第8話 告白と拒絶
「リア。会えてよかった」
後ろからかけられたその声に、私はそっと顔を上げた。
その綺麗な微笑みに、どうしようもなく心臓が跳ねる。自覚した途端にこれだ。うるさく騒ぐ鼓動が彼に悟られそうな気がして、半ば無意識に私は胸を押さえていた。
嬉しい。悲しい。
相反する感情に、うまく笑顔が作れない。
「……リア、どうかした?」
眉を寄せたアルが、じっと私の顔を見つめる。
その視線に耐えきれなくて、私は手で彼に座るように促した。なんの躊躇いもなく私の隣に座った彼が、軽く首を傾げる。
「体調でも悪い? もしそうなら、人を呼ぶけれど」
『いえ』
「なら、何かあった?」
アルには、何もかもお見通しという訳か。
何事もなかったかのようにあっさりと、引っ越さなければいけなくなったと伝えて別れるという計画は、この時点で終わりを告げる。明らかに私を心配している様子の彼に、どうして良いか分からなくなる。
『その、アルにお話があって』
そう言った瞬間に、アルの表情が強張った。いつもは柔らかな笑みを湛えている彼の表情は、見たことがないくらいに固い。その細い指先が、辿るように私の鎖骨のあたりの空気を撫でた。
「……その話は、君がネックレスをつけていないことに関係がある?」
その瞬間にびくりと震えた身体は、彼にも当然気づかれているだろう。諦めたように唇の端を引き上げた彼は、座っていた椅子から立ち上がった。
「聞きたくない、って言ったらリアは困るよね」
ははっ、と乾いた笑い声を立てたアルは、くるりと私に背を向けた。
「リア。……君が、好きなんだ」
時が、止まった。
「君に何か事情があることは薄々察してる。きっとリアっていうのも本名じゃないでしょ? でも、好きなんだ。初めて見た時から、好きだった」
縋るような彼の言葉に、痛いほどに胸が締め付けられた。
「本当はリアも、俺の気持ち、察してたんじゃない? 普通、男は好きでもない子にアクセサリーなんて贈らないから」
何と返して良いか、分からなかった。嬉しくて、悲しくて、困っていて、何もかもがぐちゃぐちゃだった。自分の気持ちも分からないのに、どうすればいいのかなんて、わかるはずがない。
「お願い。……答えなんて、言わないで。君の口から聞きたくない」
何もないリアの胸元が、その答えなんでしょう?
そう呟いた彼に、違うと叫びたかった。私もあなたのことが好きなのだと、伝えたかった。
伝えないほうが良いのかもしれない。私は、アルに迷惑しかかけないだろう。それでも、絞り出すように苦しげな声を出す彼を、私のせいで震えている彼を、見ていられなかった。
『あなたが好きです』
短い一文を綴った板を、彼に見せようと腰を浮かしかけたところで、大きな声が私の動きを止めた。
「アイル様!!」
図書館中に響き渡った無作法な声に、何人かの客が迷惑そうに顔を上げる。けれど、一番激しい反応をしたのは、目の前にいるアルだった。
ばっと声の主の方を見たアルは、その姿を認めて、小さく返事をした。
「何事」
アル。……アイル。
思わぬところで知ることになった彼の本名を、頭の中で繰り返す。書いた板を、咄嗟に膝の上に伏せた。気取られぬようにテーブルの下でこっそりと、その文字を消す。駆け寄ってきたその人は、慌てた様子でアルと言葉を交わしている。内容は聞き取れなかったが、話すその人の表情から、深刻な問題であることが読み取れた。
話を聞くうちに、少しずつアルの表情が変化していった。少しの動揺と痛みを含むアルの顔から、威厳と熟慮に満ちたアイル様の顔へ。
「分かった。行くから、少し待って。先に行ってて」
そう言って、追い払うように手を振ったアルが、こちらに向き直る。
どちらも、何も言わなかった。長い沈黙の後、先に口を開いたのは、アルだった。
「俺のこと、嫌いになった?」
問いの意味がわからず、答えに窮していると、アルが自嘲するように笑う。
「次期公爵であることを隠して告白なんて、最悪でしょ」
次期、公爵。
その言葉の意味を理解するにつれて、じんわりと頭の中が痺れていった。
雲の上の人だと分かっていたはずだった。けれど、想像を遥かに超える高い身分の彼が、急に遠い世界の人のように思えた。
手で押さえつけていた板が、みしりと嫌な音を立てた。
でも、お陰で正気になれた。
公爵家の跡取りとなればなおさら。身分も後ろ盾もない、しかも言葉を話せない私は、彼にとってお荷物でしかない。
改めて理解したその事実が、どうしようもなく、悔しかった。
愛だけで生きていけるほど、この世界は甘くない。
昔何かの小説で読んだ言葉が、ふと頭をよぎった。
大切な人だから。大好きだから。私なんかに邪魔されてほしくないから。
ペンを取ろうとテーブルに伸ばしたその手が、掴まれた。
初めて触れた彼の手は、燃えそうに熱く、震えていた。
「ほんと、馬鹿だ」
痛みを堪えるように顔を歪めた彼が吐き捨てた言葉が、自身に向けたものであることは明白だった。
「答えなんて明白なのに。みっともなく君に縋って。分かってるんだ」
苦しかった。ぼうっとする頭の中で、ただ一つ、好きだと言ってはいけないことだけがはっきりとしていた。
「幸せにするから。どんなことがあっても、君だけを大切にするから。一生、愛してみせるから」
お願い。
そう振り絞るように言った彼の手を、振り払った。
弱い力だったけれど、あっさりとその手は解けた。すっと表情の抜け落ちた彼の顔をできるだけ見ないように、俯いて文字を綴る。
『ごめんなさい。もう、アル……いえ、アイル様には会えません』
当初の予定とは随分と違った形になってしまった別れの言葉を、震える手で差し出した。
『さようなら』
そう書いて、立ち上がって頭を下げる。
その間、彼はぴくりとも動こうとしなかった。
足早に、最後はほとんど走るようにして、図書館を飛び出す。
後ろは、振り返らなかった。
しばらく走って、ミアの待つ家に飛び込む。私の表情を見たミアは一瞬顔を凍りつかせたけれど、何も言わなかった。
彼に迷惑をかけないため。大好きな彼の、お荷物にならないため。そのために私は身を引いた、そうでしょう?
そう思うのに、もう一つの声が冷たく囁く。だけど、お前は彼をひどく傷つけた。苦しませた。本当は、お前が彼と心を通わせて、公爵夫人になるのが怖いだけではないの?
椅子に、崩れ落ちるように座り込む。ミアが用意しておいてくれたのだろう。グラスと、なみなみと水の入ったガラスの水差しが置かれていた。
とぷとぷと、水を注ぐ。勢いよく波立ったままの水面を、ただ眺めていた。
その揺れが、私を見て切なく揺れる、彼の透き通った瞳と重なった。
どうやって帰ったかは覚えていない。
よろめきながら帰宅し、玄関の扉を開けて、私は最悪の光景を目にすることになる。