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第9話 未だ届かない

 予定通り土産を届け、この場所に戻って来てから彼はずっと自分のなすべき事を考えていた。

肌を撫でる風が爪を立てる。そっと瞳を開けて空を見る。

「問う、人よ。星に手を伸ばし、見上げるのは、憧れからか?」ガロリアは無意識に央星の言葉を口にした。シュレーが彼に視線を向け、また俯く。

「僕は……なぜ光を求めたのだろうか。」ガロリアは自分の中の問いを口にする。瓦礫と廃墟の中、塵が地面を擦る音が響く。

 シュレーの意識はその音に過敏に反応を示し、音の一つ一つに注意が散る。すぅっと息を吸い込み、そっと目を閉じて意識の集束する感覚に浸り、目を開く。

「自己こそが最後の謎であり、無数の解の一つである。」彼女はガロリアの問いに言葉を返した。

「秘星の言葉か。」彼はシュレーへ視線を向ける。シュレーは頷いた。それ以上は何も言わなかった。

 足音が二人に近づいてくる。

「準備は出来たか?」裁定者が二人を交互に見る。

「マリフスタの鏡界とボクの力で周囲の空間を歪めた。これで大半の被害は抑えられる。彼女が鏡界の外に残って最後までこの空間を維持してくれる。後はボクが内側からあいつらの固有世界とこちら側の繋がりを拡張し維持するだけだ。」ハイリアスは裁定者と共にやってきて二人に現状の準備の度合いを説明した。

「後は我々がその固有世界に踏み入り、全ての無垢を殲滅する。だが最優先の目標は赤子の刻の神獣。それを撃破する事だ。」

「…僕はもう十分な程に準備できている。」もしも自分が負けるなら、最後に世界への贈り物として……刺し違えてでも勝利を手にして見せよう。覚悟は瞳の奥に閉じ込めて裁定者に目を向ける。ガロリアは剣の柄に手を置く様な動作をする。光が彼の手元に集い、剣が現れる。腰に携えたその剣に触れた手は微かに震えていた。

「私は……最後まであなたについて行く。これは明確な私の意志と決意です。」シュレーは裁定者の前に立ち、彼女の瞳をしっかりと見つめてそう言った。

 役者は揃い、準備は整った。ハイリアスは三人を見て頷く。戦いの時間が迫る。


ある場所で裁定者やハイリアスたちと同じ空を眺める者がいた。

「王、本当に俺はここで待てばいいのか。」エクテンクルは空を見つめる王の背中に問う。

「ああ、君はここであの者たちが失敗した場合に……如何なる被害も考慮せずに、即座に対処してほしい。」王は視線を空に向けたまま、振り返ることなく静かな声で役目を告げる。

「…それでこの都市の全てを灰にしてしまうとしても、か?」エクテンクルは内側で燃え上がろうとする炎とその勢いによって吹き出そうとする灰を抑えながら、彼から与えられた使命とその言葉の意味する責任、その代価として発生するであろう犠牲への自覚を問う。

「……ああ。たとえ全てが灰になろうと、あれを止める必要がある。どのみち、彼らも、我々も、失敗はつまり世界の犠牲を意味する。ならば終わる世界が後の可能性を奪わないように誰かが火葬する必要があるだろう。」王はその瞳をはっきりと開いてエクテンクルを見た。虚ろな瞳の奥で未だ消えぬ微かな光。その光芒が放つ悲しみにエクテンクルはより一層、内なる炎を熱く燃やし、彼に応えようと、己の意志を再確認する。

 王は彼を一瞥し、その場を後にすべく歩き出した。




 時が来る。静まり返った瓦礫と廃墟だけの街に光が顕現する。鏡界の淵に乱反射した光が視界の隅でパチパチと光る。鬱陶しい。

「赤子の刻、八番目の刻。」ハイリアスは手を横に振るった。マリフスタの鏡界とハイリアスの疑似空間の間に在った空間が拡張され途方もないほどの距離を形成する。視界の隅を明滅していた反射光が囁きほども感じられなくなるほどの距離がそこに生まれる。

「好きなだけ力を振るっても構いませんね?」シュレーは彼に確認をする。しかし既にその瞳に躊躇う意思はない。

「もちろんだ。」ハイリアスは頷く。

 溢れ出す無垢の軍勢。それは過去にこの世界に現れた敵の姿、そして自然に生まれた生命の模倣。マギアやデウスなどの無生命、魔獣や馬、鳥や魚、はたまた竜などを模した黒い星空を練り合わせた様な肉体とそれらの核と思わる一筋の光。

「過去の経験からすれば、あの光を壊せば一時的に行動が止まる。」ハイリアスは裁定者たちに助言する。

「一時的に、か。」裁定者は不満気に尋ねるように言った。

「戦闘行為、思考と思われる活動、感情の模倣、それらに該当する動きが止まるだけで、再び光が灯ればもう一度動き出す。だが赤子の刻の主たる神獣を倒せばあれらは完全に停止する。」

「だから、早々に決着を付ける必要がある、と。」ガロリアが剣に触れている手に軽く力を込めた。次の瞬間には既に一筋の斬撃が敵の軍勢を両断した。剣を振るうと決めた時、彼は既に斬り終えている。鞘に収まったまま、斬撃が先を征く。

「一度は断ったか。」裁定者は褒めるようにガロリアに向かって言った。次に彼女は右手を手のひらが上を向く様にあげると、くるりと手のひらを下に向け直し人差し指で空をさす。次にその手を下に振り下ろす。光の十字が無垢たちの上に現れ、すぐにそれらの核であろう光を十字の光が貫いた。

「ふむ。これでは足りないか。」さらに増える敵を見て裁定者は久しく全力で力を振るうイメージをする。手で空を払うように振るった。光が瞬いて空が裂ける。眩い十字の光が天を裂き現れる。空を覆う無垢の軍勢は光に包まれ消滅した。

「さすがです。」シュレーは称賛の言葉を述べるが、ハイリアスはまだ終わっていないと言う様に裁定者の背を見る。その視線を見たガロリアは剣に触れている手に再び力を込める。消滅したのはあくまでも無垢を構成する星空の肉体だけのようで、目を凝らして見ると空中にはまだ微かな光の残滓が残っていた。それは次の瞬間に復活し再び空を覆い始める。

「再生能力が向上している。」ハイリアスは軍勢の再生速度に驚いていた。

「攻撃が来るぞ。」ガロリアは先に斬撃を放っている。敵の攻撃が斬撃に触れて止まる。

「力が拮抗しているのか。」ガロリアは自分の斬撃を振り下ろした拳で受け止めた無垢を見て鞘から剣を抜く必要があると理解した。拳で弾いた無垢はデウスを模した物の一体。だがそれと同等、或いはそれ以上の力を既に全ての無垢が獲得しているという事は想像に難くない。

「皆、少し全力を出す。」ガロリアは腰に携えた剣から手を放した。心の内で剣を抜くイメージをする。目の前に剣はない。しかしそこに手を伸ばす。全員がそれを聞いて身構える。

「この手に星を掴み、」彼の光が手のひらに集まり、光芒を伸ばす。

「意志を鋳込んで、」弾け、剣になる。

「空を断つ。」それを手にして彼は振るった。

 激しい光。光が光を裂き、そこから溢れ出した光さえも自身を裂く。この空に血しぶきの様に光が飛散する。触れた無垢は全身が裂けていく。空が口を開いたように光のあった場所には深い闇が広がり、その奥を流星が過ぎる。その光の尾が赤子の刻の固有世界との境界を裂き、ハイリアス達の用意したこの空間に固有世界の要素が暴露する。空は白く染まった直後に再び暗い夜に染まり、星が枝の様な光の手を伸ばして地上を目指す。その過程で斬撃の光に触れた手は接触した場所から小さく裂けて塵の様に散っていくが、すぐにまた次の手が生えてくる。

「腕は衰えていないな。これが、央星の力か。」裁定者はガロリアの裂いた空を見て微笑を浮かべる。

「あなたにもいずれ出来ますよ。」ガロリアは呟く。

「そうだな。」彼女は自信に満ちた声と表情でそれを肯定する。堂々と前に出て手を伸ばす。

「流星、留まる事を知らず、尽きるまで―――」天を指さすその先には裂けた空がある。ガロリアの斬撃によって生じた激しい光の中に夜空が再び広がり始めている。彼女の指はその暗闇を指してなぞる。

