第41話 レイ
「領主様のご子息様が、ご婚約されたんだとよ」
そんな言葉が耳に飛び込んできた瞬間、ふらりと、身体が揺れた。ぴたりと、足が止まる。
宿屋の前で、2人の女性が話していた。片方の女性は、その看板と同じ模様が刺繍された前かけを身につけているから、きっとこの宿屋の人なのだろう。
「へえ、さすがマーサ、よく知ってるね」
「宿屋は情報が集まるからね」
「前に候補の方がいらっしゃったって言ってたけども、そのお方?」
「なんでも、そのお方とは違うらしいわ」
「修羅場だね。お貴族様は大変だ。……ん?」
気がつけば、私の足は勝手にそちらへと歩き出していて。早足で、ふらふらと歩く私のことが気になったのだろう。
2人の女性から警戒するような瞳で見つめられて、私は慌てて首を振る。
「どうしたんだい?」
マーサ、という女性に問われ、私は今までそうしてきたように、指を口元に当てて首を振る。こうすると、大抵の人には伝わる。声を出すような動きを口元でしてみせると、彼女は納得がいったように頷いた。
「声が出せないってことね?」
こくり、と頷く。
「で、私らに何か用かい? と言っても、答えるのも難しいか。この宿屋に泊まりたい?」
首を振った。そうして、アイル様の屋敷、少し前まで私が住んでいた家を指さす。そうして、婚約の証として贈られることの多い指輪の位置に指を滑らせれば、彼女は理解したようだった。
「領主様の婚約者の話?」
頷いた私を見て、少しだけ意外そうな顔をしながら彼女が答える。
「私も良くは知らないけれど、ご婚約されたらしいよ。相手は、どこか高位の貴族の令嬢だとか。名前は、なんて言ったかな……」
私の表情を見た彼女が、苦笑する。
「それが知りたいってことかい?」
頷けば、彼女は思案するように顎先に手を当てた。しばらくそうしていたが、すぐに諦めたように手を下ろす。
「忘れちまったよ、ごめん。確か、イから始まってたような……いや待てよ、ベラとか、ベリーとか、そんな感じだったような」
嫌な予感が胸を焦がした。
自分の手のひらを彼女に見せるように差し出し、指を滑らせてゆっくりと文字をかく。彼女に読めるか不安だったけれど、宿屋を長年営む中で、簡単な日常会話くらいなら読めるようになったと、彼女は笑った。
イザベル?
その問いかけをどうにか読み取った彼女が、得心がいったように大きく頷いた。
「そうそう、確か、そんな名前だった。なんでも、すごい美人らしい」
ふらり、と足元が揺れた。
アイル様が、昔からイザベル様のことを好きだったなどとは思わない。あの時の彼の行動が、全て私と別れるための演技だったとは思いたくない。そう思い込まないくらいの愛を、彼は私に贈ってくれた。
けれど、私はこんなにも未練でいっぱいなのに。彼のことを思い出さないように、必死で日々を生きているのに。いつまでも、アルへの想いに囚われたままなのに。
彼はもう、新しい生活を始めている。
「……大丈夫かい? 顔色が」
いつかはそんな日が来ることは理解していた。彼は貴族で、跡継ぎを残す必要がある。アイル様がいつか、他の女性と結婚することになると、よくわかっていたつもりだった。
けれど、こんなに早く。
彼はあっさりと自分の気持ちに区切りをつけて、新しい道に足を踏み出している。
「ちょ、ちょっとあんた!」
いきなり頬を触られて、全身が跳ねた。
今までの生活では、それは不敬に当たる。いつだって無遠慮に触れられたことなどなかったから、文字通り飛び上がりかけてしまった。
私の反応に驚いたように、彼女が手を離す。
「すごい顔色だけど。足元もふらついてるし。ちゃんと食べてるのかい」
必死で頷くも、彼女の眉間の皺はなくならない。
「なんか訳ありかいな。まあいい、入りな」
「マーサ」
「また厄介ごとを抱え込むなって? 悪いね、こんな性分だからこんな歳まで格安の宿屋なんて割に合わない仕事やってるのよ」
強く、腕を掴まれた。そのまま、ぐいぐいと、宿屋の中に引きずられる。少し痛くはあったけれど、その距離感は、不快ではなかった。
そのまま、ぼうっとしている間に、気がつけば部屋に押し込められていた。これが着替え、これがタオル、食堂はここ、という怒涛の勢いの説明を聞きながら、私は座り込む。
絶え間のなかった話し声が、ぴたりと止んだ。
「あんたの素性は別に聞かないから、安心していい。代金もいらないよ」
でも、と首を振った。さすがに、泊めてもらって無料というわけにはいかない。
そう思ったけれど、彼女も譲ろうとしなかった。
「だってあたしが無理矢理連れてきたんだ。もしこれで代金を取ったら、詐欺もいいとこだよ」
折れる様子のない彼女に、できる限りの感謝を込めて微笑んだ。それでも足りず、ありがとうございます、と指先で綴る。
「いいって、そういうの。この宿屋には、そんなやつばっかりだから。ほんと、家計は火の車だよ。旦那も似たような性分してるから、人は増えていくばかりさ。まあ、気が向いた時に出てけばいいよ。ああ、言い忘れてたけど、あたしはマーサ。料理と値段の安さが売りの、小さな宿をやってるってところかな。あんた、名前は?」
早口で途切れのない話し方に若干面食らいながらも、私は指先を伸ばして床にすっと滑らせた。
年季は入っているが、綺麗に掃除されているらしく、指先は滑らかな表面を滑った。
レイ。
今まで使っていなかった前半を取ったのは、アイル様との決別の思いから。
手紙を出すのも、もうやめよう。婚約した時に、元婚約者候補から手紙が届くなんて、それこそ即座に修羅場になる。イザベル様が、それを許すとも思えない。
アイル様が、もう新しい生活を始めているのなら。私も、そうしよう。そうするしか、ないのだろう。
リア、はもういらない。私は今日から、レイになる。
「レイ……で合ってるかい?」
頷いた私を見て、マーサさんが大きな口を開けて笑った。もともと垂れていた優しげな目尻が、さらに垂れ下がる。
「よろしく、レイ。まずは、ご飯なんてどうだい?」
彼女を見上げて、頷いた。




