第48話 一目だけ
「『鈴の乙女』という女性は、ここにいる?」
懐かしい声だった。優しく、甘く、リア、と私の名前を呼んだ、その声だった。
手が震えた。スープの表面が、ぱしゃ、と波立った。
「は」
「お初にお目にかかります」
答えかけた誰かの声を遮るように、マーサさんの声が聞こえてきた。緊張しているのだろう。彼女の声は、いつもより少しだけ高かった。
宿屋を経営しているだけあって、やや違和感はあるものの、彼女の敬語は綺麗だった。
「ここの主人を務めております、マーサと申します」
「丁寧にありがとう。……それで、彼女は?」
「『鈴の乙女』は、レイは、先ほどすぐに飛び出していってしまいました」
しばらく、沈黙が続いた。
「貴方様の噂を聞いたすぐ後だったと思います。私も止めたのですが、間に合いませんでした」
「……そう」
そう呟いた彼の表情が見えないことが、悔しい。凪いだ声からは、何も読み取れなかった。
「あの」
続いて聞こえたのは、ザックの声だった。
「俺、見ました。あっちの、門の方に走っていった……行きました」
唇を噛み締めた。
ただ一つ心配なのが、周りの常連の方の反応だった。この宿屋は食堂が中心になっているので、食堂を通り抜けないと移動できない部屋が多くある。私が飛び込んだ裏の調理場もそんな部屋の一つで、外に出るにも一度食堂を通る必要があった。
彼らが見ていないと言えば、全てが露呈する。
「俺も、見たっす。でも、門じゃなくて馬屋の方角です」
「え、俺、ここに来る時、あっちの、ケインズのやつの肉屋で銀髪見たけど。あれは絶対レイちゃんだったって」
「見間違えたんじゃねえの?」
「まてまてお前ら何言ってんの? 俺ん家で」
がやがやと、下の喧騒が届いてきた。皆、私の目撃情報の話をしているようだったけれど、その方角はどれもばらばらで。きっと、とっさに私が逃げたがっていることを察して、話を合わせてくれたのだろう。嘘をついていると知られたら、どんな目に遭うか想像できなくはないだろうに。
胸がいっぱいになった。本当に、素敵な人たちに出会えたと思う。
突然、一瞬にして、下が静まり返った。その隙間から、彼の声だけが届いてくる。
「ありがとう。分かっ」
アイル様の声が、不自然に途切れた。下からの音は途切れたままで、何が起こったのかと不安になる。けれど、一拍置いて、その声が聞こえてきた。
「……っこれ、この色」
その声は震えていた。振り絞るような、悲痛な声だった。
「リア……」
唇を噛んだ。泣くまいと思った。彼から逃げている私に、そんな資格はないと思った。
けれど、その声が、あまりにも悲しげな色を孕んでいるから。震えるような激情をのせた、あの時に何度も聞いたような声だったから。
期待するな、と言い聞かせる。
「みんな、ありがとう。ここは俺の奢りにしておくから、好きなだけ飲んで。マーサ、請求書はマグリーク公爵家宛で届けてくれればいいから」
「……っ承知しました」
そこから、わっと一気に湧いた声で、それ以外の音は何も聞こえなくなってしまったけれど。きっとアイル様は、これから帰るのだろう。
そっと、窓の方を見た。
気がついていた。ここの窓はちょうど入り口の方に面していて、窓から見下ろせば、ちょうど出てくるところが見えるはずだ。ここの道はかなり暗いから、きっと向こうから私の顔は見えない。
空いている部屋は、他にもあった。だからこれはきっと、マーサさんの気遣いなのだろう。
最後に、一度だけ。その姿を見るくらいなら、許されるだろうか。
音が立たないように、慎重に窓を開ける。ゆっくりと見下ろせば、まだ誰も出てくる様子はなかった。
心臓がうるさいくらいになっていて、痛いほどだ。震える手を白くなるまで握りしめて、静かに道を見下ろす。きい、と古くて重いドアが軋む音がした。ややあって、いくつかの人影が溢れてくる。
ゆっくりと歩み出てきたその集団は、きっとアイル様とその護衛だろう。夜の闇の中でも、その艶めきを失わない黒髪が見えた。
「……っ」
角度が急すぎて、その表情までは読み取れなかったけれど。
その歩き方が。ほんの少しの重心の掛け方が。手のゆらし方が。首の傾きが。
全てが、アイル様なのだと私に訴えてくる。
恋しかった。自分で決めたことだけれど、狂おしく、締め付けられるように、会いたいと願った。
そのまま立ち去るかと思ったけれど、その様子はない。ぴたりと足を止めた一行を、不思議に思って見つめる。
ややあって、その集団が動き出した。と思ったけれど、アイル様だけは、その場に残った。周りの護衛の人が離れていくのだろう。きっと、彼が1人にしてほしいと言ったのだ。ちょうど、私がミアにお願いしたように。
離れていった護衛の人たちは、まさか完全に離れることはないだろうけれど、きっと彼から見えない位置で見守っているのだろう。
アイル様は、動かなかった。
その身体からふっと力が抜け、膝を着いて座り込んでしまった彼を、私はただ見つめていた。表情も見えなければ、声も聞こえない。
その時、視界の片隅で、何かが動いた。美しい金髪だった。
道を歩いてくるイザベル様の動きが、ひどく遅く感じた。
「アイル様」
彼女の、鈴を転がすような声が、風に乗って届いた。




