阿倍親王
椎野忠勇が阿倍親王家の家令となった頃、日本は蝦夷との全面的な戦争になっていた。
朝廷は中納言藤原武智麻呂の弟である藤原宇合を派遣したが、防戦一方であり蝦夷との戦いに勝機は見えなかった。
5月24日、朝廷は小野牛養を鎮狄将軍に任命、藤原宇合への支援に当たらせた。石川石足の長男である石川年足は軍曹として従軍した。
この情報は、阿倍親王の家令である椎野忠勇の許にも入った。職務上、国政の様々な情報が入るようになったのである。
椎野は親王家の家令として家政の決裁をするのみならず、親王の相談役も担っていた。
「親王様、今日は蝦夷との戦いに小野朝臣牛養が派遣されました。」
椎野はまだ幼い少女に対して語り掛ける。
「その、小野と言うのはあまり聞かぬ名であるが、どういう者なのだ?」
「そうですね、私も本人のことはあまり知りませんが、かつて遣唐使であった小野妹子の孫であると聞いております。」
小野妹子は今では「遣隋使」として知られるが、当時編纂された『日本書紀』では「唐」へ派遣されたと記されている。
「本人は有名では無いのか?」
「祖父や父の存在によって有名ですね。」
「親が有名なだけで将軍になれるのか?」
「はい。親王様は蔭位の制をご存知でしょうか?」
「蔭位の制?」
「簡単に言うと、父親や祖父の官位に応じて位階を授ける制度です。五位以上の位階を有する者、つまり、貴族に適用される制度ですね。この制度により、貴族の子弟は優先的に官吏に登用されるようになっています。」
「貴族の子供は貴族になるのか?」
「それは、判りません。蔭位の制によって貴族へとなりやすくなるのは事実ですが、なれないこともあります。」
そこまで述べた後、椎野は重要なことを補足することとした。
「親王様は、違います。皇族は生まれると死ぬまで、必ず皇族です。特に親王は重罪を犯しでもしない限りその身分を失うことはありません。親王様は7歳ですが、何歳になっても親王です。」
数え7歳の少女相手に難しい話であることは分かっていたが、一方で、この聡明な少女は自分の言葉を理解してくれるだろう、とも思っていた。実際、目の前の少女は頷きながら話を聞いてくれている。
「では、いつも通り、『法華経』の勉強をしましょう。」
そう、この少女は中々優秀な子で、椎野が『法華経』の話をしても聞いてくれていた。
「あ、そのことなんだけど、椎野殿。」
「どうかなされましたか?」
「この前、加利殿が女性に『法華経』の話は可笑しい、女性向けのお経は『勝鬘経』では無いのか、と。もしや椎野殿は私を女性扱いしていないのではないか、と言われたのだが。」
ああ、またくだらんことを言う女官がいたのか、と椎野は思う。
「親王様、ハッキリと申し上げます。親王様は先ほど申し上げた通り、特別な立場です。常に国家のことを考えないといけません。女官と自分が一緒だと思わないでくださいませ。」
「国家のこと、か。」
「はい、鎮護国家と言いまして、簡単に言うと日本を守るためのお経、それが『法華経』であります。」
「女性の幸せは良き旦那を見つけることだと加利殿は言っていたが。」
「ええ、良い男が見つかればいいですね。難しいと思いますが。」
「え?」
「あ、これは失礼致しました。女官たちの話を聞いていると、もしかしたら結婚というものがさぞ素晴らしいものだと思われているかもしれませんが、そういう場合もあるものの、そうではない場合もあります。だいたい世間の男には妻がいても他に妾を設けるような怪しからん男が多くいます。」
伯母の件でかなり椎野忠勇の結婚観には主観が入っていたが、本人はそれに気付いていない。
「よく判らないが、椎野殿は大変な人生を送ってきたのだな・・・。」
数え7歳の少女は、自分で理解できる範囲内で必死に相手の言葉を理解しようとした。理解できたことは、目の前の男には何やら結婚に否定的な感情がある、という事であった。
7月13日早朝。
官吏の一日は早い。椎野も朝早くから阿倍親王家に登庁する。
門番をしていた夜勤の資人に挨拶をする。
「ごきげんよう。」
「家令様、ごきげんよう。」
朝起きてまずすることは、屋敷の点検だ。
「まぁ、親王家へ強盗に入る命知らずはいないだろうが。」
阿倍親王の寝室の前にも行く。当時の上流階級の部屋は板唐戸と呼ばれる、中国風の想い扉で仕切られていた。普段ならばそれが閉まっていることを確認するだけだ。女の子の寝ている部屋にまで入る気はない。
が、その日、扉が開いていた。
「え?親王様?」
思わず扉の中を覗く。すると阿倍親王が不機嫌そうに座っていた。
「親王様!何があったのですか!」
椎野が駆け寄ると、親王は泣き出した。
「あ、申し訳ございません!」
すると親王は首を横に振って言った。
「いて。」
幼い親王にとって両親と離れ一人で暮らすと泣きたくなることもあるのだろう、きっと親王は寂しかったのだ、と思い椎野は親王の隣に座る。
(しかし、女官や資人は何をしているのだろうか?)