「ただ、光を放つ。」その言葉と同時にその夜空を裂いて飛ぶ一筋の流星が駆ける。煌々と光を放つそれは輝きを増して赤子の刻の固有世界とこの疑似空間を貫く。その余波は鏡界と疑似空間の間にある拡張空間を一瞬で満たし、鏡界を乱反射して外にまで光を届ける。

 当然、外で待つマリフスタはそれを観測している。そしてその戦いの行く末を遠くから見守るエクテンクルも同様に光の放射に対してわずかに驚きの声を漏らす。だがこの光は衛星軌道上にある都市監視衛星にも観測されていた。しかし監視衛星からの本部へ向けての報告信号はそれを傍受していたエノードによって遮断されていた。

 光が固有世界と疑似空間を貫いたことでその境界を作っていた要素は完全に融和し一体化を始めていた。

「このままだと、この疑似空間も赤子の刻の影響下になる。固有世界と一体化したらあちらの土俵に持ち込まれる。」ハイリアスは彼らに決着を急ぐ必要性を説くと同時に警告をする。

「わかっている。シュレー、力を貸してやれ。その間にガロリア、周りを散らせ一気に距離を詰める。」裁定者は二人に指示をするとぐっと力を込めて赤子の刻の奥へ向けて跳躍した。一瞬で宙へ飛び出した彼女は敵の包囲網の中に突っ込む様な形になった。直後、指示を受けたシュレーが両手を広げる様に伸ばす。まるで何かを迎え入れる様に。そしてその手の平をぐっと閉じる。時間が止まったかの様な静謐。全てが静止しているこの空間でガロリアは剣を振るった。ハイリアスはその二人の動きを見る事が出来なかった。一瞬の間、光の瞬きも許さない時間の止まった世界で、疑似空間に出現した全ての無垢の軍勢はその身を裂かれ失い、核の役目を持つそのわずかな光の瞬きもガロリアの二度目の斬撃で消えていく。全てが散っていく中、裁定者は赤子の刻のいる固有世界に突入した。

 何が起きたのか理解の及ばないまま、二人の実力を体感したハイリアスは驚き、揺らめき、一歩後ろに引いてしまった。だが、すぐに姿勢を正す。ハイリアスは過去にもこの二人の力を目にしていたが、記憶の中にあったどれよりも圧倒的な力を持っていた事に驚いたのだ。八星に選ばれた人間。凡人の身でありながらもこれほどまでに力を持つ事に驚嘆し、同時に期待を抱く。やはり、この世界の可能性に賭けた自らの判断は正しかったのだという気持ちが大きくなるのを感じる。




 黄金の螺旋が浮かんでは消える、白い世界が暗転するかの如く黒く染まる。世界の蓋たる星空の下で水面に移る星の光の中に紛れて、世界が全てを憎み飲み込むほどの昏い瞳を開いている。静かな唸り声の様な音が響く空間の中に、王が現れる。彼は水面に一歩踏み出す。波は立たず、その静寂は保たれたままだった。彼は一歩ずつ前に進み、瞳に近づく。

「まだあなたには眠っていていただかなければ。」彼は足元の瞳に向かって呟く。威圧するように強くそれを睨みつける。

「第七世界を呑み込んだ事象の一つにあなたが関係していると思っていたが…この様子だとついさっきまでその瞳を閉ざしていたようだな。」王は右手を掲げる様に顔の横までもってくる。その手に何かが握る様に力を込める。

「第八の鍵―――」雷と共に王の頭上に浮遊した王冠が現れる。

「その虚無の瞳、まだ閉ざしていてもらおう。」静かに雷光が煌めく。王は足元の昏い瞳にその雷撃の槍を突き立てる。槍と瞳から光が散り、弾けた雷撃が空間を引き裂く程の勢いで瞳に吸い込まれていく。声はなく空間は依然として静寂を保っていたが、王には確かに悲鳴が聞こえていた。悲しみ、怒り、新生を切望するその叫びは世界に響かない。瞳は涙を流さないまま静かに閉ざされた。

「界獣の目覚めは阻止しなくてはいけない。今の彼らにはあなたを超える力はまだない。」王が頭上の王冠に触れない程度に手を近づけると、それは瞬いた後に消えた。

「無垢の刻を超える力の証明、裁定者、全ては君にかかっている。あの星空から傲慢にもわが物顔で世界を見下ろす神々に見せつけてやる必要がある。何度も、何度でも、奴らが理解できるその時まで、拳を振り上げなくてはいけない。」天の蓋たる星空を見上げる。彼の瞳は光を映すが、その瞳の奥には届かない。

「虚無の欠片を埋め込まれ運命に迷う少女―――何度も繰り返した可能性の中で生まれた神の末裔。君も星空の神々の敵なら、人類の味方であると信じたいものだが。」王は再び歩き出す。金色の扉が彼の前に現れる。彼がその扉を通ると閉じた瞳の眠る空間は再び沈黙に包まれた。




 赤子の刻、固有世界の中。世界の淵に限りなく近い環境の中で実体を保っていた裁定者の肉体は時間と共に紐状にほどけつつあった。彼女が目を覚ますまで人類が体感できる時間概念上で約20分、ハイリアス達が用意した空間の外、つまり実際の世界の時間にして約14分半―――彼女は目を覚ました。既に四肢のほとんどが固有世界の光にほどけていたが彼女は覚醒と同時に自分の現状を理解した。

「これは…身体がこの空間に?身体の消滅を止めるにはルールを設けるしかないか。律星、力を借りるぞ。」彼女の内側に宿る光は瞬く。

『我の力をお前が使うか……ん?』律星の囁きが頭に響く。彼は何かに気が付いた様にその視線を彼女の周囲に向ける。

『あぁ……』感嘆と悲哀に似たため息、或いは嗚咽。律星はこの哀れな運命に翻弄された少女が、さらにその因果の紐に絡めとられ、運命の荒波に呑み込まれている事に気が付いた。

『お前が来てしまったのか。』律星の声に裁定者は意識を周囲に向ける。温かな光。だがそれは彼女を優しく抱擁しながらも不敵に笑い、すすり泣く様な声を漏らす。

「あなたは、弄星?」消滅の進む彼女の身体を縫い直し現実に繋ぎ止めるその姿は我が子の傷を編み止める母の様にも見える。

『なぜ、お前が彼女を助ける?』律星の囁きと視線は弄星に向かう。

『ヮ―――◁bお、P≠ヴ〇ぁ●●?|||□_i……◆:@!』その者の声は人類に理解できる言語ではなく、それは律星にとっても理解とは程遠い内容であった。

「星の光の瞬きを感じる。あなたは私を救おうとしている。とても利己的な理由ではあるが、それでも私はその献身に感謝する。」裁定者は弄星の言葉を理解こそできなかったがその意味を感じる事はできた。律星は理解に苦しみつつも彼の行いを咎めなかった。弄星が彼女のほどけた四肢を縫い直しその身体の実体と自由を再び彼女が得るとそっとその身を翻す様に彼女から離れる。弄星は裁定者を見て笑うとその身に視線を注ぐ。弄星の光が彼女の中にある光を貫いて融和を始める。

「私に力をくれるのか?」裁定者はその行動に驚きと困惑を抱く。だが弄星の光が自分の内側の光に流れ込むと同時にその真意を理解していった。

『八星は天の星の神々と決別した存在。空に星座はなくともその身に刻まれ、光が己の星座を描く。はぁ―――弄星、お前も結局は我らと志を同じとする者だったのか。』律星の言葉に弄星は否定的な声を上げた。悲鳴、怒号の混じった喘鳴の様なそれを声と認識するのは常人には難しいだろうが、確かに弄星は否定の意思を示した。

「正直になれないのですね。」裁定者は弄星の本心を理解している様だった。光の融和が終わり、その言葉と真意が理解できるようになったのだろうか。それとも彼女が持つ素質によるものから来る理解なのか。

『▼s…ぃ!_1u◎N―、ざ▶▶□r』判読不能な未知の言語を発する。弄星は揶揄う裁定者に怒りを見せるような動きをする。裁定者は弄星をなだめる様に手を伸ばす。

「すいません。まだあなたを理解できていないのだ。」彼女の言葉の後、弄星は律星の力に視線を向ける。

『……。』律星は沈黙する。それらは互いに対話を行っている様だが、裁定者にはそれを最後まで聞いている時間はない。彼女はすぐに再びこの固有世界の中を歩き出し、その深部、つまりは赤子の刻の本体のいる領域を目指す。

