幕間2 ある親子の会話、または公爵との交渉劇
「珍しいわね、アイルから私たちに会いたがるなんて」
ゆったりと微笑み、頬に手を当てる母に、内心の緊張を覆い隠して告げる。
最後に見た、俺の手を振り払ったリアの、影のある表情を思い出した。ルーカスに手渡された、銀のネックレスを思い出した。
リアのためにも、俺のためにも。ここで脅えている訳にはいかない。
「私の婚約について、相談に参りました」
俺はあえて、敬語を使った。
俺の前にいるのはもう、父と母ではなく、マグリーク公爵家当主とその妻なのだと。態度で示したつもりだった。
その意図は正しく伝わった。彼らも、馬鹿ではない。丁寧に座り直した2人の目から、温かさが消えた。値踏みするような鋭い視線が、こちらに向けられた。
目線だけで先を促され、言葉を続ける。
「婚約者にと、望む女性がいます」
「相手は」
「レイリア・ウォーナー伯爵令嬢です」
「……彼女は、病気だと聞いているが」
「いえ」
少し躊躇ったが、隠しておけるようなことでもなかった。正直に、彼女の事情を説明する。
彼女が、義母から虐待を受けているということ。社交界に出ることも許されず、家で使用人のようなことをやらされていること。彼女の父も母も既に亡き人であること。そして、俺の婚約者として家で保護したいと考えていること。
感情で揺れそうになる心を抑え、努めて冷静に話した。
流石の両親も、絶句しているようだった。
今までそんなことが露呈せずに行われていたことが信じられないのだろう。俺としても、最初は耳を疑った。彼女は良くても、地方の男爵令嬢くらいだと思っていたのだ。そうでもないと、虐待などまかり通るはずがない。
けれど、リアの父が亡くなり、現在はその弟が当主を務めていることが災いしたらしい。リアの父に息子がいなかったこともあり、貴族たちの関心は全て、現当主であるエイヴァンにある。リアが暮らしていたのが王都の外れであったこともあり、記憶からほとんど消えかけていた一家だったのだ。
「……アイルとしては、貴族同士として話したいようだが。私としても、親としてしたい話はある。利益云々は後で聞く。お前のことだ、考えなしというわけでもないだろう。まず、感情の方を聞かせてもらおうか」
「あなた、アイルがその子のことをどう思っているか気になるのなら、率直に言いなさい。厳格な父親なんて向いていないわよ。……ねえアイル、あなたにはできるだけ自由な恋愛をしてほしいとずっと言ってきたけれど、その相手が見つかったということ?」
「はい」
迷わず言えば、母は顔を綻ばせた。厳格に皺を寄せていた父の眉間から、少しだけ力が抜けた。
2人は恋愛結婚だったそうだ。結ばれるまでにも紆余曲折あったと聞いている。今は、完全に父が尻に敷かれているが。
だから俺も、この歳まで特定の婚約者を作らずにうまくやってこられた。もちろん、何か政変があったときの切り札として残しているという意味もあるが。そういう人たちだ。
「そう。……どんな子なの?」
「強い人です。お話ししたような境遇で生きてきながら、真っ直ぐに前を向いて、綺麗に立っていられる人です。ただ、時折脆さを覗かせたり、ふわりと顔を緩めたり。そういう姿に……」
「堕ちたのね」
「はい」
母が生き生きとしている。こんな姿は久しぶりに見たように思う。
「いい子じゃない? ねえあなた」
「会ってみないことにはわからないだろう」
「そんな余裕、あるのかしら?」
その言葉は父に向けられたようで、実は俺に向けられているのだろう。慎重に、答える。
「ありません。少なくとも、俺はそう考えています。彼女に贈ったネックレスが、売り出されていました。もちろん彼女はそのようなことをする人ではないので、間違いなく屋敷の関係者です。最悪の事態になる前に、俺の方で保護したいと思っています」
「そうね。婚約するなら、早い方がいい」
「だが」
父が口を開くと、少しだけ雰囲気が変わった。
「その彼女は、社交の経験がほぼないということだろう?」
「はい。そして、言葉が話せません」
「……言葉が?」
「もちろん、意思疎通ができないという意味ではありません。私とは、筆談で会話していました」
ふっと、2人の顔から表情が消えた。ここからが、勝負だろう。
「愛人にしたいの?」
「いえ。正妻に」
「できると思っているの?」
鋭い公爵夫人の目が、俺を射抜いた。逃げることは許さない、というように、俺の顔をじっと見つめる。
「はい」
「どうやって?」
「社交や教育は、努力次第でどうにでもなります。そうなった場合の教師は手配済みです。意思さえ疎通できれば、社交はできます」
