第42話 温かいスープ
マーサさんの作るご飯は、絶品だった。
貴族の食事に慣れきってしまった私が、彼女の料理を楽しめるか少しだけ心配だったけれど。確かに使っている食材の香りや食感こそ劣るが、味付けが素晴らしいの一言に尽きた。これなら、料理人として雇われるのも夢ではないと思ってしまう。
ほかほかと、温かな湯気を立てるご飯を、そっと口元に運んだ。温かい食事は久しぶりだった。今までは、必死で切り詰めていたし、長距離を移動したから当然のことではあるけれど。
ここは、この宿屋の食堂らしい。
客も、部屋ではなくこの食堂で食べるらしく、狭い室内は人でごった返していた。人の声は絶え間なく聞こえ、時折大きな笑い声も起きる。かちゃん、と何かがぶつかり合う音も途切れることはない。
ずっと、1人で過ごしてきた私にとっては、うるさいくらいの喧騒だった。さすがに落ち着かないが、そこまで不快な気持ちにはならない。
きっと、時間が経てば平民の暮らしにも馴染めるだろう。少し心配だっただけに、ほっとした。
小さく切られた野菜の入ったスープを、お皿を持ち上げて飲む。何もかもが新鮮だった。
その温かさと絶妙な塩加減に、思わず息が漏れる。
「お、笑ったね」
マーサさんだった。器用にいくつものグラスを持った彼女は、忙しそうに働いていた足を止めて、こちらを見ている。
「なんだ、いい顔して笑うじゃんか。その方がずっといい」
「マーサ! 酒!」
「怒鳴るんじゃないよ! それにさんをつけろといつも言ってるじゃないか」
呼ばれてるから、と苦笑しながら去って行ったマーサさんの後ろ姿を、しばらく見つめていた。
貴族では、決して見ないような人だった。豪快で温かくて、元気で親切で、少しだけ強引。
今までは、他人への無条件の優しさなどとは無縁の世界だったから。
平民も、悪くないかもしれない。
「ちょっと、ねえ、そこの人。……お前だよお前、そこの、銀色の髪の」
銀色の髪、と言われて、私は振り返った。
そこには、気さくそうな笑みを浮かべた男性が立っていた。同年代か、少し上くらいだろうか。無造作にあちこちに跳ねているくすんだ赤毛が印象的だった。
親しげに微笑んだ彼が、私の前の席を指さす。
「そこ、座っていい?」
こくり、と頷いて、手でその席を示す。無愛想だったかと心配になって、少しだけ笑いかけた。
「お前、見ない顔だけど、旅の人? ……あー悪い、俺はザック。ここに食材おろしてる農家の息子だから、常連ってやつ。多分、ここは初めてだよな?」
怒涛の自己紹介に戸惑いながらも、声が出せないということを伝える。少しだけ意外そうな顔をした彼は、自分のお皿に乗っていた赤い果物のようなものを掴むと、私の目の前のお皿に乗せた。
「ふーん、よくわからんけど、色々大変そうだから、やる。名前聞いても? ってそうじゃん、悪い怒らないで」
慌てたように手を振り回す彼がおかしくて、くすりと笑う。怒っていない、という意味を込めて首を振れば、彼はほっとしたように笑った。
「俺、そういう気遣いとかあんま得意じゃねえから、なんか失礼なこと言ったらごめん。先に謝っとく。ねえ」
「おいザック!」
「あ、やべ、雷様が」
「誰が雷様だ! マーサさんと呼べといつも言ってるだろう! 何油売ってんだ、さっさと仕事しろ! ……レイ、悪いね。こいつも根は悪いやつじゃないんだが、すぐにふらふらどっかにいっちまう。何か嫌なこと言われてないかい?」
「へえ、名前、レイっていうんだ」
「お前は黙っとれ」
こく、とマーサさんに頷いて見せる。むしろ、ともらった果物を指差して見せれば、マーサさんは苦笑した。
「ねえレイ、あんたいつまでここにいるの?」
ザックに問われ、私は首を傾げた。
正直、この後の予定は真っ白だ。何か仕事を見つけようと思っていたけれど、今のところ、その当てもない。
「いや、自分の予定くらいわかっとけって、俺と同い年くらいだろ? 綺麗な顔してるし、なんか動きも綺麗だし、旅芸人とかだったりするのか?」
首を振る。やはりすぐには馴染めないもので、私が普通の人ではないことは分かってしまうらしい。きっとそれもあって、彼は私に声をかけてくれたのだろう。
「じゃあ何だ? 家族は?」
「ザック」
嗜めるように、マーサさんが言った。その声音からある程度の事情を察したのか、ザックが口を閉じる。今までの弾けるような笑顔はすっと息を潜め、ばつの悪そうな顔をして頭をかいた。
「わりい」
「ちゃんと謝って」
謝罪などいらないと、首を振った。けれどザックは重ねて、ごめん、と謝る。
そうして、何とも言えない雰囲気が立ち込める。それを壊すように、ザックが言った。
「だったら、ここで雇ったら? マーサ……さん、ちょうど人手が欲しいって言ってたじゃんか。俺は野菜をおろしにきてるだけなんだから、こき使うのやめてくれよ」
「ザック、勝手に話を進めるんじゃない。レイだって困って」
両手を伸ばして、マーサさんの手を握った。心臓が、痛いほどになっていた。
水仕事で荒れた彼女の手は、触り心地がいいとは言えないけれど、温かかった。やや力を込めて握れば、彼女が首を傾げた。
「何、ここで働きたいのかい?」
こくり、と頷いた。
「本気かい? 悪いけど重労働だよ。お貴族様……あっ」
やはり素性はある程度察されていたらしい。もともとアイル様の婚約話を聞いて顔色を変えてしまったから、悟られているような気はしていた。
それでも大丈夫です、と頷いた。私はもともとあの家で、使用人のようなことをしていたのだから。仕事への耐性は、他の貴族令嬢に比べればある方だと思う。
もう一度大きく頷くと、マーサさんが笑った。
「本気みたいだね。いいよ、雇おうか。……そうだね、条件は」
私がこの宿の雑用係としてマーサさんのもとで働く代わりに、寝る場所や食事など、生活に必要なものは提供していただける。さすがに、客室は使わせてあげられないけど、とマーサさんは笑った。
私が自由にしていいお金もいただけると聞いて、胸が痛くなった。もともとそれは別で稼ぐ気でいたのだ。得体もしれない、使えるかもわからない元貴族の娘など、私だったら絶対に雇いはしない。マーサさんの優しさが、信じられなかった。
「それで、いいかい? 貧乏だから、あんまり贅沢な暮らしはさせてあげられないけど」
目を真っ直ぐに見て、微笑んだ。精一杯の感謝のつもりだった。
照れ臭そうなマーサさんが、そんなのいいよ、と笑う。
「その代わり、明日から死ぬ気で働いてもらうから覚悟しときなさいね」
よろしくお願いします、と微笑めば、マーサさんは満足げな表情をした。
「うん、レイはその方がいい」
そうして、私の宿屋での生活が始まった。




