幕間1 次期公爵による断罪劇
「ナターシャ・ウォーナーと、ミーシャ・ウォーナー。それで、あってる?」
震える2人の女性を、冷めた目で見下ろした。
リアを俺の家で引き取ってから数日。最初は不安で常に彼女のそばで過ごしていたけれど、慣れてきたリアに離れてほしいと言われてしまった。どうやら、俺がずっとそばにいると恥ずかしくて落ち着かないらしい。そんなリアも可愛かった。
「はい。その通りでございます」
震えた、ほとんど聞こえないようなか細い声で答えたナターシャを見つめる。身の内から湧き上がってくる怒りを抑え込んで、努めて冷静な声で言葉を紡ぐ。
「あの時は、裁くべきは今じゃない、と言ったけれど。俺はもともと、君たちを裁く権利なんて持ち合わせてはいない。君たちがリアにやったことを全て公表することも考えたけどさ、そうするとリアに嫌な噂がつく。君たちのせいで、リアがこれ以上傷つくことを、俺は許せない」
ふう、とため息をついた。そうでもしないと、殴りつけてしまいそうになる。怒りに震える拳を、強く握り込んだ。
「そうすると、俺は君たちに罰を与えることができない。社交界では、君たちは何もやっていないんだから。それも考えてやってたんだとしたら、ほんと、素晴らしい性格してるよ」
「……」
「でもね、俺は正義の味方じゃないんだ」
ふっと、微笑んだ。
行動に表せなかった怒りが、残虐性が、表情に滲み出ているのが分かる。ひっ、と小さな声を漏らして後ずさった彼女に、ゆっくりと近づいた。
「正しい? 正しくない? そんなの、知らない。俺はただ、リアを酷い目に合わせた君たちに然るべき報いを与えたいだけ。それが世間で褒められようが貶されようが関係ない。だからね、これは正義の鉄槌じゃない、俺の私怨だよ」
床に転がっていた木の棒を拾い上げた。その先にこびりついた黒いしみと、彼女の身体中にある傷跡が結びついた瞬間、怒りで目の前が白く染まった。
「だってそうでしょう? こんなこと、わざわざ俺が出てきてやることじゃない。普通、誰かに代行させる。まあ今も護衛はいるけど、手出しはしないように言ってるし。ただ単に、こうでもしないと、俺の気が収まらないんだ」
棒を振り上げた。恐怖に顔を歪めた2人が、強く目を閉じるのを狭まった視界の中で見た。
がん、と鈍い音を立てて、2人のちょうど真ん中の床に棒が叩きつけられた。恐る恐る、というように目を開いた2人は、しばらく惚けたような表情をしていたが、すぐに安堵の色がその目に宿る。
棒を放り捨てて、一気に距離を詰めた。強引に顎をつかみ、上を向かせる。多少指が食い込もうが気にしない。
「ねえ、怖かった?」
リアは、もっと怖かったんだよ。
そう囁いた瞬間、凍りついた顔を放り捨てて立ち上がる。少しだけ冷静さを取り戻した頭で、青ざめた顔の2人からゆっくりと遠ざかった。
「ナターシャ・ウォーナー。君は、夫が大好きだっただけ。そういうことでしょ」
「っはい! 私は、彼を、本当に愛していて……! だから、許せなくて、他の女との間にできた子供なんて! 私と彼の間にできた子よりずっと優れていて、綺麗なあの女が許せなかったのです! すみません、悪かったと思っ」
「思ってもいない謝罪は口にしないで」
少しだけ歩み寄る姿勢を見せたらこれか。
ふっと息を吐き、懐から取り出したハンカチで手を拭った。手にこびりついた嫌な感触を振り払うように、強く自らの手を擦る。
「気持ちはわからないでもないけど。俺だって他の男とリアの間にできた子供とか、許せる気がしないし。……殺さなかっただけ、君は俺より偉いんじゃない? でもね、それと許すかは別問題。俺は自分勝手な人間だから、どんな理由があろうが、俺が正しい行動を取れようが取れまいが、リアを傷つけたっていう事実があるだけで、君が許せない。境遇には同情するけど、ごめんね?」
