第5話 君に、贈らせて
「リア、久しぶり」
そうかけられた声に今度こそ驚くことはなく、思わず綻んだ口元のまま私は顔を上げた。
そこには、美しい青い瞳。少し長めの黒い髪がさらりと頬の横で揺れる。久しぶりに見る彼は、今までと変わらず、綺麗な人だった。
久しぶりとはいえ、あれ以来図書館に来たのは初めてだから、その偶然に驚いてしまう。
きっと彼はここの常連なのだろう。いつものようにいるから、私が時折きてもこうして会うことができるのだ。
「隣、座るね」
少しだけ近くなった言葉。向かいから隣になった距離。それが筆談にちょうどいいからだとわかっていても、少しだけ嬉しかった。
『お久しぶりです』
そう書いた私の手元を覗き込み、アルはふっと笑う。その指先が、すっと私の書いた文字をなぞった。
「字、綺麗だね」
『それは、練習したので』
「え」
沈黙がおりて、私は慌てた。何を余計なことを。消そうと思っても、一度紙に書かれた文字は消えることはない。
ただ、恥ずかしかっただけ。見るからに高度な教育を受けていそうな彼に、私の乱れた字を見られるのが少しだけ恥ずかしかっただけなのだ。
昔家庭教師に教えてもらった記憶を辿りながら、少し思い出して床に指を滑らせていただけ。
埃だらけの私の部屋の床なら、簡単に練習ができた。掃除をすると怒られるのでそのままにしていた埃まみれの大嫌いな空間を、少しずつ嬉しかった思い出で上書きしていくような感覚が嬉しくて、つい暇さえあればやっていたなんて言えるわけがない。
「ねえそれは、俺のため?」
何も書けずにペンを握りしめている私の表情を覗き込んで、アルがくすりと笑った。
「その顔なら書かなくても分かる。ありがとう」
なんと答えていいかも分からず、私は俯かざるを得ない。嫌われてはいないだろうか、と心配になってしまう。私は人にも、男性にも慣れていないから。これくらいの社交辞令を本気にする面倒な人だと思われたくはなかった。
「リアは、普段何を読んでるの?」
そう聞かれ、私はちょうど開いていた本の表紙を見せる。今日読んでいたのは、この国の歴史についての本だった。
『好きな本、というのはあまりなくて』
「そうなの? 意外だ」
『強いて言うならファンタジー小説が一番好きですが、なんでも、読みたいんです。自分の好きなことだけに絞るのではなくて、色々、私の想像もつかないことを知りたくて。知らなかったことを知るのが好きで、』
だから、この本も目を瞑って選びました。
そう書いて笑いかけようとして、私は凍りついた。手元を見れば、長々と書かれた文章。しかも言葉を選びながらだったから、かなりの時間がかかってしまった。アルを待たせてしまった。
あの子と話すの、疲れるのよね。
友人だと思っていた同い年の使用人の娘の会話を盗み聞きしてしまったことを思い出す。
あの頃はかろうじて使用人は私に親しくしてくれていた。私を庇った使用人が、その友人もまとめて解雇された事件以前までは。
友人だと思っていたのだ。私の話を、頷いて聞いてくれている子だったから。
なんていうか、会話のペースが遅すぎてうんざりするの。何気なく聞いたことに対して長々待つの、結構面倒だし。書き終わる頃にはどうでもよくなってるっていうか。
当然といえば当然の話で。筆談というのが面倒で周りくどい手段なのはよくわかっていた。
「リア?」
急に表情をこわばらせた私を心配してか、彼が確かめるように私の名前を呼ぶ。
その表情に怒りの色はなくて、全身の力が抜けるほどに安堵した。
『すみません。長々と書いて』
急いで書けば、アルの目がうっすらと細められた。
「……それは、俺がリアが書き終わるのを待つのが嫌になるんじゃないかって気を使ってるってこと?」
『はい。でも、当然のこ』
「気にしないで」
書き終わらないうちに、彼が口を開いたのは初めてだった。
「気にしないで」
もう一度繰り返していったアルは、真っ直ぐに私の目を見つめる。
「俺は、リアの話を聞くのが好きだし、リアには自由に話してほしい。リアが文字を書くのは見ていて飽きないし」
『でも』
そこまで書いてその先が続かない私の指先に、アルの手が遠慮がちに触れた。
「リアがどうして声を出せないのか、俺は知らない。だから無神経と思われるかもしれない。でも、俺はリアの話が聞きたいと思ってる」
それともリアは、俺とはあまり話したくない?
そう言って顔を傾ける彼だけれど、きっと彼には私の考えなど見抜かれているのだろう。
ゆるゆると首を振れば、アルは満足げに笑う。
「もしかして、今まで少しそっけなかったのもそのせい?」
こくんと頷く。
「それはよかった。実は少し嫌われているんじゃないかと」
『ありえません』
断言した私に、アルは嬉しそうに笑った。そうして、そっと懐から小さな包みを取り出す。
「君に。贈らせてもらえないかな」
驚きすぎて全く動かなくなった私の表情から困惑を感じ取ったらしい。アルが困ったように笑う。
「迷惑だったかな、ごめん」
そう言いながら開かれた包みの中にあったのは、小さな飾りのついたネックレスだった。細い糸のように加工された銀が絡まり合って、花のような形になっている。
私には、勿体無いほどに素敵なものだった。
『そんな、私には、何もお返しできるものがありません』
「いいんだ。実はその、頂き物で。あげる人もいないし、まさか俺が使うわけにもいかないし。リアになら、似合いそうだと思って」
『本当に、いいんですか?』
「もちろん」
そう言ってほっとしたような顔で渡されたそれを、壊れ物を扱うかのように手に取る。見れば見るほど、綺麗なものだった。見惚れずにはいられない。
ぼうっと手に持ったネックレスを見つめる私を尻目に、彼は苦笑して立ち上がる。
「ごめん。俺はそろそろ行かないといけない時間だから」
その言葉にはっとして窓の外を見れば、私ももう動いた方が良い時間だ。慌てて私も立ち上がれば、察したらしい彼がふっと笑う。
「また会おう、リア」
微笑む青色の瞳が、しばらく忘れられなかった。
酔ったようにしてミアに心配されながら家に帰って部屋に入り、少しだけ扉を開けて取り込んだ光でネックレスを見つめる。
全てが夢のようだった。いつものような罵倒も嫌がらせも、意識することすらなかった。
そっと指を伸ばし、美しい花を撫でる。知らず知らずのうちに、私は微笑んでいた。
嬉しくて、大切で。優しく握って胸に押し当てた後、端切れの布に厳重に包んで部屋の奥に仕舞い込む。
それが、私がこのネックレスを見た最後の瞬間だった。