こういう時の為に夜勤の女官や資人がいるはずだが、と思いつつ、椎野はまだ半泣きの親王の背中を擦っていた。
「怖い夢でも見たの?」
椎野が言うと指を横に振る。
「楽しい夢だった・・・。」
阿倍親王がボソッと言う。
「楽しい夢?」
「うん・・・。」
暫くしてから親王は言った。
「お父さんとお母さん・・・ごめん、陛下と母上と一緒にいた夢。だけど朝起きると誰もいなかったの。」
「そうだったのですね。」
「扉を開けて外を見たけど真っ暗で、怖かった。」
「そうですか、確かに夜、暗い中で一人は怖いですよね。」
やはり両親と一緒に暮らせないことが寂しいのだろう。そう思いながらも、椎野は何か腑に落ちない。
「いつもならだれか女官がいると思うのですが・・・。」
「いなかった・・・。」
女官がストライキでも始めたのか、と椎野が考えを巡らせていると、上の方から聞き慣れない声がした。
「家令殿ですか?この度は私の失態で迷惑を掛けました。」
声のする方を見ると、一人の女性が扉をくぐって入ってきていた。話したことは無いが、顔には見覚えがある。
「薩命婦様でしょうか?」
「今では河上忌寸妙観と言います。ごきげんよう、家令殿。」
「ごきげんよう、河上様・・・。」
椎野が姓を授かった時に一緒にいた女性が、河上妙観であった。位階は従五位上、椎野よりもはるかに上、貴族である。
「親王様、この度は、石川夫人が薨去されたので慌てて夜勤の全ての後宮の女官を招集してしまった結果、親王様の屋敷に女官が誰もいなくなってしまったこと、後宮を代表してお詫び申し上げます。」
河上妙観が阿倍親王に近づいて頭を下げる。
「椎野殿、ところでこの家の事務に女官では無いと出来ないことはあるか?」
「いえ、あ、食事は女官が配膳しておりますが、資人でも出来ないことは・・・。」
「親王様、彼はあのように申していますが、男性が怖いなどという事はありませんか?」
阿倍親王は首を横に振る。
「そうですわね、男嫌いであれば椎野殿にこんなになつくはずがありませんものね。」
椎野と阿倍親王は少し黙り込んでしまった。
「椎野殿、資人に命じて食事を支給作り、三人分配膳するように命じてくれませんか?」
「あ、はい、三人分とは?」
「親王様と私とそなたです。」
「は?」
「親王様が男嫌いでは無いと言うのであれば、椎野殿も同席されて宜しいですよね?あと、私も親王様と仲良くさせていただきたいと思います。親王様、よろしいでしょうか?」
阿倍親王は頷いた。
椎野は取りあえず部屋を出て資人たちに食事の用意をするように命じた。当時、ご飯は日中に焚くことが多く、朝食は昨日炊いたご飯を使うため、比較的早く作ることが出来る。
一通りの指示をして親王の部屋に戻ると、河上と親王が談笑していた。
「あら、椎野殿。中々の堅物なのですね。」
椎野の姿を見た河上が言う。
「どういうことでしょうか?」
「聞きましたよ、7つの親王様に政治や仏教の話ばかりしている、って。」
「親王様はやがてこの国の天皇になるかもしれない方ですから、当然のことです。」
「そうすると、椎野殿は昔ながらの貴族たちよりも藤原氏に近い訳ね。」
「さぁて。私は昔ながらの貴族たちには縁がありませんでしたが、親王様にはご縁がありましたからね。」
そう言うと椎野は阿倍親王の向かいに座りその顔を見ていった。
「私は人生を親王様に捧げております。」
「それってつまり、藤原氏に人生を捧げるってことよ。」
そう言って河上が笑った。
この日、天武天皇の夫人であった石川大蕤比売の葬儀が執り行われた。葬儀は阿倍広庭と石川石足らが主催した。
聖武天皇は石川大蕤比売に正二位を追贈した。聖武天皇にとっては自分の曽祖父の妾に過ぎない女性だが、石川氏にとっては一族の重鎮とも言うべき女性である。正二位の追贈は石川氏にとって大きな福音であった。
一方、朝廷内部での石川氏長者である石川石足の立場は微妙であった。
石川石足が藤原不比等の提案した『養老律令』制定に反対したことは、舎人親王や新田部親王と言った皇親勢力には好意的に捉えられていた。一方、石川石足が藤原氏と全面的に対立していたわけではなく、藤原武智麻呂は彼の従弟である。
そもそも、朝廷内において藤原氏の力は完全に失われた訳では、無い。天皇の夫人である藤原安宿媛とその兄である中納言の藤原武智麻呂の影響力は無視できなかった。そして、聖武天皇に男子がいない以上、藤原安宿媛の娘である阿倍親王が即位する可能性も、充分に存在したのである。
だが、そのことは却って皇親勢力が藤原氏を警戒する理由となり、そして、藤原氏と血縁関係にある石川石足に対しても左大弁以上の地位――いわば、公卿の地位を与えることを渋ることともなったのである。