第34話 豹変
「……リア。ねえ、何やってんの?」
信じられない声に顔を上げれば、すっと目を細めるアルがいた。
泣きそうに笑ったアルが、私の腕を掴む。走った痛みに顔を顰めても、アルは気が付かないような顔で、強く、私の腕を握りしめている。
ふわりと、視界が揺らいだ。気がつけば彼に抱き上げられていた。
所謂、お姫様抱っこ。腕の中に捕らえた私を見て、アルはそっと私の頬に唇を落とす。放置される形になった彼が何かを言っているような声が聞こえたけれど、アルによって塞がれた耳は、言葉が聞き取れるほどに明確な音を拾わない。
そのまま、アルが向かった先は、小さな宿屋。受付で何事かを小声で話していたアルは、荒い足取りで、一つの部屋へと向かった。
扉を蹴るようにして開けて、私を粗末なベッドの上に投げ落とした。衝撃にぎゅ、と目を瞑り、開けた時には、もう、彼が私に覆い被さっていた。
「君が他の男のものになるくらいなら、無理矢理だって、君を俺のものにするから」
普段は透き通った光を放つ彼の青い瞳は、焦げ付くような熱量を持ってどろりと濁っているように見えた。ふ、と浮かべられた彼の笑みは、綺麗で、思わず見惚れてしまうほどに綺麗で、そして昏かった。
「もう迷わない。迷ってる暇なんてないって、よく分かったよ」
背中の柔らかい感触と、両手首を握られ、縫い止められる鈍い痛み。対照的なその感触に、眩暈がしそうだった。
「ねえ、リア。このまま君を抱けば、君は俺のものになる?」
私を腕の中に閉じ込めて、彼は微笑んだ。
うっそりと、濁った笑みを浮かべる彼が、怖かった。怖くてたまらなかった。そうなのに、そのはずなのに、狂おしいほどに、愛おしかった。
まって、と出そうとした声は出ない。仕方なく身を捩れば、より強く手首を握られた。彼の長い足が私の足に絡みついて動きを封じる。さらに、私の肩にかかっていた板を、アルの手が勢いよく奪い取った。
彼が何を考えているか、わからなかった。彼の気持ちが私にあるのか、彼は私にどうしてほしいのか。私には、もう、わからない。
「抵抗するよね。……ははっ、当然か」
私と恋人になったこと、私を家に連れてきたことを後悔しているのだと思っていた。彼の心は、少しずつ私から離れていっているのだと思っていた。同情と責任と、ほんの少しの恋情の欠片のような物が、私に向けられた感情の全てだと思っていた。
けれど。今、私をベットに縫い付けている彼は、酷く苦しそうな顔をしていた。
「でもね、そんなのどうでもいい。他の男に取られる前に、俺がリアをもらうから。抵抗しても、無駄だよ」
熱い吐息が、耳元で揺れる。注がれるのは、震えるほどの執着心。
「リア。……リア」
縋り付くように何度も私の名前を呼びながら、彼は噛み付くように私の口を塞いだ。
ふと、アルのベルトに差し込まれたままの紙が目に入った。いつでも私と話ができるように、彼はいつだってこれを持ち歩いていた。今も変わらないその習慣に、胸が苦しくなる。
手を伸ばして、彼のベルトからそれを抜き取った。だがすぐに、アルが私の手首を握りしめる。
「ごめんね、リア。君の言葉は聞きたくない。君に拒絶されるのは怖い。だって、拒絶されても、どれだけ抵抗されても、俺は君を離せない。分かってるでしょ?」
必死の抵抗も無駄で、私の手からはするりと紙が抜け落ちる。手に持ったそれを、アルはそっと目の前に掲げた。少しだけ首を傾けてじっと見つめていたけれど、すぐに、紙は彼の手の中で握りつぶされた。サイドテーブルの上に置かれていた燭台の皿に、投げるようにその紙が置かれた。
「前に言ったよね、俺はいつだって簡単に、君の言葉を奪える。あの時はそんなことしたくないって言ったけど、あれはリアが俺を想ってくれていたから言えたんだって、今よく分かったよ」
紙の残骸が、ぼわ、と火を吹いた。丸まって黒くなっていく紙を、呆然と見つめていた。
「君が俺を拒絶したって思ったら、何もかもどうでも良くなった。……リアの意志さえも」
ベルトに残っていた紙を、アルが引き抜いた。そのまま乱雑に丸め、ベッドの外へ放り捨てる。
「君は俺を優しいって言ってくれるけど、俺はね、もともと自分勝手な人間なんだ。……リア」
そっと耳元に口が寄せられた。彼の熱い吐息が、耳をくすぐる。
愛してる。
暴力的なまでの熱量の中で、するりと彼の手が腰の上を滑った。
嫌だった。こんな形で、彼と結ばれたくはなかった。
思わず、涙がこぼれ落ちた。
その瞬間、彼の体がびくりと震える。思い返せば、彼の前で泣いたことは、今までに数えるほどしかなかった。
震えている手で、恐る恐るといったように私の頬をなで、私の目尻に優しく口付けた彼は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「……ごめんね、リア。ごめん。謝って許されることじゃないけど。でも、俺は、君が、君のことが」
ふっと、冷たい風が体を撫でた。私から身を離した彼は俯いていて、決して私と目を合わせようとしない。
アル、と叫ぼうとした声は出ない。かは、と息の音が漏れていくばかり。震える身体は、私の意志では全く動こうとしなかった。
「……すきで、たまらなくて、おかしくなりそうなんだ」
ほとんど聞き取れないような声で呟き、そのままドアを壊すようにして出て行ってしまった彼を、私は呆然と見つめていた。
すぐにドアが閉められた。かちゃ、と外から鍵がかけられる音が、2回した。この部屋のドアの鍵が一つだけだということを、私は知っている。
閉じ込められた、と思っても、心は動かなかった。読み間違えた。私が悪い。私がアルの気持ちを履き違えた選択をして、彼を傷つけた。
きっと、彼の愛情は、どこか壊れている。
突きつけられたその事実は、嫌ではなかった。けれど、この先、どうすれば彼の気持ちが楽になるかわからなかった。既に取り返しのつかないほどの間違いを犯した私に、この先の正しい選択はわからない。
どうして、こうなってしまったのだろう。
間違えたのは分かったけれど、どうすれば良かったのかもわからない。
堪えきれなかった涙が頬を伝う感触を、まるで他人事のように感じていた。