 この固有世界の淵に目をやると万象が無秩序な何かに変換されていくのが見える。

「無垢…いや、赤子の刻。あれがこの刻の……外にこれらを解き放つ訳にはいかない。」光の満ちるこの固有世界に重力は無い。認識が力を生む。飛ぼうと思えばどこへでも飛べる。この場合は飛翔というよりも跳躍という方が力の作用の仕方としては近いのだろうが、今はそんな些末なことはどうでもよい。ここは赤子の刻の独自の法則によって成り立っているのだから。とはいえ、一部の法則は現実世界に則しているようだ。基底世界として現実から世界を練り直したのだろう。

異様な風が肌を撫でる。威圧や恐怖ではない。むしろその真逆。穏やかさ、落ち着いた囁き声の様な、頬をそっと撫でる風は優しく、温かい抱擁にも似た感覚。裁定者は足を止める。風の吹いてくる方へ視線を向ける。そこには白い光で構成された女鹿の姿をした神獣がいた。

「力の在り様からして、貴様が無垢の神獣。赤子の刻の主だな。」裁定者は己の光から剣を生み出す。

「……。」女鹿の神獣は言語を理解しているのか頷く様な動きの後、礼儀正しくお辞儀をした。

「世界を滅ぼす存在が、礼儀作法を知っているとは。それとも、それは人間の模倣か?」裁定者は無礼にも剣を構え、相手を睨む。

「……。」女鹿の神獣は決して嘲るように喉を震わせる。まるで本当にそう思って言っているようだった。優しく語り掛けるように裁定者を見た後、空を見上げる。彼女、赤子の刻の固有世界の星空は外の世界とは少し異なって見える。燦然と輝く天の星たちの中のいくつかが形を成し、こちらを見つめているようだった。

「……。」何かを訴え、理解と同意を求める様に再び裁定者に視線を向ける。

「悪いが天の神々の言葉は信用できない。そして奴らによって生み出されたお前の言葉も同じくな。まあ、そもそも今のお前は言葉すら話せないようだが。」

「……。」溜息、落胆、嘆き、憐み。

「もう一つ言うと、私は貴様と対話しに来たのではない―――私はお前を殺しに来た。」裁定者はそう言うと剣を握る手に力を込める。

 女鹿の神獣は首を擡げ天を仰ぐ。それが前脚を突くと無垢の軍勢が裁定者を取り囲む。デウス、マギア、魔獣、大小異なる人型の者、動物の形をした者、様々な形を模した無垢が彼女の周囲に無数に出現する。猛禽類を模した無垢が彼女に鋭い爪を立てようと迫る。裁定者は左手を広げると光が舞いそれに触れた無垢の爪が砕けた。そのまま飛び込んできたそれを腹から切り裂いた。その直後に光線が彼女の腕を掠める様に放たれた。それはデウスを模した無垢による攻撃だった。

「くっ…敵意も、悪意も無い攻撃は避けるのが難しいな。」身を翻し次の光線を躱す。振るった腕から放たれた星屑の如き煌めきが彼女を囲む無垢を一歩退ける。しかし直後に振るった剣は神獣には届かず、デウスを模した無垢の分厚い腕部によって防がれる。デウスを模した無垢は彼女に近づきその腕を大きな剣として斬りかかる。躱した直後、マギアを模した無垢が放った光弾が頭上に、魔獣を模した無垢の牙が胴を裂こうと迫る。

「この程度ッ!」裁定者は剣と光を振るう。無垢の大きな剣は砕け、光弾は跳ね返り、牙と顎は大きく裂けた。

女鹿の神獣は呆れた様に首を垂れる。裁定者が光を手に握る。周囲に十字の光が現れ無垢たちを貫いていく。だがその光の合間を縫って蛇を模した無垢が彼女に飛び掛かる。腕を一振り、光を放つ。蛇の口に向かった光はその長い体を内側から引き裂いた。だが、バラバラになった鱗の一つ一つが刃となって彼女に襲い掛かる。

「数だけでは私は倒せないぞ」裁定者は飛び退くと剣をそっと指でなぞる。刃が光を纏い振るわれた軌跡は流星となって激しい光を放ちながら燃え盛る。彼女から固有世界の空間の壁までを光が裂く。拡散した光が刃となった鱗を全て裂き崩していく。

女鹿の神獣は勝ち誇った様に喉を鳴らす。実際、このまま停滞した状況が続けば裁定者は不利になる。彼女も、この固有世界の外にいる彼女の仲間も、そう簡単に諦める様な者たちではないが、数と時間による攻撃は確実に彼女たちを追いこむ。時間に比例してこちらは一方的に消耗するだけであり、赤子の刻にとってはむしろ完全な状態になるまでの時間稼ぎになっている。この現状を打開できなければ、やがて肉体、もしくは精神が限界を迎え、完全な赤子の刻の顕現によって敗北を迎える事になる。だから彼女には一刻も早くこの状況を解決する一手が必要だった。

無数の無垢の攻撃を捌きながら彼女は内側の光に意識を向けていた。

「私は、お前たち無垢の様な光では消せない!」剣を掲げる。光が刃を通して固有世界に拡散する。照らされた無垢たちは一瞬にして朽ち果てた花弁の様に散っていく。

散った体躯の破片に無垢の核を成す光の残滓が触れるとそれらは互いに引き合い一つになる。視界のほとんどを埋め尽くすほどの巨躯。牡鹿を模した無垢が裁定者の前に現れる。女鹿の神獣は牡鹿の無垢の頭上に立ち、裁定者を見下ろす。

「赤子の刻よ、私は、我々はお前たちによる終わりへ抗う。」裁定者は内なる光を強める。

「我々は終わりを望んでいない!」星の光に匹敵する程のエネルギーを内包したその身が小さく震える。

女鹿の神獣は苛立っている。巨躯の牡鹿の無垢が裁定者を睨む。裁定者の周りに再び、無数の無垢が現れる。裁定者は光を刃に込め振るう。最初に現れた無垢が裂かれると同時に次の無垢が現れる。次の光を込めた斬撃を放つまでにそれらは攻撃を仕掛けてくる。猿を模した無垢が他の無垢の肩を飛び越えて迫る。剣を持った人型の無垢が左右から斬りかかる。げっ歯類を模した無垢が足元から迫る。彼女は瞬く光と共に頭上に瞬時に移動しそれらを斬った。樹木を模した無垢が彼女の振り切った腕に枝を絡ませる。

「邪魔だ。」彼女の内側の光が瞬くと枝はその光を受けて砕け散る。

「生命が持つ勇気、それは運命に抗う事。そしてその力は未来を望むからこそ生まれる。」振るった刃はまだ届かない。だがその刃に映った彼女の瞳は確かに女鹿の神獣を捉えている。天を覆う程の暗雲の如き無垢の大群が押し寄せる。その光は雨の様に激しく彼女の身を貫き殺そうと降り注ぐ。

「私は可能性を信じたい。人が、生命が、未来を切り拓く意思が終焉を超える力になると。」手を掲げる。強烈な光が空に現れる。それは赤子の刻の固有世界を駆ける一筋の光となって空を裂いていく。曇天を切り裂く光は雨粒さえも切り裂いて明日の方へ向かっている。

「全ての者が未来に希望を持てる訳ではない。だが全ての者が未来に絶望する訳でもない。前に進む意思が残っているなら、それを無下にする事は誰にも許されない。」天を裂く光は赤子の刻の命無き白き星々たる無垢の一切を照らし尽くしてしまう。その光に飲まれた無垢は一切の動きを止める。無垢の内側から十字の光がその身を貫いて出現し無垢の肉体を崩していく。光の粒子となって散っていく無垢を見て神獣は小さく唸り声をあげる。怒り、恐怖、殺意、不安、それらの混じった唸りを裁定者は聞き逃さなかった。

「赤子の刻の主、無垢を束ねる者といえど感情を持っているのだな。」

「……!!」彼女の言葉に不服そうに女鹿の神獣は鼻息を鳴らす。神獣は彼女を遠ざけようとしていた。諦めず、無力さに挫けず、待ち受ける結末に臆さず、ただ前を向き立ち向かってくる、そんな彼女が恐ろしく感じられた。強く力を鳴動させる。赤子の刻の固有世界が震える。子の泣き声が響く。裁定者は掲げた手の内に光を握る。

