第23話 慟哭
私の父と母は政略結婚だった。
父が母を愛さなかった理由として、そのこともあったのだろうけれど、本当は、父には他に想う人がいたからだろうと私は思っている。父も母も亡くなった今となっては、もう分からない話だけれど。
父に愛された記憶はない。私の記憶の中の父はいつだって、母に冷たい視線を送っていた。そして、その子供である私にも、父としての体温を与えてはくれなかった。
私が男だったら、また話は違っていたのだろう。もともと後継ぎを望んだ結婚で、後継ぎとして相応しい子供が生まれていたら。もしかしたら母は、今も生きていたのかもしれない、なんて夢のようなことも思っている。
それとは反対に、母は私を愛した。父に望めない分私を愛そうと、母なりに頑張ってくれていたのだと思う。いつだって静かに父に付き従っていた母は、私のこととなったときだけ父に意見をしていた。夜中の怒鳴り声や悲鳴は、今でも夢に見ることがある。
話が逸れてしまった。
母が死んだ。私がデビュタント前の子供だけのお茶会に参加するようになってから、しばらくしての頃だったと思う。
そうしてやってきた新しい母は、綺麗な人だった。1人の、娘を連れていた。
表向きは父の子供ではないとされている娘は、父と同じ、緑色の瞳をしていた。彼女――ミーシャ様が、私の、腹違いの妹だと知ったのは、いつごろだっただろうか。
そうして、新しい母は、私を嫌った。
しつけという名の隠れた虐待が始まったのは、父が家に帰ってくる時間が遅くなり始めた頃だった。
外で女でも作っているのだろう、と噂されていた父は、やはり私に無関心なままだった。かろうじてミーシャ様を可愛がっているところは見たことがあったが、それも数度だけだ。きっと、情が薄い人だったのだろう。
彼女に何をされたかは、正直なところあまり思い出したくないし、思い出したところで仕方のないことだ。ただ一つ忘れられないのは、
『声を出すな、と。繰り返し言われました』
その頃から既に、ナターシャ様は壊れかけていたのだと思う。
父が留守の頃を狙って行われていたそれは、次第に父のもとで隠れて行われるようになった。あえて父の部屋の隣を選び、私を押さえつけて嫌がる私を黙らせた。
『声を出すな。声を出したら、もっと酷い目に遭わせるぞ、と。何度言われたかは、もう思い出せません』
そんな日々が続いた。父が留守の時にも、言われるようになった。繰り返し繰り返し注がれる呪いは、いつしか私の声として聞こえるようになった。
声を出してはいけない。
それはナターシャ様にかけられた呪いであり、私自身が私にかけた戒めであるようにも思う。
『ある朝、目が覚めたら、私の声は出なくなっていました』
ほっとした。そう、ほっとしたのだ。
これで、声を漏らす恐怖に怯えなくて済む。気を抜けば漏れてしまいそうになる悲鳴を、必死で押し殺す必要はなくなる。
あの時確かに私は、歓喜した。
『それ以来、私は話していません。話そうとしても、声が出なくなりました。でも――』
その先は、書けなかった。アルに抱きしめられた勢いで、私の手から離れたペンが床に落ちて乾いた音を立てた。けれどその音は、アルの、強い鼓動の音で、微かにしか聞こえなかった。
アルの身体は、震えていた。熱い身体で、しがみつくように私を抱きしめた彼の顔が埋められた肩口が、温かく濡れた。
アル、と言いたくても、私はその術を持たない。
背中にそっと手を伸ばした。少しだけ迷って、その柔らかい黒髪に指を埋めた。
「ごめん。俺が傷つくとか、そういう場面じゃないのに。ごめん」
震えたままの声で、アルが呟いた。
「本当は、辛かったねって、泣いていいよって、言ってあげたかった。俺から見たリアはいつだって強くて、やるべきことだけを見据えていて、真っ直ぐ前に上げた視線を逸らさなくて。それは公爵夫人に必要な素質だし、大切ですごいことだけど、俺の前では、俺の前だけでは辛いって言っていいよって、そう言いにきたはずだったのに」
ごめん。もう一度囁いたアルに、力一杯抱きついた。
彼女たちが憎いか、と言われれば憎い。彼女たちにされたことは今でも忘れられないし、本当に苦しくて辛かった。逃げ出したくて叫びたくて、でもその術すら奪われて、いつしか私は考えることをやめていた。
父が亡くなってから、その嫌がらせは、さらに酷くなった。当時は、一応私を娘として認識はしていた父の監視がなくなったからだと思っていたが、今はそうは思っていない。
今なら分かる。きっとナターシャ様は、狂おしいほどに父を愛していたのだと思う。父と他の女が作った子供が許せないほどに、父を愛していたのだ。
そして、ナターシャ様は、父に自分を見て欲しかったのだと思う。父に見つかるぎりぎりで行われた行動は、私を見て、という歪んだ意思表示だったのだろう。
だからといって、彼女を許す気にはなれない。私には罪はないと思っている。
それでも、彼女を責め、怒りのままに傷つけても良い言い訳さえ失った私は、自らの過去を悲しむことすら、失っていたのだと思う。今はそれどころではないと、過去を思ったところで何も変わらないと、前だけを向こうとしていた。
「……っ」
身体が震えた。波のようなものが身体のうちから込み上げて、気づけば涙が溢れていた。
それでも、私は。どうしようもなく、辛くて、悲しくて、苦しかったのだ。
アルにしがみついて、泣いた。こんな時にも声は出なくて、空気が通るような、ひきつれたような乾いた音がするばかり。
涙が溢れて止まらなかった。間違いなく、今までで一番泣いた。これ以上ないくらい泣いているのに、アルの手にそっと背中を撫でられて、その勢いは増した。
アルの肩口に顔を埋めて、アルの匂いに包まれながら、私は泣き続けた。
どれくらいの時間が経ったかは分からない。ようやく収まってきた涙に、少しの気恥ずかしさを堪えて、私はゆるりと顔を上げる。
その青い瞳が、真っ直ぐに私だけを捉えた。
私の背中にまわされていたアルの手がゆっくりと動き、そっと私の顎を包む。
静かに、目を閉じた。
唇に触れる柔らかい熱を、ただ感じていた。




