第2話 アル、と呼んで
「向かい、座っても?」
二度と聞くことがないと思っていた声に声をかけられ、私は驚いて顔を跳ね上げた。
目の前に広がるのは、やはり整ったあの時の彼の顔。驚かずにはいられなかったが、私もあの時のように席を手で示す。少しだけ微笑みかければ、彼は小さく目を見開いた後、それは嬉しそうに微笑んだ。
だが、その表情も、すぐに訝しげなものに変わる。
それもそうだ。室内にも関わらず、首まですっぽりと覆う形の帽子を被っている私は、事情を知らなければ奇妙に見えることだろう。
あの日の後、私の髪の毛を見たミアは泣いた。思わず、と言った様子で、その見開かれた目からぽろりと涙が溢れた。
その優しさに、どうしようもない嬉しさを感じながらミアを慰めていたら、彼女は急に立ち上がった。
真っ赤になった目で必死に鼻を啜りながら、決意したように挨拶もそこそこにどこかへと出かけていった彼女が帰ってきた時には、その手にこの帽子が握られていた。
「レイリア様は、図書館に行くべきです! あんな風に幸せそうなお顔をしているレイリア様が、私は、大好きなので!」
そう言って押し付けられた帽子を、私は震える手で受け取った。大切に部屋に隠した。部屋の暗闇を少しだけ残念に思うようになった。
そうして帽子を被っている私は、どうやら目立っているようだった。
訝しげに細められていた彼の目がふっと和らぎ、その唇が開く。
「失礼、ご令嬢。その、帽子を外し忘れてはいない?」
どう答えていいか分からず、ふるふると首を振れば、困惑したように眉が顰められた。それも当然だが。
仕方がない。腰にかけていた、小さな板を取り出した。表面に薄く蝋が貼ってあって、金属のペンで削って文字を書く作りになっている。ペンの反対側についている平らな部分で削れば、何度でも書き直せるようになっていた。平民や商人の間でよく使われているもので、ミアが手に入れてきてくれたのだ。
それが珍しいのか、彼が私の手元をずっと見つめている。少しだけ落ち着かなかった。
正直、上手いとは言い難い文字だが、読めなくはないだろう。
『私は声が出せません』
その文字をゆっくりと追った彼の目が、こぼれ落ちそうなほどに大きく見開かれた。
板と私の顔を、彼の青い瞳が行き来する。どうにもくすぐったくて、私は顔を伏せた。
それを勘違いしたのだろう、彼が慌てて言葉を紡ぐ。
「それは……ごめん。嫌な思いをさせてしまって」
『いえ。お気になさらないでください』
なんとも言えない沈黙。彼はすぐにここを離れるだろう。居づらいこの場所に、長く留まる物好きはいないはずだ。それも慣れたもので、今更どうも思わない。
今までにもあったことだ。こうして読書をしていると、時折男性から声をかけられることがある。その大部分は、一緒に食事でも、という誘いだったが、私が事情を説明すると、急用を思い出した、とか何とか言っていなくなる。ミアに聞くと、レイリア様は美しいので当然です、なんて食い気味に言われるけれど、きっとここではたまにしか見ない顔の私が珍しいだけだろう。
だが、予想に反して彼は動こうとしなかった。それどころか、少し迷うようにしながらも更に言葉を重ねる。
「もし貴女に迷惑でなければ、もう少し話がしたいんだけど。どうかな?」
『構いません』
私が文字を書く時間は、彼はただ黙って待っているしかない。それが申し訳なくて、できるだけ早く書こうと思ったのだが、あまりにもそっけなかっただろうか。
『嬉しいです』
迷いながらも付け足せば、彼は嬉しそうに笑った。その笑顔が妙に眩しくて、そんな笑顔が自分に向けられていることがどうにも信じがたくて、私は思わず目を伏せる。
「名前を聞いても? 君のように綺麗な人の名前を知らないというのは、自分でも信じられないことなんだけど」
綺麗。
聞きなれない褒め言葉に、居た堪れなくなる。貴族の男性は、こうして息をするように女性を褒めるのが普通なのだろうか。
『リア、と呼んでください』
です、ではなく呼んでください。
あえてそう書いた意味を、彼は理解してくれただろうか。
まさかないとは思うが、ここで本名を名乗って万が一にでもあの人たちの耳に入ったら、痛めつけられる所の騒ぎではないだろう。警戒しておくに越したことはない。そして私も、彼に素性を知られたくはない。
ほんの少しだけ残念そうに顰められた彼の表情を見るに、どうやらその意味は想定通りに伝わったようだった。
つまり、貴方に名乗るつもりはない、という意味。
「ありがとう、リア。俺は……そうだね、アル、とでも呼んでもらおうかな」
『わかりました。……アル』
綴りはこれで? と端に小さく書いて確認すれば、彼ーーアルは満足げに微笑んだ。
「もしよければ、気軽に、普通に話しかけてほしい」
そう言って微笑んだ彼の視線はとろけるようで、貴族の男性の恐ろしさを知る。
もし私が社交界に出たら、あっという間に食い物にされそうだ。まあ絶対にありえないことなのだが。少しだけ熱を持った頬を冷ますように、私は小さく頷く。
『頑張りますが、少し、自信がありません』
「ゆっくり、慣れていけばいいよ」
私が綴る文字をゆっくりと見つめている彼の髪が、きらりと光を反射した。
よく手入れされていることが一目でわかる艶。まとっている衣服も、シンプルなデザインでありながら上質なものであることが窺える。
私とは、住む世界が違う人なのだとよく分かる。深入りするつもりはない。ここに来た時に、ほんの少し話すだけだ。それだけの関係に留めるから、だから。
もう少しだけ、この人と話していたいと思った。
「リアは、よくここに?」
『いえ、時折です。月に2、3回ほど』
「そう、次に来る日は決めている?」
『特には……。時間ができれば、という感じなので」
我が家主催のパーティーは突発的に開かれることがほとんどだ。大抵、ミーシャ様の気分で。
そのせいで使用人のほとんどが家を空けざるを得ないほどの忙しさになるのだから、私としてはありがたい話なのだが。
「それは残念。また会いたかったのだけれど」
『ありがとうございます』
それからは、少しだけたわいのない話をした。この季節はこの食べ物が美味しいだとか、この図書館の火の日にいる司書さんがとても怖いだとか。
誰かと話すのは、久しぶりだった。どうしてもそっけない話し方になってしまう私を、彼は優しい笑顔で受け止めてくれる。普通の人として接して、語りかけてくれる。
それが嬉しくて、ふっと微笑みかけてみる。我ながら、随分と和らいだ表情になっている自覚はあった。
「っ君は」
私が慌てて立ち上がった椅子の音と、彼が口を開くのは同時だった。
気がつけばもう日は傾いていて、今からすぐにでも帰らないといけない時刻だというのが分かる。思わず立ち上がってしまったが、あまりにも失礼だった。慌てて詫びようとペンに手を伸ばせば、彼は軽く手を振って必要ないと笑う。
「何か急ぎなんだろう? 俺が片付けておくから、リアは帰って」
でも、と言おうと思ったが、すでに彼は私の読んでいた本を手に取っていた。ふっと軽く笑った彼が、私に手を振った。
「じゃあ、リア。また今度」
そう言った彼に感謝が伝わるように、少しだけ視線を合わせて微笑む。そのまま慌てて帰宅する私に、私の読んでいた本を大切そうに確認する彼の様子が見えることもなく。
「……結構、わかりやすく口説いてるつもりなんだけど」
そう呟いた彼の声が聞こえることもない。