第1話 灰色の毎日
「すみません。向かい、座っても?」
緩やかな午後の日差しが差し込む王立図書館。
手元の文字を追うことに集中していた私は、突然かけられた声にびくりと身体を跳ねさせた。
私を見下ろす彼の顔立ちは逆光になっていてうまく見えないけれど、かなり整っているであろうことが分かる。透き通るような青い瞳が印象的だった。柔らかく湛えられている微笑みから、彼が私の事情を知らないことは容易に推測できた。
私は小さく頷いて、目の前の席を軽く手で示す。失礼だと不快に思われたとしても、こればかりは仕方がない。少しでも嫌な印象を減らそうと、少しだけ微笑みかけた。
ありがとう、と笑って向かいに座った彼が私に話しかけてくることはない。その艶やかな黒髪が、光を柔らかく反射していた。
穏やかに、ページをめくる音だけが響く時間。少しだけ引き伸ばされたような、温かく緩やかな時間が、私は好きだった。
気がつけば、日が傾いていて。そろそろ帰らないといけない時間だと、椅子を引いて立ち上がる。その気配に顔を上げた彼に小さく会釈をして、私はその場を離れた。
お互いに名乗ることも、長い言葉を交わすこともなく。だがそれが、私レイリア・ウォーナー伯爵令嬢と、その恋人アイル・マグリーク公爵令息の出会いだった。
◇
図書館を出て、人気のない道に入れば、私の姿を認めて目の前の小さな扉が開いた。促されるままその中に入り、あらためて私を呼んだ人と対峙する。
がらんとした家の中、いつもありがとう、という意味を込めて微笑めば、私が唯一信頼を置いている侍女、ミアは嬉しそうに笑った。
「おかえりなさいませ、レイリア様。時間があまりないので、少し急いでくださいますか?」
そうして差し出された古い衣服を急いで手に取り、私はミアに手伝ってもらいながら着替える。
今まで着ていたそこそこ上質なワンピースから、汚れた平民の服へ。いつのまにかミアも同じように着替えていた。
そうして私はこっそりと、誰にも私だと悟られないように、私の家――ウォーナー伯爵家の所有する王都のはずれの家へと帰る。もちろん、徒歩で。
血の繋がらない母と妹が帰ってくるまでにはもう一度着替えて帰り、夕食の支度をしなければならない。数週間に一度だけの、溶けるように幸せな時間はもう終わりだ。
大きな布を頭から被り、背筋を曲げて、大股で忙しげに歩く。昼間に比べれば和らいでいるとはいえ、日差しは容赦なく身体を焦がす。平民のような歩き方も、随分と板についてしまった。
昔は一歩歩くたびに、ミアから駄目出しを受けていたというのに。いくら使用人のような扱いを受けていたとしても、平民ではないことは分かってしまうものらしい。
誕生日に買ってもらったドレスを纏い、従姉妹の令嬢たちと身内だけのお茶会の練習のようなものをして。髪を引っ詰めた、少しだけ怖い女教師から、様々な教育を受けて。私の人生で一番輝いていた幸せな記憶を、捨ててしまえたらどんなに楽だろう。生まれた時からこのような扱いを受けていたら、こんなものだと何も思わずにいられただろうか。
一歩一歩、足を動かす。抜け出していることが知られたら大変なことになるのはわかりきっているから、私は急いで、ただ歩くしかないのだ。
家の近くの小さな家に再び入り、用意しておいたワンピースに着替える。これは義母に渡されたいつのものかも分からない裾のほつれたものだが、これが私のいつもの服装だった。床の埃を身体や髪に擦り付け、身体を清めた痕跡を隠す。身体を這い上がってくる小さな蜘蛛に、2人で飛び上がった。普段は元気なミアも、この時ばかりは私と一緒に逃げる。ミアは、蜘蛛が大の苦手なのだ。
