第12話 許さない
「ああ、リア。おかえり。……違った、レイリアだったね」
動けない私をくすくすと笑って見つめながら、アルはゆっくりとこちらに歩いてくる。そっと私の身体を抱き寄せたアルは、すぐに眉間に皺を寄せた。
冷たい、と呟いて、すぐに自分の上着を脱ぐ。止めようと思った時には、既にその大きな上着は私の上にあった。
どうして、ここが。
その疑問を感じ取ったのか、アルがゆっくりと笑って答えてくれる。
「ネックレスだよ、俺が君に贈った。少し大きな声では言えない場所で売られていたのを俺の優秀な友人が見つけて、俺に教えてくれた。そこから辿って、ここに辿り着いた感じかな。……ああ安心して、もちろんリアが売ったわけじゃないことは知ってるから」
そうして、彼はくるりと2人に向き直る。その顔が、ゆっくりと笑みの形を作った。
「だから。あなたの娘のレイリア嬢と婚約させていただきたいと、再三伝えているつもりなんだけど」
「……」
アルは私に後ろを向かせて、胸の中に抱きこむ。そのせいで、私にはアルの服しか見えなくなってしまったけれど。
その声音で分かる。彼は、本当に、すごく、怒っている。
「もう、現当主の許可は出ているんだ。後は、一応親となっているあなたの許可だけ。こちらは公爵家、そちらは伯爵家。あなた自身にとっても、悪い話ではないと思うんだけど?」
それは明らかに脅迫だった。伯爵家如きが、俺に逆らうのか、という。
「お、恐れながら」
口を開いたナターシャ様の声は、聞いたことがないくらいに震えていた。
「マグリーク様のような素晴らしい方は、うちのレイリアには勿体な」
「それはお前が決めることじゃない」
その声は冷え切っていた。
今までかろうじて保っていた笑顔の仮面をかなぐり捨てた、本気の怒りの声だった。
「たとえ誰であっても、リアを侮辱することだけは許さない」
ひゅっと、息を飲む音がした。腰に回された手に、力が入った。
「お前たちがリアに散々してきたことを、俺は許さない。でも、裁くべきは今じゃない。だから、お前たちはただ頷けばいい。俺とリアの婚約を認めると一筆書けば、それで話は終わりだ」
「っどうして!!」
次に聞こえたのは、ミーシャ様の金切り声だった。
「どうしてあんな女なのよ! みっともなくて汚くて、おまけに声も出せない! どうして私じゃなくてあいつなの!」
「……言いたいことはそれだけか?」
腰に回されていたアルの手が、そっと私の耳を覆った。大きな手に包み込まれるが、その程度で外の音が全く聞こえなくなるわけはない。
「リアが声を出せなくなったのは、誰のせいだ? 声を出せなくなるほどに追い込んだのは、一体誰だ? お前らが汚いと称す、その服を着せたのは、あの髪を切り落としたのは、いったい誰だ?」
「当然よ! あいつには使用人が相応しいの!」
少し、沈黙があった。だが、さらに温度を失った声で、彼が言葉を紡ぐ。
「ナターシャ、と言ったか? この狂った女を育てたのは、お前か?」
「わ、私の娘が申し訳ございません」
「お母様! だってお母様いつも、あいつは殴られて当然だって、言ってたじゃない! お母様がそう言うから、私は!」
「ち、違うわ! 私は一度だってそんなこと言ったことは」
「黙れ!!」
それは、怒号というのに相応しいものだった。一瞬で部屋が静まり返る。
「お前らのような人間に、リアが傷つけられていたと考えるだけで吐き気がする」
「……」
「今すぐ書け。俺とリアの婚約を認めると。それで話は終わりだ」
「い、いくら公爵家の方と言っても、脅迫は犯罪ですわ! 私は」
「虐待を平然と行うような人間が、犯罪を語るな。証拠はある。公爵家で雇うといえば、お前のところの使用人は快く話をしてくれたよ」
ふうっ、とアルが息を吐く音が聞こえた。
「残念ながら、使用人に恵まれなかったようだね。ということで、書いて?」
元のにこやかな調子を取り戻した声。それが、有無を言わさぬ調子で命令する。
かちゃん、と物がぶつかる音がした。少しの間があって、アルの手が私の耳から離れる。
