第29話 濁った感情 sideアル
静かに眠る、誰よりも愛しい人の頬を、そっと撫でた。
緩やかに寝息を立て始めた彼女にほっとする。その無防備な顔を久しぶりに見たような気がして、胸が締め付けられた。
こんなにも。こんなにも、好きなのだ。
覚悟を持って俺に嫁いでくれるなら。俺はもう、迷わない。
それは本音だった。本音のつもりだった。だが、時折不安で仕方がなくなる。
本当に、リアは俺でよかったのだろうか。
寝息を立てる彼女の目元は、隠し切れない隈でうっすらと染まっている。こんなにもすぐに寝入ってしまうくらい、彼女は疲れていたのだ。部屋を見れば、テーブルの上はもちろん、床の上まで大小様々な本やメモに埋め尽くされている。
分かっている。リアは、俺のために頑張ってくれている。
けれど、微笑みかけられたときに、背筋が冷えた。
精一杯笑おうと口角だけを上げた、今にも崩れてしまいそうな笑顔。無理矢理作ったようなそれが、頭から離れない。
扉の向こうから、話し声が聞こえた。
どうやらこちらに向かってきているようだ。寝ているリアを起こしたくなくて、外に出ようと扉を開ける。きっと、俺に用事だろう。
俺が扉を開けようとしたのと、外から扉が叩かれたのが、ほぼ同時だった。
「いっ!」
聞こえてきた呻き声に、顔を顰める。聞き覚えのあるその声がうるさくて、俺は口元に伸ばした指先を当てる。
部屋を覗き込んだルーカスが、悟ったように、悪い、と呟いた。
◇
「それで、相変わらずひどい顔だなアイル」
「……俺なんか、リアに比べれば全然元気だよ」
「やはり、そうか」
溜め息をついたルーカスが、額に手を当てる。
「正直、そんな気がしていたから心配になって見にきた。レイリア嬢もだが、レイリア嬢の不調はそのままお前にも反映されるからな」
「もしかして、心配してくれてる?」
「まあ、一応」
珍しく素直なルーカスに、驚く。誰がお前なんて、と言われると思っていたのだが。
「……ありがと」
「やけに素直だな」
「そっちこそ」
「言うべきかどうか、正直ここにくるまで迷っていたんだが。……お前は、レイリア嬢のこと、聞いてるか?」
「社交界でのこと?」
分かっていた。想像していたことだった。
俺が婚約者にと望む女性が、社交界でどんな目に遭うか。リアは、本当に頑張ってくれているが、まだまだ未熟なところはある。そして、声を出せないということは、大きい。認めたくはないが、それは俺にとっても、彼女にとっても紛れもない事実だ。その事実が真っ直ぐな彼女を苦しめるということは、分かっていた。
「ああ」
「……俺のせいだ」
無言で続きを促すルーカスに、言うつもりのなかった弱音がこぼれ落ちる。
「俺が、俺のわがままでこんなところに連れてきたから。リアが苦しむと確信した上で、俺の婚約者にと願ったから」
「お前のせいかもな。だが、レイリア嬢も覚悟の上だったはずだ」
「そうだよ。それも分かってる。それでも、不安になる。俺がいつか、彼女を壊すんじゃないかって。いっそ、俺が家を捨てて2人で逃げればよかった」
「レイリア嬢はそんなこと望まないだろう」
「さすが、リアのことよく分かってるね」
なんとか笑っても、ルーカスの表情は変わらない。
「怖いんだ。俺が、俺のせいで、リアを苦しめるのが。頑張ってるリアを見るたびに、嬉しいけれど、罪悪感で吐きそうになる。リアがこんなに辛い思いをして俺のために頑張ってくれているのに、俺はのうのうと生きているだけで」
「それは」
「別に否定しなくていい。事実でしょう? それでね、一番怖いのは、俺が一番怖いことが『リアが傷つくこと』じゃないってことだよ」
「……」
「俺が怖いのはね、こんな生活嫌だって、俺からリアが離れていくことだ。お前となんか結婚したくないって、リアに拒絶されることが。お前のことはもう好きじゃないって、現実を突きつけられることが。俺は、一番怖い」
そうだ。ここまできても、俺は自分勝手に、彼女を愛している。
「リアが、俺の前で笑わなくなった。暗い気持ちを無理矢理笑顔で取り繕ったみたいな表情しか、向けてくれなくなった。出会った時は、信じられないくらい可愛い顔で、ふわって笑ってたのに。俺は」
俺は。
「……昔の彼女が、好きだったんだ」
そんな大好きな彼女を。心から愛している彼女を、笑えないような状況に押し込んだのは、俺だ。
「本当に、好きなんだ。好きで好きで、おかしくなりそうなんだよ。だから、彼女が、俺から離れていきそうなのが、怖い。大切に甘やかして、可愛がって、それでも彼女を繋ぎ止められないなら、俺はもうどうして良いかわからない」
どろどろと濁ったこの感情を。願わくば、彼女に向けることがないように。
「アイル様!!」
突然の侵入者に、眉を顰めてそちらを見る。非常識にも程がある。
「何」
精一杯不機嫌さを押し隠した声は、けれど思っていたより冷たく響く。
「お客様がいらしています。イザベル・バーンズ様とおっしゃっていました」
「そう、早いね。分かった、ごめんルーカス」
「……ああ」
やや急いだ足取りで、玄関ホールに向かった。
金糸のような美しい髪を靡かせる彼女に、声をかける。




