第46話 お前を泣かせたりなんて
「……よう、レイ」
困ったように眉を下げて挨拶するザックの手には、野菜の積み上がったかごがある。きっと明日の朝食用に届けてくれたのだろう。
「もしかして、全部、聞いてた……?」
「…………悪い」
ぼそり、と呟いたザックの表情が暗く沈んでいるように見えて、慌てて明るく振る舞った。
「大丈夫だから、私こそ重い話を聞かせてしまってごめんなさい」
「いや」
ザックが、野菜の入ったかごを裏口から中に押し込んだ。そのまま私の手を掴んだザックは、ぐいぐいと裏口から離れていく。
「ちょっと待って、ご飯」
「そんな時間は取らせないから。マーサさん!! ちょっとレイ借りてくから!」
「……あんまり遅くなるんじゃないよ!」
相当怒られると思ったけれど、思いがけずマーサさんの許可を得たザックは、得意げな顔をする。けれどその顔も、いつもに比べると少し硬い気がした。
「ほら。ちょっとこっちきて」
様子のおかしいザックに、暗い話を聞かせてしまったことを申し訳なく思う。ずっと私の手を離そうとしなかったザックの手が離れたのは、裏口からあまり距離のないザックの家の畑だった。
獣よけのために貼られている柵の柱に、ザックが寄り掛かるような格好で立つ。
その姿は、月明かりの中でぼんやりと揺れていた。
「お前が好きな男って、領主様のご子息様?」
「……な、んで」
「お前が最初にマーサさんと話してるとこ、見たから」
ザックとはあの時の食堂が初対面だと思っていたけれど、どうやらザックはそれより前に私のことを見ていたらしい。少しの逡巡の後、こくりと頷けば、ザックは俯いた。その口から、ぼそりと言葉が溢れる。
「なんであんな、少しばかり顔が綺麗で、金を腐るほど持ってて、頭が良くて……だめだ、俺、なんも敵うところないじゃん」
「え?」
「レイ」
そっと、今までに聞いたことのないくらいに優しく、私の名前を呼んだザックは、寄りかかっていた柱からゆっくりと身を起こした。
そのまま、私の前に、月を背にするように立つ。
「好きだ」
その言葉は、そっと、私の耳を揺らした。
「レイがまだあの男のことが好きなのは分かってる。だから、今すぐ俺を好きになれなんて言わねえ。でも」
ザックが、振り絞るように言葉を続ける。
「俺だったら、お前を泣かせたりしない。あんな、今にも死にそうな顔なんてさせない。絶対幸せにする。っ確かに俺は、何一つ、あの男に敵わないよ。向こうはものすごいお貴族様で、こっちはただの農家の次男坊だ。でも、お前への気持ちだけは、負けない」
「……」
「あいつはお前をめちゃくちゃに泣かせて、結局声だって戻らなかったじゃん。俺なら、絶対、お前を泣かせたりなんかしないから。俺のことは好きじゃなくてもいいから、俺を選んで」
そう言ったザックの表情は、今まで見た中で一番、真剣だった。
知らなかった。私がザックに想われていたなんて、想像もしていなかった。
だからこそ、何も言葉が出てこない。
嬉しいのか、と言われたら、きっと嬉しいのだろう。得体の知れない元貴族の私を娶ってくれる人なんて一生現れないと思っていたし、生涯結婚するつもりもなかった。
いつか貯め切ったお金を公爵家の前に置くために、生きていると思っていた。けれど、ザックは、こんな私がいいと言ってくれた。私を選んでくれた。それはきっと、嬉しいことなのだ。
「……ごめんなさい。ザックの気持ちは嬉しいけれど、私は、まだ彼のことを忘れられない」
「それでもいいって言ってる」
「私が、そう思えない。他の人のことを想いながら、ザックと一緒になるなんて、そんなのザックに失礼じゃ」
「俺がいいって言ってるんだよ!」
私の言葉を遮るようにして、ザックが叫んだ。
「そういう考え方、めちゃくちゃレイらしいと思うよ。いつだってレイは自分に厳しいじゃん。いつの間にか皿運びまで追い付かれてるし。でもさ、それ、ある意味で押し付けだから」
「……」
「相手を大切にしたいっていうレイの気持ちは分かったけどさ、こっちの気持ちはどうなるんだよ。俺が気にしなくていいって言ってるのに、なんでお前が気にすんの」
殴られたような気がした。
きっと、彼の時もそうだった。彼は私に迷惑をかけてもいいと言ってくれたけれど、私が、彼に迷惑をかけ続けることを許せなかった。ただ、それだけのことだった。
それが押し付けと言われれば、それはきっとそうだ。けれど、私は、その事実に耐えられるほど、強くはない。ここまで私のことを想ってくれているザックを裏切るような気持ちを抱いたまま、ザックと一緒になるという現実に、耐えられるかは分からない。
「多分、ザックの言う通り。でも一つだけ訂正させて。私は、相手を大切にしたいわけじゃない」
「じゃあ何」
「私が弱いから。私のせいで大事な人が傷ついてるっていう事実に、私が耐えられないから。相手のことを思ってとか、かっこいい理由じゃなくてごめん」
結局、そういうことだったのだ。
相手のためなんていう崇高な理由ではなく、ただの保身。怖かっただけ。
「……少し、考えさせてもらってもいい?」
「……ん、分かった」
けれど、このままだと、きっとあの時の繰り返しだ。
私の自分勝手な答えにも、ザックは鷹揚に頷いてくれる。けれどその表情は強張っているから、きっとザックだって不安なのだ。
これからどうするか。きちんと、考えなければいけないと思った。
ザックは、じゃ、と短く挨拶すると、軽く手を振って離れていく。月明かりに照らされたその後ろ姿を、しばらく見つめていた。