神獣は嘶き、咆哮し、世界が脈打つ。生誕の祝福、福音に似た鐘の音は歪み、生と共に約束された死への絶望と捻じれ歪み悲鳴へ変わり果てた産声が固有世界に響き渡る。それは外側の疑似空間にも微かに届いていた。

裁定者の手の内より溢れた光が霧散していく。握っていた剣さえも光に戻り、共にこの赤子の刻が支配する世界に広がる。それはこの白い世界を彩り染め上げていく。神獣の叫びに応える様に無垢の光が集い人間を模倣する。だがそれは人間に似た何かでしかなく、その無垢は四つの腕で裁定者に襲い掛かる。裁定者は再び手の内に光を握り、その拳で無垢を殴り飛ばす。瞬時に体勢を立て直し再び襲い掛かろうとしたが、そこに彼女の姿はない。

「―――!」無垢の頭上、十字の光が灯る。

「審判を下す。」裁定者は先ほど裂いた空の裂け目、光が駆けた軌跡の下にいた。彼女が手を振り下ろすと同時に無垢の頭上の光がその核たる光を貫いた。

「次はあなたに審判を下す。」裁定者は足元で自分を見上げる神獣を睨む。

神獣は疑問を抱く。自身の死を間近にしてか、神獣の思考と情緒は突如として飛躍的に発達していた。ただの人間が、所詮は器程度の価値しかない飾り物の裁定者が、どうしてそこまでの力を内包してなお崩れないのか。そしてなぜ、既に人間の許容量を上回る力を受けていながら人間という存在を保てるのか。彼女の内包する力だけを見れば、既に我ら神獣と同等の域に到達している。だがその存在を歪める事無く人間という存在を保てている。

「覚悟は決まったか?」裁定者は神獣の頭上に光の裁断を出現させる。

直後に裁定者の背後に現れた巨躯の無垢が拳を振り下ろす。その一撃を上方向へ躱し無垢の頭部に光の刃を突き立て引き裂く。刃を無垢の頭部から抜いた直後、さらに巨大な魚を模した無垢が彼女を巨躯の無垢ごと飲み込んだ。

 水に沈む感覚。意識さえも深く、深く。その内側は外観よりも大きく広く深い海の様で、心臓を模した物の拍動が聞こえる。このまま眠ってしまいそうな程の安寧を感じる。暗闇が彼女を包み込もうと迫る。自身の内側の光も外で輝く星々も、この意識を覆う暗闇が閉ざしていく。

「あぁ…意識が、だめだ。まだ、終われない。」自分に言い聞かせも身体は言う事を聞かない。意識がほどけているのだと彼女が自覚した時には既に遅く、その意識のほとんどは彼女を呑み込んだ魚を模した無垢に消化されていた。暗い深海に引き摺り込まれる様に深く沈んでいく。もう自分では浮かび上がる事もできないだろう。赤子の刻に入った時に解けた肉体が、再びほどけていくのを感じる。肉体と意識、どちらも徐々に原型を崩していく。輪郭が溶けていく。何かに塗りつぶされていくのではなく、混ざり合って溶け合って一つになってしまうような感覚。

「……ぁ。」終わる時は案外あっさりとしているんだな。私の人生もこんなものか。それで?ここで私が負け、外の仲間もやがて倒されて、世界は結局彼らの手に委ねられる。




 裁定者が固有世界に突入した頃。シュレー、ガロリア、ハイリアスの三人は外に残って無垢達との攻防を繰り広げていた。何度斬っても捻っても潰しても復活してくる無垢の軍勢に三人はごくわずかな疲労感を抱いていた。無垢の軍勢が現実世界へと影響を及ぼさない様に疑似空間を維持しているハイリアスは二人よりも少しだけ強い疲労感と苦痛を感じていた。

「少し休んだっていいんだぞ」ガロリアが刃を振り下ろした後、背後で息をつくハイリアスに気が付き声をかける。

「大丈夫さ。」

「強がっても疲労は消えないですよ。」シュレーが迫る敵に向けて手を伸ばす。まるで時が止まったかのように敵が一斉に動きを止める。それに合わせてガロリアによって斬撃が行われる。閃光の後、時間が動き出す。無垢の軍勢が裂き砕けていく。

「こちらはまだ問題ないな。」ガロリアが鞘に剣を納め、敵の次の攻撃までのわずかな暇を噛みしめる。

「内側はどうなっていますか?」シュレーは固有世界との境界面を仰ぎ見る。

「裁定者の突入後、激しい波が起こった。恐らく彼女が固有世界に侵入した事による影響だろう。だが、その直後から内側での動きが少ない。」

「内部で何かあったのか…。」

「けれど、先ほどから何か……」シュレーは赤子の刻の固有世界から放たれる光に目を向ける。

「やはり、この異様な感覚を感じるか」ガロリアも彼女と同様にそれに目を向ける。ハイリアスが二人が感じているであろうものが何かわからなかったが、おおよそこの状況で内部で起きている事は想像できた。

「何度も経験した事だが」ハイリアスはそれに手を伸ばす。二人はふらつきながら前に出る彼の背中を見る。

「やはり弄星が来ているようだ。」ハイリアスは内部の状況を探る様に手を動かし、その度に空間の境界面が揺らめいた。

「弄星、世界を笑う者。敵とも味方とも言えない者の介入を許しても計画に支障はないのか?」

「むしろ、弄星がいなくては裁定者は生き残れない。」

「どういうことでしょうか?」

「彼女の身体は固有世界に入った時点で空間に溶けだす事になる。赤子の刻の生み出す固有世界の光に暴露した生命体は等しく原初の状態へ変換される。」

「貴様、それをわかっていて裁定者様を!」シュレーが怒りを見せ、彼に掴みかかる。

「待て。」ガロリアが彼女を制止する。

「だが…!」

「君は何度もこの状況を経験してきたのだろう。だから弄星が必要だと言った。そして、我らが君の話を聞いて怒りを抱く事を理解していて、あえて口にしたんだろう。」ガロリアは理性的に彼に問いかける。

「そうだ。何度も経験した。そして、その光への暴露による影響を止めるには弄星の助けが必要だ。律星もこの場を見ているが、奴は間に合わない。だが弄星が介入した場合、その過去の全てにおいて彼女は助かった。それに、弄星の力も彼女は手に入れる。この過程は今後の計画にも必要になる。だから、絶対に必要だったんだ。」ハイリアスは二人を見る。

「未来の全てを話せば君たちはそれに向けて対策をする。それが全て正しいとは限らない。知っていればその分有利になると思うだろうが、知らないからこそ選ばれる選択肢もある。ボクは君たちの必然の直感を信じている。そして裁定者は、決してその直感を違えない。」ハイリアスの言葉は自信に満ち、それが真実である事を突きつけてくるようだった。

「だけど、予想外の事が起きているかもしれない。」ハイリアスは再び赤子の刻の固有世界との境界面へと視線を向ける。

「あの境界面が完全にこちらと融和すれば、ボクらもその光に暴露する。本来なら、そろそろ彼女があの光を裂いてこちらの世界に戻って来るはずだが…」ハイリアスが目を凝らす。

 次の瞬間、いくつかの光が固有世界から飛び出した。

「何事だ。」ガロリアが剣に手を伸ばす。そこから数回、光の放出が繰り返される。

「内部での戦いの余波がこちらにも来ているのだろう。」ハイリアスは落ち着いて言った。

「大丈夫でしょうか。」

「じきに落ち着く。結果は…」ハイリアスは口を閉ざし、少し難しそうな顔をした。二人はそれを見て内部で裁定者が追い込まれている事を察した。

「あの境界面に攻撃を加えたら向こう側にも届くだろうか。」ガロリアが真剣な表情で尋ねる。彼は剣に手を携えたままさらに前に出る。

「届くだろうが、ほとんどがわずかな揺らめき程度にもならず消えるだろう。」ハイリアスは彼が行おうとしている事を理解している。彼は過去にもこの状況であれに向けて攻撃を行っている。だが、この繰り返しの中で彼の攻撃が裁定者へ助けになった事はたったの一度もなく、この後は決まってシュレーが手を貸している。だが、それでも、二人の力でも届かない。目の前で、過去の繰り返しと同じ行動を取る二人を眺めながら、ハイリアスは次にするべきことを考えていた。

