第9話 これは、罰
「思ったより早かったわね」
こちらを見て、心底楽しげに笑う2人。私の、義母と義妹。ナターシャ様と、ミーシャ様。
その服はパーティーの時に身につける華やかなデザインのもので、彼女たちが会場から帰ってきてからさほど時間が経っていないことが窺えた。
「ねえ。どこに行っていたのかしら?」
私は答えられない。
真っ直ぐに、2人を見つめるだけ。
こんなこと、大したことではない。あの時アルの手を振り払った、胸を突き刺されるような痛みに比べれば。
「私たちがいない間に勝手に抜け出して、ねえ? どこをほっつき歩いていたのかしら。あんな高級なものを貰ってきて」
「お母様、男遊びでもしてたんじゃない?」
「あらそうかもね。知らない男に身体を開いて、お金くださいって? 汚らわしい」
ナターシャ様が薄く笑いながら手を上げると、1人の男性が現れた。いつも2人のそばに影のように付き添っている人だ。名前は知らないけれど、それなりに整った容姿をしているから、2人も気に入っている様子だった。
その手に握られている木の長い棒を見て、私はこれから起きることを察した。
その棒が、ナターシャ様の手に渡る。ひゅん、と空気を切り裂く音を立てて、軽く彼女がそれを振る。
襲い来る衝撃に備えて、私は身体を硬くした。
「ねえ、当然の報いでしょう? 私たちに逆らったんだから」
「お前には、使用人がお似合いなの!」
これは、罰よ。
その一言が、最後の記憶だった。
そこから先は、あまりよく覚えていない。身体がひどく熱かった事だけは覚えている。繰り返し身体に振る衝撃の中、2人が鍛えていなくてよかった、と他人事のように思っていた。
目が覚めたら、私は玄関に倒れていて。周りには、誰もいなかった。
痛む身体を無理やりに動かし、どうにか身体を起こした。視界が悪いのは、瞼が腫れているからか。
立ち上がろうとして、足に響く痛みに顔を顰める。これはしばらく、立ち上がれないかもしれない。
涙は出なかった。私にとって、これが普通だから。ここまで酷くやられたのは久しぶりだが、初めてではない。今までが、夢のようなものだったのだ。
アル、いや、もうアイル様とお呼びした方が良いのだろう。彼と過ごした時間は温かくて、幸せだった。その記憶があれば、きっと私は大丈夫だ。
彼のことを想うたびに走る痛みも、ある意味では幸せの象徴なのかもしれない。彼に出会えたこと、そして気持ちを寄せてもらったこと。これに勝る幸せはあるだろうか。
ふうっと、意識が遠のく。段々と白く染まっていく視界に、せっかく起こした身体がゆらりと揺らいだ。とさ、と身体が崩れ落ちる音は、まるでどこか遠くで鳴っているように聞こえた。
◇
「声を出しては駄目。少しでも叫んだら、どうなるか分かっているでしょうね」
「……っ!!」
口元を押さえつける手を引き剥がそうともがくのは、幼い、私。
「あなたのお父さんに言ってごらんなさい。これよりも、もっと酷い目に合わせてあげるから」
「……ゃ!」
「うるさいわ、黙りなさい」
声を出すな。
耳元で繰り返される呪い。繰り返し繰り返し、脳に注ぎ込まれるその言葉と、身体中に走る痛み。身を捩れば捩るほど激しくなるその熱さ。
声を出すな。
痛い、苦しい、助けてお母さん。
でも、声を出してはいけないのだ。この豪華で派手な新しいお母さんの部屋に私がいると知られたら、どうなるかわからない。一日中灯した燭台を押し付けられるかもしれない。水が並々と張られた洗濯用のたらいに、顔を突き込まれるかも。
声を出すな。
その声が、段々とぼやけて二重になり、私自身の声と重なる。
声を出すな。
声を出してはいけない。
「また来るのよ? もちろん、あなたのお父さんには内緒で」
声を、出しては。
「……!!」
勢いよく起き上がりかけて、身体中に走る痛みに声にならない悲鳴をあげて崩れ落ちる。
重い瞼をどうにか開ければ、そこは慣れ親しんでしまった階段下の自室だった。
この痛みのせいだ。久しぶりの感覚は、遠い過去の記憶を呼び覚ましてしまった。こんな夢、久しく見ていなかったというのに。
息が熱い。熱が出ているのかもしれない。
自室へは、きっと誰かが運んでくれたのだろう。一番想像できるのはミアだ。どれだけ彼女に心配をかけてしまっただろうか。
だが、ここにミアがいないことが心配だった。彼女が一体どんな目に遭っているのか、想像するだけで身体中が冷える心地がする。無事であればと、祈ることしかできない自分が悔しかった。
アルに会いたかった。
今まではなんとも思っていなかった孤独が、今は辛くて仕方がない。一度知ってしまった人の温もりが、恋しかった。
アル。アイル様。
私と会えなくなったことを、彼は悲しんでくれるだろうか。
そこまで考えて、はっとした。
アイル様は、私が彼の元に姿を現さなくなった理由を、自分の告白のせいだと考えるだろう。あんなことを言ってしまったから、愛想をつかして私が逃げ出したのだと間違いなく思っている。というか、私が彼の立場だったら、私でもそう思う。そうとしか思えない状況を作ってしまったのは、私だ。
本当は、もう少しきちんとした別れ方がしたかった。あんな風に一方的に、叩きつけるような別れ方をしたくはなかった。全ては、取り乱してしまった私のせいだ。
あなたの気持ちが嬉しいと。あなたのような素敵な人に好いてもらえて、本当に嬉しかったと。
でも、私はあなたとは添い遂げられないと。明かせないけれど、到底釣り合う身分ではないから。それに、私は声が出せないから。そして、私は引っ越してしまうから、もうここに来ることはできないと。本当は引っ越しではなく監禁だろうけれど、そこまで彼に言う必要はない。
きちんと伝えたかった。
私を見てくれて、ありがとう、と。
そう一言だけ、伝えられればよかった。
もう一度だけ逃げ出そう、という結論はあっさりと出た。
一度くらいなら大丈夫だ。私が逃げ出すことはまだ想定されていない。逃げ出したら最後、酷い目に合わされるから。だから私が脱走などするわけがないと、あの人たちは信じ込んでいる。
これが最後のチャンスだろう。
色々と格好つけた言い訳をしているけれど、もう一度だけ、彼の姿を見たいだけなのかもしれない。悲劇のヒロインのように振る舞うつもりは毛頭ない。家で彼を想ってうじうじと泣くよりは、無理矢理抜け出して会いに行く方が、母の教えに、私の性に、合っている。
身体の傷はいずれ癒える。傷つけられたとしても、もう恐れることはない。
あと、一度だけ。動けるようになったら、もう一度だけ会いにいこう。
そう思ってから、1週間ほど経った頃だったか。
最後の一回のチャンスが、私の前に現れる。