簡単なことばに想いをのせて
私の書くものを読んでくれている人たちなら、よくわかってくれている通り、私の言葉は、なんだか無駄にややこしいものです。
きょうは、そうならないように、いつも感覚が勝手にやっていることば選びを、簡単なことばを選ぶ方に切り替えて書いてみる、そういうことを目指してみます。
元々、私がむずかしいことばを使いたがるのは、ふたつの気持ちと、ひとつの事情のせいだ。外に見せたい、私自身の想いが、私にそうさせる。
ひとつは、私をすごいものに見せたい、という気持ち。
本当は、よくわかっている。本当は簡単なことばで伝えられることを、わざわざ難しいことばで伝える必要は、どこにもない。
それでも、簡単に伝わることばは、どこかありふれて、つまらなく思えて。だから、中身のないことばに、少しでも意味があるように見せたくて、使うことばの方を難しくする。
ひとつは、私の弱いこころを守りたい、傷つきたくないという気持ち。
すこし前にも言ったけれど、人のこころはやわらかで、傷つきやすいものだから、外に出すには、かたい何かで守りたい。
だから、ことばが本心から生まれても、本心そのものは決しておもてには出さなくて。受け入れられなくても仕方がないね、といいわけができるように――そこにある本当に気付かれないように、他の人の理解を遠ざけている。
そして、それを繰り返した私は、いつの間にか、それが普通になっていた。
今では、何も考えていなくても、勝手にこころがそうしてしまう。伝えるためのことばを、伝わらないことばに言い替えて、伝わらないのは相手が悪いと、よわい私を守ろうとする。
だから、今だけは。たとえ傷つくかもしれなくても、結局だれにも届かなかったとしても。……私がいて、私が書くことばに、なんの意味も感じられなくても。
それをわかってしまうことも恐れないで、素直な気持ちを、なるべくそのまま形にしよう。
でも、勘違いはしないでほしい。こころをそのまま形にすることは、私の私自身の本当の姿を見せる、というのとは少し違う。もともと、人のありのままの姿というものは、飾らないそのままの形のことではないと、私は思う。
人の姿、特に本当の姿というのは、その人自身の本来ありたいと願った姿――自分自身がそうでありたいと願い、他の人にそのように見られたいと願う姿のほうで、そこには着飾ることも含まれる。
だから、本当を隠すためのことばではなく、私の本当を作るためのことばは、私の私自身の一部分だ。気持ちをそのまま形にすることを、私の私自身の姿だと思っていないなら、それをあえてやるというのは、どちらかというと別の仮面をかぶることだと言える。
人は誰しも、誰かと向き合うときには、それぞれの仮面をかぶっている。その仮面が、その人自身であるか、そうでないかは、その人自身が決めるもの。そうでありたいと願った想いの仮面は、きっとその人自身の一部であるはずで。演じることの利益を考えて、切り離した自分自身をかぶる仮面は、きっとその人そのものではないと言えるだろう。
演じることもまた、その人がその人であることの一部ではあるけれど、それが「ほんとうか、ほんとうでないか」は、誰か別の人が決めることではない。たとえ誰に想いを理解されなくても、自分が自分自身をどうであると思うか、誰にどう見られたいかの方にこそ、その人の本当はある。
だからこそ、私もまた。私自身がどうありたいと願い、何が幸せだったのかについては、時々立ち止まって振り返り、人には見せないやわらかな心に向き合って、素直に生きていきたいなと、そう思った。
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よし、こんなもんかな。因みにここまでで1,484文字らしい。
実質本編はここまでなので、後の文は興味ある人だけ読んだらよろしい。……いや、別に本編だって興味ある人だけ読みゃいいんだけどさ。
なんか、無茶苦茶疲れる。簡単な言葉の方が、選択が難しいと感じる。誰かに(なるべく)伝わるように、と意識するワードチョイスって、こんな難しいんだな。
いや、主張の方は別に簡単じゃないかもしれんが。
何にせよ、先に述べた通り
「着飾らない私自身が、本来の私」
ということでは、断じてない。
本来の私というのは、こういう感じの語彙で言葉を紡ぎ、喋り言葉については典型的な関西人の、標準語を多めに使いながら発音は訛り、しばしば西の方の言葉が出てくる私自身のことである。
つまるところ、私は私の内心そのものを、私自身の構成部品の一つであると認識はしつつ、それを表面に出すのを自己表現の標準の振る舞いに含んでいない。たまにはそういう日もあっても良いのかも知らんが、私の「気持ち」は、基本的にはゴテゴテに装飾されて外に出るものである。
具体的にはTwitterでも見てくれ。いつもやってる。導線は特に張ってないかもしれんが。
で、ここからがガチのおまけ。本編を「私自身の本当の言葉」で話すとしよう。
先んじて、読者の皆様お疲れ様でした。
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平時の振る舞いから見て察せるとは思うが、私の書く言葉は、本来不必要な難解さを伴って表現されることが多い。
折角なので、今回はそれを意識的に逆方向に動かす。私の、私自身の内心を「伝えるための言葉」に置き換える、そういう試み。
そもそも、私が難解な語彙を利用したがるのは、内在の二つの気持ちと、それに依る一つの振る舞いに由来している。端的に言えば、私自身の虚栄心が、私にその行動を選択させている。
