第47話 再会
がしゃん、と硬質な音が食堂中に響いた。足元に散らばったガラスの破片を見て、初めて自分の手からグラスが滑り落ちたことに気づく。
食堂中の視線が私に注がれているのが分かったけれど、そんなことはどうでもよかった。
「探し、人……」
呆然と呟いた声が、妙に遠く聞こえる。
ザックの告白の答えが見つからないまま、かなりの時間が過ぎてしまって。急かすようなことは決してしないザックに甘えて、ずるずると時ばかりが過ぎていた。
そろそろ、結論を出そうと、そう思っていた時だったのに。
私の反応に驚いたのか、その情報をもたらした張本人である常連さんも、ぴたりと動きを止めていた。恐る恐る、悪かったよ、と呟きながらも、その人は言葉を続ける。
「だって、多分そうだろ? 銀色の髪、やや紫がかった同色の瞳、でもって声が出せない、若い女性。名前はレイリア。きっと、レイちゃんのことだと思って、その、ごめん」
「いえ」
どうにか否定するも、ひどく混乱していた。けれどこの人は、あくまでもこっそりと、私にだけ教えてくれたのだ。こうして大事にしてしまったのは、私だ。どうにかそう言うと、常連さんはほっとした顔をする。どうやら、肝を冷やさせてしまったようだ。他の常連さんからの視線も痛い。
「探している方の、名前はわかりますか」
「ああ。……領主様のご子息、アイル・マグリーク様だと」
「……っ」
なんで。なんで今更彼が。私なんかを。
「ご……めん、なさい。少し、抜けます」
早口で言って裏へ戻る。注がれる視線を振り払うように急ぎ足で歩いて、最後は走っていた。
「ちょっとレイ! あんた何して」
マーサさんの声が途切れた。私の顔を見たのだろう。
自分でも、自分の感情がわからなかった。ただ、自分が泣いていることだけは分かった。鬼の形相で食堂へ向かおうとするマーサさんを、どうにか阻止する。
「違うんです、そうではなくて……アイル様が、彼が、私を探してるって」
マーサさんの顔が凍りついた。彼女のこんな顔は、初めて見たように思う。
「なんて自分勝手な」
吐き捨てるように、マーサさんが呟いた。
「噂が広まるのなんて一瞬だろう。そんなことをしたら、レイはこれからどうやってこの街で生きていけばいいのさ」
そう、苛立っているのだ。腹が立つのだ。
こんな風に、また私の幸せをかき回して。どうにか見つけた新しい居場所を奪うような真似をして。あの時の様子から常連の皆さんは私がレイリアだと察しただろうし、そうなったら、今までのように気軽にレイちゃん、と呼びかけてくれるかどうかわからない。
今更、また。やめてほしい。そのはずなのに。
「そうなんです。その通りなんですけど……嬉しいんですよ」
「レイ」
「本当に、無茶苦茶なことをされてるのに、向こうは婚約者まで作ってるのに、私の生活全部掻き乱されても、彼がまだ私のことを覚えていたというだけで、嬉しいんです。……ほんと、どこか壊れてる」
自嘲的に呟いた言葉は、奇しくもあの時の彼と同じ。
「好きで好きで……どうしていいか、分からないんです」
「おいレイ」
「……ザック」
聞かれただろうか。ザックの顔を見上げれば、その表情は怒りに溢れていて、けれどどこか痛みを堪えるような顔をしていた。きっと、聞かれてしまったのだと思う。
「ふざけんなよ! なんで今更! ようやく、レイは笑うようになったのに!!」
「ザック」
「……ごめん、レイ。好きなやつのこと、悪く言われたくないよな。悪い。っでも、俺は」
「ごめんね、ザック。ありがとう。でも、ごめんね」
そう繰り返せば、どの話をしているのか、彼は察したようだった。
「ザックの気持ちは嬉しかった。初めて会った時から、気さくに接してくれて、本当に救われたし嬉しかった。ありがとう。でも、ごめん、私、やっぱり彼を愛しているの」
「……」
「残酷なことを聞かせてごめんなさい。それでも、誠実に応えたかったから。ザックに裏切るような気持ちを持ちながらザックと添い遂げるのが嫌なのではなくて、……私が、他の人と結婚するような、彼を裏切るようなことをするのが嫌なの。最低で、ごめんなさい」
「……知ってたよ」
