第15話 日向色の午睡
「リア」
蕩けそうな声で名前を呼ばれ、ゆったりと細い指先で髪を梳かれて、居た堪れなくなって目を閉じた。あの時は切り刻まれ、無惨な姿を晒していた髪も、綺麗に切り揃えられて、どうにか見られるようになっている。左右から編み込まれた髪の中央に飾られるのは、彼の瞳の色。
「ああ、俺のリアが今日も可愛い」
久しぶりに私の予定とアルの予定が噛み合い、こうして2人でお茶をすることになって、半刻ほど経っただろうか。後ろから抱え込まれるようにして彼の膝に座らされ、こうして大切に甘やかされ続けている。
『その、恥ずかしいので少し下ろしていただけませんか』
「無理」
一言で切り捨てたアルは、再び私を抱きしめる腕に力を込めた。
「こうやってリアに会えるの、本当に久しぶりだから。それともリアは、俺に甘やかされるのは嫌?」
『……嫌では、ないですが』
こう訊かれると、私は嫌とは言えない。それを理解した上でアルは聞いているのだから、時々、その余裕げな笑みが憎らしくなる。
「ほんとに、可愛すぎておかしくなりそう。今でも、夢なんじゃないかって思う」
『私は、どこにも行きませんよ』
「そうだよね、知ってる」
それでも、強く私を抱きしめる彼の腕が離れることはない。
よく分かっている。元はと言えば、一度私が彼から身を引こうとしたから。それが彼に一種の恐怖というか、深い影を落としていることは、薄々察していた。
今は、決してそんなことは思わない。少しでもアルの不安を取り除こうと、私は照れながらも言葉を紡ぐ。
『アル。……大好きです』
「っ」
耳元で、う、とも、ぐっ、ともつかない呻き声を漏らしたアルが、そっと私の耳に口を寄せる。
「俺も、愛してる」
今度は、私が黙る番だった。
耳元に流し込まれる吐息混じりの穏やかな低音は、私の言葉を奪うのに十分すぎるほどの破壊力を持っていて。
何も言えなくなった私を見て、くすくすとアルが楽しげに笑った。
「……大丈夫、リア? 辛いこととか、ない?」
きっと、アルはもともとこれが聞きたかったのだろう。今までの柔らかな雰囲気を崩さないようにと気を使っている彼の様子に、思わず微笑みが漏れた。
ほら、こんなにも大切にしてもらっている。私は、大丈夫だ。
『はい。皆様は本当に良くしてくださっていますし、勉強は嫌いではありませんから』
まだ、社交界に出ていないから言える言葉だというのは重々承知だ。
けれど、この家の使用人はどうやら私を歓迎してくれているようで。見事に道に迷って途方にくれている私を、親切に案内してくれた彼の顔は忘れていない。いつか直接会ってお礼を言いたいけれど、どうやら担当場所が変わったらしい彼にはあれ以来会えていない。
また、アルのご両親こと、マグリーク公爵閣下とその奥様にもお会いした。アルと同じ青い瞳を持つ彼女はおっとりとした雰囲気のとても綺麗な人で、私のことを歓迎してくださった。冷たい目で見られることも覚悟していたから、少しだけ驚いた。
「レイリアさん。あなたのことは、アイルから聞いてるわ。……ありがとう」
あの時。お礼を言われる理由が分からず、咄嗟に言葉に詰まった私を見た彼女は、少し微笑んだ。
「突然ごめんなさいね。アイル、あなたに会う前は、何もかもに興味がないという感じで」
「……母上」
「アイルは黙ってなさい。……そうねえ、もちろん公爵家の跡取りとして申し分ない行動をしてくれているのだけれど、本当にそれだけという感じで。何も望まず、ただ与えられたものだけを淡々とこなすような子だったから、あなたの話を聞いた時、私、嬉しくて。この子がこんなにも何かを望んだのは初めてだったのよ。私たちは、あなたを心から歓迎するわ」
『ありがとうございます』
ふっと身体の力が抜けた。思わず、といった風に微笑みが零れた。私を見た彼女が、少しだけ頬を染めた。
「あら可愛い。そう、アイルも一目惚れだったわけね」
「ちょっ……」
珍しく焦った様子のアルが新鮮だった。その頬が、少しだけ赤く染まっているように見えた。
「レイリア嬢」
私が部屋に入って以来、ずっと眉間に皺を寄せて無言を貫いていた公爵閣下が、重々しく口を開いた。
「君は、アイルのことをどう思っている?」
言葉に詰まった。彼の意図が分からない以上、どう答えるのが正解か自信が無い。けれど、正直に言うしかないと思った。
『愛しています』
「財産ではなく、身分でもなく、アイルを?」
『はい』
「証拠は」
「ちょっとあなた、証拠なんて見せられる訳が無いでしょう? レイリアさんが可哀想よ」
「……分かった」
威厳のある様子の彼だけれど、どうやら彼女の方が強いらしい。
証拠、と言われても。私には、それを見せる方法がない。
『仰るとおり、私には証拠を見せることはできません。ですが、今ここで、心の底から、アイル様を愛していると誓います。それが本当かどうか、どうぞ見極めてください』
真っ直ぐに、公爵閣下の目を見つめた。しばらく見つめるうちに、その険しい表情が、ふっと緩んだ。
「ああ。見極めさせてもらう」
「……こんなことを言っているけれど、この人、意外とあなたのことを気に入っているのよ。無愛想なひとだから、分かってあげて」
間髪入れずに奥様が口を開き、小さく笑う。
嬉しかった。彼女たちに、僅かかもしれないけれど認められたという事実が、本当に嬉しかった。
急き立てるように私の手を掴むアルに促されるまま、部屋を辞す意を伝えて外に出る。その瞬間、ふらりと足の力が抜けた。
倒れかけた私を、アルが抱きとめてくれる。心配げに覗き込んでくるその瞳に、そっと笑いかけた。
アルも、ほっとしたように笑う。
少しだけ、認めていただけたと、そう思っていいだろうか。
後でアルに聞けば、あの反応は相当気に入っているときに出る反応なのだという。
そのおかげか、この家での人間関係に悩むことは無く、安心して暮らせているのだ。アルに心配されるようなことは無かった。
そして勉強も、さほど苦にはならない。幼い時代に受けた基礎的な部分は今でも大体覚えているし、図書館で無差別に身につけていた知識もある程度役立った。
強いていうなら肩こりがひどいくらいのもので、忙しくはあるが充実した生活を送っている。何もやることがなく、自由に過ごせと言われるよりずっと良いくらいだ。
そんなことをアルに言えば、彼は安心したように微笑んだ。
「ごめんね、リア」
『できれば、ありがとう、と言ってもらえると嬉しいです』
「そうだね。ありがとう」
その言葉とともに頭を撫でられる感触に、うっとりと目を細めた。最近、あの時のライアちゃんの心情がよく分かる。人に頭を撫でられるのは、本当に温かくて、気持ちが良い。
「……答えにくかったら答えなくていいんだけど。ミア嬢は、あれから?」
『ミアは……』
ふ、と視線を上に向けた。あの時の、ミアの強ばった表情を思い出した。