「確かに受け取ったから。間違いなく効力のある物だから、なかったことにするとか無謀なことは考えないことをお勧めするよ」
その瞬間、ふわりと身体が浮いた。
アルに抱き上げられているのだ、と気がついた時にはもう、彼は歩き出していた。
顔は彼の肩口に押し付けられていて、相変わらず外は見えない。少しだけ躊躇ったけれど、首を持ち上げて彼の肩越しに2人を見た。
絶望に染まったその顔。
怒りと悲しみと混乱と焦りが入り混じったその顔と目が合った瞬間、ミーシャ様が叫ぶ。
「お前なんか、アイル様に相応しくないわ! アイル様に相応しいのは、私みたいに、もっと綺麗で、教育が行き届いていて、身分も財産も地位もある美しい令嬢なのよ! お前みたいなぼろ雑巾がアイル様の隣に立てると、本気で思っているの?!」
くだらないと一蹴すれば良い。所詮負け犬の遠吠え。
そう思いたかったけれど、無視できない真実が、その言葉にあった。
彼がきてくれたことは、嬉しかった。泣きたいほどに嬉しくて幸せだった。けれど、それと同時に怖かった。
婚約、と彼は言った。その決定が、怖くもあった。分かっている。私をあの環境から救い出すために、アルがどれだけのことをしてくれたのか。どれだけ、私を想っていてくれたのか。だからこそ、これ以上彼に迷惑をかけることが、ただ怖い。
でも。私は、ようやく気づけたのだ。遅すぎるけれど。
「っリアは」
口を開きかけた彼の言葉を、彼の背中をそっと叩くことで止める。
私の内心の動揺を感じ取ったのだろう。アルの足が、ぴたりと止まった。物問いたげな、心配げな眼差しが注がれる。下ろして欲しくて、もう一度彼の背中を叩けば、その意味を正確に理解した彼は優しく私をおろしてくれる。
怖かった。彼女たちに従うことには慣れているが、反抗することには慣れていない。けれど、私のためにここまでしてくれた彼の前で、前のように黙って言いなりになることだけはしたくなかった。
取り出した板で、私は彼女たちに語りかける。
『確かに、今の私はアイル様には相応しくありません。それは、私もよく分かっています』
「リア、それは違う」
『いえ。アイル様がそう考えてくださっていることは分かりましたし、そのお気持ちは本当に嬉しいですが、普通の人はそうは思いません。でも』
真っ直ぐに彼女たちを見つめる。
『私は、変われるから。彼に相応しい私になるためにいくらでも努力します。……もちろん、努力だけでどうこうならないものもあるけれど。もし努力だけで公爵夫人になれるなら、世の中の半分くらいの令嬢は公爵夫人でしょうね』
それでも。
『アイル様は私を選んでくださいました。それなのに、私が彼に相応しくないと決めつけて努力もせずに諦めるのは、彼に失礼です。……私も、今になって、こんなにも遅くなって、ようやく分かったことですが。私が彼に相応しいか相応しくないかは、その努力をしてから判断します。いくら努力をしても私が彼に迷惑をかけるなら、その時は大人しく私は身を引きます』
「……」
『私は彼を愛しています』
その言葉は、驚くほどあっさりと出た。
その瞬間にはっと息を呑む音が後ろから聞こえた。
『彼のためなら、彼の隣に立つためなら、私はなんでもします。……碌な努力もせず私を痛めつけて喜んでばかりで、自分は彼に相応しいんだと自惚れているあなたに、私がアイル様に相応しくないなんて決めつける権利はありません!』
「なっ……黙っていれば!」
「ちょっと黙ってくれないかな。うるさいんだけど。俺はさ、早くリアと2人きりになりたいの」
「ア、アイル様! ですが」
「……これ以上リアの耳を汚さないでくれる? いい加減限界。まだ続けるつもりなら、こっちも容赦しないよ?」
「……」
その一言を最後に、もう一度ぐるりと視界が回る。気がつけば私は再び抱き上げられていて、アルはすぐに歩き出した。
やがて、アルの足取りが止まり、そっと降ろされる。その眩しさに一瞬目が眩んだ。次第に目が慣れ、ようやく認識した場所は、馬車の中のようだった。2人きりで狭い空間に閉じ込められ、アルの瞳が真っ直ぐに私を見つめる。
そうして、彼は、痛みを堪えるような顔で呟いた。
「リア。……ごめんね」