ガロリアは自分の放った斬撃が境界の向こう側に消える瞬間、そこに極めて小さな歪みを見つける。

「シュレー、今のが見えたか。」彼は何かを思いついた様で一度剣を納める。

「…今のとは、あの歪みの事ですか?」

「そうだ。あの歪みが生じた瞬間、君の力であの場所の時間を一瞬でもいい―――」

「はぁ、わかりました。やってみましょう。でも、その後何が起こるかはわかりませんよ。」シュレーは彼の意図を理解していた。だが、その後の事を危惧していた。

「もし、それが破滅に繋がるなら…彼が我々を止めるだろう。」ガロリアは一瞬ハイリアスに視線を向ける。だが彼は何かを考えているのか、或いはこの空間の維持に注力しているのか、目を閉じて黙ったままだった。

 視線を戻し、二人は息を合わせる。ガロリアは剣を抜き一撃を放つ。次にシュレーは秘星の力を行使し、彼女の持つわずかな時間干渉能力を拡張し、彼が放った斬撃によって境界面に生じた空間の歪みが発生した瞬間、その一瞬を固定する。その固定時間は現実時間にして約5秒。だが歪みが最も広がり、赤子の刻の固有世界までの傷口と言えるほど開くのはその5秒の中でも最初の1秒にも満たない極わずかな時間。だがガロリアにとってはそれで事足りる。彼は剣を抜く―――強い意思、信念、志。それを認めた者によって授けられた剣。央星の力を込めた剣。心の中で剣に手を触れる。それと同時に剣は抜かれた。世界に顕現したその刃は彼が斬撃によって生み出し、シュレーが留めたその瞬間、そこにあった歪みを裂いた。

「―――ッ!」激しい閃光。数度、瞬く。世界を覆う天幕にも届きうる一撃はこの夜空を裂き、銀河の一片に似た傷を刻む。星々が彼を覗き見る。赤子の刻の内部にも届いたであろうその斬撃を放った後、世界はまた静かな夜に包まれる。

「…この一撃が彼女の助けになればいいが。」ガロリアは剣を納める。

「届きはしたようですが、結果は……。」シュレーは力を解き、変わらず光を放つ境界面を見る。

全てはこの戦いの為に用意された空間内での出来事だったが、彼らの行いはその外にいる幾人かにも知れていた。




 淡い眠気に包まれて。少女を抱きしめ夢を見る。白い世界に再び訪れたアルヴ。

「竜王。」目の前の白銀の少女に視線を向け、彼女が歩み寄ってくるのをただじっと待っていた。彼女はアルヴの前に来ると箱を渡した。それは彼がエノードから受けとった箱と同じ物だった。

「どうしてこれを。」

「万人の刻で記憶を失う前のあなたはこの状況を予測していた。」彼女から受けとった箱がゆっくりと開く。微かな光と共に失った記憶と感情、その一片が流れ込んでくる。

「掟と盤、そこにいる存在とした約束を果たす時。だから、あなたに一時的にこの記憶を返還する。」空白の記憶と心に一滴の絵の具を零したように色が広がる。

「数多の力を以て、たった一つの小さな箱に隠した約束。」胸の中に優しい温度を感じる。これはかつてアルヴが他者に向け、世界に向け、そしてそれらから向けられていた感情。

「それを届ける為にあなたが選んだ……希望を託した相手はティルミ。彼女の力なら、あなたの身を蝕む禁忌の力も一時的に無力になる。全ての記憶と感情を失っても、未来のあなたは必ず彼女に心を開くって…聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらい、過去のあなたはそれを信じて疑わなかった。」思い出した、取り戻した、それまでの出来事、その一片。断片的でも十分な程に。たとえもう一度それを失う事になっても、この感情は夢でも幻想でもない、確かなものだと確信する。確かに自分が一度は手にしたもの。

「支配の星との約束か…」心にその名を刻む。その者が支配の星と呼ばれる前、その根源を彼は知った。その者を再び正しき姿で世界に呼び戻すと約束した。己の感情と力を以て、再び世界に顕現させる。

「さあ、もう起きて。」少女はアルヴを抱擁する。その小さな体では彼を完全に包み込む事はできないが、アルヴは白銀の彼女に感謝を告げて目を閉じる。

暗い部屋の中、彼はそっとその身に絡まる少女の腕を解き、起き上がる。服を着替えて、エノードに渡された箱を持ち、ポケットにしまう。静かに眠っている少女に視線を向け、彼女の身が冷えないようにシーツを肩までかけ直す。

「ありがとう。お陰で少し楽になった。」しばしの沈黙が流れる。

「お前といるとなぜだか心が安らぐ。」彼女の髪をそっと撫で決意を瞳に宿して離れる。彼は部屋を出て行った。

「……また、ひとり。」少女は一人、まだ温かいシーツを抱きしめる。溢れそうになる涙をぎゅっと堪えて―――起き上がる。行くんだ。もう置いて行かれないように、同じ歩幅で歩けるって証明するんだ。

 星空の見える場所ならどこでもよかった。星の光の瞬きが見える。

「……きっとこれは俺がやるべき事だから。」アルヴは手を伸ばす。その身に宿る黒い力を以て剣を作り、しっかりとその手に握る。彼は裁定者たちがいるであろう第十区の方へと視線を向ける。そしてあの箱を取り出す。

「掟と盤、果て無き闇と虚無の先にお前はいるのだろう―――支配の星『プレムツァーラ』。」彼の言葉、声、呼びかけ、或いはまじないの様なその一言で彼の者は瞳を開いた。

 同時に、無垢の神獣はその権能を世界に知らしめる。脚を突き、唸りをあげる。その声はハイリアス達が用意した空間など容易に突き抜け、瞬く間にこの街の至る所に無垢の軍勢が出現する。だが、この世界に顕現した無垢達が見たのは輝ける星空ではなく、ただ虚しく見下ろす瞳だった。

 ティルミはアルヴを追って屋上にたどり着く。

「先輩―――!」彼女が目にしたのは、砕かれた掟と盤と浮かぶその塵と、今はもう屑となったそれを握りしめ傍らに立つ異様な存在と対峙しているアルヴだった。支配の星の力を留めていた物は彼の呼びかけにより果て無き闇と虚無の向こう側から帰って来た。自身の名前を呼ぶただ一人の人間の為に、過去に結ばれ今まで紡がれてきた約束の為に、支配の星は顕現した。

「ティルミ、やっぱり起きていたのか。」彼は何事もなかったかのようにいつものように口を開く。その体の半分を禁忌の力に染めながら、彼は平然としている。

「何を…何をしているんですか!?」動揺と焦りから来る鼓動の高鳴り。自分にも理解できる。今の彼はしてはいけない事をしている。止めなくてはいけない。手を伸ばして触れようとする。或いは自分の無力の力を彼に届けようと。そうすればきっと、いつもの先輩に戻ってくれるはずだから。

「だめだ。お前は巻き込めない。誰も、巻き込んではいけなかったんだ。」彼も手を伸ばした。だがそれは彼女の手を握るためではない。突き放す為だった。開かれた手のひらから黒い力の波が押し寄せる。彼女の前でそれは壁となって立ちはだかり、目の前にいる救うべき人への道を阻む。ティルミの無力の力に触れても、綻んだ部分から泥が溢れる様に新たに黒い力の波が押し寄せ彼女を行かせまいとする。

「俺が、やらなくてはいけない事だ。」彼はそう言って一呼吸おくと傍らの存在に視線を向ける。

「今日、世界を終わらせないために。力を貸せ、支配の星。」その者はただ何も言わず、恐らく彼を見つめている。

『……。』その者は静かに頷く。果て無き闇と虚無に晒され続け淀み沈んだその黒い体の内に一つの光が灯る。アルヴは支配の星との約束を果たす為、自分の内にある光を以てプレムツァーラを満たし、その禁忌の力を以てその真の姿を世界の運命に結び直す。二つの光が交わり本来のプレムツァーラがここに顕現する。その者は自らを世界に取り戻してくれた少年を一瞥し、自身の内なる星の光で彼を照らし返す。それは輝きを増してその者の真の姿を映し出す。傍らに立つ異様な存在はもういない。そこにいるのは忘れられた星の神、プレムツァーラ。その者は彼を抱擁する。

『ありがとう。』その星の神はただその一言を告げた。

『暗い闇に飲まれそうでも、眩い光で前が見えずとも、約束を違えることなく私を見つけてくれた。少年へ、感謝と……この権能を君に。』その者は自らの内より一欠けらの光を取り出す。支配の星の力を宿したその光はアルヴの内側にある黒に沈んでいく。

