第56話 もう一度、始めから
「バーンズ嬢」
扉越しに、アルが呼びかけた。少しの空白があって、こんな時でも美しく澄み切ったイザベル様の声が聞こえてくる。
「……前のように、イザベル、と呼んではいただけないのですね」
「悪いけど。もう、その気にはなれない」
「少しだけ、お顔を見せていただくこともできませんか?」
「逆に、なぜあんなことをされた後に、俺が君のいる部屋に入ると思ったの?」
「……当然のことですわね」
そう呟いたイザベル様の声は、悲しげな色を帯びていて。
まるで後悔しているかのようなそれに、少しばかり驚かされた。きっと、散々にきつい言葉を浴びせられると思っていたのだ。もうどうしようもない状況に陥った彼女は、淑女の仮面を脱ぎ捨てて私を詰ると、そう思っていた。
「悪いけど、リアもいるし、このままここで話させてもらう」
「……レイリア様」
「……なんでしょう」
囁くようにして扉越しに答えれば、中ではっと息を呑む気配がした。
「まさか、レイリア様……」
「はい。色々とあって、戻りました」
「……」
そのまま、しばらく応えはなく。どうしていいか分からずアルと顔を見合わせた後、私の耳が小さな声を拾った。
「……どうして、レイリア様なんですか」
「それは、俺に言ってる?」
「はい。どうして、私ではなくレイリア様なんですか。私は彼女に何一つ負けていません。社交界での評判も、教養も、容姿も、何一つレイリア様に劣っているところなんてありません。それなのに、どうして、レイリア様なんですか」
その声は、淡々としていた。
感情的になっているようには聞こえない。ただ、淡々と事実だけを紡ぐように、平坦な声が言葉を続けた。
「……私は、こんなにも、アイル様を愛しているのに」
「本気で、仰っているのですか?」
堪えきれず、声が漏れた。
「本気で、あなたがアルを愛していると? 先程イザベル様は、私に何一つ劣っているところはないとおっしゃいました。確かにそれは一部、事実かもしれません。けれど、アルへの気持ちだけは、決して、あなたには劣っていません。……イザベル様のそれは、所有欲ではありませんか」
「あら、何が違うのでしょう?」
心底不思議だ、という本気の困惑を滲ませて、イザベル様は聞いた。
「私はアイル様が欲しくて仕方がないのです。私のことしか考えず、私のためにしか動かないような、私のものにしたい。それが、愛している、ということではないのですか?」
「……」
言葉を失った私をどう思ったのか、イザベル様の歌うような語りが続く。
「私以外の全てに無関心で。私だけを目で追って。もともと、他の人のものだったのであれば尚更です。かつて他の人を追っていた目が、今は私だけを見つめている。それは、最高の愛情だと思いませんこと? そういう愛情、欲しくはありませんか?」
「……」
「けれど、もちろんそんな感情を全ての人に抱くわけがありませんわ。私は、アイル様にそうなっていただきたかったのです。かつてレイリア様だけを見ていた目が、私を見て緩むような瞬間が、欲しくて、たまらないのです。ですから私は、アイル様を愛しているのですよ?」
「……そうして自分のものにするためには、手段を選ばないということですか?」
「どんな障害があっても欲しいと願ってしまうくらいには、私がアイル様を愛しているということですわ」
「その結果、アイル様が、苦しむことになっても、ですか?」
「苦しむなんて、あり得ません。この私が、ただ一途に愛しているのですから」
密やかな笑い声が聞こえた。鈴を転がすような声だった。
「私、イザベル・バーンズですのよ?」
「イザベル様に愛されているというその一点だけで、他の全てを超えるほどの喜びを得られると、そうおっしゃるのですか?」
「ええ。どの殿方も、望まれることです」
「アルは、それを望んでいません。イザベル様を愛すことはなかったアルを、無理矢理自分のものにしようと画策して、苦しませて、それは本当に、アルを愛していると言えるのですか?」
「……それは、アイル様も同じではありませんの?」
急激に、彼女の声が冷えた。どうやら、何か彼女にとって許せないことを口にしてしまったらしい。
温度をなくした声で、けれど美しさは失わない声で、淡々と紡がれる言葉。
「アイル様が、レイリア様を閉じ込めたお話は聞いております。レイリア様がおっしゃるには、アイル様はレイリア様を愛しているのでしょう? 離れようとしたレイリア様を、無理矢理自分のものにしようと閉じ込めたアイル様と私、何が違うのですか?」
「……違う、と言いたいけどね」
ずっと沈黙を守っていたアルが、ゆっくりと口を開いた。少しずつ、言葉を探すように、アルは話を続ける。
