第40話 新しい生活
あの日から、もう何日経ったかは分からない。
身体を動かすのも億劫で、どうにか顔だけを動かして窓の外を見た。外は暗闇に沈んでいて、ここからでは何も見えない。
一度目が覚めてしまえば、どれだけ目を閉じていようと眠れはしない。意味もなく、天井の染みを見つめていた。そうしてまた昼間に急激な眠気に襲われて眠りにつき、夕方や深夜に目を覚ます。
少しずつ狂っていく生活に何かを言う人はもう、いなかった。
安さだけで選んだような宿だった。寝心地は良いとは言いがたい。
敷くものがあるだけでずっと贅沢なのに、アイル様の与えてくださる贅沢な暮らしに慣れ切っていた怠惰な身体はすぐに根をあげる。
ぎしぎしと痛む全身を無理に動かして、どうにか起き上がった。
あの後、これから生きていくのに十分を過ぎて余りある額のお金を侍女を通して渡された。固く断っても、私が叱られるので、と言って受け取ってもらえない。
けれど、流石に受け取れなかった。あんな別れ方をしてしまった後では。
ほんの少し、当面の生活に必要な額だけをいただいて、残りは私の部屋だった場所に置いてきた。馬車を借りるのもお金が勿体無くて、歩いてこの街にきた。近くに街があって助かった。
今回借りたお金。そして、私がアイル様の家で過ごしていたときに、私のために使ってくださったお金。
きっと私が一生かかっても稼げないような額なのだろうけれど、できる限り、返したかった。一生分の贅沢を、幸せをいただいたから、これから先の一生はそれを返すことに注ぐつもりだった。
けれど、身体は動かない。
少しずつ狂っていく生活。ベッドの上で、水と少しの食べ物だけで、ゆっくりと時間とお金を食いつぶしながら崩れ落ちていく日々。
やめなければ、とそう思うのに。
強く、美しく、誇り高く。
そういう風に、終わるつもりだった。
結果はどうだ。怒りに、怒りで返した。みっともなく泣いた。縋りはしなかったけれど、傷つけた。そして、ありがとう、と言えていない。あれだけ良くしてもらったのに、あの地獄から救い出してもらったのに、そのお礼さえ言えはしなかった。
やりたくなかったことを、全てやってきた。
もう、笑うしかない。自嘲的な笑みは、随分とこの顔に馴染んだ。
けれど、そろそろ終わりにしよう。
認める。私はまだ、アイル様への気持ちに別れを告げられていない。終われていない。だって、ありがとうと、そう一言言えていないのだから。
私の、私のためのわがままだということは分かっている。私が、自分の気持ちに決着をつけるために必要なのだ。
直接会ってしまったら、冷静さを保てる自信がなかった。手紙を書こうと思った。とはいえ、怪しい人間からの手紙がアルの手の元に届くかはわからないし、私からの手紙をアルが受け取ってくれるかも心配だった。
荷物を入れていた袋の中から、紙の束とペンを取り出した。これだけはどうしても必要で、高価なものと承知でいただいてきたのだ。
正解の判断だったとは思うけれど、やはり心は痛む。
そっと、紙に文字を綴る。きっと、これが最後になるだろう。悩みながら、最後の数文を書き上げる。
『――あの時伝えられなかったことだけ、書かせてください。今まで、お世話になりました。本当に、ありがとうございました。必ず、この恩は返します』
拙い、どこかで見たことがあるようなありきたりな手紙。
きちんとした形式を取るべきなのかもしれないと思っていても、上手いとは言えない文章なことはわかっていても、これ以上のものは思いつかないし、書き直すほどの紙もなかった。
丁寧に折って、そっと懐にしまう。
私の顔を知っていて、かつアイル様に無理矢理にでも渡してくれる人に直接、これを渡しに行くしかないだろう。そんな人は、1人しか思いつかなかった。
ルーカス様。彼の領地は、確かアイル様の隣だったはずだ。彼の屋敷の近くまで行って、待っていれば誰かには会えるだろう。その人に私の名前を伝えれば、きっとルーカス様は話を聞いてくださる。淡々として見えて、実はとても情に厚い人であることを、私は知っている。
これだけ、渡しにいこう。それで、終わりにする。仕事を見つけて、少しずつ、もらったものを返そう。
ゆっくりと立ち上がった。身体を伸ばして、扉を開ける。この宿を引き払って、道を聞かなければ。
やることは山積みで、悩んでいる暇などなかった。
背筋を伸ばして、私は宿を出た。
◇
そこから数日かけて、旅をした。
ミアに教えてもらった平民らしい振る舞いのおかげか、そこまで違和感を持たれることもなかったと思う。声が出ないことも、街では珍しくないのか、そういうものか、と受け入れられた。
どうにか身振り手振りで言いたいことを伝え、親切な人の荷馬車に乗せてもらったりしながら、少しずつ移動する。
かなりの時間とお金がかかってしまったから、着いたら向こうで何か仕事を見つけるべきだろう。得体の知れない人間を雇ってもらえるか不安だが、幸いなことにあの家で、一通りの家事と罵倒への耐性は身に付けている。苦労はするだろうが、どうにかやっていけるだろう。
必死で移動して、疲れ果てて崩れ落ちるように眠る。
やることは山積みだったけれど、あえて自分で積み上げている自覚はあった。忙しければ、何も考えずに済む。
空を見上げた。これであと少し歩けば、アイル様の家の領地だ。そこを抜ければ、ルーカス様の家。
本当はあまり通りたくなかったけれど、さすがというべきか公爵領はとても広く、回っていると時間がかかってしまう。アイル様は市井に出てくるような身分でもないし、きっと会うことはないと、通り抜けることにした。
素早く、目を伏せて歩く。街に入れば、突き刺すような日差しが少しだけ和らいで、私は小さく息をついた。
そして、小さな宿屋の前を通った時、私の耳は一つの声を捉える。
「……領主様のご子息様が、ご婚約されたんだとよ」
ふらり、と身体が揺れたのが分かった。




