第36話 会いたかった
「リア。……ごめんね、会いたかった」
頭を撫でられる感触が、心地よかった。私も、と伸ばした手は空を切る。少しの混乱のあと、夢であることを悟って、小さくため息をついた。
アルに、愛していると伝える。
そう決めてから、数日が経っていた。だが私は、一度だって、アルの姿を見ていない。
ここは、公爵家の使用する別荘のようだった。
遠くにうっすらと見えた大きな教会のようなものは、屋根の形が特徴的だった。おそらく、グレンツベリー教会だろう。大体の位置から推測するに、アルに一緒に住まないかと提案された屋敷のようだった。連日の勉強のおかげで、この国の名所や地理は全て頭に入っている。それがこんな時に役に立つのも、皮肉な話だが。
私の部屋があっさりと用意できたのも、外側から鍵をかけることができたのも、それが理由らしい。
私がその鍵を見たのは、侍女が食事を運んできてくれた時だ。
ゆっくりと扉が開いた時に侍女の片手に握られていた鍵は、古めかしいデザインで、彼女の手に収まりきらないほどの大きさで。アルの執着の強さを見たような気持ちになったのを覚えている。
私の部屋に人が訪れるのは、侍女が食事を運びにくる時と、私が呼んだ時くらいだ。テーブルの上に置かれた小さなベルを鳴らすと、いつだって侍女はやってくる。
名前を聞くことはできないけれど、私が認識している限り、侍女は複数いる。窓の外を見ていると、彼女たちが庭の手入れをしている様子を見ることもあった。庭師はいないらしい。
ここでの生活は、一言で言うと、暇だった。
今までの生活が、勉強に社交に、とてつもなく忙しかったことは確かだ。けれど、そうだとしても、驚くほどにやることがなかった。
本棚にある本を読んで過ごしてはいるが、内容は頭に入ってこない。あれほど本を読むことが好きだったはずなのに、今更呑気に娯楽のために本を読む気にもなれず、目は文字の上を滑るばかり。
彼女たちが私たちの事情をどこまで知っているかは分からないけれど、言葉を交わす方法がない今、情報を引き出すことは不可能だった。
けれど、望みがないかと言われれば、そうではない。少しだけ、気になっていることがあった。
◇
ベッドの中で、規則正しい呼吸を心がける。頭は冴え渡っているけれど、それを悟られないように、全身の力を抜いた。全身全霊で、寝ているふりをする。初めての経験でうまくできているかは分からないけれど、試す価値はあった。
私が起きた時、何か、名残のようなものを感じることがあった。
それは、ほんの些細なことで。例えば、開いたままにしておいておいた本の位置が、少しだけいつもと違うような気がしたり。綺麗に揃えておいた本棚が、少しだけ乱れているような気がしたり。
侍女が掃除をしているのかとも思ったけれど、主人が寝ているところで埃の舞う掃除などするはずがない。それに、普段から、時折訪れた侍女は掃除をしていくのだ。
そんなほんの少しの違和感は、あえて前日にドアの近くに落としておいた髪の毛がなくなっていたことで、確信に変わった。
私が寝ているときに、この部屋に訪れている誰かがいる。
そしてそれは、きっとアルではないのか。そんな期待を、抱かずにはいられなかった。
ゆっくりと息を吸って、吐く。
うっかり寝てしまわないように、昼間に少し仮眠をとっておいた。それに、徹夜には慣れている。
どれくらいの時間が経ったかはわからない。とん、と階段を上がってくる足音を、私の耳は捉えた。その瞬間、心臓が跳ね上がり、鼓動は勢いを増す。
この家の構造がどうなっているかは知らないけれど、少なくともこの階で使われているのは私の部屋だけだ。階段を登る足音がするのは、侍女が私の部屋に来る時だけだから。
鍵を開けた、金属が擦れるような重い音がした。きぃ、と鈍い音を立てて、扉が開く。うっすらとあかりが差し込んできたのだろう、瞼の裏が、少しだけ明るくなった。
とん、とんと規則的な足音がこちらに近づいてくる。意識してゆっくりと呼吸をしながら、この激しい鼓動の音が伝わってしまわないことを願った。
足音が、止まった。
近くに、小さな息遣いを感じる。そして、温かい感触が、そっと頬に触れた。
するり、と私の頬をなぞり。ゆっくりと髪の隙間に手が入り込んできて、優しく髪を梳く。この感触には、覚えがあった。
勢いよく、目を開いた。
その瞬間に、視界にぼんやりと浮かび上がるのは、今誰よりも会いたい人の姿で。その久しく見ていなかった優しい微笑みに、表情が歪むのを抑えられなかった。
「リア……?」
恐る恐る、私の名を呼ぶアルの声が、泣きたいほどに嬉しかった。彼の方に手を伸ばして、ゆっくりと体を起こしかける。
それをしばし呆然と見守っていたアルに、初めて表情が宿った。私が見ても分かる。焼けつくような後悔と、悲しみを滲ませた顔だった。
くるりと、アルは背を向ける。その足が、弾かれたように動いた。ここを、出ていこうとしているのだろう。そう思った時には、私はもう、彼の手を掴んでいた。
「……」
驚いたような表情を隠さないまま、アルの目が掴まれた自分の手を捉える。そのまま視線がゆっくりと動いて、私の方を見つめた。
目があった。
そうして、しばらくの間、お互いに見つめあっていた。
たった数日。色々なことがあったとはいえ、アルの姿を見なくなってからまださほど日が経っていない。それなのに、恋しくてたまらなかった。顔が見れただけで、幸せだと思う。
「リア。勝手に押しかけてごめんね。……もう、来ないから。俺が悪かったから、離してくれないかな」
そうではない、という意味を込めて首を振る。けれど、その意味は正しく伝わらなかったようだった。困ったような表情で、アルが自分の手を見つめる。反対の手が、そっと私の手に重なった。人差し指に手をかけ、ゆっくりと持ち上げようとする彼の手に対抗して、必死で強く握りしめる。私程度の力なら、痛くもないはずだ。それに、少しくらい痛くても、今はアルを離さないことが重要だった。きっと今を逃したら、彼はもう、今度こそ、ここには来ないだろうから。
彼の腰を見ても、かつてのように紙は挟まっていなかった。言葉を伝える術を持たない私は、アルの腕を握りしめたまま、必死で首を振る。
行かないで、という必死の懇願は伝わったらしい。少しだけ戸惑ったような顔をしているが、彼は帰ろうとするのをやめてくれたようだった。
ゆっくりとこちらに向き直り、少しだけ首を傾げて私を見下ろす。
「どうしたの、リア。……ああ、答えられないんだよね」
俺がそうしてるんだから、と自嘲するように呟いたアルに、空いている片手を伸ばした。そのまま、彼の顔を引き寄せて、上半身を伸ばした。
何が起きているのか分からない、と言う表情を、息がかかりそうなほど近くで見た。
そうして私は、惚けたように開いている彼の唇に、私のそれを押し当てた。