内在の一つは、つまり私自身を高尚ななにかに見せたい、という気持ち。まぁ高尚に見えているかは知らんが。どちらかというと偏屈に思われているのだろう。わかるで。
実際のところ、本来簡単な言葉で十分伝えられることを、敢えていちいちよく分からん言葉で書く必要は、全くない。一般的には、それは馬鹿の振る舞いの一つとして語られている。
そんなことは無論、重々承知の上で。それでも何かこう、別にそもそも伝える必要もないような言葉を「伝えるんだよ俺ァ」ってなノリで言うのもそれはそれで変だし、別に意味があるとは思えないので、過剰なくらいに装飾しつつ、どうでもいいことこそ難解な言葉にするのである。
要するに、これが私にとってのオモロで、大層情緒ということである。多分。
もう一つの内在は、私の脆弱な心を守りたい気持ち。鎧としての側面。
前の随筆でも触れたが(確か『社会の檻に囚われて在り(※)』だっけか)、内心というものはひどく柔らかな実存である。なので、外に出す時には何らかの措置をしておきたいものだ。前半はそんなニュアンスのことを言った気がする。後半は今回が初だっけか。
何にせよ、発話というものは基本的にその人の心が生み出すものであるわけだが、その発話が否定されると、大本にある心の方も傷付く可能性が割とあるので、私の場合は他者が発話の意図を容易に把握出来ないようにすることで、基本的に否定を誤読の方に紐付ける手法を採っている。
まぁ、伝わらなくていい発話だからこそ出来ることだが。伝えなきゃいかんことは伝わらなきゃ意味ないしな。
そして、そんな事ばかり昔からやっていたので、今ではもう、私にとってはこういう行動選択が普通になっている。
ぶっちゃけ、私の思考は、内心を言葉にする時点で、語の選択を当たり前にこうしている。そもそも、他者に想いの原典を伝える必要がないせいで、私は私の中の言葉で殆ど全てを完結してしまっている。
だから、半分はもう、最初から伝わらなくて良い。私が明確に誰かに伝えたいならともかく、勝手にぶん投げた内心の言葉が相手に理解されないのは、相手の読解力の方の不足だとしか思っていない。別に知る必要もない。
もし知りたくて、なお分からんなら、必要に応じて適宜聞いてくれ。
まぁ、そんなわけで。たまにはそういう小賢しいガードを解いて、他の人に伝えるための言葉を以て、内心を書いてみようと思ったわけである。
分かり易い(相対的)言葉で書いてすら理解されなかったり、閲覧数伸びなかったりが可視化されようと、もうそれは知らん。読まれないのはもはや前提に過ぎない。いや、広報もしとらん上、読まれるの微妙に気恥ずかしいから全然それで構わんのだけど、数値を可視化されると、どうしても負けた気分にはなるんだよな。
勝敗どうこうはせめて勝負挑んでから言え、あると思います。
負けたくないなら最初から戦わんでええねん、マジで。
ただ、勘違いされても困るので予め言っておくが、心――感情をなるべく素直な言葉で記述するということが、即ち私の本当の姿である、というわけではない。そもそも、人のありのままの姿というものは、本能それそのものに由来する理性のない状態、剥き出しの感情と、それに由来する行動を指すとは思っていない。
人の姿、特に本当の姿というのは、その人自身の本来ありたいと願った姿――自分自身がそうでありたいと願い、他の人にそのように見られたいと願う姿のほうで、そこには着飾ることも含まれる。
(なんかこの一節だけ原文であるあたり、本編の方が要改善かもしれん)
故に、私の普段の語の選択は、そもそも内心を綺麗に誤魔化すためのものではなく、私が見せたい私自身の言葉なので、あくまでも私自身の一部に過ぎない。無加工の純粋な感情を、そのまま外に伝えることが私自身の目的に含まれない以上、それを敢えてやるのは、どちらかというと別の仮面を被ることを意味する。
人は概ね、誰かと向き合う際には、それぞれの仮面を被って接している。だが、その仮面が目的によって演じられた仮初めのものか、それも含めて自分自身を指すのかは、あくまでもその人自身の決定でしかない。そうあれかしと願った自身の姿は、たとえ足りなかったとしてもその人自身の一部である。そして、自分自身の内心を隠し、都合の良いなにかを演じるための仮面ならば、それはその人自身にとっての本質では有り得ないのだ。
無論、演じるという行為自体もまた、その人がその人であることの一部であるのは間違いないが、それがどういう見え方をするにしろ、その側面がその人の人間性の本質であるかどうかは、他人が決めることではない。誰がどう思おうと、自分自身が思う自分の本質を誰が認めなくても、理解を得られることが有り得なくても、自分自身というものの定義は、誰かによって決まるのではなく、自分自身で決めるものだ。
とはいえ、人の世においての自分自身の価値というものは、原則として他者評価によってのみ存在するものではあるわけだが。その辺は評価軸が違うので……。
さておき。だからこそ、私もまた。私自身がどうありたいと願い、何を幸せであると考えているのかについては、時々立ち止まって振り返り、不必要な不幸に足をとられることなく、前向きに幸福を見据えてただ邁進できるといいなと、そう願ってやまない。
ここまでで4,370文字くらいらしくて、真ん中の文がおよそ500文字程度らしいから、ガチのおまけが多分2,400字くらい?
装飾足すだけで1,000文字増えるって、普段どんだけ中身ないこと書いてんだよって話だよな。
※随筆『社会の檻に囚われて在り』:正確には『社会の網に囚われて在り』だった