第18話 激昂
「ルーカス!!」
何事かを叫びながら、勢いのままにミアにつかみかかりそうになるルーカス様を、アルがぎりぎりのところで止める。
目の前で止まったルーカス様の拳を見つめながら、ミアがよろり、と一歩下がった。その顔色は、今にも倒れてしまいそうなほどに、悪い。
「離せアイル! 俺はこいつを!」
全力で暴れるルーカス様と、それを必死で押さえつけるアル。どうにか、と言った様子で、アルが叫ぶ。
「ミア嬢! とりあえずここを離れて!」
だが、その言葉を受けても、ミアは動こうとしなかった。いや、きっと動けないのだろう。小刻みに震える身体を抱きしめるようにして、ミアはその場に立っていた。
事情は分からない。どうしてこうなっているのか、私には知りようがない。だが、震えるミアを、見たことがない表情で凍りつくミアを、放っておくことなど出来はしなかった。
ミアの手を無理矢理掴んで、引きずる。その身体は思いの外軽く動き、ゆらりとミアの上半身がかしいだ。慌てて支えれば、その表情に少しだけ色が戻る。
どうにか、と言った様子で足を動かしたミアにほっとしながら、ミアがきた使用人用の入り口の扉を開けた。普段は私が入って良い場所ではないはずだが、今は緊急事態だ。仕方がない。
「お前の、お前のせいで!」
扉が閉まる瞬間に聞こえたのは、ルーカス様の喉を潰されたような絶叫だった。
それを聞いた瞬間にぴたりと動きを止めたミアを、引きずるようにして奥に連れて行く。最初は私にされるがままだったミアも、少しずつ進むにつれて、自分の意思で歩くようになった。
そうして、ただ無言で、廊下を歩く。一つの扉の前に着いた時、ミアが口を開いた。
「レイリア様。申し訳ありませんでした。もう大丈夫です」
でも、と反論しようにも、板は先ほどの場所に置いてきてしまった。ここには書くものがない。ミアは常に携帯しているはずだが、それを私に差し出そうとはしなかった。
首を振っても、ミアは大丈夫だというばかり。この先には使用人仲間もおりますので、と言えば、反論する術を持たない私は黙るしかなかった。
何も言えない私を取り残したまま、ミアは扉の向こうへ消えていく。明らかな拒絶に、これ以上追う勇気は湧いてこなかった。
くるりと踵を返し、ミアと歩いてきた通路を辿る。行きはかなり長く感じられたそれは、こうして1人で歩いてみるとそこまで長くはなかった。
もう一度入り口を抜け、先ほどまでお茶をしていた場所にたどり着けば、そこには誰もいない。ただ、カップに抑えられた一枚の紙が揺れるばかり。
「ごめん、リア。ちょっとルーカスの頭を冷やさせてくるから、ここを離れる。今日はお開きにさせて。この埋め合わせはいつか必ずするから」
私に残されたのは、それだけ。
ミアとルーカス様は、初対面のはずなのに。尋常でない反応から、きっと2人は会ったことがある。そして控えめに言っても、友好的な関係ではなさそうだった。ルーカス様とは少し言葉を交わしただけだが、アルの友人でもあるし、きっと良い人なのだろう。そんな彼を、あそこまで激昂させるほどの何が、ミアにあったのか。
ミアの、過去。なぜ彼女がうちの近くに倒れていたのか。
近々向き合わざるを得ないであろうそれが、少しだけ、恐ろしかった。
◇
「レイリア様、こちらを」
そう言って差し出されたお茶を、小さく頷いて受け取る。さりげなさを装ってミアを見上げるが、その表情にいつもと変わったところはない。
あの事件から数日。お互いに教育や公務で忙しく、アルとは落ち着いて話ができていない。そしてミアの態度は、あの時の動揺がまるで嘘だったかのように、変わらなかった。
顔色ひとつ、いつもと変わらない。その、揺るぎなさが。まるで、毎日心を殺して前を向いていたあの時の私のようで。心配げな視線を送っても、ミアは視線を合わそうとしない。
ミアが、心配だった。だが、彼女の瞳に宿るのは拒絶だ。私に知られたくないとミアが思っていることをあえて聞く勇気も出ないまま、ただ月日ばかりが流れていく。
そっと、手元の本に目を落とした。
これはこの国の貴族に関わる歴史書で、今は各名門貴族について頭に入れているところだ。これを読み込み、そして今の貴族について顔と名前を一致させたら、いよいよ社交界に出ることになる。
私は、社交界では身体が弱いということになっていたらしい。アルとも相談した結果、虐待の事実に関しては伏せることになった。というのも、前代未聞のことで、貴族たちがどのような反応をするか予想ができなかったからだ。もともと好奇の視線で見られることは確定しているのだから、余計な情報をこちらから提供する必要もない。
病で家にこもっていた私が、調子が良い時に息抜きで出かけていた図書館で、アルと出会ったという筋書きだった。アルの元に来てからお披露目までに時間がかかったのは、病が落ち着くのを待っていたからということになっている。
「レイリア様!」
再び本の世界に沈み込んでいた私に、切羽詰まったようなミアの声がかけられた。ミアがそんな声を出すのは珍しく、驚いて顔を上げた。目線で続きを促せば、ミアが続ける。
「……ディア様がいらっしゃったとのことです。レイリア様にお会いしたいと」
ディア。つい最近聞いたはずの姓を記憶の中から探す。その音と、綺麗なヘーゼルの瞳が重なった時、その名前を思い出した。
ルーカス様だ。
慌ててミアを見上げれば、その表情は変わっていない、ように見える。伊達に長年一緒にいるわけではない。その表情が、ほんの少しだけ強張っていることを、私は正しく見抜いた。
『お会いするわ。けれど、ミアは来ないで』
「……分かりました」
そういうミアが、何を思って私の言葉を受けたのかは分からない。だが、ミアはその決定について何もいうことなく、他の使用人に声をかけに歩いて行った。
そうして少し経ったころ。あの日の庭の一角に、私はルーカス様と向かい合って腰掛けていた。
「突然押しかけて申し訳ない。非常識だと分かってはいたんだが、アイルには知られたくなくて」
そう口火を切ったルーカス様の表情は、落ち着いているように見えた。
『いえ、こちらこそお待たせしてしまいすみませんでした。何か、御用でしょうか』
「君の侍女について、聞かせてほしい」
予想通りの要件に、私は彼に気づかれないように、小さく唾を飲み込んだ。




