瞬間もう一本の矛が足元めがけて飛んでくる。それを切先で弾き避ける。

「結構…扱いが慣れてるな」力の理解が早いのか、武器の扱いが良い。ブレなく正確に狙ってくる。剣を構えなおした時、彼の目の前には既に矛が突きつけられていた。

「くっ…!」剣だと間に合わない。首元に力を流し、簡単なマフラー状の盾を作りそれを顔の前に動かし矛の軌道を逸らす。鈍い金属音の後、矛はアルヴの背後、少し上に逸れて飛んで行った。

「本当に、上手いな」息を切らしながら彼女の方を見る。

「そう言ってる場合じゃないよ」彼女がそう言った時、ちょうど呼吸が整った。しかし直後に背後に危険を感じ、即座に振り返り剣を縦にして剣身をもう片手でも固定し、その両手のちょうど間に当たる位置で矛を受け止める。だがすぐに剣身が悲鳴をあげる。その剣を投げ捨てる様に回避をすると、手から離れた剣はすぐにバラバラに砕け散った。

「エリム!」名前を呼んでも返ってくるのは冷たい殺意だけで。彼女は無慈悲な矛を突きつけ心を突き放し、その無情な盾で二人の間を隔てる。言葉は聞こえているのに、それに応えたいのに、自分は化け物だからと言い聞かせ、力をただ振るうのだ。

彼女が一突き矛を振るうたびに空が震えた。彼女が一振り盾を構えるたびに星が揺らいだ。だけど、どんなに世界が彼女を恐れても、目の前に立つ少年だけは彼女を恐れていなかった。

「エリム…聞いてくれ」彼女の力を受け止めるたびその身が弾けた、彼女の力がかすめるたびその身が裂けた、彼女の力に触れるたびその身が崩れた。だけど彼の力はそれを絶対に許さない。彼が望まずとも彼の身に宿った力は彼を修復し続けた。ドロドロになった血の様な黒い何かが、死体に沸いた蛆虫の様に傷口を覆っては消え、血肉を再生させる。折れた骨さえも稚魚の群れの如き黒い何かがその血肉の内側を蠢き集まり再生させる。だが何度再生されようともその苦痛は変わらない。そのはずなのに、彼はその苦痛の一切を表情に表さず頬一つ動かさず彼女を真っ直ぐ真剣に見つめていた。視線を合わせながらすべての攻撃を反射的に、あくまでも守るための反応を示すだけで、そこに攻撃の意思はなかった。

「俺は、君を抹消したくない。生きていてほしい」その言葉を否定する矛が突きつけられる。盾が二人の間に入ってアルヴを突き飛ばす。

「それはできないよ。私が生きたくても、あなたが生きてほしいと願ってくれても、世界がそれを許さない」そう言って一呼吸して指を鳴らす。二対の矛は彼めがけて振り下ろされる。三枚の盾が彼の周りを囲った。矛は頭上に迫る。

「違う。世界がどうこうなんてどうでもいいんだ」そう言いながら、わずかな動きで矛の軌道を避ける。かすめた矛を彼はその手で掴み取る。掴んだ手から血が吹き出し、肉が裂け続け酷い裂傷によって肉が抉れる。だがその手は離さなかった。

「これは俺のわがままだ。俺は世界も君も天秤にかけられない。全部大切だから」その手で掴んだ矛で周りに迫る盾を振り払った。二つの破壊の力は互いにぶつかり合って相互に破壊し合った。割れ、裂け、砕け、崩れ、そして最後にどちらも塵になった。握られていた手からぽたりぽたりと血が落ちる。

「俺は欲張りだ。君も、君がこれから生きていく世界も、どちらも救いたいなんて……きっと星の神々が聞いたら笑って否定されるかもしれないけれど」血の滴る手を力が覆って黒く染まる。その手をゆっくりと差しだし、彼は続けた。

「それなら俺は、この星空とも敵対するよ―――」手を取る事を促すように彼女を見つめ、手を伸ばした。開かれた手は黒い力が覆っているが、確かにそこには彼の温度があった。

本当は手を取りたかった。でも受け入れられなかった。こんなに真っ直ぐな彼を、こんなに優しい気持ちを、こんなに踏みにじった自分を許せなくて。だから彼女は怒りに震えた。星は叫んだ。空は泣いた。ただ怖かった。その手を握ったら、自分が小さく感じてしまいそうで、自分が惨めに思えた。こんな人を、こんな温かさを、自分を騙してまで否定するしかなかった。一度、そうしたから。もし最初に彼がここに来た時、すぐに彼に再び助けを求める勇気があったなら―――。