「俺は間違いなくリアを自分のものにしたいと思ったし、今でも思ってるよ。大切に閉じこめて可愛がりたいし、リアの瞳に映るのは俺だけでいい。俺のことだけ考えていてほしいし、俺のためだけに動いて欲しい。そういう意味では、俺がリアに抱いている感情は、所有欲なのかもしれない」
「ええ。分かりますわ」
「けどね、それだけじゃない。幸せになって欲しいし、ずっと笑っていてほしい。苦しい思いはして欲しくないし、大切に愛されて生きてほしい。……間違っても、俺の手で刺そうだなんて、殺そうだなんて、思わない」
「……一生、手に入らないと確信しても、ですか? 他の女性のことだけを思っていて、私に隠れて他の女性のことを思って涙して、絶対にその心が手に入らないと確信しても、他の人に愛されて幸せになって欲しいだなんて、アイル様はおっしゃるのですか?」
「……」
「相手を殺して私も死ぬ、そう思うことはおかしなことですか? 私のものにできない、という事実が命を奪うほど、私がアイル様を愛しているという証明ではないですか?」
淡々と紡がれていた声に、感情が乗る。
強い感情を滲ませたその声は、ひび割れたように掠れていた。
「……そうだね。少なくとも俺は、リアを殺して俺も死ぬ、という選択はしない。リアの幸せのために、リアに残せるだけの俺の全てを残して、リアの幸せを確信してから、見ていられなくなって俺だけ死ぬ。リアの幸せだけは守るよ」
「……」
「理想論だと思った? いざその時が来たら、俺はリアを殺すと思った? もしかしたらそうかもしれない。けどね、君の言ってることは、前提からおかしいんだよ」
ふ、と隣で笑う気配がした。握られたままの手に、力がこもった。
「リアが俺以外を愛することなんて、絶対にない」
「……」
「あまりにも、気づくのが遅すぎたけれど。ずっと信じるのが怖かったけれど。ようやく、遅すぎるけど、俺は分かった。そして俺も、リア以外を愛するなんてあり得ない。俺にはリアしかいない。それこそ、俺の全てを預けられるくらい。リアのためなら、なんだってできる。俺はそれくらいリアを愛してるし、リアも同じくらい、俺を愛してる」
「……人の心は変わるものですわ」
「それなら、君が俺を想っているっていう感情も、そのうち変わるんじゃない?」
「そんなはずは」
「でしょう? 変わるわけないんだよ。リアが俺から離れていくのがずっと俺は恐ろしくて、俺のものにしないと怖くてたまらなかった。俺のものであると確信しないと、不安でおかしくなりそうだったから。でも、ようやく、そんなものが必要ないって分かった」
「……」
「俺がわざわざ所有する必要なんてない。リアはいつだって、俺の隣にいる」
握られた手を、そっと握り返した。
「アルの言う通りです。私がアル以外を愛することなんて、絶対に、何があっても、ありません」
「ね? 俺が所有する必要はないんだよ。分かるかな。本当に愛されていると確信したら、本当に俺に愛されていると相手が確信してくれたなら、わざわざ縛り付ける意味なんてない。もちろん、怖いよ。無いとは分かっていても、人を無条件に信頼するのには、勇気がいる。でも、それをできるくらいには、俺はリアを愛してるよ」
「……」
「所有欲は、違うな、相手の意志を無視した所有欲は、一方的な感情だよ。相手を所有されるべきものとして見て、そこに確かにあるはずの相手の感情からは目を背けて。昔のことを思えば、俺もあまり言えないけど。そこに信頼はない。相手が離れていくのが怖くて、縛り付けて、それって結局、相手が間違いなく俺のところにいるっていう信用がないってことでしょう? それだけ相手を信じていないのに、愛していて何よりも大切に思ってるって、矛盾してない?」
「……それでも、私は!」
「ああごめんね、別に俺は、君の考えを否定したいわけじゃない」
アルが、ゆっくりと私を抱き寄せた。柔らかく頭を撫でられて、私は心地よさに目を細める。
「俺と君は、確かに似ていたかもしれない。けれど、俺は過去の俺が、リアを一方的に縛りつけた俺が好きじゃない。この意味、賢い君なら分かるよね?」
「……」
「君は俺を愛してるっていうけど、俺は、君が俺に向ける感情を愛だとは思ってない。俺の気持ちも、リアの気持ちも踏み躙った君の行動を許せはしないし、その感情と俺のリアへの感情を一緒にしないでほしい。加えて、俺が君を愛することは、決してない。いい加減、分かってくれないかな」
「……」
「イザベル様は、アルとイザベル様が似ているとおっしゃいますが」
私も、ようやく言いたかったことが言える。
「全然、全く、少しも、似ていません」
