第38話 定まった心
少しの間、離れる。
そう言ってアルが訪れなくなってから、どれだけの日が経っただろうか。
庭にある小さなテーブルセットでお茶を飲んでいた私は、そっと手元に視線を落とした。
私の手。実家にいた頃はいつだって埃で真っ黒で、アルの家にいた頃は所々インクが付いていることが多かった。勉強をしていると、どうしてもそうなる。
汚れひとつない真っ白な手を、小さなため息とともに見つめた。
アルが離れよう、と言ったのは、頭をを冷やすためだ。そしてそれが必要なのは、アルだけではない。私もだ。
私がどうしたいか。いい加減決めなければ、アルを苦しめるばかりだ。
私は、これまで通り、アルのそばにいたいのか。
アルの気持ちに答え、その隣で幸せを感じながらも、自らの至らなさに怯え、他人からの批判に耐えながら、アルに依存する日々を送るか。
私を愛してくれているアルの手を振り解いて、アルを傷つけて、アルの迷惑にならないために、私が私を誇って生きていけるように、身を引くか。
決められないまま、日々だけが過ぎてしまった。ふらふらと二つの間を彷徨う私のせいで、アルはあんなにも傷ついていた。
決めなければいけないのに。どれだけ考えても、答えを出せない。
気を紛らわすように、空を見上げた。閉じ込められていた部屋から初めて出た時、その青い空を見た。そうして、自分が想像以上に太陽を欲していたことを知った。
すう、と息を吸えば、森の匂いに満ちた涼やかな空気が流れ込んでくる。それを吐くのと同時に、そっと声を乗せようとした。
その瞬間、強い吐き気が込み上げる。全身に鳥肌が立った。喉に何かが詰まったような感触があって、大きく咳き込んだ。
強く、自分の身体を抱いた。目を閉じて、ただ流れる風だけを感じる。
身体の震えがおさまった頃、静かに目を開けた。
私は、身を引こう。
あれだけ悩んでいたのが嘘かのように、その結論はふっと心に落ち着いた。
強く、美しく、誇り高く。情けない姿を見せ続けてしまったけれど、アルには、昔、想いを通わせたことのある綺麗な女性がいたと覚えていてほしい。
きっと傷つけてしまうけれど。本当に、私の想像もできないくらいに、傷つけてしまうと思うけれど。
私がアルの隣に残ったところで、きっと私はアルを傷つけてしまう。私が自らの至らなさに震えていたら、自分のせいで私が傷ついていると、そう思ってアルは傷つく。アルはそういう人だ。彼は自分のためだと自嘲するだろうけど、本当に、優しい、人なのだ。
傷はいつか癒える。願わくば、苦しかった思い出ではなく、綺麗な私を記憶に残していてほしいから。
アルが来た時には、綺麗に別れを告げよう。
泣いたり、縋ったり、みっともなく執着したりすることなく。アルが嫌いになったわけではないときちんと伝えて、その上でお礼を言って、いつかあの地獄から救い出してくれた恩を返そう。
強く、美しく、誇り高く。
そっと心の中で呟いて、私は握った手を胸元に押し当てた。
アルがやってきたのは、それから数日が経った頃だった。
「……リア。君を、俺から解放しにきたんだ」
記憶にあるより随分とやつれた様子の彼は、今までのような優しい微笑みを浮かべて、そう言った。