「だから私は……」涙を見せたくなかったのに。怒りを秘めた一撃を彼女は振るった。

無数の破壊の力がアルヴを襲う。彼の体中から血が噴き出る。何度も何度も何度も、彼は斬られ、貫かれ、裂かれ、弾かれ、傷つき、傷つき、傷ついて…。それでも彼はエリムを攻撃しなかった。それどころか、彼は彼女の攻撃をただただ受け止めていた。だって彼は彼女を救いたいだけだから。

気が付けば彼はエリムの前まで来ていた。ゆっくりとその身を削られながらも歩みを進めた。彼はその身を修復する事と、彼女の力がこれ以上周りを巻き込まないように包むことだけに力を使って。一切の抵抗をしなかった。

「なんで、どうして……」

「どうして、か……何度も言うけど、俺は抹消に来たわけじゃない。君に生きてほしいから、君を助けに来たんだ」彼の黒い力は二人の周囲に広がっていた。そしてそれが二人を包み込み、完全な球体がそこに完成した。それはエリムの力を外に逃がさないための物。彼がすべてを受ける覚悟で作り出した物だった。その内側でも彼はエリムの力をただ受け入れていた。何度体を傷つけられようと先ほどと同じように一切の抵抗をせずに。

「どうして…どうして殺してくれないの。私は化け物なのに……どうして」彼女はそう言って涙を流す。彼は球体の形成に費やしている力以外の全ての力を解いた。そして涙の伝う彼女の頬にそっと触れた。彼は自分を守るための力を解いた瞬間から彼女の力に晒された。その体はズタズタに傷つけられていく。エリムは驚いた表情をする。彼女はずっと心のどこかで彼の優しさに抗っていた。どうせ抹消されるなら、彼に殺してほしいと願っていたから。だからこそ、その力で彼を傷つけて。でも、どこかで助けを求めていた。球体内部での彼女の一撃一撃は無意識にも致命傷を避けていた。しかしそれは総合的に見れば間違いなく致命傷であった。彼はその身に染みる痛みに耐えながら口を開いた。

「君は、化け物なんかじゃない。ちゃんとした人間だ。どこにでもいる普通の可愛い女の子だ。そんな普通の女の子の命を、誰に奪う権利があるんだ」彼は全身に激痛が走っているにも関わらず、普段と変わらない声色で。むしろ普段よりもずっと優しい声で言った。そして決意を示すように続けた。

「俺は誰にも君を殺させない。だから、生きて」ずっと前から彼は変わらない。何度だっていつだって、彼は私を助けてくれた。だからきっと最後まで彼は諦めないんだ。こんなどうしようもない私を、殺してはくれないんだ。

「もう、これ以上、私の為に血を流さないで」彼女は震える手でそっと彼を抱きしめた。ボロボロになった肉体は震え、傷口は裂け、今もどくどくと血が流れている。彼のあたたかな温度を感じる。これが肉体の温度なのか、心の温度なのかはわからない。彼女の瞳から涙が溢れ、体が震えて、呼吸がはやくなる。

「いいんだ」そんな彼女の頭にそっと手を触れ、優しく撫でる。そうして彼女が落ち着くまで少しそのままでいると、彼女はやっと力を解いてくれた。それがわかるとアルヴは嬉しそうに一息ついて、彼も球体を維持する力を解いた。

 やがて黒い球体は開き、消えていく。彼女にはもう敵意は感じられなかった。二人は触れていたその身を離す。アルヴはエリムの頬を伝う涙をその手でそっと拭いた。

不意に彼は周りにある殺気に気が付く。精鋭たちとは違う大きな魔力を感じる。アルヴは瞬時に力を纏う。彼らの上空から数匹の魔獣が降り注ぐ。数は五体。それらは二人を取り囲むように投下された。アルヴはすぐに臨戦態勢に入るが、エリムの破壊の力に晒されていた時間が長かったからか、彼の体は限界だった。彼が自分の意思で力を解いても、力は彼がただで死ぬことを許さない。だから彼の体は彼の意思に反してその禁忌の力に守られていた訳だが、それでもギリギリ死なない程度で、本当は意識を保つのもやっとだった。そんな状態で守りに使っていた部分を戦闘面に回したせいで、力による生命維持の均衡が崩れ、意識が強制的に落ちていく。