「……」
「アルは、確かに私を閉じ込めました。けれど、最後は、私の意志をいつだって尊重してくださいました。私が泣けば手を離し、私が話をしたいと言えば聞き、私が身を引きたいと言えば、手放して、くださいました。今思えば、それが最善だったかどうかは分かりませんが」
少しだけ高くなった声で、私はイザベル様に告げる。
「あなたとアルは、違います。アルは、悩みながら、苦しみながら、最後は私の幸せを守ってくれます。本人は、すぐに否定しますが。……けれど、あなたは違う」
「……っなんで」
「一方的な感情を押し付けて、それがあなたにとっての愛だと言うのならあなたの感情は否定しませんが、けれどそれでアルの気持ちを手に入れようだなんて、見くびらないでください」
「何を」
「アルが、そんなに安い人だと思ったんですか? 淑女の中の淑女と名高いあなたにすぐに靡いて、あなたに夢中になるような、単純な人だと思ったんですか? そうしてそれが上手くいかなかったからと言って、あなたはアルを刺そうとするのですか? 愛だと言いますが、自分の思い通りにならなかったら壊そうだなんて、子供と同じだとは思いませんか?」
「……っ黙って! あなたには分からないわ! アイル様の愛情を一身に受けているあなたには、選ばれなかった方の気持ちなんて、何も!」
「そうかもしれません。ですが、私は、アルを傷つけようとしたあなたを、許せません」
扉の向こうから聞こえる絶叫に、小さく目を閉じる。緩やかに頭を撫でるアルの手を感じながら、私は言葉を紡ぐ。
「どんな理屈があろうと、どれだけイザベル様が傷ついていようと、関係ありません。私は、アルを傷つけた人を許さない。それだけ、です。素直で綺麗な女でなくてごめんなさい。私はそれを言うために、ここに来ました」
「……っ自分勝手な理屈よ! あなただって、アイル様を傷つけたじゃない! あなたが居なくなってから、アイル様はずっと、食事さえお取りにならなかった! ずっと仕事ばかりして倒れて、またすぐに仕事を始めてっ……! 隠れて、ずっと泣かれて! 私は、アイル様をそんな状態にしたあなたが、ずっと憎かった! アイル様を傷つけたのは、あなただって同じじゃない!」
「ちょっと黙って。まさかこんなところから漏れるなんてね。どうして、言っちゃうかな」
「……っアル」
私の髪を梳いていた手が、そっと頬に寄せられた。
「お願いだから、そんな顔しないで」
「……ごめんなさい」
「別に、リアだけのせいじゃないでしょう? 俺が選んだ道でもある」
「……それでも、ごめんなさい」
指先が震えていた。私の知らないところで、誰よりも大切な人が、私のせいで苦しんでいたというその事実が、何よりも苦しかった。
「……バーンズ嬢。君はさ、俺に謝れる?」
「え?」
「俺は少なくとも、君のせいでリアが傷ついている姿に、傷ついた。そうでなくても、俺は君に刺されかけた。そのことについて、今のリアみたいに、謝れる? 苦しめる?」
「……」
「悪いと思ってないよね? 謝れないでしょう?」
「…………っ」
「ほら。綺麗な言葉で、それっぽく話しているけど、そういうことだよ。君は俺が欲しくて、けど手に入らなくて、暴走しただけ。そしてそれを悪いとも思ってない。自分に愛されただけで、相手が幸せだと思っているでしょう? 感謝されるのが当然で、謝るなんてありえないと思ってるんじゃない? 自分を綺麗な言葉で誤魔化すのは、やめたらどう?」
「違います! それは、違」
「何が違うの? きちんと説明できる?」
「……」
「自覚してなかったかもしれないけど。君は心の底から、君自身が淑女の中の淑女だと思っていたかもしれないけど。本当は、そんな綺麗な人間じゃないってことを、自覚した方がいいと思うよ」
それが、最後だった。
要件はなんだったのか、と問いかけても沈黙しか帰ってこない扉に、先に痺れを切らしたのはアルだった。
「もういいよ、戻ろう」
「はい。……アル」
「ん?」
「ごめんなさい」
そう言えば、アルは苦笑した。
「俺は、もういいんだけどね。俺に謝ることで、リアの気持ちが軽くなるなら、その謝罪は受け取るけど。でも俺としては、過去のことを謝られるより、今、リアを愛したい、かな」
「……っ」
堪えきれず抱きつけば、アルの手が優しく私を撫でる。大切に包み込まれ、温かくて良い香りの幸せな空間に包まれて、幸せに目を細める。
時折降る口付けを、恥ずかしくもありながら幸せに受け止めて。
お互いに少しずつ変わった私たちなら。お互いを信じられるようになった今なら、きっと、今度は幸せになれる。
そう、もう一度、始めから。




