第22話 過去からの手
「ええ。言うべきかどうか迷っていましたが、この際はっきりと言わせていただきます。声が出せないままに公爵夫人を務めるのは、不可能ですわ」
私の教育係を務めてくださっているマリル先生は、私から目を逸らさないままに言い切った。
普段のおっとりとした雰囲気は影をひそめ、その目には真剣な光が宿っている。アルが私につけてくれた彼女は、とても優秀な人で、普段から真摯に私の教育に向き合ってくれていた。その彼女がここまで言うのだから、やはりそれは紛れもない真実なのだろう。
「社交はどうにか筆談で済ませたとしても、ダンスがあります。無言でダンスを踊るのは、お相手の方に非常に失礼です。向こうが事情を理解してくださる方だったら良いですが、そうもいかない方も多いでしょう」
私は、声が出せるようにならなくてはいけないか。
内心怯えながら聞いた質問の答えは、あまりにも予想通りで、覚悟していたにも関わらず、気持ちは沈む。心のどこかで期待していたのだろう。あなたはそのままでよいと肯定してくれることを、浅ましくも、期待した。
『そうですよね。ありがとうございます。すみません、言い辛いことを』
「こちらこそ、申し訳ありません。ですが、レイリア様を責めるような意図はありませんので、それだけはご理解ください」
『ありがとうございます。分かっています』
彼女なりに、私に向き合ってくれている。公爵夫人になりたいという私の願いに応えようと、考えてくれている。それがよく分かっているからこそ、不甲斐ない自分が悔しかった。
教育に充てられた時間も終わり、帰ってきた部屋。アルの隣のこの部屋は、私1人が暮らすにしてはあまりにも広く豪華だったけれど、これにも慣れた方が良いのだろう。
分かっている。このままではいけないことは、よく分かっているのだ。いつまでも、アルに甘え続けているわけにはいかない。
すう、と息を吸った。
声を出す、という感覚を、私はよく覚えていない。けれど、私の身体に本来備わっているはずの機能は、私が覚えていなくても、私の身体を動かした。
ほんのりと、口が開く。口の中で、風のようなものができかけて、
声を出すな。
頭の中で響く声。声のかけらのようなものが、解けて消える。強烈な胃の不快感に、思わず口元を押さえた。ふらりとよろめいた身体が壁に当たって、嫌な音を響かせる。そのまま壁を伝って、ずるずると座り込んだ。
肩で息をする。一度訪れた恐怖心は、なかなか抜けていかない。じー、という嫌な音が、いつまでも頭に残っているような気がした。
「……ア、リア!?」
扉越しに聞こえる声に、我に帰った。アルの声だ。焦ったような声に、不安が募る。何かあったのだろうか。壁に手をついてゆっくり立ち上がると、扉を開けた。
「リア! よかった……」
ため息を吐くようにそう言ったアルは、髪の毛がやや乱れていて、服装も簡素なものだった。ちょうど帰って来て、部屋で着替えたばかりだったのだろう。隣にいたことは、知らなかった。
「隣で何か倒れるような音がしたから、心配になって」
『すみません。……うっかり、物を落としてしまって』
「リア。ちょっと入ってもいいかな?」
いつになく真剣な顔の彼に気圧されながら、部屋に通す。そのただならぬ雰囲気に、ようやく落ち着いた鼓動が再び激しく打ち始めるのが分かった。
小さなソファに、並んで座って。ミアにお願いして簡単なお茶を出してもらい、アルの意向ですぐに下がってもらった。もちろん、部屋の扉は少し開けたままだ。2人きりになりたい、というのはいつも通りの言葉だけれど、その含む色合いはいつもと違うような気がする。
ゆっくりとお茶を口元に運んだアルが、口を開いた。
「あのさ、リア。気づいてないかもしれないけど、今、ものすごく顔色が悪いよ」
『……』
「ただの体調不良ならゆっくり休んで、で良いんだけど。もちろん、心配はするけどね。でも、今日、マリル先生からリアの質問について聞いた」
どう答えて良いか分からずに、手元に視線を落とす。まさか、アルにまで伝わっているとは思ってもいなかったのだ。
「彼女も、彼女なりに悩んで心配してたから。俺に相談した彼女を、責めないであげてね。……リアが聞かないでほしいって言うなら、聞かないけど。俺も、何も知らないままだと怖いんだ」
俯いた私の顔を、アルが持ち上げる。顎先に指がかかったまま、吐息が混ざりそうなほどの距離で、アルが私を見つめる。
「俺に、聞かせてくれないかな。いざ何かあった時に、何も知りませんでした、なんて俺は言いたくない。俺のわがままかもしれないけど、リアの力になりたい。俺のせいで無理をさせてしまってるんだから、せめて俺が支えたい。嫌だったら言わなくても良いけど、でも、お願い」
そう言うアルに、隠しておくのは無理だと悟った。
もともと、アルに隠し続けるわけにはいかないと分かっていたのだ。それでも話さなかったのは、その機会が掴めなかったからと、怖かったから。優しいアルは、私の話を聞いたらどれだけ傷つくだろう。そして、どんな行動を取るだろう。それが分からなかったから、怖かった。でも。
『気持ちの良い話ではないですが、聞いていただけますか』
覚悟を決めてそう言えば、アルはほっとしたように身を引いた。
「もちろん。リア、ありがとう」
お礼を言われるようなことではない。ゆるゆると首を振って、私は重い手を持ち上げて言葉を綴る。
『――あれは、私の母が亡くなった頃だったと思います』