アルヴは意識を必死に繋ぎとめようとする。だが、もう遅い。意識が閉じる最後の瞬間、世界中が沈黙する。耳鳴りの様な音が響いて視界がぼやけて、一瞬息が止まる。

「くそっ…」彼は最後まで抵抗していたが、意識が彼を手放した。

 彼は真っ白い空間にいた。

「俺は……」何かを忘れている気がして、思い出そうとする。

 ここがどこかわからない。ただ見えるのは。

「白い空?」アルヴは気が付くと見知らぬ場所にいた。自分は死んだのかと思ったが、死んだわけではないとすぐに気が付く。辺りが変わる。アルヴは駅にいた。誰もいない。何も来ない駅に。

「前にもこんな事があった気がする」そう口にすると世界が崩れてアルヴは落ちていく。だが不思議と怖くなかった。むしろそれを受け入れていた。落ちていく世界に崩れた破片がガラスの様にキラキラ光って何かを映し出す。

「あれは……誰だっけ」そこに映っているのはとても綺麗な少女の姿。一人ぼっちの女の子。いつも一人で、みんな彼女と友達になろうとしない。前は友達だったのにもう違うんだって。

「どうしてこんなものを俺に」落ちる速度が一瞬加速する。次の場面が映し出される。そこには人に傷つけられて怯える少女。

「さっきの子と同じ子だ」彼女は怯えて震えて、叫んだ。すると崩れたガラスの様な世界の破片は粉々に砕けた。アルヴはもっと速く突き飛ばされる様に落ちていく。

「どこまで行くんだろう」

少女は誰も信じられなくなりました。少女は誰にも心を開かなくなりました。小さくうずくまり誰にも顔を見せない少女。どうしてずっとそうしているの?少年が話しかける。だが何も返ってなんて来なかった。それでも話しかける。毎日、毎日。飽きもせず。とうとう少女はそれに怒って彼を壊してしまおうとする。

「だめだ!」アルヴは少女向かって叫んだが、その声は届かない。

でも少年は少女の力を見ても驚いただけで彼女を怖がったり拒んだりはしませんでした。

「……」アルヴは伸ばした手をゆっくりと降ろす。まだこの夢の自由落下は終わらない。

怯える少女に少年は手を伸ばす。どんなに恐ろしい力だと言われても、誰かに引き離されても、彼は少女に手を伸ばす。少女には理解できなかった。彼がどうしてそこまでするのか。自分の力で彼の手を軽く傷つけても彼はこりもせずにまた話しかけ、手を伸ばす。そんな光景がいくつか過ぎ去って、新しい破片に新しい光景が映る。それは少女が差し伸べられた手を握り返している光景。二人は不思議にお互いの顔を見あって、それから笑って友達になった。

そしてアルヴはまた落ちていく。また一瞬だけ速度が上がったが今度はすぐに元の速さに戻った。真っ白い世界が崩れて、真っ白い世界に落ちて、ガラスの様な思い出を見て、次に彼が見たのは。

「……エリム」彼女の笑った顔。あの少年と少女の声が聞こえる。

『私と、友達に…なってくれるの?』『もちろん』『私はあなたを傷つけてしまう』『君が生きたいと望むなら何度だって俺が君を助けるから』『いつか力が抑えられなくなってしまう』『何度だって俺が止めてやるから』

アルヴはようやく理解する。これは自分の記憶だ。忘れていた大事な記憶。エリムとの最初の出会い。小さい頃から俺たちは友達だったんだ。そして俺は君と。

「約束したんだ、絶対助けるって」そうだ……そうだ!だから。

「こんなところでかっこつけて死を受け入れてなんていられないな」ふわっと体が軽くなる。まるで羽みたいに浮かんだ体はゆっくりと柔らかいベッドの様な真っ白い世界に落ちた。そして彼は気が付く。外で自分を呼ぶ声に。手には温もりを感じる。指先に何かが触れる。それは一滴の雫だった。その雫は指先に触れると同時に弾けて光になった。

「今行くからな」そう言うと真っ白い世界はどこからか輝きを放つ。そして光がすべてを包んでいく。眩しくはない。ただ優しく、包まれる。

 それでも世界は白いままだ。何も変わらない。ただ優しく癒される様な感覚だけが自分を包み込んでいる。

「エリムの所に戻らないと」しかし彼の脚は動かない。彼は気が付いた。彼は地面に寝そべっているのだ。生命は既に限界だった。いくら禁忌の力を持ってしても元の肉体が限界に達し、彼自身もエリムの為とはいえ無理して力を解いていたのだから修復もほとんどすんでいない。今、意識を手放している彼の肉体はかつてないほどの速度でその力によって修復されつつあるが、それでもまだ立ち上がれない。