ザックは苦笑した。私の涙を拭おうと手を伸ばして、それですぐに引っ込めた。
「最初っから、敵わないって分かってたよ。それがレイにとっての幸せってんなら、それでいい。……おっ、今の俺、ちょっとかっこよかったんじゃない?」
「……っご」
「謝んなって。もう気にすんな。それでレイ、これからどうすんだ? 噂が回ったら、すぐここはわかるぜ。鈴の乙女、有名だったしここはあの方の領地だろ?」
「……どうすれば、いいのかしら」
ぽろり、とこぼれ落ちた言葉を聞いて、マーサさんが苦笑する。
「仕方ない子だね。質問を変えようか。あんたは、あの方に会いたいかい? それとも、会いたくない?」
会いたいか、会いたくないか。
もちろん、会いたい。私の心は、今すぐにだって、彼に会いたいと叫んでいる。
けれど、怖かった。どうして彼が私を探しているのかは分からない。彼にはイザベル様というお似合いの婚約者がいて、今更私を探す理由などないはずだった。思いつく要件は、私が彼のもとで過ごした期間に使ったお金を返せ、くらいのもので。
やはり私が必要なんだ、と言ってくださる可能性に浅ましく期待している自分がいることはわかっている。けれど、そんな期待に縋るのも、嫌だった。
「……会いたくは、ない、です」
「本気かい?」
「私は今でも彼が好きです。けれど、彼には今婚約者がいて、私の居場所はありませんから。もしあったとしても、未練で私が苦しくなるだけです」
「……あの方が、また、レイを取り戻しに来たとは考えないのかい? 元恋人を探す理由として、よくある話だと思うけどね」
「貴族は、色々と大変なのです。もし婚約破棄となったら、慰謝料だけの話ではありません。過失は完全に彼にありますから、公爵家の評判ごと地に落としかねない行為です」
「そうかい。あたしにはよくわからない世界だけどね」
マーサさんは小さく笑って、私の頭に手を乗せた。
「あんた、口調戻ってるのに気づいてるかい?」
「え」
「だいぶ、平民らしく砕けて来たと思ってたけど、やっぱりレイは生粋の貴族なんだね。ほんとは、帰りたいんじゃないのかい」
「……」
意識していたわけではなかった。けれど、言われてみれば、きっとその通りなのだろう。
帰りたいか、帰りたくないか。私には、わからないけれど。
「帰りたくても、私のいる場所はありませんから」
「……レイがそう決めたってなら、それでいい。だったらレイ、今すぐ客室に行きな。2階の角の部屋が空いてる」
「……」
「あのおっちゃんが言ってたけど、賞金が出てるって話だから、もうとっくに存在は伝わってるだろ」
「いつ来るかわからんからね。早い方がいい」
マーサさんは豪快に笑った。そして、湯気をたてる鍋から、スープを掬った。渡されたスープを、私は呆然と見つめる。
「その人が来たら、レイは出てったって伝えるよ。あんたが探してるって噂を聞いた瞬間、飛び出していっちまったって。それでいいだろ?」
「……その、先は」
「しばらく、裏にこもって人に見られないように暮らせばいい。窮屈な思いはさせるけど、ほとぼりが冷めるまでしばらく待とうや。証拠に、レイが泊まってた部屋でも見せれば納得するだろう」
「仕事は」
「そんなのいいって。あたし言っただろう? レイはもう、あたしたちの娘みたいなもんなんだよ」
「……ありがとう、マーサさん」
精一杯の感謝を込めて、微笑んで。
行った行った、と急き立てられて、私はスープをこぼさないように気をつけながら店の階段を駆け上がる。客室に入って、ドアを閉めた。
ずるずると滑り込み、一口スープを啜る。温かい、味がした。初めてここに来たときにいただいたものと、変わらない味だった。
その瞬間、階下から聞こえてきた喧騒が、ぴたりと止まった。
この宿屋は、二階建てだ。一階に受付や食堂、井戸、お手洗いといった共用フロアがあり、2階に客室があるという作りになっていた。そしてこの部屋は、ちょうど食堂の真上だった。
年季の入った建物は、時折隙間風がひどいという苦情を受ける。その度にマーサさんと、慌てて修理したものだった。
階下の声が、微かに、私の耳へ届く。
「『鈴の乙女』という女性は、ここにいる?」
泣きたくなるくらい、懐かしい声だった。




