第7話 盗まれた希望
さあっと、血の気が引くのがわかった。
なんてことのない1日。緩やかな光が屋敷に差し込んでいて、なんだかじんわりと眠くなってしまうような、そんな午後の時間。
普段通り仕事を命令されて、2階のとある一室の掃除をしていた。使う部屋でもないのに私に掃除をさせるのは、単なる嫌がらせだと思っていた。
私は、震える手で自室の扉を開ける。
入り口のあたりに投げ捨てられた私の服や、薄い布切れ。私が普段眠る時に使っているそれが外に飛び出しているということは、ただ一つのわかりやすい事実を示していた。
誰かに、勝手に入られた。恐怖に、身体がすくむ。
覚悟を決める間もなく入った部屋は、冷たく私を出迎えた。
何も、なかった。そう、何もなかったのだ。
もともと物のない部屋だった。そもそも私のものとして与えられる物が何もないからだ。
それでも、何かに使えるかとこっそりと持ち込んだ捨てられていた端切れや、貴族令嬢として生きていた時代のものである小さな髪留めや服くらいはあったのだ。
そして何より、一番大切なもの。アルから貰った、銀のネックレス。
部屋に飛び込み、舞い散る埃にも構わず部屋の隅まで探す。狭い部屋を探し終わるのは一瞬だった。もう一度飛び出し、服や毛布を回収しながら振り回してその中も探し回った。
だが、見つからなかった。見つかるはずがなかった。
本当は、帽子や変装用の服と一緒に、あの家に置いておけば良かったのだ。帽子だって、ここに置いておくのが不安になって移動させた。そうすべきことは痛いほどにわかっていた。けれど、本当に嬉しくて、手元に置いておきたくて仕方がなくて。その結果が、これだ。
油断した。今まで一度も入られたことがないからといって、これからも入られないとは限らない。むしろ、あの人たちなら余裕でやるだろうと、なぜ想像できなかったのか。
口元に手を当てる。吐き気がした。あの人たちにも、油断した愚かな自分にも。
失うことには慣れていたはずなのに、前だけ向いていようと決めたのに、涙が止まらなくなっている自分にも。
アルに会ってからだ。私は、どうしようもなく弱くなってしまった。
優しく話しかけてもらう喜びを知り。人と会話する楽しさを、人の温かさを知り。今まで心を無にして、前を向いて耐えられたはずのこの境遇が、辛くてたまらないと、感じてしまう。
もう、会えない。会うべきではない。
あのネックレスを見つけたのが誰かは知らないけれど、彼女たちに報告が入っていれば私を疑っているだろう。いったいどこから、こんなものを手に入れたのかと。
アルがどんな家の人かは知らないけれど、もし私たちが会っていたことが彼女たちに知られれば、アルにまで迷惑がかかるかもしれない。それは耐えられなかった。
廊下に散らばったものを部屋に押し込み、扉を閉めた。慣れ親しんだ暗闇が身を包む。
しばらく、図書館に行くことも控えたほうが良い。もし怪しまれていたら、私が抜け出していることまで知られるかもしれない。
アルに申し訳なかった。私にと贈ってくれたものをこんな風に失って、何も言わずに黙って消えて。また会おう、と言われて、私は頷いたのに。アルは、ひどく不快に思うことだろう。
「レイリア様……?」
扉の外から、恐る恐るかけられた声に、私は文字通り飛び上がった。ミアの声だとわかり、私は安心して身体の力を抜く。
「すみません。その、見てしまって。私でよければ、お話を聞かせてもらえませんか」
内側から扉を開ければ、私の顔を見たミアがくしゃりと顔を歪めた。私は相当に、ひどい顔をしているのだろう。
腰にかけて持ち歩いている板を取り出した。震える手で、文字を書き殴った。
全てを話した。図書館で出会ったアルのこと。アルから貰った大切なものと、その行く末。少しだけ開いたままにした扉から差し込む光でかろうじて見える文字を、ミアは蒼白な顔で追っていた。聞き終えたミアが、躊躇うように口を開く。
「レイリア様は、……そのお方を、慕っていらっしゃるのですか」
慕っている。
その言葉は、すとん、と心の中に落ちた。
好きだった。どうしようもなく、好きだったのだ。
心のどこかでは気がついていて、けれど見て見ぬふりをしていた。私が彼を好きだって認めてしまえば、辛くなるだけだと分かっていたから。
辛いことしかないと分かっていたはずなのに、気がつけば惹かれていた。
こくん、と頷けば、ミアは泣きそうな顔で笑った。
「そのお方に、会いたいですか?」
『もちろん。でも』
「次のパーティーの日に、行きましょう」
『そうできれば良いのだけれど。今回のことで怪しまれているだろうし、やめたほうが』
「行きましょう。会いたいのでしょう?」
『もしあの人たちに見つかったら、ミアが』
「私のことは良いのです。私は、レイリア様が幸せだったら、それで」
真っ直ぐこちらを見つめるミアの瞳に、涙に濡れる自分が映っていた。
ミアは、もともと使用人ではない。私が幼い頃、まだ母が元気だった頃、ぼろぼろになって我が家の近くに倒れていた彼女を、私が頼み込んで私専属の使用人として雇ったのだ。
その時のミアはひどくやつれていたけれど、着ている服は上質なもので、立ち振る舞いも綺麗だった。きっと、ミアというのも本名ではないのだろう。事情を聞いたことはなかった。今思えば、許可を出した母はきちんとミアの素性を調査していただろうが、それを私に伝えることはなかった。
「この行動は、危険です。もし見つかったら、私もレイリア様もどうなるか分かりません。それでも、レイリア様は会いたいのでしょう? そんなお顔をしているレイリア様は初めてですから。どうか、行ってください。私のためにも、レイリア様には行っていただきたいのです」
『…………ありがとう』
行くべきではないのかもしれない。
そう思っていても、ミアの優しさを、無下にする気にもなれなかった。私に一番に尽くしてくれるミアが、私の想いに無言で寄り添ってくれるミアが、こんな風に私に懇願するのは初めてのことだったから。
けれど、それも言い訳なのかもしれない。私が、アルに、会いたくてたまらないだけなのかもしれない。ひどく身勝手で狂おしい恋心が望む間違いの責任を、ミアに押し付けようとしているだけなのかも。
『でも、一度だけ。次にお会いできたら、お別れをしてくるわ』
「……」
『私と彼では何もかもがつり合わない。幸せになれないのは分かっているの。だから、もともとこの恋を叶えようとか、そういうことは考えない』
ただ、彼に一言伝えたいだけ。
約束を破って黙って消えた女ではなくて、たまに図書館で会っていた仲の女として彼の記憶に残りたい。そう言えば、ミアは頷いてくれた。
今だけ。両手を伸ばしてミアに縋り付けば、ミアは驚いたように身を硬くしていたけれど、やがて、遠慮がちにその手が私の背中に回される。明日からは、また前を向くから。今だけは、落ち込むことを許してほしい。自覚した時には既に終わりを迎えていた恋心を、惜しむことを許してほしい。
床に差し込む光の線はゆっくりと角度を変えて長くなっていき、やがて溶けるように消えた。
そうして日々は過ぎていき。
あの日からちょうど5日後。明日パーティーが開かれることを、私はミアから聞かされた。