第39話 終わりの終わり
「君を、俺から解放しにきたんだ」
日の落ちかかった部屋。灯りをつけるかどうか迷うような、明るいような、暗いような時間。結局つけなかった灯りのせいで、ぼんやりと薄闇に沈むようにして、アルは私の部屋に立っていた。
外から帰ってきて、扉を開けた姿勢で固まったまま、私は呆然とアルを見つめる。
その顔は、見ない間に、随分とやつれたように見えた。顔色は悪いし、その表情には生気がない。相変わらず艶々と輝いている美しい黒髪との対比が、目に痛かった。
それを押し隠すようにして、アルは微笑んでいた。
「このままだと、俺はリアを傷つけるだけだから。俺はね、リアがいればその他なんてどうでもいいなんて、心の底から思っている壊れた人間だから。本当に俺が君を壊してしまう前に、君を解放したいんだ」
彼の腰に挟まれている、紙を見つけた。
あの時、アルは、話し合おう、と言ったから。今なら、私の気持ちも聞いてもらえるかもしれない。
「……これが、俺の本心だから。いざその時が来たら、俺は自分がどうなるか分からない。もしかしたら、見苦しく君に縋りつくかもしれないし、また閉じ込めるかもしれない。でも、俺がなんと言おうと、リアは逃げていいよ。……幸せに、なっ」
中途半端に、アルの言葉が止まった。私が、彼の腰に手を伸ばしたからだろう。
アルは、ゆっくりとその紙を見つめていた。その唇が、強く引き結ばれた。少しの逡巡の後で、アルは、震える手で、私にそれを差し出した。同時に、私が愛用していたペンも渡される。
『……何から伝えれば良いのか、もう分からなくなってしまったのですが』
「うん」
久しぶりに書いた文字は、みっともなく震えていた。震えがとまらない手で、私はどうにか言葉を紡ぐ。
『私も、私はここにいるべきではないと思います。ですが』
最初の一文を紡いだ瞬間にその美しい顔を強張らせたアルを見て、急いで続きを書く。
『それは、アイル様のことが嫌いになったからではなく、閉じ込められているのが嫌だったからではなく、ましてやあの男性のことが好きだったからでもありません』
「……」
『私があの日外に出たのは、義母と義妹に会いにいくためでした。アイル様の隣に立つために、どうしても、声を取り戻したかったからです。でも、無理でした』
手が、大きく揺れた。
紙に突き刺してしまったペン先を引き抜き、できてしまったインク溜まりを避けるようにして、どうにか先を続ける。
『アイル様の婚約者候補となることを決めたときに、私は、私が何をしても至らなかったら身を引くとお伝えしました。私は、今がその時なのだと思います』
「……」
『私があの男性と話していたのは、決して浮気をしていたわけではありません。信じてください。私が身を引くのは、決してあの男性のためなどではないと、ずっと言いたかったのです。私は、今でも、あなたのことを』
愛しています。
そう書きかけた紙が、突然引き抜かれた。
「……知ってるよ。リアの気持ちなんて、分かってる。君と距離を置いている期間に、あいつのこと、調べたし直接話も聞いたから。俺と離れるために、あいつについていこうとしたんでしょ? 知ってるから大丈夫。だから、わざわざそういうこと言わないで。どうせいなくなるのに、そういうことしないでよ」
激情を堪えるように、手を握りしめたアルが、絞り出すようにして話す。
「俺のことをリアが愛してくれてたって、どうせ君はいなくなるんでしょ?」
静かに、頷いた。頷くしかなかった。
「だったら、もういいよ。いい加減、許して」
アルの手の中で、紙がぐしゃりとつぶれた。力の抜けた手からこぼれ落ちたそれが、アルの足の下に消える。
勢いよく紙を踏みつけたアルが、震える声で呟いた。
「お願い。君から俺を解放して。これ以上君を好きにさせないで。少しの希望も抱かせないで。君からそんなことをされたら、たとえ君が嫌がったって、また手放せなくなるから。……これだったらむしろ、嫌ってくれた方が良かった。お前なんて嫌いだって、顔を見るだけで吐き気がするって、そう言ってくれたらまだ離れられたかもしれないのに。もう黙って」
『……嫌いなんて、言えるわけありません』
「それでも、俺からは離れていくんでしょ?」
すっと細められたアルの瞳が、強い光を持って私を射抜く。そうしてアルは、叫ぶようにして、言葉を吐き出した。
「リアはずっとそうだったよね? 俺が好きだって、俺のそばにいるって言いながら、ずっと身を引くときのことを考えてた。結局どっちなの! いつもいつもそればかりで、リアは俺にどうして欲しいの?!」
叩き付けるようにして渡された紙に、言葉を返した。
『……ごめんなさい』
「謝られたいわけじゃない!」
『だったら、私に何をしてほしいんですか』
「……」
『私には、もうアルが何をしてほしいか分からないの! 私の意思なんて何も気にせず、私を閉じ込めたいの? それとも、私を閉じ込めるのが嫌だから私には出て行ってほしいの? 愛されたいの? それとも愛されたくないの? 愛してるって言われたいの? それとも嫌いって言われたいの? 黙っててほしいの? どれがアルにとっての幸せなのか、私にはもう分からない!』
怒気に、怒気で返した。
それが良くないと分かっていても、止まれはしない。
『アルは、私のことをどう思ってるの!?』
そう書き殴った瞬間に、アルの表情が凍りついた。
先程までの怒りが溶けるように消えた彼から、すっと表情が抜け落ちた。
「……愛してる。でもね、この感情がもう、愛なんて綺麗なものじゃないことは、俺も良く分かってるよ」
傷つけた。
私がアルの考えていることを理解しているとは思えないけれど、それだけは分かった。
『ごめんなさ』
「もう、終わりにしよう。お互いに傷つけあってるだけだよ、俺たち」
『……』
「さっきの問いに答えようか。俺はリアにここから出ていってほしい。それで、いい?」
滲みそうになる涙を、必死で堪えた。
『私も答えます。私は、アイル様から身を引きたいです』
強く、彼の拳が握られるのを見た。
そして、彼の低い声が終わりを告げる。
「意見が一致したみたいだね。……じゃあ、終わりにしよう。幸せになってね、リア」
堪えきれず、視界が揺らいだ。
滲む視界の中で、そっと文字を書く。
『アイル様も、お幸せに』
その紙をそっと持ち上げたアイル様は、そっとそれを折り畳むと、まるで壊れ物を扱うようにして持った。
ゆっくりと離れていく後ろ姿を見ながら、きっと彼に会うのはこれが最後なのだろう、と思った。
静かにドアがしまった音が、いつまでも耳の奥に残っていた。
ここで1度、二章は終わりとなります。1話だけ幕間を挟んだ後、三章を始めます。
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