第28話 離れていく
「彼の隣に立つ令嬢は、私で、ありたかった……」
そんな慟哭が、耳から離れなかった。
分かっている。きっとイザベル様はエイミー様の婚約者のように、アルを欲しがっているだけだ。けれど、そう思いたいだけなのかもしれない。
それくらいに、彼女の言葉には真実味があって。そして、彼女の言葉のいくつかは、間違いなく、真実だった。
私は、アルに相応しくない。
そんなこと、前から分かっていた。
それなのに、何が、こんなに悲しいのだろう。こんなに悔しいのだろう。
ベッドからこっそりと抜け出して、気づかれないように灯りをつけた。ふわり、と暗闇の中に浮かび上がった歴史書の細かい文字を、目を凝らすようにして追う。
もっと、彼に相応しくなりたい。隣に立つ令嬢は私でありたい。負けてなど、いられない。傷ついている時間はないのだ。
ふらり、と身体がかしいだ。押し寄せる眠気を押しのけるようにして、私は文字を追う。けれど、目は滑るばかり。
「声が出せないなんて」
その言葉が、ずっと引っかかっていた。
アルは、甘えさせてくれた。声が出せないままの私を大切にして、声が出せなくなった過去を労ってくれた。けれど、ここが、限界なのだろう。
本を閉じた。倒れることがないように、灯りを消して、ベッドに上がる。
目を閉じて、息を吸った。そうして、声を――。
「声を出したりしたら、どんな目に合うか分かっているのでしょうね?」
痛い。熱い、苦しい。息ができない。匂いがした。物が、焦げる匂い。痛い、嫌、怖い――。
不快感に口元を抑える。身体中が燃えているように熱い。それでも私は、彼の隣に立ちたい。口を開けて、声を絞り出そうとする。
視界が白く染まった。何も見えない。痛い。嫌。溢れた涙が、頬を伝う。嫌な汗で、全身がぐっしょりと濡れているのがわかる。
アル。
嫌だ、怖い。
「――っ!」
大きく、息をついた。
ぐるぐると視界が回る。目を閉じても、嫌な浮遊感は消えないまま。まるで全力で走った後のように、鼓動が激しく響いていた。荒い私の息だけが、静まり返った寝室に響く。
結局、声は出なかった。
今日は。今日はできなかっただけだ。
少しずつ練習を重ねて、少しずつ慣れていけば、きっと声を出せるようになる。そうなれば、彼の隣に、少しでも近づける気がする。
まだ、心は折れていない。私はまだ、頑張れる。
濡れたシーツの感触が気持ち悪くて、小さく寝返りを打った。ふうっと、意識が沈んでいく。だがすぐに、飛び起きた。先程蘇った熱さが、まだこの身を焼いている気がする。ただの夢だと分かっていても、恐怖心はなかなか消えていかない。
結局一睡もしないまま、次の朝になった。
◇
「リア? 大丈夫?」
かけられた声に、我に返った。すみません、と答えれば、アルが眉を寄せてこちらを覗き込む。その表情に、一瞬暗い影が差した。だがすぐに、心配そうな表情がその顔を覆う。
「顔色が悪いけど。体調が悪いなら、今日はお開きに」
『すみません、大丈夫です』
そう言って微笑みかけるも、うまく表情が動かない。精一杯の微笑みを作れば、アルが怒ったような表情をした。そのまま、アルの手が私の身体に回った。
身体を持ち上げられ、慌ててその身体にしがみつく。
「……休んだほうが良い。忙しいのに、無理して会いたいなんて言ってごめん。リア、軽すぎる。最近、あまり食欲もないって聞いてるし」
不甲斐なかった。
声を出すための練習は、初めて挑戦したあの日から全く進んでいない。声を出そうと思うと、あの日のことが思い出されて、何もできなくなってしまうのだ。その後も夢に見て、ほとんど眠れないまま飛び起きるだけ。自然と、食欲も減っていた。隈や顔色の悪さを、無理矢理お化粧で覆い隠す日々。
そして、私を大切にしてくれているアルにまで、こんな顔をさせている。私がアルにできることは、こうして休みの日に一緒にお茶をして、話を聞くことくらいなのに。それさえもままならない。
「ごめん、リア。無理させて」
違う。私が、不甲斐ないせいだ。
彼のために努力するなど大声で言っておきながら、結局恐怖に蹲ることしかできない私が。必死で首を振るも、アルの表情は晴れないまま。
やはり、少しでも早く、声を出せるようにならなくては。まだ、努力はできる。まだやれることはあるはずだ。決意を固めて、私は彼に捕まる腕に力を込める。
自室に運び込まれ、気がつけばそっとベッドに降ろされていた。
「俺がいると落ち着かない? それなら、離れるけど。できれば、ここにいさせて欲しい」
落ちつかない、わけではない。アルのことは大好きで、その温かさは心地良い。
そのはずなのに、最近は苦しいのだ。私が彼に迷惑をかけている、彼を悩ませているという事実が、きりきりと心を締め付けてくるから。
認めたくない事実が、彼に申し訳なくて。罪悪感で、泣きそうになってしまう。
「そうだよね、ごめん。……ゆっくり休んで」
何も答えられない私に、アルが笑った。気にしてないよ、と言って笑うその顔が、どうしようもなく感情を押し殺しているときのアルの顔だと、私は知っている。
彼を止めようと手をのばした時には、もう届かない位置にいた。振り返ったアルが、私の手を見て苦笑する。
「いいんだよ。気にしないで」
ゆっくりと戻ってきたアルが、そっと私の頬に手を添えた。その細い指が、目元をなぞる。
そっと、口付けが降ってきた。驚いて一瞬見開いた目を、慌てて閉じる。優しい手が、私の伸びてきた髪を梳く。
「リア、おやすみ」
その声を聞きながら、久しぶりに、緩やかな眠りに落ちていくのが分かった。




