第24話 ミリア・エイブリー
「レイリア様。いらっしゃい」
そう言ってふわりと笑ったイザベル様の前に、少しだけ緊張しながら腰掛けた。すっと微笑んで膝の上に淡く桃色に色付いた指先を揃える仕草は、やはり信じられないほどに綺麗で。
彼女が自ら選んだという花の模様が施された茶器は、上品で質の良いものだった。
『お久しぶりです、イザベル様。本日は、お招きいただきありがとうございます』
そう書いて微笑めば、イザベル様は相好を崩した。
「レイリア様、なんだか素敵に笑われるようになりましたね。心を許してもらってると思って良いかしら」
『はい。お会いできたことが嬉しくて』
淑女の中の淑女と謳われる彼女は、仕草から表情まで何もかもが綺麗で、お手本のようだった。勉強相手として、これ以上相応しい方はいないように思う。
けれど、今日の本題はそれではなかった。
ミア。いつも通りに振る舞ってはいるけれど、少しだけ余裕がない様子の彼女が気がかりで仕方がなかった。
私は、アルに寄り添ってもらえた。救われた。
あれから、少しだけ息がしやすくなったように思う。声を出さなければならない、と言った私に対し、アルは肯定も否定もしなかった。
「リアのペースでいいよ」
そう囁いて微笑んだアルの表情が、泣きたいほどに嬉しかった。
それが甘えだとは理解している。けれど、アルには少しだけ、甘えられるようになった。甘えるのは必ずしも、絶対の罪ではないと知った。私が甘えると、アルが喜んでくれるということも理解した。だから今は、少しだけ、アルに甘えている。
そして今度は、私がミアに寄り添いたかった。たとえあの話が真実だったとしても、ミアには何か事情があったと信じたいと思っている。話を聞くことくらいしかできないけれど、それだけでもしたかった。私はミアに、数え切れないほどの恩があるから。
ミアが、エイミー様に嫌がらせをしたという信じられない話の真相を、ある程度仲の深まってきた今日こそ、イザベル様に訪ねたかった。
しばらくは、何気ない話が続いた。最近イザベル様が気に入っているというお茶のこと、社交界の噂話。心を許して何もかも話すというわけにはいかないけれど、楽しい時間ではある。
そして、噂話の隙間に、なんてことのないように切り出した。
『最近、ルーカス様にお会いしたのです。素敵な方で、驚きました』
「ルーカス様に?」
そう言った瞬間、彼女の表情が強張る。さりげない日常会話のつもりだったが、不自然だっただろうか。だがすぐに、イザベル様は警戒するような表情を解いた。
「素敵な方だったでしょう? とても優しくしてくださいますし」
『はい! イザベル様も、仲がよろしいんですか?」
そう聞いたのは、失敗だったか。
すっと細められた彼女の目に、今までの温かい光はなかった。
「……もしかして、あのことを、ルーカス様からお聞きしたんですか?」
すっと肝が冷えた。質問するような形をとっているが、イザベル様の目には強い光が浮かんでいる。きっと、彼女は私が例の一件を知っていることを確信しているのだろう。
『……はい。探るような真似をして、申し訳ございませんでした』
「いえ、怒ってはいません。本当ですわ。でも、あれは私にとっても、悲しい出来事で……つい、神経質になってしまいますの。ごめんなさいね」
ふ、と目を伏せた彼女は、すぐに言葉を続ける。
「気になられているのでしょう? 社交界では有名な話ですし、きっとレイリア様も知っていた方が良いことですわ。聞いてくださる?」
『もちろんです。辛い出来事を思い出させてしまい、すみません』
そう言えば、彼女はふっと微笑んだ。そのまま、遠くを見るように視線を投げる。
「私とエイミー様とミリア様は、本当に仲が良かったのです。私は彼女たちが大好きでした。パーティーに出る時もいつだって一緒でした。……エイミー様の婚約者の方がご出席なさった時以外は、ですが。彼の名誉のために今は名前は伏せておきますが、エイミー様は本当に彼を愛していらっしゃいました。彼のことを語るエイミー様は、頬を染めていて本当に可愛らしくて。私も、憧れていました。いつかあんな風に、想う方が私にも欲しいな、と」
脱線してしまいましたね、と言って小さく微笑むイザベル様。
「ですが……彼が来ると、私たちはいつだってばらばらになってしまいました。ミリア様が、彼を慕っていらっしゃったからです。エスコートされて歩くエイミー様を見ながら、ミリア様は、恐ろしい目をしていました。そうですね、例えるならば……刺し殺しそうな目、とでもいうのでしょうか」
そこまで言って、イザベル様は胸元を押さえた。ふう、と息をついたその目に、悲しそうな色が宿る。
「ことの顛末はレイリア様もご存知でしょうから、先に言わせてくださいませ。私は今でも、ミリア様が大好きなのです。彼女のしたことは私にとっても許せないことですが、それでも、私は、ミリア様が――」
そう言ってイザベル様は言葉を途切れさせた。だがすぐに、意を決したように言葉を続ける。
「しばらくは、何もなかったのですが。ある時、エイミー様への嫌がらせが始まったのです。会場に現れたエイミー様のドレスが汚れていたり、髪の毛が乱れていたり……嫌がらせ、といって差し支えないものだったと思います。今思えば、その時すぐにお父様へ相談すればよかったのですが……同年代の中で起こったことですから、私やエイミー様が解決しなければいけない問題だと思ってしまって。よくある、という言い方は不謹慎かもしれませんが、よくある嫌がらせだと思っていたのです。それが、そうでないと気がついた時には、もう手遅れの状態になっていました」
かたん、とカップが倒れる音がした。驚いて見下ろせば、イザベル様のカップが倒れている。そこから溢れでた紅茶が、ゆっくりと、純白のテーブルクロスを染め上げていた。
「これを頭から被ったエイミー様のお気持ちを想像すると、私は――」
震える彼女の指先を、ただ見つめることしかできなかった。
「こうして、頭から紅茶をかけられたり。噴水に突き落とされたり。カップの中に虫を入れられたり。私はそれらをやったのがミリア様だと分かっていても、何もできませんでした。ミリア様を説得しようとしました。待って、と。あなたがやっていることは、エイミー様を本当に傷つけている、と。けれど彼女は聞く耳を持っていませんでした。けれど私は、大切な友人を犯人として突き出す気にも、なれなかったのです。その弱さが、最悪の事態を招いてしまいました」
するり、と彼女の手が濡れたテーブルクロスをなぞった。その桃色の唇が動き、言葉を紡ぐ。
「馬車の中で襲われたエイミー様に、私はあれ以来会っていません。領地で療養されていると聞いていますが、今どのような状態なのか、何も知らないのです」
鈴の音のような彼女の声が、揺れた。
「かけられた紅茶が、次第に冷えていく感触。ずぶ濡れになって、ドレスが身体に張り付く不快感。カップの中で大きな蜘蛛が蠢いた時の、嫌悪感。そして、馬車の中で見知らぬ男に押さえ込まれた時の恐怖――。どれも私には想像することしかできませんが、想像するだけで、耐えられない心地になります」
『……イザベル様は、どうしてそれらの最低な行いをミリア様がやったとお思いなのでしょう?』
真っ直ぐに彼女を見つめて、私は問いかける。