『あなたはもう十分頑張ったよ』彼の頭の中に響く。懐かしい声。

「いつになったら立ち上がれるんだよ!」彼は叫んだ。動かない体に残った力を振り絞って必死に起き上がろうとするが、やはりまったく動かない。

『代償ヲ、ヨコセ』知らない声が響く。真っ白い空間が揺らめく。

『だめだよ。アルヴ、これ以上はだめ』懐かしい声は警告する。

「なんでもいい。あいつを助けられるなら」彼はそれを無視して震える手を伸ばす。真っ白い空間がさらに揺らめく。黒い何かが白い空を喰らって現れ世界を覆っていく。意識が戻る直前、彼の手は白い空を食い破って現れた何かを掴んだ。はっきりとはわからなかったが、その先にいた何かは笑っている様だった。声も、音も聞き取れなかったが、確かに笑っている様に感じたのだ。

彼は目を覚ました。黒い光が乱反射するように飛び散って彼は宙を舞う。黒い力を身に纏った彼が着地する。彼の傷口は黒い力で覆われ流れる血も深い黒に染まっていく。彼の瞳には暗く揺らぐぼやけた光が映る。彼の周りを取り囲むように霧状の黒い力が現れる。それは螺旋を描いた飛翔物となりアルヴの肉体を貫いたかと思うとその身に馴染んでいき彼の肉体の再生を促した。

肉体の大半を修復し終えると彼の力は他の魔獣に牙を剥いた。彼の周りを囲む霧状の力は彼の内側に向かい集束する。彼が手を天に向かって掲げると一気にそれは放出された。空には夜が訪れる。だがそこにはたった一つの星の煌めきも存在せず、それを許さない黒だけがあった。彼が掲げた手からそれが完全に放たれると次に起こったのは再集束だった。彼の掲げた手と天の間に黒い力が集束する。空は依然として黒いまま、放出した力の一部と彼の内側から発生した過剰な力が混じり合い渦を巻く。無数の音なき叫びを上げながら螺旋の手足が生える。それらは周囲の魔獣をおもちゃのように弄ぶ。掴み取られた一体は宙に投げ出されたかと思うとすぐさまその螺旋に囚われ肉体を破壊された。鳴き声が奏でる歌はこの世の物とは思えぬほど残酷な苦しみに満ちていた。叩きつけられた一体はどろどろの液体のようになった黒に絡めとられ自由を奪われる。魔獣は体を必死に動かし逃れようとするが黒はより一層強く絡みつきその自由を完全に奪った。やがてその身は螺旋に巻き込まれバラバラに裂ける。体の内側と外側、両方から螺旋に飲み込まれ声を上げる事も出来ずにそれは絶命した。

「ゥグオォォォ!」魔獣の一体が吠える。アルヴとエリムに向けて襲い掛かる。翼を広げ、その巨大な爪で引き裂こうとする。アルヴは黒を支えている腕を動かしその塊を宙にいるそれにぶつけた。魔獣が渦にのまれるとその肉体は徐々に烏合のように崩壊し周りに散らばる瓦礫や塵と同然の存在に成り果てた。彼はそのままそれを振るいもう一体も飲み込もうとする。魔獣は向かってくるそれに対し自身が持つ固有の魔法を刻み魔力を放つ。一瞬だけ、ほんのわずかに黒い渦は勢いを弱めた様に見えた。その瞬間もう一体が別の方向から彼らに襲い掛かる。しかしその一瞬の勝利の可能性は、風に吹かれた木の葉の微かな揺れの如く、否定される。ぶつけられた魔力さえも飲み込んでその一部に変えて、同じ黒に染めていく。黒は開かれた魔獣の口を引き裂きながら魔獣ごと巻き込んでいく。振り返り、自分たちへ刃を向けた愚かな魔獣へ、叩きつける。そして、取り込んだ全てが弾けていく。空が、渦が、黒が、ガラスのように弾けて割れてグラスから一滴の雫が零れるように世界に光が戻ってくる。散った破片が光と混じって消えていく。風に揺られながら、どこかに運ばれていくように。

 黒い渦を掴んでいた、今は力無く下がっているアルヴのその腕が一瞬だけキラキラと瞬くように幾つかの光を放つ。その時、エリムには見えてしまった。その腕が純白の鱗を纏っていた。しかしそれは光が瞬くほんの一瞬の出来事であり、光が消えた後その腕には鱗などなく、彼女はそれを見間違いだと思った。彼はこちらを向いて静かに言った。

「……帰ろう」アルヴの言葉にエリムは頷く。そしてアルヴは彼女をそっと抱え、翼を広げ飛び立った。

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