家の後ろに回ると、ミアが用意してくれた小さな梯子を使って裏門を乗り越えた。裏門という名こそついているが、私の記憶にある限りこの門が使われたことはない。あの人たちが汚らわしいと蔑む、貧しい人達の住む平民街に通じているからだ。だがそのお陰で、こうして誰に見咎められることもなく家に入れる。塀ではなく門だから、私でもかろうじて乗り越えることができた。
防犯上どうなのかと思わなくもないが、そもそもこの門の存在はほとんどの人の記憶から消えているようだった。蔦が這い、苔むした門はもはや壁と区別がつかない。
がらんとした屋敷に入る。今、家には使用人はミアしか残っていないから、私は本当に1人だった。
下ろしていた髪をまとめ、手早く料理の支度を始める。確か、今日のパーティーのメニューは軽いものが多かったはずだ。それなりに食べ応えのあるものを作った方が良いだろう。
今日は捨てられずに済むだろうか、と独りごちる。
気に入らないものを出すと、彼女たちはあっさりと捨てる。ひどい時には、私に向かって投げる。
別に彼女たちに食べてほしい訳ではないけれど、自分が時間をかけて作ったものを粗末に扱われるのは不快な感情を呼び起こした。だが、そんなことにいちいち気を回すのは疲れる。あの人達は、私の感情が揺れるのを見て楽しんでいるのだ。わざわざ、娯楽を提供する必要はない。
きぃ、と門が軋む音がした。石畳を馬車の車輪が擦る独特の音と、少し乱れた馬の足音もする。彼女たちが帰ってきたのだろう。
私は強く目を閉じて、いつもの私を呼び起こす。強く、美しく、誇り高く。理不尽な目に遭っても、真っ直ぐに前を見つめていられる気高い令嬢へ。
玄関に向かって走り、静かに頭を下げる。まだしばらく入ってくる様子はないけれど、私の姿がないと彼女たちは酷く怒る。念の為、早めに出ておいた方が良い。
しばらくして、二つの足音を聞いた。
「見て、お母様。薄汚い娘は今日も喋らないのね」
「なんとか言ったらどうなの、お前?」
固く口を引きむすんだ。話せるものなら、とっくに話している。誰のせいで、という心の声には身を傾けない。表情は変えない。ただ背筋を伸ばして、頭を下げているだけ。少しだけ浮かべた笑みは、絶やさない。
強く生きなさい、というのが母の口癖だった。
政略結婚で父と愛のない結婚をした母は、ひどく冷遇されていたと聞いている。身籠った私が女だとわかってからは、その扱いがさらにひどくなったらしい。
けれど、母はいつだって真っ直ぐに父を見つめていた。私の前でだけふとした拍子に見せる疲れたような、寂しそうな表情も、父の前では決して見せようとしなかった。
辛い境遇に耐えながら、震えながら、なんてことのないような顔をして、前だけを見ていた。そんな母は、幼い私から見ても、美しかった。
「私の言うことが聞けないだなんて。最悪ね。後で来なさい?」
「お母様! 私、あいつの髪の毛が欲しいの! 銀色できらきらしていて、燃やしたらどんなことになるのかしら?」
真っ直ぐに前を見つめながら、黙って灰色の言葉を受ける。何も言えない私に飽きて、通り過ぎるのを待つ。
全てが歪み始めたのは、母が亡くなってからだった。
私を産んでからしばらくして、母は体調を崩した。ベッドの中で過ごす日がだんだんと増えていった。病名は知らない。次第にやつれていく母を、父は医者に見せようとしなかったからだ。
そして、いつものように庭で摘んできた花を母に届けようと母の部屋の扉を叩いて、その部屋に入れなかったことで、私は母の死を知った。
その後、すぐに新しい母が来た。ナターシャと名乗った彼女は、私とは年の離れた義妹を連れていた。母によく似た、可愛らしい容貌をした義妹、ミーシャは、表向きは父の娘ではないということになっているが、本当は血が繋がっていることを、私は知っていた。
