表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/62

第52話 あなただけを

「私は最初、アイル様のために頑張ろうと心の底から思っていました。確かに怖かったけれど、こんな私でも、アイル様が選んでくださったのなら、そのために頑張ろうって。そして、何より、どんなに後指をさされようと、私はアイル様の隣に立ちたかったから、頑張れました」


 うん、と小さく相槌を打ったアイル様は、何も言わずにゆっくりと深く腰掛けた。私の話を、聞こうとしてくれているのだと思う。


「教育も、社交も、マナーも、どれも、大変でしたが、嫌ではありませんでした。頑張れば頑張るだけ認められますし、私に対しても、否定的な声ばかりではなかったと思います。……ただ、声が出ないということだけは、どうにもなりませんでした」

「……」

「社交も筆談、ダンスの時の会話はなし、挨拶ひとつまともにできない。今思えば被害妄想なのかもしれませんが、それが全て、あなたは公爵夫人に相応しくないんだと言われているようで、辛かったのだと、思います」


 躊躇いがちに伸ばされた手が、そっとテーブルの上に置かれたままになっていた私の手を握った。


「けれど、それでも、私はあなたの妻になりたくて。必死で、声を出そうと思ったんです。でも、いくら試しても、駄目で。体調も崩れていくばかりで、倒れて、仕事中のアイル様まで呼び出して迷惑をかけてしまって。そして、イザベル様とアイル様の並んでいる姿が、本当に綺麗に見えて。これは、もう駄目だなって、思いました。それがちょうど、最初に、私がアイル様に別れを告げた時だったと思います」

「ごめん、リア。ほんとに、ごめん」

「謝らないでください。私が自分の意思で、選んだ道です」


 悲痛な表情をして何度もごめんと繰り返す彼に、微笑みかけた。私はもうこれ以上、アイル様にこんな顔をさせたくはない。


「ただ、その、もう一つ。それくらいの頃、アイル様は私に笑わなくなりました、よね? その時にちょうどイザベル様と並んでいる姿を見たので、不安になってしまったというのも、あったと思います」

「っそれは。リアが……違うな、俺が怖かったから」

「え」

「俺はずっと、リアが弱っていく姿を見てた。俺が連れてくる前は幸せそうに笑っていたリアから、笑顔が消えていく姿を、ふらふらになりながら勉強をしている姿を、ずっと見ていて。リアが心配で仕方がなくて、何もできない俺が歯痒かったのと同時に、リアが、いつか、こんな辛いこと嫌だと、俺から逃げていくのが、怖かったんだ」


 そうして、一度自嘲的な表情を浮かべかけていた彼は、慌てたように背筋を伸ばした。静かに、真っ直ぐに私を見つめて、言った。


「ごめん。君が一番辛かった時に、なんの話も聞けず、怯えてばかりで。ごめん」

「違います。アイル様はいつだって、私を支えてくださっていました」

「……リアがそう思っていてくれたなんてね」


 ぐしゃりと髪をかきあげたアイル様が、吐き出すように告げる。


「ほんと、俺たち、お互いのこと何も分かってなかったみたいだね」

「そう、ですね」


 すれ違って、すれ違い続けて、気がついたらこんなところまで来てしまった。きっと私たちの間に一番足りていなかったのは会話で、それを怠ったのが、私たちの一番の失敗だったのだろう。

 そう言えば、アイル様はふっと目を伏せた。


「そしてその、君の言葉を奪っていたのも俺だったね。ずっとリアから拒絶されるのが怖くて、閉じ込めて言葉まで奪ってた。一生君が手に入らないと分かったら、自分が何をするかわからなくて。決定的な一言から逃げてた俺が、一番拗れさせちゃったのかな」

「……」

「リア。俺にこんなこと聞く資格なんてないかもしれないけど、リアの、声が戻った時のこと、聞かせてくれないかな」

「本当に、何も特別なことはありませんでした。ふとした朝に、気がついたら戻っていただけです。きっと、必死で頑張っていた心が、少しだけ、ふっと緩んだからなのだと思います」

「……俺が、その場所になりたかった。なるべきだった、本当は」

「っ好きな人の前でくらい、格好つけさせてください」


 好きな人、のところは少しだけ早口になってしまって。赤くなった頬を伏せるように、下を向く。


「アイル様の前では、頑張らせてください。綺麗な女性でいさせてください。みっともないところは、見せたくないのです」

「……分かったけど、たまには、俺にも甘えて? 君に失望することなんて絶対にないって約束するし、俺はリアに甘えられたい」


 その、少しだけ上目遣いに、ねだるように言う彼は、きっと分かってやっているのだろう。昔から私は、アイル様にこの顔をされると、勝てなかった。


「……はい。でも、だから、この宿屋は、私にとってなくてはならない場所だったのだと思います。例えるなら、実家みたいな。自分の家ももちろん落ち着くけれど、ふとした時に、実家に、親の元に帰りたい瞬間もあります。そういう場所として、受け入れてくださいませんか」

「…………分かった」


 微妙に不本意そうだったが、それを隠すように、アイル様が強く頷く。きっと、前の彼だったら一蹴されていただろう。彼なりに、きっと、私の意思に寄り添おうとしてくれている。


「前のことで、気になるのは、それだけ?」

「はい。これで全部だと思います」


 そう言えば、アイル様が、少しだけ困ったように微笑んだ。


「それなら、これからの話をしてもいい?」


 息を吸って、吐いて。

 心の準備をしてから、私は大きく頷いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