無垢達を見下ろす瞳が輝く。その視線は無垢達の動きを止める。

「俺の道を邪魔する有象無象、消えろ。」アルヴの言葉の後、街に現れた無垢達は光を放ち消えていく。全ての敵が光になって消えた後、瞳は閉じ、消えた。

 ティルミの前に立ちはだかっていた壁が消え、アルヴが彼女に歩み寄る。

「ティルミ、すまない。お前を遠ざける様な事をしてしまって。」

「……私は」彼女は俯いて拳を強く握りしめていた。

「俺にはまだ行かなくてはいけない場所がある。」彼女の呟きは聞こえていなかった。彼には助けるべき人がまだいるから、その人の元へ向かわなくてはいけなかった。

「……。」ティルミにもわかっていた。でも、ここにいてほしかった。どこにも行かないで、と言えたならどれほどいいか。ただ、彼女は彼の目を見る事も出来なかった。

「必ず戻ってくるから、もう部屋に戻って、ちゃんと温かくして眠るんだ。」アルヴはそう言って彼女から離れていく。ティルミが視線を向けた時には、もうそこには誰もいなかった。星の神は星空に、少年は救いを求める者の地へ、二本の光が尾を引いて各々の向かうべき場所へ飛んでいく。

「……私はあなたの力になりたいのに。あなたはいつも一人で行ってしまう。どうしたらいいんですか。どうしたらあなたに追いつけますか?どうしたら、あなたの隣に立てますか?」静かに、無力に、握りしめる。

『……。』そんな彼女に注がれる視線も確かにこの世界にある。彼女を見つめる彼方の存在は彼女を哀れに思いこそすれど、その命の根源を覗き見て現在の彼女の有り様に納得した。

結局、彼女を救う手は星空から伸びていない。




 無垢の固有世界の入り口で互いの意思を通わせていた律星と弄星の間を一筋の斬撃が通り過ぎる。

『…あの者の。未だ衰えず、これほど鋭い一撃を放てるとは。』律星はそれがガロリアの放ったものだと一目でわかった。

『d〇▼?sク■◁>>_あ』判読不能な未知の言語。弄星は律星に人間への関心の一致を説く。

『人の命は一瞬の瞬きの内に過ぎていくが、その閃きの中には我々に届きうる光がある。確かにある程度の一致はしているようだな。』二者が互いに理解を示した時、ちょうど二人の間に一筋の光と火が現れる。星の光に等しい、或いはそれ以上の輝きを放つそれは二者の存在に気が付き一瞬だけ足を止め、何者かを確かめる様に彼らを一瞥し、再び飛び立った。

『あの者は……』

『?<_ゥ;A●□▼▼__t』判読不能な未知の言語。行動を促している。

『そうだな。我々もいつまでもここにいるべきではないか。』

 二人の星の神は互いの理解の一致を喜びながらも現れた光についていくつかの思案を巡らせた後、無垢の固有世界からいなくなった。




固有世界との境界の外、疑似空間での戦闘を継続していた三人。ハイリアスが疑似空間内の構造を絶えず変化させることで無垢たちの環境への適応を遅れさせているが、それもいずれ間に合わなくなるだろう。固有世界の外へ神獣が力を波及させる為に上げた唸りが響いた頃から無垢達は急速に変化を始めていた。三人はその唸りが原因だとすぐに気がついたが、こちら側にいては手の打ちようがなく、とはいえ固有世界に入ろうにもこの現状を維持する事で精いっぱいだった。

「ガロリア、あの時と同じようにできませんか。」シュレーが痺れを切らして彼に央星の権能の解放を促す。

「あの時とは……」ガロリアはそれが意味することも、その判断が現状の最適解であろうことも理解していたが、己の躊躇いから彼女にその意思を問う。

「淵教戦争を終わらせたあの日の様に!」彼女は敵の大群に自身の力を振るい攻撃を止めさせる。敵の時間が静止し、彼女がその手を閉ざせば彼らを構成している光が深い闇に閉ざされ消えていく。だが時間が動き出すと同時に彼らの光は再び満ちて攻撃が行われる。ガロリアは自身の対応していた敵を三振りし斬り伏せた後、向かってくる敵と彼女の間に即座に割り込み、剣を振るう。猛攻を防ぎ、互いを守りながら反撃の機会を伺っているが、既にそんな機会が存在しない事にハイリアスは気が付いていた。

「ハイリアス、権能の解放に疑似空間は耐えられるか?」

「耐えられるが、それでも現状は変わらない。」

「―――裁定者様は失敗したのでしょうか。」シュレーの声はほんのわずかに震えていた。彼女は動揺していたが、それでも瞳はまだ裁定者を信じている。だからこそ、ガロリアは彼女に言った。

「最後まで信じよう。」彼女はその言葉に彼の覚悟を感じた。既にガロリアは権能を解放すると決めた様だ。無駄だと言われても尚、彼はそれでも先にある勝利を信じていた。だからこそ、たとえ現状が変わらずともこの場所を守る必要がある。唸りの響いた直後、疑似空間の外に感じた無垢達の気配が少し前に突如として消え去っている事に三人は気が付いていた。それが彼らにとっての現状の活力であり、それは裁定者の帰還を想起させたが、実際にはこの有り様である事から、きっとあれは裁定者以外の何者かが対処した結果か、或いは既に……。

「二人とも、備えろ。」ガロリアは権能を解放振るうため意識を内側に向けようとする。

その時、この疑似空間の真上に異様な存在が出現した。三人はそれに気が付き意識向ける。無垢の軍勢も気が付いたのか疑似空間の空を一斉に目指し始める。その様は単にこの疑似空間からの脱出ではなく、攻撃的な意図を伴う行動に見える。

「何が起きている。」ガロリアはその存在の大きさに一滴の冷や汗を垂らしつつも、嫌でも視線を上方へ向けざるを得ない程に警戒していた。

「敵意…いえ、怯えに似た感情が無垢から感じられます。」

「あり得ない。あれらに感情なんて…」ハイリアスがそう言いかけた瞬間、疑似空間と外の境界を引き裂いて一つの脅威が現れた。

 禁忌の力で構成された黒い刃は鮮烈な空色の光の一振りと共に現実と疑似空間と固有世界それぞれの境界にあるあらゆる概念を引き裂いた。そして現実の星空が顔を覗かせる。だがそこにあったのは星空ではなく支配の星の瞳。先ほどの虚ろな瞳とは異なりはっきりとした意思が見受けられる。その瞳に宿るのは決意と覚悟。既に支配の星の権能はこの三つの空間の重なりに及んでいる。無垢の軍勢を一斬りし撃滅する。彼らの裂かれた光は綻びを再び集束できないまま砂粒の様に崩れていく。裂かれた傷口から抗えない黒が光を蝕んで無垢を染め呑み込んでいく。疑似空間であったその場所を埋め尽くすほどいた無垢達の終わっていく様を見ていた三人はその光景を悍ましいと感じた。空が黒く染まるかのように、疑似空間の天を覆っていたそれらが染まっては崩れ、散っていく。

アルヴはそれらとそれらを見つめる三人に目もくれず、裂かれた境界から神獣へ視線を向ける。

「―――赤子の刻、無垢の神獣。」アルヴは剣を向ける。空を隠す瞳が神獣へ向けられる。神獣から殺意と敵意がアルヴに向けられる。アルヴがこの戦いに介入する際、外の世界を守るためにハイリアス達が用意した疑似空間と拡張空間もろともまとめて引き裂いたお陰で、それらの繋がりが途切れ今や空間は崩壊に向かっていた。このままであればこれらの空間が本来有していた現実へ固有世界の要素の曝露に対する保護機能が正常な機能を失うまでの時間はそう長くない。内側からハイリアスが、外側からマリフスタが再びこれらを再構築しようとするが、うまくいかない。それがアルヴの使っている力が原因でもたらされている状況だと気が付いたのはハイリアスが最も早かった。裂けた固有世界との境界の断面にはアルヴが引き裂いた時に飛び散った空色の光が付着している。それが赤子の刻の要素の曝露から現実を守っていた。

「―――ッ!!!」神獣は威嚇する様に嘶き、唸り、或いは叫びをあげる。

 少年は剣を振るい神獣へと戦いを挑む。立ちはだかる無垢達は彼に問って如何なる形を有していても障壁になりえない。巨躯、巨鯨、鳥や獣を模したもの、いくつかの時代の戦士を真似たもの。それらの全ては取るに足らない。無垢の反応よりも先にアルヴは神獣の首を刎ねていた。

