第54話 別れと、始まりと
「……ザック」
躊躇いがちに声をかけても、彼はこちらを見ようとはしなかった。
もう、ここを出なければならない時間だ。外で馬車が、私を待っている。
私は今日、この宿屋を出る。
数日前、それを告げた時、マーサさんは少しだけ目尻に涙を溜めた。気丈な彼女のそんな姿を見るのは初めてだった。エリックさんも、静かに唇を噛み締めていた。
けれどすぐに、ばんと、痛いくらいの力で私の背を叩いた。
「幸せになってきなさい」
そう言う彼女の温かさに、私も泣いた。何度も何度もお礼を言って、必ずまたここへ来ると約束した。渋々だけれど、アルも認めてくれている。できるだけすぐ、顔を出しにこようと思う。絶対に結婚式には呼ぶと、約束した。
どれだけ伝えても足りない感謝の気持ちを、どうしていいか分からない。そう言えば、マーサさんは、あんたが幸せならそれで十分、と笑った。また、泣いた。
常連の皆さんにも、泣かれはしなかったけれど、大いに嘆かれた。
くそお、と呟きながらアルの奢りのお酒を飲み干す皆さんによって、この宿の酒蔵は空になった。
あんたら、レイがいなくなっても、店にはきなさいよ、と叫ぶマーサさんの剣幕に、ただ無言で頷いていた。赤い顔で、俺らのこと忘れんじゃねえぞ、と言う彼らに、泣くつもりはなかったのに、気がつけば泣いていた。
そして、ザック。
あの日以来、避けられ続けていたザックを、どうにか捕まえた。ここの生活の中で、私の支えになってくれたたくさんの人の中でも、ザックはずっと、私を支え続けてくれた。わがままかもしれないけれど、ありがとうと、それくらいは言いたかった。
「ザック」
「……何」
もう一度呼び掛ければ、不貞腐れたような返事が返ってきた。
長話をするつもりはない。私を避けるというのが彼が出した結論なら、余計なことはするまいと思った。
「今まで、ありがとう」
ザックは、何も言わなかった。こちらも、見なかった。
しばらく、お互いに無言だった。ゆっくりと背を向けて、私は彼から離れようとした。
「レイ」
呼び止められて、私は振り返った。ザックの目が、真っ直ぐにこちらを向いていた。
その目が、揺れた。一瞬、激情を持って燃え上がったその目が、ゆっくりと閉じられ、開けられた。少しだけ、その唇に、力が入っていた。
そして、ザックは笑った。にか、といつものように、少し乱暴な笑顔を浮かべた。
「幸せになれよ」
息が詰まった。震える口で、ありがとう、と言った。
くるりと背を向けて、ザックが私から離れていく。
「っ本当に、ありがとう」
ザックは、こちらを振り向かないまま、片手を上げて振った。見えないだろうけれど、私もそっと、振り返した。
そうして私は、第二の家となったこの宿屋から、旅立った。
◇
「……リア」
馬車に乗り込めば、すぐに声をかけられて驚く。主に婚約関係の手続きで色々と大変だろうに、ここまで迎えに来てくれたようだった。
「アル」
そう言って笑えば、優しく腰に手を添えて引き寄せられた。促されるまま、彼の隣の席に腰を下ろす。
会えていなかったのは、私が引越しや後片付け、別れの準備をしていた数日間だけのはずなのに、もうこんなにも会えたことが嬉しい。今まで、半年も離れていたことが信じられなかった。
アルの手が私の腰をしっかりと包み、ぐっと引き寄せた。バランスを崩す形になった私は、アルに寄りかかるような格好になる。最後に、アルが私の頭を押して、彼の肩に頭を持たせかけた。
「……あいつと、何話してたの」
「……ザック?」
「そんな名前だったね」
不貞腐れた雰囲気を漂わせるアルに苦笑しつつ、その明らかな嫉妬がどうしようもなく嬉しい。
「普通に、ありがとう、と。お別れを言ってきただけです。私はザックのことは大切に思っていますが、男性として好きとか、そういうことではありません」
「そんなこと分かってるけど、俺としては複雑なの。会うななんて言わないから、今からは俺の事だけ考えて」
「言われなくても、そうしてます」
ゆっくりと自分から手を伸ばして、アルの手を握った。途端にびくりとはねた手を掴む手に力を込めれば、少し迷った後に握り返される。
「リア」
「なんでしょう」
「声、聞かせて?」
「え、っと」
「リアの声、ずっとちゃんと聞きたくて。色々と大変でずっとそのままだったから」
改めて言われると、少しばかり恥ずかしい。一瞬躊躇った後、そっと口にした。
「アル」
「……もう1回」
「え、あ、アル」
「……ねえリア。本当に、俺と来てくれるの」
一瞬、言葉に詰まった。
もう馬車は走り始めていて、私の荷物もほとんど運び終わっていて、もう私の心が決まっているのは明らかなのに、アルは私にそれを聞くのだ。
なんでもない、ごめんね、と笑ったアルの瞳に、少しだけ揺れる光を見つけた。
「アル」
「なに?」
「……私は、もうどこにも行きませんよ」
「うん。分かってる。……って、俺は前も言ったかな」
「……ごめんなさい」
「俺こそごめん、責めるつもりなんてなかったんだけど」
そう言って少しだけ目を伏せたアルは、不安の色を隠すように笑った。
「どうしたら、分かってもらえますか」
「……ごめんね。君を疑いたくはないんだけど、まだ、怖いんだ」
「そう、ですよね」
やはり私は。散々に、彼を傷つけてしまったのだろう。
「……だったら、リアからキスしてくれる?」
口の端を少しだけ上げて、楽しそうに笑って。
それまでの、重い空気を払拭するように、アルが言う。その心使いに感謝しつつも、私は固まった。
「私から、ですか」
「前はしてくれたでしょ?」
「……っあれは」
「ねえ、嫌?」
こう聞けば私が断れないと確信して、アルは言う。
「そうしたら、少しだけ安心できるから」
そう言われれば、断ることもできず。そっと身体を伸ばして、指先でアルの頬に触れた。
「目を閉じてもらえませんか」
「真っ赤なリアの顔、可愛いから見たいんだけど」
「お願いします」
繰り返せば、アルは残念そうに笑った後に、ゆっくりと目を閉じた。
美しい青の瞳が隠され、長い睫毛がさわりと揺れる。
その表情に見とれながら、柔らかく口付けた。
私主導で始まったけれど、すぐにアルに主導権を握られ。
とん、とんと優しく啄むように口付けられて、時折悪戯に唇を食んで。
いつの間にか私の髪の中に埋められていた指先が、優しく耳の裏を撫でる。
幸せで、溶けそうで。これ以上ない幸せに包まれながら、私は目を閉じていた。