「……」
「お母、様……?」
恐る恐る、と言ったように口を開いたのは、ミーシャ・ウォーナーだった。不安げに瞳を揺らす様子は庇護欲をそそるような危うさを持っていると言われるのだろうが、俺の心は動かない。
「お母様は、私よりあんなのが優れているっていうの! 違うよね、違うって言ってよ! あいつはゴミで、私は大切な娘! そうじゃないの?!」
「……」
「私は可愛いんじゃないの?! すごいんじゃないの?! いつもみたいにそう言ってよ、お母様!」
「ミーシャ・ウォーナー」
呼び掛ければ、その悲痛な声が止まった。
「ある意味では、君も被害者かもね。こんな無茶苦茶な母に育てられて。君の心がねじ曲がってるのは、少なくとも全て君のせいじゃない。でもナターシャが全て悪いかと言えば、そうとも言い切れない。……ああほんと、嫌になるよ」
彼女たちが心の底から残虐な、くだらない人間だったら楽だった。大切に、何不自由なく育てられていたにも関わらず道を踏み外した、愚かな人間だったらよかった。
完全な加害者なんてない。絶対的な悪人はいない。だから、嫌になる。
「俺は、君たちが許せない。でもそれは、君たちが悪だからじゃない。間違ったことをしたからじゃない。少なくとも一般的に見て君たちは道を踏み外したけど、それが間違ってたかどうかの判断なんて俺にはできない。だからね、何度も言うけど、これからすることは全部、俺の私怨。リアを傷つけたことが許せない俺の、自分勝手な復讐。勘違いしないでね」
きっと彼女たちから見たら、俺こそが悪人なのだろう。
大切な人を愛しすぎたが故の暴走。故人を貶す趣味はないけれど、リアの父だって他にやりようはあったはずだし、この女の暴走に気が付かなかったのにも責任はあるだろう。きっとこの女を止められたのは、リアの父その人だけだ。その父だって、愛する女と別れて政略結婚をしなければならなかった。
母の歪んだ教育。教えられたことを疑うなんて、幼い子供は知らない。それがある日突然知らない男によって否定されたこの女の感情は、きっと俺には想像できない。
でも、それでも。どんな理屈があっても、なくても。
リアを傷つけたという事実がある限り、俺は彼女たちを許すことはない。
「君たちを牢獄に放り込むとか殺すとか、直接的なことをすると俺の罪になっちゃうから、それはなし。……ということで、君たちにはこれから、リアと同じような生活をしてもらおうと思うんだ」
「……え」
「君たち、ウォーナー家現当主――リアの父の弟、エイヴァンの支援金で暮らしてるんだってね? この前お会いして、すっかり意気投合したんだ。もうファーストネームで呼び合う仲になったんだから、すごいでしょ? リアを溺愛してたんだってね。俺もリアが大好きだから、意気投合しちゃったよ」
「……ま、さか」
「察しが良くていいね。どうやらこの家の現状は知らなかったらしくて――むしろ、リアの病気のために高額の援助があったんだって? だから俺の方で、ありのままの現状を伝えさせてもらった。……彼、援助は、ほぼやめるってさ」
「……どういう、ことですか」
「どうもこうも、言葉通りの意味だけど? かろうじてこの屋敷だけ残すように説得しておいたから、俺の優しさに感謝してよね。というわけで、頑張って生きてね」
くるりと背を向けた。これくらいが限界だろう。まだ気持ちは収まらないが、これ以上やるのはやりすぎだという自覚はある。それこそ、俺が悪人になってしまう。
「……ああ、別に。生きられなくても救わないから、そのつもりで」
ふっと微笑む。
顔色を失った2人を後にして、俺はリアが生まれ育った家を出た。