「あり得ない。」驚きよりも否定が勝った。ハイリアスはかつて無いほどのアルヴの変化に現実を受け止められなかった。

 しかし神獣の首はすぐに繋ぎ合わせられる。

「いいさ、もとより簡単に終わるとは思っていなかった。」

「ォ……ッッッ!」神獣は彼に抗う意思を見せる。三体の巨躯の無垢が彼を囲み叩き潰そうとするが一振りでそれらの光は裂かれ禁忌の黒に蝕まれる。無垢の魚の大群が彼を荒波に引きずり込むが直後に全てが弾けて消え、剣を再び振るったであろう少年がそこで神獣を見つめていた。頭上と足元から二匹の巨鯨の無垢が彼をその大きな口で吞み込んでしまうが真っ直ぐ縦方向に一筋の斬撃が放たれ神獣の顔もろとも自らを呑み込んだ無垢を引き裂き現れる。何度も、何度でも彼はそこに平然と現れ、たった一度も変わらず神獣の瞳に視線を向けていた。少年は神獣の内側に自分を呼ぶ存在を見つけた。剣を握る手に力を込め前に出る、神獣の瞳の前で止まって彼は問う。

「いつまでそこにいる。」

「……」神獣は恐怖した。狼狽え、後退りした。心の発生、感情の発露、思考による感情の模倣とは違う。裁定者との戦いの中でわずかに情緒が芽を出していた事、思考が他者を理解できる域まで到達しかけていた事。それらのお陰もあってかアルヴの予想よりも早く、赤子の刻の主たる女鹿の神獣は弱りを見せていた。だからこそ、今なら内側にいる者へ声が届くかもしれない。彼はそう思い、再び問いかける。

『いつまでそこにいる。』




 消えていく意識の中で、裁定者は自問自答をしていた。

「自分は何者なのか。」それは裁定者が裁定者になった時に忘れてしまった。いつかそれを思い出した時、私は本当の裁定者になれると誰かに言われた記憶がある。でもそれが誰なのか思い出す事もできない。

「結局、何も思い出す事もなく消えていくのか。」それは敗北を意味する。私の物語はここで終わりをむかえ、この世界の未来を彼らに託すのか。それではいけないとわかっていても身体は動かない。どうしたものか。もう身体があるのかもわからない。感覚が消えている。目を閉じて終わりを悟る。あたたかい、心地良い、安らかで、静かで、落ち着いている。死というものはこうも優しく穏やかなものなのか。

 だが、何か不思議な気分だ。もはや何も見えないはずの視界はあたたかく、まるで瞼の向こう側で小さな火が燃えているかのようだ。視界は依然として暗く、灯りなど見えもしないのだが、たしかにそこにそれはある。

 鍵盤、或いは琴の音。幻聴だろうか。

『―――それでも。』誰かが語りかける。いや、これは語りかけていない。

『―――それでも。』語っている。或いは詠っている。子供たちに物語を読み聞かせる親の様に、或いは街中でそよ風と共に奏でられる詩の様に。

『―――それでも、彼女は…。』誰かが、私を。私の物語を口にしている。なぜそう思ったのかはわからない。強いて言うならば、そう感じたから。吟遊詩人が口ずさむ様に、優しい音色が響いてくる。

「…私は、諦め……ない。」彼女は口にする。己の意思を。星よりも煌めき、光よりも輝かしく、炎よりも猛々しく、強くあると決めたはずなのだ。いつの事かなんて、覚えていない。そんな些細な事はどうでもいい。

『そう、あなたは諦めない。諦めてはいけない。』熱い、熱い。ただ、熱い。燃えているのか。私は、私の心は、まだ火を灯しているのか。

『いくよ―――この世界の裁定者。その心の火を灯して。世界に大きな炎を。そして光を示すの。私達の道はここから先に続いているって。』声が勇気をくれる。意識にも光が差し込んだみたいだ。熱い。でも、この熱はあたたかいのかもしれない。

『絶やさずに薪をくべるの。』背中を押す声が大きくなる。

「私は、ただ―――」言葉を必死に紡ごうとする。その度に意識が解けそうになる。

『あなたはただ―――』声が裁定者の言葉をなぞる。そっと手を重ね添える様に。

「私はただ―――光を」意識の奥に熱を感じる。言葉を紡ぐ度にそれは熱くなる。

『あなたはただ―――炎を』なぞられた言葉が意識を繋ぎ止める。火に薪をくべる様に。

 消化された意識を補う様に、裁定者の内側に生まれた火が燃え上がる。彼女の中にあった光と混ざって彼女の意識を再び形作る。

「私はただ光を―――放つ!」意識を覆う暗闇を引き裂く光が差し込む。暗いこの闇を引き裂いてそれは私の手を引いた。

『あなたはただ炎を燃やす!』空を燃やしながら尾を引いて飛ぶ。彼女が何者かわからない。だが私はその温度を知っている。顔は光が眩しくてよく見えないが、誰かに似ている。

『後は、彼があなたを導いてくれる。』そっと呟き彼女の手が離れる。再び背後から暗闇が迫るが、もはや恐れる事はない。私は今、輝いている。

『裁定者、いつまでそこにいる。目覚める時だ。』彼の声がした。暗闇を払おうとする私を無視して、その手は私の手を引いた。この無垢の内側へ伸ばされた手に引かれ、私は外側へと引きずり出される。




 アルヴは無垢の神獣の腹を裂き、そこに腕を入れ一人の人間を引きずり出す。彼の手に引かれて裁定者が現れる。神獣にとって完全に予想外の出来事が起きた。葬ったはずの裁定者が自らの身体の内側から現れたのだ。頭上で燃え盛る流星の尾が走るのが一瞬だが確かに視界に入った。

裁定者が最初に目にしたのは目の前にいたアルヴだった。そして周囲の戦場の変わりように自分の不在中に起きた事を悟った。本当ならば彼に頼るつもりなど、無かったのに。意識を周囲に向け三人の安否を確認した。

「すまない。君の手をまた借りてしまったようだな。」裁定者はアルヴへと謝罪する。

「構わないですよ。それに俺は最初から誰も失う気はないので。」アルヴはそう言って彼女に一瞬だけ視線を向け、再び敵を見る。彼の雰囲気が以前と少し変わっている事に裁定者は気が付く。アルヴの内側に自分と同じ類の力を感じる。

「それに、これは俺が倒すべき相手で、誰も巻き込んではいけない相手ですから。」

「……ッッ!」神獣は身体を修復しアルヴへ強く視線を向ける。

「憎しみ、怒り。無垢の神獣を名乗るお前がその醜い感情を獲得したら、それはもはや無垢ではいられないか?光が濁り、綻んでいるぞ。」彼の指摘の通り、無垢の神獣の内側の核たる光には陰りが見える。少しすればそれが欠けてやがて神獣と共にこの赤子の刻そのものが自壊するだろう。でも当然、それを待つつもりはない。彼の敵意、殺意は無垢の神獣に恐れを抱かせた。顕現当初であればしなかったであろう逃走をそれは試みる。

「どこにもいけないぞ。」彼の言葉の通り、無垢の神獣は逃げる事が出来なかった。

「俺と向き合え。」無垢の神獣はアルヴに視線を向け、逸らす事が出来ない。

「単純にしよう。方法は暴力、結果は生か死。」アルヴは剣を掲げる。支配の星の権能たる空の瞳は二者を見下ろす。無垢の神獣は戦いを避けられない。

 その場にいた誰もがその戦いの行く末を息をのんで見守っていた。隣にいた裁定者も彼の言葉に黙ったまま、戦いに参戦する事も出来ず、視界に二者を捉えたまま動けなかった。

 戦場の空間は崩壊しつつあり、その空の欠片が二者の間に降ってくる。視界を通り過ぎる空間の破片が光を反射して、互いの視線を一瞬遮り、決着は決まった。瞬きを許されない観客たちはその瞬間を記憶に刻む。神獣は全力を振り絞り無垢の軍勢を際限なく召喚し、確実に目の前の少年を葬るため、自らの内に芽生えた殺意を体現するかのようにその体躯を醜い姿に変えていく。もはやこの世のものとは思ぬ醜悪な肉塊の様な姿に成り果てた無垢の神獣は己の分身たる無垢の軍勢と共にアルヴへ挑む。一方、彼は一切その視線を逸らさずゆっくりと刃を降ろし神獣の内に灯る光に向ける。それによって凍てつく様な死の感覚を神獣は感じたが、もはや選択の余地はない。逃げずに立ち向かい、勝利を得て生き残る他に赤子の刻は存在を許されない。進め、戦え。

