第32話 終わりの始まり
『お久しぶりです。ナターシャ様、ミーシャ様』
突然現れた私を、2人は呆然として見つめているようだった。その服は粗末なもので、髪も肌も手入れされていないことが窺える。少し、やつれているようでもあった。
いつの間にか逆転してしまった姿に、そっと目を伏せる。
「何? 笑いに来たの?」
『いえ。話をしにきました』
「話?」
小さく頷き、入っても良いかと聞く。渋々、といった様子で私を通した2人は、本気で困惑しているようだった。
見慣れていたはずの屋敷は、その姿を大きく変えていた。蜘蛛の巣がそこかしこにはり、壁も所々崩れかけている。美しく磨かれた床の中央で座っていたはずの2人は、壊れかけた木の椅子に身を投げ出していた。
「お前を見てると、惨めになるの! さっさと帰ってくれないかしら!?」
「……お母様を傷つけないで!」
庇うように、ミーシャ様が身を乗り出した。それだけで、勝手にびくりと身体が跳ねた。
心臓が早鐘を打ち始める。怖い、と確かに思った。
私は変わった。けれど、本質的な部分では何も変われてなどいなかったことが、ようやく分かった。
これでは、声が出ないままなのも当然だろう。私の中にある彼女たちへの恐怖は、まだ強く根を張っている。
「汚い! 醜い! 散々お前に言ってきた言葉は、もう言えないのよ!? 私が何をしたっていうの! ええ、何もしてないなんて嘘よ! でも、私は、私はっ!」
「お前のせいよ。お前のせいで全部おかしくなったの! お母様は私を愛してくれたのに! 最近ではお前への呪いの言葉ばっかりで! 私のことなんて、見てくれないっ……」
ミーシャ様の目から、涙が溢れた。
初めて、この異母妹の顔をきちんと見た気がした。
言っていることを間に受ける必要などない。
そう冷静に考える自分と、お前のせい、という罵倒に怯える自分がいるのを、どこか他人事のような気持ちで見ていた。
ぎゅ、と胸が締め付けられる心地がした。ナターシャ様の絶叫と、振り上げられる蜘蛛の巣の張った花瓶を見た。
「お前が!!」
動けなかった。恐怖に震えながら、ただ振り下ろされるそれを見ていた。
身体が言うことを聞かない。嫌な音が耳の奥で鳴っている。抵抗しなければ、今ならそれができる、と思うのに、何もできない。
強く目を閉じた。迫り来る衝撃に備えた。けれど、予期したそれは、いつまで経ってもやってこなかった。
恐る恐る、目を開ける。
ミアだった。
感情の抜け落ちたかのような無表情で、ミアがナターシャ様の手を握っていた。そのままふっとナターシャ様の手の力が抜け、花瓶ががしゃんと床に落ちて砕けた。
「帰りましょう」
そう言ったミアに引きずられるようにして、家を出た。
奇跡が起こるのではないか、なんて心のどこかで期待していた。私は自らの過去と向き合って、ついに声が出るようになる。初めてアルの名前を口にして、愛し合う2人は幸せな結末を、なんて。
そんな都合の良い、物語のようなことが起こるわけもない。
私はあの人たちが怖い。あの人たちを前にすると、何もできなくなる。
改めて突きつけられた現実に、諦めたような笑いが漏れた。
『ごめんなさい、ミア。少し、1人にしてほしい』
気がかりそうな目を向けながらも、私の気持ちを尊重して頷いてくれたミアと別れ、ゆっくりと街を歩く。
「あの、これ、落としましたよ」
突然声をかけられ、私は文字通り飛び上がった。差し出されたハンカチは繊細なレースに縁取られていて、内側には赤い薔薇が刺繍されている。全く心当たりはなかった。私ではありません、という意味を込めて首を振ったにも関わらず、彼はすっと距離を詰めてきて、私の隣に並んだ。
自然と歩くペースが落ちて、道の隅に立ち止まるような形になる。
「あれ。確かに君のだと思ったんだけど」
これは、あれだ。
街の男性が、一夜の相手を求めて女性に声をかけるという。自分がそういう対象になったのがおかしくて、乾いた笑いが漏れた。
けれど、よく見れば、彼は平民ではないようだった。自分が散々平民のふりをしていたから分かる。彼の動きや言葉遣いからは抑えきれない高貴さが溢れていた。きっと、どこか高位の貴族のお忍びなのだろう。手に持ったハンカチから、ふわりと、可憐な香りがした。どこかで嗅いだことがあるような気がするが、思い出せない。もしかしたら、一度どこかで会ったことがあるかもしれない。
『すみません。婚約者がおりますので』
こちらが平民ではないことも向こうはわかっているだろう。今は隠してもいない。お互いに貴族なのだから、遠慮する必要はない。
「そう? 俺が君の婚約者だったら、可愛い女性を1人でこんな時間に出歩かせたりしないけど」
『……』
くるりとあたりを見渡せば、今にも飛び出しそうな形相のミアと目があった。想像通り、流石に完全に私から目を離してはいなかったようだ。目で、今にも乱入しそうなミアを制す。彼の身分がわからない以上、下手に刺激しない方が良い。
「もしかして、婚約者さんとうまくいっていない?」
そう聞いた瞬間に思わず揺れてしまった瞳を、彼は見逃してはくれなかった。
「どう、俺のところに来ない? こう見えても俺はそれなりにお金持ちだから、君に好きなことをさせてあげられるよ」
『……』
「たまに、俺を慰めてくれれば十分。あとは君のための別荘で、ゆっくり暮らせばいい。社交とか、する必要ないから。俺、君がすっかり気に入ってしまって」
そう言い切った彼は、にこにこと人の良い笑いを浮かべながら、私を見つめる。
「信じられない? そりゃそうだよね、見知らぬ男にこんなこと言われて、ほいほいついていく方がどうかしてる」
でもね。
「俺なら、君の婚約者から匿ってあげられるよ」
『……』
「逃げてきたんでしょ? 君、所々汚れてるし。隣国につてもあるから、君が望むなら、逃がしてあげる。どう? 嫌いな婚約者から離れて、悠々自適な生活とか、やってみたくない? 証拠なら、そうだな……これでどう?」
差し出されたのは、紋章だった。叩き込んだ記憶の中のリストと一致させ、目の前の彼の名前と身分を知る。とある侯爵家の次男で、女遊びが激しいと有名な男だったはずだ。社交の場にはほとんど顔を出さないから、私とは面識がなかった。
怪しい。明らかに怪しげな誘いに、普段の私だったら絶対に乗ろうとは思わなかっただろう。
やめた方がいい、という冷静な声が聞こえていても、気がつけば、私は酔ったようになって、彼に手を伸ばしていた。
これで、アルに迷惑をかけなくて済むかもしれない。
私の声は出ない。あの時に宣言した通り、私は身を引く。それが、私なりの彼への誠意だ。
そっと、揺れる心を覆い隠して微笑む。彼が目を細めて、満足げな表情を浮かべた。そのまま歩き出そうとして、私はぴたりと足を止めた。
信じられない声を、聞いた気がした。
「……リア。ねえ、何やってんの?」