「失声に関して、具体的な解決策はないということね?」
「……はい」
微妙に逃げた、逃げざるを得なかった回答を的確に引き出した彼女は、小さくため息をついた。
もともと、俺だって不可能に近いとわかっているのだ。声を出さないままに社交など。俺の言ったように意思疎通はできるだろうが、それを他の女性が受け入れるとは思えない。解決策などあったら、とっくに実行している。そしてそれは彼女も、分かっていることだろう。
「アイル、お前の考えを聞こうか」
沈黙を破ったのは、低い声だった。用意してきた言葉を、慎重になぞる。
「ご存知かとも思いますが、ウォーナー家の内情から。もともとの当主はレイリアの父でしたが、2年ほど前に亡くなりました。そこで現当主の座は、その弟、エイヴァンに渡りました」
「ああ。それは知っている」
「まずは、前当主の家系からお話しさせてください。前当主と、その前妻の間に生まれたのがレイリアで、他に兄弟はいません。また前当主には後妻がおり、その連れ子がいます。連れ子と前当主の間に血のつながりはありませんので、ウォーナー家の血を継いでいるのはレイリアのみとなります」
「他に兄弟はいないと?」
「前妻はあまり身体が丈夫ではなかったようで、レイリアを産んで以来、体調が芳しくなかったと聞いています」
気づかれないように、そっと一息ついた。
「次に、現当主、エイヴァンの家系ですが、妻がいて、娘が3人いました。そしてつい最近、ご存知の通り、その奥方が亡くなられました」
「ああ。それで、その3人の娘の価値が飛躍的に上がったと聞いている」
「はい。レイリアが病弱で結婚が難しい以上、その3人の娘の誰かと結婚し男児を設ければ、ウォーナー伯爵家はその男児に継承されます」
「……そういうことね」
さすが、話が早い。もし俺がレイリアと結婚し、その間に男児が生まれたら、継承権はその方が上となる。レイリアの存在が知られれば、狙う男性は多いだろう。
ウォーナー伯爵家の所有する土地は、さほど大きいわけではないが、マグリーク公爵家の土地の近くに位置している。流通や管理を考えたときに、その価値は大きかった。
納得した様子の彼女を見ると、その切れ長の目がすっと細められた。
「エイヴァンが、後妻をとる可能性は?」
「つい最近、彼と話す機会がありまして。彼は亡くなった妻をそれは愛していたようで、後妻をとるつもりはないとのことでした。さらに、どうやら、レイリアの母がエイヴァンの初恋の人だったようで」
「あら」
「はい。それで彼は、彼女によく似たレイリアを溺愛しています。俺との結婚も、歓迎してくださいました」
「自分の孫に領地を渡せない可能性を考えても?」
「情に厚い人のようです。3人の娘にも、男児を産むための結婚ではなく自由な結婚をさせたい様子でした」
「また、珍しい人ね」
苦笑した彼女が、未だに厳格な顔を崩さないその夫へと視線を送る。
「どう、あなた?」
「……流石の手際だな」
「恐れ入ります」
内心の喝采を押さえ、静かに答える。けれど、1番の問題は残ったままだ。声の出せないリアを、どうするか。
「いいんじゃないかしら?」
「それは、婚約がか?」
「ええ」
「声の出せない公爵夫人など前代未聞だぞ?」
「私たちの結婚だって、十分に前代未聞ですわ」
「……」
言葉に詰まった彼が、目を伏せた。しばらく思案している様子だったが、ゆっくりと顔が上がる。
「許可しよう。……ただ、その女性に公爵夫人として致命的な欠点があった場合は、破棄も考える。十分に揉み消せる家格だということを、忘れぬように」
「はい」
真っ直ぐに目を見て、頷いた。
部屋の空気が、ゆるりと解けた。そのままふんわりと、母が微笑む。
「ほら、いってらっしゃい。アイルのことだから、あとはもう迎えに行くだけなんでしょう?」
「ありがとう……母上」
「ええ」
ほら、と急かされるようにして、部屋を出た。急に空気が肺に流れ込んできたような気分になる。
どうやら、想像以上に緊張していたようだった。
リアを、迎えに行こう。
ようやくだ。長かった。
彼女の心が俺にない今、無理矢理手に入れてしまうことに恐怖がないといえば嘘になる。けれど、その気持ちよりずっと、ようやく、手の届くところに彼女がきたという喜びの方が、大きかった。
少しだけ、図書館に立ち寄ろう。あんなことがあった後でまずないとは思うが、万が一彼女が留守にしていたら困る。その場合の行き先は、きっとあの図書館だ。
いなければ、彼女の家に向かえばいい。
そう思って図書館に向かった俺は、震える彼女の姿を見ることになるなどと、この時は思ってもみなかったのだ。