「消えろ。」無情の一振り。迷いなど無く、一切の感情を排した死を与える一閃。音もなく光もなく、揺らがず、それは振るわれる。全ての無垢の光は断たれ潰えた。神獣さえも例外なく裂けた光の核からは光が黒く染まり、欠けていく。勝者は決定した。赤子の刻が終わりに向かう。この空間も散っていく。

 赤子の刻が終わり、支配の星の瞳が閉じる。アルヴがその力を解いた時、ようやく全ての者は動く事を許される。戦いは終わり、ここにはいつも通りの十区の静けさと夜の暗闇が戻って来た。勝利を祝う間もなく、アルヴへと向けられるのは警戒と疑いの視線。裁定者以外の三名は明確に彼を脅威と認識していた。ハイリアスは未だ疑いの段階ではあるが、それでも彼が持った力は過去の現時点では存在しえないものだった。シュレーとガロリアは彼の持つ力の根源に自分たちと同じモノを感じていたが、彼に混じっているそれは自分たちの未知のモノだった。アルヴの持つ禁忌の力も彼らにとっては未知の力であり、脅威としては十分すぎる存在であるが、彼の意思と行動、彼に対する理解と信頼によってそれらを許容してこそいたが、さらに他の未知の力を得た彼を脅威と見なさない理由には足りず、信頼だけで世界を守れない事を過去裁定者を務めた二人は十分に理解していた。だから今、彼は脅威になっているのだ。とはいえ、真に脅威に定められるのは今ではない。彼が答えを誤らない限り、彼は脅威と断定される事はない。この場所に来るのだって、裁定者とエノードにとっては一部を想定していた。だが三人にとってはそうではない。そして、彼の傍らに監視役がおらず、その手を離れてここに到達し、彼の抑止力足りえる存在がこの場にいない今は最大限の警戒をする必要がある。状況が平時であればこれらは然したる脅威になりえない要素だが―――。

「その力は何か、話してもらおうか。」ガロリアは落ち着いた声で彼に言った。内面には警戒と恐れがある。彼が獲得したであろう力によって変貌し、今までの信頼が裏切られる事が怖かったのだ。実力を認め、志を認め、理解しようとした相手であり、信頼を寄せた者へ、失望を抱きたくはなかった。

「……。」シュレーは何も言わなかった。ただ彼を見つめて、冷静に判断をしようと、迷うべきではないと自分に言い聞かせていた。感情に流され、判断を遅らせ誤れば取り返しがつかない事になる。信頼はある、がそれは評価には含まれない。事実だけが確かで、真偽を見誤ってはいけない。

 先に口を開いたのは裁定者だった。

「皆、刃を納めよ。」彼女の背後には律星の気配があった。そこにその者はいなかったが、間違いなくこの場を見ている。

「アルヴをここに呼んだのは私だ。私があの敵と対峙し窮地に陥った際、この場へ赴き然るべき力を以て終わらせよ、と。」

「それは本当か?」ガロリアはアルヴへ視線を留めたまま彼女の言葉を聞き、事実を問う。

「ああ。」アルヴは彼の気迫に臆する素振りも見せず、ただ淡々と答えた。

「嘘は言っていないようですね。」シュレーは彼が偽っていない事を確信した。

「なぜ、このような事を我々に伝えないでいたのですか?」ガロリアは警戒を弱める。それでもいつでも動けるように心の内では剣に手を伸ばしたまま。彼は裁定者に事の次第を問う。

「本来なら彼をここに寄越す事は最悪の事態に限った場合であり、私が負ける道理は無くまた私にもその気はなかった。故に伝えるという事は私が既に負けを見ている事を貴様らに暗に伝える事になり、士気の低下を招く。それに、当代の裁定者が敗北を前提に世界の命運をかけた天秤に手を掛けるなどあってはならない。」

「つまり、気持ちの問題って事ですね。」アルヴはこの堅苦しい空気に疲労を感じていた。故に本来口を挟むべきではないところで言葉を発してまでしても、この状況を早く終わらせたかった。

「まあ…そういえば簡単だが。」裁定者は彼の発言に対し呆れと驚きを感じながらも、彼女もまたこの問答の息苦しさを抱えているが故にその発言を咎めなかった。

「実際、言わなかった事で効果はありましたから。今回は、目を瞑りますが…今後は何か一声かけておいてもらわねばならないのも事実です。」シュレーは彼女がその目論見を言わなかった事で今回の戦いにおいて確かに一定の効果があった事は認めつつも、その行為は不信に繋がるものであると示す。裁定者はそれを聞き、申し訳なさそうな表情をして彼女に謝罪した。

 それからアルヴは剣を握っていた手を開く。既に彼が作り出した剣はその手に握られてはいなかったが、ずっと握っていた。その内には元の形に戻った掟と盤があった。

「あの、これ。」彼はそれを裁定者に手渡す。

「やはり、使ったのか。」裁定者はそれを見て彼がその模造神器を制したのだと思った。三人は彼の手に握られている物を見て再度警戒をする。だが、二人の落ち着いた態度から裁定者と同様に彼がそれを制したのだと想像する。

「狂気を乗り越え、ここに至ったのか……」ガロリアはその過程を想像し彼の内なる激闘に驚嘆し、それに称賛の意を示す。

「いえ、俺は狂気を乗り越えていません。ただ約束を果たしただけです。それと…これはたぶんもう役に立たない。石ころになってしまった。」

「……確かに内側にあったはずの力が消えている。」裁定者は自身の有する律星の力でその内側にある光芒に触れようとするが、もはやこの石の内側には光も闇もなかった。ただ綺麗な石ころ程度の価値しか持たない物になったと確信する。

「約束を果たしたとは。」ハイリアスが彼に問う。

「それは…」その約束について言うかどうか考え始めた瞬間、アルヴは自身の背後に別の何かが現れた事に気が付き、視線を向ける。

 そこにいたのはエノードだった。

「アルヴ、君の役目は終わった。戻る時だ。」彼はそう告げるとアルヴに帰還を促す。

「日が昇るまでに彼女の元へ戻るんだ。そうでなければ君の抹消処分の保留は取り消され―――言わずとも理解はしているようだな。」彼は必要な説明を省略しても構わないと理解すると次に視線を向けたのは裁定者の手にある石ころだった。

「それをこちらへ。」エノードは掟と盤だった物を引き渡す様に促す。

「もとより君へ返却するつもりだったが……そちらから足を運んでくれるとは手間が省けていい。」裁定者はそれを投げ渡す。エノードは懐からそれをしまっていた箱と同じものを取り出し、その石ころを納めた。

「さて、アルヴ必要か否かに関わらず君を連れて帰るが……他の者は?」

「我々には必要ない。」裁定者はエノードの提案を断る。

「では。」エノードの傍らに何者かが現れる。姿は見えないその者は小さく笑いを漏らし、その手でアルヴとエノードを包むと彼らは霧の様に姿を消した。


 後に三人は裁定者へ今回の詳細な説明を求められると、それについて話しながら四人でそこから歩き出し、戦場を離れて人のいる街へと戻った。マリフスタは彼らの話に参加するのが面倒で一足先にその場を去っていた。

 戦場の外側にいたエクテンクルは戦いを見届けた後、全員が去った戦場へ行き空を見上げる。

「確かに見えた。燃え盛る流星の尾。あれはいつかの可能性の一つだったはずだが―――ハイリアスの企みか。あれは確かに失うには惜しい者だったが、間違いなく今回の彼女の炎は俺の炎よりも熱かった。」内側から灰を噴き上げ、再び消えかけていた体に火が付く。剣に熱が伝わり、赤く染まる。

「エクテンクル。」彼を呼ぶ声。王の声。目の前に現れた彼を見て火を鎮める。

「彼らは勝利しました。」エクテンクルは剣を地に刺し膝をつく。

「ああ、そうだな。」王は辺りを見渡し、冷たい返事をした。

「君もご苦労だった。」王は彼を見て労いの言葉をかけるが、その言葉に温度はない。エクテンクルは王に頭を下げ、その気遣いに感謝を示す。

「さて、帰るぞ。」彼の言葉の後に立ち上がり、その足跡に続き歩いていく。

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