第44話 呪いの解ける日
鳥の声と同時に、私は目を覚ます。宿屋の朝は早い。朝からやらなければいけないことが山済みなのだ。
私の部屋として使わせてもらっている、宿屋の裏の小さな別館の一室。窓を開け放って、大きく息を吸った。
「ん、いい朝」
時が、止まった。
それが自分の口から出た声だとは信じられなくて、恐る恐る喉に手を当てる。
「あ、あー。あ」
私の声だった。
長らく失われていた機能は、完全に元通りとはいかない。声は掠れてこもって聞きにくいし、音を発するたびに微妙な違和感がある。けれど。
「私の、声。私の声だ」
なんの前触れもなかった。
昔はあれほど戻って欲しいと願っていたけれど、最近は気にすることもあまりしていなかった。それが、自分を守るためだと理解はしていたけれど、それを責める人がいないことに甘えたまま過ごしていた。だからこそ、うっすらとした期待はあったけれど、熱望はしていなかった。
「もう少し、劇的な戻り方をすると思っていたけど」
例えば、努力の末にどうにか戻った、とか。誰かの窮地に急に声が必要になって、頭がいっぱいになって声が出るとか。
やっぱり私は、物語の読みすぎだ。そんなドラマチックなことばかり起こるわけはなくて、現実はこうもあっさりとしたもの。
どん、と扉を叩かれて、私は跳ね上がった。
「レイ? どうしたんだい、あんたにしては遅いね」
「マーサ、さん」
扉越しに呼び掛ければ、その瞬間、扉が吹き飛ぶような勢いで開いた。部屋中を忙しく見渡すマーサさんの目に、私は映っていない。
「知らない声がしたけど、大丈夫かい? 何があっ」
「私の、声です」
「……」
「私の声、戻りました」
「レイ」
信じられない、という風に目を見開いていたマーサさんは、しばらく固まっていたけれど、ようやく言葉を発した。
「よかったじゃんか。いい声だね」
「はい!」
思わず、笑顔になる。満足そうに、マーサさんも笑った。
「ちょっとマーサ! 何してるんだ?」
下からエリックさんの声が聞こえてきた。慌てて朝の支度を始めた私を笑ってみると、マーサさんは下に降りていく。私が下に降りるころには、湯気を立てる朝食が、テーブルの上に並んでいた。
「レイ。エリックにはまだ言ってないから。レイから言ったらどうだい?」
こく、と頷いて、エリックさんの方を見た。
「エリックさん。私、声が戻りました」
「レイ」
マーサさんのように呆然と私を見たエリックさんは、しばらくして、破顔した。
「俺も嬉しいぞ」
食卓に響く笑い声は、今日は3人分だった。
◇
「レイ」
「ザ、ザック、ちょっと離れて」
「レイ」
何度も確かめるように私の名を呼ぶザックの、その近すぎる距離に、私は必死で壁に張り付く。
おはよう、と声をかけてくれた常連さんに、おはようございます、と返したのがよくなかった。なんの前触れもなしに私の声を聞いた常連さんは、信じられないような顔をした。そうしてすぐに、町中に噂が広がったらしい。
「ちょっと、レイちゃーん!」
食堂の方から、私の名前を呼ぶ声がいくつも聞こえる。どうやら、一度私の声を聞こうと、人が集まってきたらしい。ここの食堂は泊まっていない人でも使うことができるから、とんでもない混雑が誕生していた。
「ほんとに、お前、声出せるようになったんだな」
「うん。心配かけてて、ごめんなさい」
「や。よかった。よかったな!」
心底嬉しい、というのが伝わってくる弾けるような笑顔のザックに、こちらまで笑顔になる。ザックは私の両手を取ると、そのまま飛び跳ねた。よほど嬉しかったらしい。
私も一緒に、飛び跳ねてみる。
すると、ザックの動きが、ぴたりと止まった。そのまま、神速で手が引き抜かれる。
「わり、急に」
「別に、嫌じゃないよ」
「……なんか、不思議な感じ。俺、レイと会話してる」
「そうだね」
その反応が面白くて、くすくすと笑う。
「レイちゃーん!! 主役がいなくてどうするの!」
「はーい! 今行きます!」
叫び返せば、食堂がどっと湧いた。聞いたか? 可愛いな? なんて声が聞こえてきて、少しだけ恥ずかしくなる。
「じゃあ、ザック、私行くね」
そう言って走りかけた私は、バランスを崩してつんのめった。ザックが私の手首を掴んでいた。だがその手も、すぐに外れる。
「悪い」
「何かあった?」
「や、そういうわけじゃない」
「そう?」
ザックの反応は気がかりだったけれど、いい加減食堂の方がうるさい。これでは、近所にも迷惑だろう。
「ごめん、行ってくる」
そう言えば、ザックはいつものように、おー、と気のない返事をした。
食堂に顔を出せば、あっという間に人に囲まれる。見知った顔ばかりで、少し安心した。
「レイちゃん、なんか喋ってよ」
「……カームさん?」
名前を呼び返せば、わっと場が沸く。
「ちょ、ちょっと俺の名前も」
「カインさん」
「おー!」
「ちょっとお前たち!!」
突然聞こえてきたマーサさんの怒号に、私たちは全員、見事に固まった。そうして、ゆっくりと振り返る。
「ここはそういう店じゃないんだよ、よそでやってくれ」
「えーだって」
「だっても何もない! 食べないならなら出てっとくれ」
はーい、と残念そうに言ったお客さんは、ぞろぞろと私から離れていく。その姿がおかしくて、少し笑った。
「マーサ、あんなこと言ってるけど、今日、人が多すぎたからって常連のみ立ち入り可にしてるんだぜ。これでまた常連になりたいやつらの売り上げ伸びるだろ。しっかりしてやがる」
私の耳元でこそっと呟いていったカインさんが、マーサさんに叱られる。
「聞こえてるよ! ほらレイ、料理が溜まってるから戻って」
「はい」
そうしてマーサさんの後について裏に戻る。ザックの姿は既になかった。
またあいつはふらふらと、とぶつぶつ呟くマーサさんから、大量の皿を受け取る。
「ごめんね、あいつら疲れるだろうけど、みんなレイのこと大好きなんだよ。ちょっと付き合ってあげてくれないかい」
「いえ、私は嬉しいですよ」
皿を積み上げて、私は食堂へ飛び出した。




