第49話 愛憎の果て
「アイル様」
その、鈴を転がすような声で呼びかけ、ゆったりと彼の元に寄り添った彼女は、静かにアイル様を見下ろした。
私だったら隣に座るのに。目線を合わせるのに。そう思うけれど、もともと、アイル様は私を探しにきているのだ。いい気持ちがしなくて、当然のことだ。
「イザベル」
彼の声が、イザベル様の名前を呼ぶ。息が詰まった。
上半身を倒して、イザベル様が彼を覆うように立つ。後ろ手に回された、彼女の白魚のような指が、夜道の中で際立って白かった。
「ねえ、アイル様」
呼びかけられても、アイル様は俯いたままだった。答えたはいいものの、話を続けるつもりはないらしい。それに焦れたのか、イザベル様の腕が、そっと彼の肩にかけられた。
そのまま、後ろから覆い被さるようにして、イザベル様の身体が密着する。私から見て、ちょうどアイル様の姿を覆い隠すように。宿屋と彼を、隔てるように。
見ていられなかった。目をそらそうと思った。
けれど。
あくまでも自然に、流れるように動いたイザベル様の手が、アイル様の肩から離れ、彼女の結いあげられた豪奢な金髪へと向かう。
そのままその手が、ゆっくりと、髪にさされていた櫛を引き抜いた。アイル様は、動かない。
きらりと、その先端が光った。綺麗に磨かれているそれは、鋭く尖って、僅かな月明かりを反射した。
「……アイル様」
揺蕩うように、彼女が名前を呼ぶ。その手を振りかざそうと、彼女が手首を少しだけ後ろに傾けたのが、妙にはっきりと見えた。
何も考えはしなかった。
「アル、逃げてっ!」
それはまさしく、絶叫だった。
凍りついたように数秒動きを止めた2人だったが、すぐにその反応は二つに分かれた。
アイル様は、一気にかがみ込むと地面を蹴った。するりとイザベル様の身体の中から抜け出し、すぐに方向を変える。
イザベル様は、動かなかった。いや、動けなかったのだろう。彼女が本物の暗殺者だったら、きっと逃げる暇もなく刺されていたはずだ。訓練されていない素人だからこそ、思わぬ乱入者に対応が遅れた。
そして、ここには本物がいる。
私の声を聞きつけたであろう、アイル様の護衛がもう到着していた。有無を言わさず呆然と立ち尽くすイザベル様に近づき、その手から易々と櫛を奪う。
てきぱきと対処する彼らの手腕を見ていて、安心した。これなら大丈夫だ、と思った瞬間、足から力が抜けた。窓の側に崩れ落ちていると、勢いよく扉が開いた。
「どうしたんだい!」
「……ごめんなさい」
駆け込んできたマーサさんに、なんと声をかけていいかわからなかった。
あの時は何も考えていなかったけれど。私は彼を、アル、と呼んでしまった。そして、世界で彼をそう呼ぶのは、きっと私だけだ。きっと彼は、もう、私の存在に気がついているだろう。
マーサさんも、常連の方も、私のために嘘をついてまで庇ってくれたのに。私が全て、台無しにしてしまった。絶対に彼女たちが罪に問われるようなことがないようにしようと、固く誓う。
申し訳ないけれど。申し訳ない気持ちでいっぱいだけれど、後悔はしていなかった。
「そういうことを言ってるんじゃない。何があったのかい?」
私の姿を見て安心したように息をつくマーサさんの姿を見て、少しだけ笑いかけてみせる。
「少し、外で揉め事があって。私は大丈夫です。ですが、私の存在には、気付かれたと思います」
にわかに、階下が騒がしくなった。がしゃんと何かを倒すような音や、入り混じった騒ぎ声が聞こえる。気がかりそうに一瞬下を見たマーサさんの手を引いて、立ち上がる。
「きっと、私を探しているのだと思います。降ります」
「でも」
がしゃんと、一段と派手な音が鳴った。
「……っリアを! 出せ!」
漏れ聞こえてくるのは、絶叫だった。どちらかと言えば、悲鳴に近かった。掠れて裏返った、血を吐くような咆哮だった。
「私が出ないと、収拾がつきませんから」
「レイ、あんたはそれでいいのかい?」
「自分で蒔いた種です。責任くらい、取らせてください」
そう言って笑ったのは、かなりの部分が強がりだった。
怖い。怖いことに変わりはない。けれど、もう逃げていられないことはわかっていた。
階段を駆け降りる。
二つ、季節が過ぎた。それから、彼には会っていない。
最後の数段を飛び降りて、私は食堂に続く扉を開け放った。我ながら、凄まじい音が出た。
ぴたりと喧騒が鎮まり、いくつもの視線がこちらに突き刺さる。けれど、私には、その中のたった一本しか見えていなかった。
「……リア」
私の姿を認めたアイル様が、泣き出しそうな笑顔を浮かべた。
ゆっくりとこちらに歩いてきた彼に、誰もがすぐに道を譲る。最初はゆっくりと、次第に早くなって駆け出すように。私の前に立ったアイル様は、私の方に手を伸ばして、すぐに中途半端にその手が止まった。
力の抜けた手が、だらりと身体の横に垂れ下がる。
「……リ、ア。会いた、かった」
震える声で、切れ切れに私の名を呼ぶ彼に、思わず涙がこぼれそうになった。
何も変わってはいなかった。今でもアイル様は、私を求めるように、優しい声で、私の名前を呼ぶ。
正直、感情の整理はできていない。これからのことも何も決まっていない。けれど。
強く、美しく、誇り高く。
少しだけ微笑んで、アイル様を見た。
「アイル様。お久しぶりです」
泣き出しそうに細められた彼の目を、真っ直ぐに見つめていた。