そして、その日から、私の灰色の毎日は始まった。
いつもに比べてさらに虫の居所が悪い彼女たちはなかなか私を離そうとはしなかったけれど、義母が小さく汗を拭ったところで終わりは訪れた。
「なんて暑い。気が利かないのね」
そう吐き捨てて離れていく2人を、凪いだ心で見つめる。すっと一筋、汗が頬を伝う。
2人の姿が自室に消えるのを見届けてから、与えられた物置のような階段下の部屋に、私は身をかがめて潜り込んだ。またすぐに呼び出されるのは分かりきっていたけれど、それまでは私はここにこもっていられるだろう。暗闇に包まれた部屋の中では何も見えないけれど、もとより見るものもないから問題はない。
小さく身体を丸め、じっとりと汗ばむ足を抱き込んだ。強く目を閉じて、今日読んでいた本の内容を思い出す。幸せな話だった。
月に数度行われる、ウォーナー伯爵家主催のパーティー。この日だけはほとんど全ての使用人が駆り出されるため、唯一私の心が安らぐ日だった。そしてある日、私を支えたいと涙ながらに語ってくれたミアのおかげで、私は1日だけの休日を手に入れた。
本が昔から大好きだった私にとって、それは何にも代え難い大切な時間だった。
「お前!」
屋敷中に響く声。
名前ではないけれど、誰を呼んでいるのかは火を見るより明らかだ。私は強く目を閉じて、大きく開けると、安らかな空間から這うようにして出る。
「ねえ、私は前からね、お前の髪が気に入らなかったのよ」
呼び出された部屋で、そう言ってくすくすと笑う2人と、その手に握られた布を切るための大きなはさみに、私はこれから起きることを悟った。
だが、今までされなかったのが不思議なくらいのことだ。今更、なんと言うこともない。
ただ、前を向いて、やり過ごすだけ。
強く髪を握られ、引っ張られる痛み。けれど、湖面のように凪いだ表情は動かさない。
何も見ない。何も聞かない。それだけ。
急に、頭にかかる圧力が無くなった。
ぱさり、と柔らかいものが床に落ちる音を、どこか遠くの音のように聞いた。
無惨に床に散らばる長い髪を、柔らかそうな丸い手が拾い上げる。
「ふーん、こんな色だったんだ。へえ。ねえお母様、これ私にちょうだい?」
「もちろんよミーシャ。だってあなたのために切ったのだもの」
「やった!」
無邪気に笑う彼女は、くるくると楽しげに私の髪を回す。
気にしてはならない。それは、彼女たちを喜ばせるだけだ。美しく、誇り高く。真っ直ぐに前を向いた強い瞳と、少しだけ持ち上げた口角。その表情を崩さないように、私は2人を見つめる。
それが気に入らなかったのだろう。次第に直接的になっていく罵倒を、聞き流す。
解放されるまで、かなりの時間がかかった。退出の許可が出ると同時に部屋に戻り、身体を丸めた。首筋に触れれば、雑に切り取られた髪がちくちくと肌を刺した。これでは、しばらく外出は無理かもしれない。
堪えきれず、少しだけ、表情が揺らいだ。
平気だったはずなのに。今日声をかけてくれた美しい人の顔が頭をよぎった。
あんな風に、普通に声をかけてもらったのが、人として扱ってもらったのが、あまりにも久しぶりだったから。どこか、心が弱ってしまったのかもしれない。
眠ろうと目を閉じれば、短くなった髪の毛が頬を撫でた。母譲りの銀色の髪を、私は大切に思っていたのかもしれないと、失って初めて気がついた。
この無惨に切り取られた髪の毛が私の運命を変えるのだと、このころの私は知る由もなく。
やがてゆっくりと襲ってくる眠気に身体を委ね、私はこわばった身体の力を抜いた。