第31話 もう少しだけ
「……リア! リア!!」
目が覚めたら、アルがいた。
そんな幸せな夢があっていいのだろうか、と思ってすぐに、夢でないと気づく。イザベル様と2人で話している姿を見たあの日から、きちんとアルと顔を合わせるのは久しぶりだった。
もう、アル、という呼び方もやめた方が良いのだろう。今思えば、これもずっと、甘えだった。
「リア!? よかった……」
ほっと息をついた彼を、真っ直ぐに見られなかった。
『アイル様。ご心配をおかけしてしまい、すみませんでした』
「リ、ア……?」
精一杯、微笑んだ。体調の悪さも、彼に悟られる訳にはいかない。ここまででも、散々迷惑をかけてしまっているのだ。せめて、これ以上彼を煩わせたくはなかった。
突然、アルが立ち上がった。くるりと後ろを向いてしまった彼の表情は、私には見えない。ぼそり、と呟くように、彼が零した。
「……ごめん。君を俺の屋敷になんて、連れてこなければ良かった」
すう、と血の気が引いた。
「こんなことになるなんて分かっていたら、俺は君を連れてきたりなんてしなかったのに」
淡々と紡がれるその言葉に、悟った。
彼は、私を連れてきたことを後悔している。当然だ、私は、彼に散々迷惑をかけてしまったのだから。彼がたとえイザベル様を想っていたって、他の誰かを想ったって、拾った責任を取って、私をここに置いておかなければいけないのだから。
当然の事実を突きつけられて、心が冷える。
ここが限界だろう。もう、無理だ。離れたくないなどとわがままを言える時期は、終わった。
後ろを向く彼の服の裾を引っ張って、紙を見せる。
『もう、ここが限界だと思います。……別れましょう』
アルの目が、大きく見開かれた。その表情が、歪む。
泣き出しそうな、叫び出しそうな。そして、ゆらりと濁った感情を灯した、暗い笑みの混ざった。
酷く歪な表情のまま、彼は囁く。
「ごめん、リア。いくら君の望みでも、それだけはできない」
ふ、とアルが笑った。そのまま懐から取り出した小さな瓶を自分の口元に当てて、一気に傾ける。
そのまま、唇が重なった。つんとした匂いが、鼻の奥を駆け抜ける。口の中に流れ込んでくる液体に戸惑っている間に、アルが私の鼻を塞ぐ。
我慢できず、喉の奥に冷たい液体が流れ込んだ。それを確認して、アルの目がふっと細められる。
「ごめんね」
急激な眠気に耐え切れず、遠くなっていく意識の中で聞いたのは、今にも泣き出しそうな、アルの声だった。
◇
ミアの顔が、視界いっぱいに広がっていた。その後ろに広がる光景は見慣れたもので、すぐに自室にいることを悟った。
驚いてびくりと身を引けば、すぐにミアが離れる。その口から、思わず、と言ったように言葉がこぼれ落ちた。
「よ、かった……」
堪え切れず、ミアに抱きついた。温かい体温が、無性に嬉しかった。
涙を流してしがみつく私を、ミアはそっと抱きしめてくれた。
しばらくそうしていると、溢れ出す涙は少しずつ収まってきた。どことなく気恥ずかしいような思いでミアから離れると、彼女の心配げな眼差しが注がれる。気がついた時には、全てを話していた。
聞いてしまったアルの言葉。
親密そうな様子のイザベル様。
アルとの会話。何か薬を盛られたこと。
全てを根気強く聞いてくれたミアに、振り絞るように言う。
『私はアルに想いを告げた時、言ったの。もし私があなたの迷惑になるのなら、その時は私は身を引くと。今、私は迷惑にしかなっていない。頑張ったところで、声を出せなければ何も変わらない。もう、決めたの。だらだらと彼の優しさに依存することは、したくない。これ以上彼に甘えて、内心私に困りながらも優しくするアイル様の姿を見るくらいなら、私は身を引く』
「……それは違うと思いますが。レイリア様は、それで良いのですか?」
ミアが、ふっと笑った。
「私、あの方大っ嫌いだったんです。大切なレイリア様を傷つけるって分かっていたから。今だってレイリア様はこうして傷ついて、泣かれて……正直、殺したいくらい腹が立っていますけど。でも、ずっとお二人の姿を見ていて思いました。本当にレイリア様を幸せにできるのは、きっと、アイル様しかいないんでしょう。認めます。こんなの、認めざるを得ません。お二人のご婚約を、私は応援しています」
『……』
「迷惑をかけたくない気持ちは分かります。私だって、文字通り人生を賭けたような恋をしましたし。……それでも、私はアイル様の邪魔になると言って、身を引いて、レイリア様はそれで良いのですか?」
『……嫌よ。嫌! 私だって、アルの隣にいたい。アルが他の女性と一緒にいるところなんて、見たくない! でも』
「だったら、しがみつけば良いんじゃないですか」
ミアが立ち上がって、窓を開けた。温かい空気が、部屋に流れ込んでくる。
「他の誰が認めなくても、私はアイル様に相応しいんだって、思っていましょうよ。少なくとも私は、レイリア様にアイル様は勿体無いと思っていますし」
『私がそう思うためには、声を出せるようにならないと』
「そうでしたら、練習しましょう。努力しましょう。何年かかろうと、私はいつだって、レイリア様の味方です」
『……ありがとう、ミア』
ふ、と笑ったミアが、窓を背に、こちらを振り返った。
「それに。レイリア様は、本当に、アイル様とイザベル様がそういう仲だと思っているのですか?」
『……分からない』
「あの方に限って、それはないと思います。この私が驚くほど、あの方はレイリア様を愛してますよ。本当は言ってはいけないのかもしれないですが、私、アイル様にレイリア様をこの部屋から出さないように、と厳命されてここにいますから。別れようとしたレイリア様を繋ぎ止めるのに必死なのだと思います」
『そう、なのかしら』
「はい。それはもう」
『……ありがとう』
おかげで、目が覚めた。
アルの隣にいたい。それは私の紛れもない本音で、そのための努力を放り出すにはまだ早い。
彼の気持ちが、どこにあるのかは分からないままだ。けれど、彼がまだ、私をこの家に置こうと思ってくれているのなら。私に対して、欠片でも恋情と名のつくものが残っているのなら。まだ縋り付く余地があるのなら、私は足掻きたい。
『ミア、行きたいところがあるのだけど』
「お供いたします、どこへだって。……抜け出すなんて、なんだか懐かしいですね」
顔を見合わせて、微笑む。久しぶりに、息をした気がした。
◇
『お久しぶりです。……ナターシャ様、ミーシャ様』
懐かしい家の前で、私は真っ直ぐに前を見ていた。




