第11話 終わりと始まり
その日は、酷い雨だった。
ばしゃばしゃと容赦なく顔に降り注ぐ水を手で拭うが、すぐにまた次の水が降り注ぐ。拭っても拭っても意味はなく、ただ身体は冷えていくばかりだった。
明らかな嫌がらせで命令された庭の掃除は、まだ半分も終わっていないだろう。見た目にはほとんど分からなくなったが、完治していない身体が、鈍く痛む。
せめて顔にかかる水だけでもどうにかする必要があると、裏庭の物置に向かった時に、それは目に入った。
庭師が置いたままにしていたのだろう。高い木を手入れするときに使う、軽く身長を超えるような大きな梯子。これを使えば、きっと裏門を越えられる。
しかも、この雨だ。薄い灰色に染まる視界はひどく狭く、屋敷の中からはここまで見えることはない。普段は誰か私の仕事を見ているものがいることが多いのだが、流石に土砂降りの中見張りにくるものもいなかった。
あまりにも急だが、大きなチャンスだ。渡したい手紙は、肌身離さず持ち歩いていた。
思いついた時には、もう、私は裏門を乗り越えていた。
濡れて滑る道路を、全力で走る。普通の令嬢なら到底無理だろうが、散々過酷な環境で労働をさせられてきたのがこんなところで役立った。
滑りながらも、普通に進むことができる。
今更平民のふりなどする必要はない。道を走り抜ける私を、通り過ぎる人が信じられないようなものを見る目で見てくる。けれど、気にならなかった。
図書館に向かう慣れ親しんだ道を走り、今までリアの服に着替えていた家の前を駆け抜けた時、その声が聞こえた。
「レイリア様!」
聴き慣れたその声が信じられなくて、足を止めて振り返れば、そこに、ミアがいた。
あの日以来、一度も見ていなかったミアの姿に、胸にどうしようもないものが込み上げる。ずっと、心配していたのだ。心配で、おかしくなりそうだったのだ。
「早く、こちらに! 図書館へ行かれるのでしょう!」
なんで。
その言葉を伝える手段はなく、私は無理矢理家の中に引き摺り込まれる。そうして髪を拭かれ、身体を拭かれ、怒涛の勢いで着替えさせられながら、早口で説明するミアの言葉を呆然と聞いていた。
「私、解雇されたのです。ですが、こんなこともあろうかと、ずっとこの家でレイリア様をお待ちしていました。きっとレイリア様なら、いつかあの家を逃げ出すんじゃないかって思っていたのです。アル様と、あんな別れ方をしたなら尚更です。すみません、実はあの日、物陰から見ていました」
そう言って胸を張るミアが、どうしようもなく頼もしく見えた。
「どうせ失うものもない身です。私にとっての一番は、レイリア様ですから」
いつものように着替えて、あの帽子を被る。乱れた髪を隙間に押し込めば、私はリアになれる。
「いってらっしゃいませ」
今までに幾度も聞いたその一言を頼もしく感じながら、私は家を出た。
今は、ミアに渡された外套を着ている。もう、雨に悩まされることもなかった。
図書館に滑り込む。彼に会えるかは賭けだった。もし会えなかったら、手紙を受付の人に渡して去ろうと思っていた。
けれど、運は私の味方をした。
「……リア」
呆然と、信じられない、と言うように。
私の名前をこぼした彼は、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
長い話をするつもりはなかった。私がここにきていたことが彼女たちに知られてしまえば、彼と会っていたことが伝わってしまえば、彼に迷惑をかけてしまう。
私を探しにきた人に見つかる時には、できるだけここから遠いところにいたかった。
無言で、書いてきた手紙を差し出す。紙は、掃除中にこっそりといただいた。気づかれることはないだろうが、万が一気付かれても気にすることはない。
濡れないように服の下に持ってはきたが、やはり少しだけ湿っていた。
なんとも言えない表情で私の手紙を受け取った彼が、探るようにこちらを見た。
「どういう、心境の変化?」
私は無言で、彼の持つ手紙を指さした。そこに全て書いてある、という意味を、彼は正しく受け取ったようだった。困ったように首を傾ける。
彼に頭を下げた。ありがとう、と声にならない声で伝えた。すきです、と呟いた。
そうして背を向け、帰ろうと走り出したその手が、掴まれた。
ぐらりと身体が傾いた。あいにくの雨でびしょ濡れの床でつるりと滑り、危ない、と思った時には彼の腕の中にいた。
「……リアが、この手紙にどういうことを書いたかは知らないけれど」
そっと伸ばされた彼の指先が、濡れて張り付いた私の前髪をそっとかき分けた。
「ずっと、躊躇っていた。君に何か事情があるのは薄々察していて、でも無遠慮に踏み込むべきではないと思っていた。リアが話してくれるまで、待つつもりだったんだ」
でもね。
その言葉とともに、彼の手が私の帽子を外した。
ぱさ、と。重力に従って、私の、無惨に切られた髪が露わになる。
「……やっぱり。勘違いだったら良かったと、ずっと思っていたんだけど」
遠慮がちな指先が、手首まで覆うワンピースの袖を捲った。そこをすっと撫でられ、走った痛みに思わず顔が引き攣る。
「リア、君は」
その言葉を最後まで聞かずに、私は彼の腕から抜け出した。
どうして、こうなってしまったのか。ただ、手紙を渡すだけのつもりだったのに。
だが、これ以上知られてはいけないと、警鐘だけが鳴っていた。
「リア!!」
彼の大声を尻目に、私は図書館を飛び出す。追いかけてくるかと思っていたけれど、その様子はないようだった。
これで、彼との関係は終わり。これ以上足掻くつもりはない。伝えたいことは、伝えた。
引き絞られるような切なさと、小さな達成感を抱えて、私はあの家に帰る。
私が抜け出したことはとっくに知られているに違いない。堂々と門を抜け、正面玄関に向かう。不思議と、呼び止められることはなかった。
以前、私は彼と出会ったことで弱くなったと思った。けれど、今はそうは思わない。
だって、この玄関を開けることは、もう怖くない。それ以上のものを、彼がくれたから。
そうして私は玄関の戸を開け放つ。途端に、三対の目が、こちらに突き刺さった。
その中に、信じられない姿を認めて、私は絶句した。
アル。
思わず心の中で呟いたその名が、音になることはない。