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皇太夫人

 神亀元年(西暦724年)2月4日、元正天皇は皇太子に譲位を行った。聖武天皇である。

 聖武天皇は即位に伴い、長屋親王を右大臣から左大臣に昇格させて皇親政治を強化する一方、藤原武智麻呂も正三位に昇格させた。

 2月6日、即位日より3日目にして天皇は朝廷を揺るがす命令を出した。


「藤原夫人に正一位を授け、大夫人と称する。」


 自分の母親に対して律令にない「大夫人」の称号を与えたことは、混乱を生んだ。律令では天皇の母親が皇后であった場合は皇太后、妃であった場合は皇太妃、夫人であった場合は皇太夫人と呼ぶことになっている。

 同時に、長屋親王の妻である吉備内親王が元伊勢斎内親王の田形内親王と共に二品となり、また長屋親王の娘の智努女王と妾の藤原長娥子は聖武天皇と親しい海上女王と共に従三位となった。これらは有力皇族である長屋親王の基盤を固めるとともに、藤原不比等の娘でもある藤原長娥子の位階も上げることで藤原氏復権の布石にしようと言う政治的意図もあった。

 だが、藤原氏を代表する中納言藤原武智麻呂は長屋親王と対立することとなった。

 3月1日、天皇は吉野へと行幸した。その間に太政官では先日の天皇の命令について議論が行われたが、それは長屋親王と藤原武智麻呂との衝突を公然化するものとなった。


「大夫人とは百済王の妾に使われたいたこともある称号、天皇の母親に用いることが不適切であることは明白だ。中納言殿は藤原夫人の兄でもあり、東宮で勤務もしていたはずだ。自分の妹にこのような称号が与えられてどうして何も抗議しないのだ?」

「左大臣様、藤原氏一門は畏れ多くも宮子様を予てより『大夫人』と呼び奉っていたのでありまして・・・。」

「それは公私混同というもの。お前の妹は今や陛下の母であるぞ?陛下の母が百済王の妾と同列に扱われて、どうして兄として黙っているのか、と訊いておるのだ。」

「・・・申し訳ございません。では、太政官としてそのように奏上してください。」


 3月5日、天皇は吉野から平城宮へと帰還した。

 3月22日、長屋親王は天皇に上奏し、大夫人には皇太夫人と違って「皇」の字が欠けている、天皇の母に対してこれを用いることは律令に違反するが、律令通り「皇太夫人」と呼称すると先日の天皇の命令に違反する、この状態を解消してほしい、と要望した。

 これを受けて天皇は先日の命令を撤回し、「皇太夫人」と書類には記すようにした。一方で、「皇太夫人」の読み方は「おほみおや」とするようにも命令した。

 正一位大夫人から皇太夫人に変わったことは、藤原宮子周辺ではとても影響が大きかった。主な変化としては位階の序列を超越したことと、家政機関の大幅な改組とが挙げられる。

 当時の日本の位階制度は、身分によって適用されるものが異なっていた。

 天皇の子供や兄弟姉妹である親王は「一品」から「四品」までの四段階の位階で序列されている。

 一方、王・貴族・公民・雑色人に授けられる位階は「一位」から「八位」までとその下の「初位」というものがあり、さらに「一位」から「八位」までは「正」と「従」に分けられ(例;正三位と従三位)、「初位」は大初位と小初位とに分けられた。また、正四位から小初位までの位階はさらに上下に分けられ(例;正五位上と正五位下)、王・貴族・公民・雑色人には合計30段階の位階があることになる。

 なお、内親王は「女性の親王」として、女王は「女性の王」として、扱われる。「親王=男性」「王=男性」というような限定は、法的には明治維新以降のものである。

 貴族と公民とを区別するものは、位階である。五位以上の位階を有する者が貴族となる。貴族の子供は優先的に官吏へ登用されるため、貴族の地位は容易に世襲が出来る。もっとも公民でも五位を超えると貴族の仲間入りができる半面、貴族の家に生まれても五位以上に昇れなければ没落してしまうため、朝廷における出世競争は極めて激しいものがある。

 こうした位階の序列から超越した存在には、位階を授ける側である天皇を除くと、皇后や皇太子らがいる。もっともこの時点で聖武天皇には皇后も皇太子もいないが、天皇の母である皇太夫人は皇后に準じた扱いを受ける。

 存命中に正一位の位階を授けられたのは藤原宮子が初めてであるが、正一位はあくまでも臣下の位であった。皇太夫人となると天皇の母として公式に認められるため、臣下の位である正一位は無論、親王よりも上位に位置することなる。

 また、親王と三位以上の上級貴族(公卿)には家令を始めとする家政職員を公費で雇うことが出来る特権があった。これを家令職員と言う。

 だが、皇太夫人となると「皇太夫人宮職」というより公的な意味合いの強い家政機関を設けることが出来る。もはや私人ではなく完全な公人であるから「家」ではなく「宮」と呼ばれるのである。同様の公的な家政機関である「宮職」には皇后の皇后宮(中宮)や斎内親王の斎宮、皇太子の東宮(春宮坊)等がある。

 藤原宮子家は皇太夫人宮へと改組され、同時に家政機関の人事異動も行われたが、同様の人事異動が行われたのは他にもあった。

 聖武天皇即位に伴い春宮坊は廃止された。当面の間、新しい皇太子が決まる予定も特になかった。

 聖武天皇の妻である藤原安宿媛は天皇の夫人となり、従三位の位階を授けられた。これを受けて法的には「藤原安宿媛家」という独自の家が出来たことになる。

 ちなみに、夫婦の双方が親王や公卿であった場合は、夫婦それぞれ別の家を構えていると法的には見なされる。長屋親王と吉備内親王の夫婦はそれぞれ別個に家政機関が存在する。もっともこの二人の場合は同居しているので形式的なものではあったが、長屋親王の妾である藤原長娥子はこの度従三位となったので新しく「藤原長娥子家」が独立し、そして長娥子は法律的に独立するのみならず、私生活でも同居せずに別居を行う事となった。

 当時の日本で通い婚が行われているという俗説があるが、文献史学的にも考古学的にも夫婦同居が原則であったことは今では疑いようがない。長娥子が長屋親王と暮らさなかったのは妻ではなく妾に過ぎない扱いであったのに加え、自分自身が貴族であったため独立して生計を維持することが可能であったためである。生活費を男性側に依存している場合ならばともかく、自分で生活できるのにわざわざ本妻と暮らすメリットは存在しない。

 聖武天皇の次女である阿倍王も父親の即位に伴い親王となった。阿倍内親王である。これを受けて阿倍内親王家が法的には成立したが、問題はその家令職員を誰にするのか、であった。

 阿倍内親王は数え年で7歳。家令には信頼できる官吏を任じる必要があった。

 藤原安宿媛家は故・藤原不比等の邸宅に設けられた。藤原不比等の邸宅は平城宮の隣にあり、長屋親王と並ぶ大きさの豪邸であった。

 この豪邸の主となった安宿媛は県加利に下問した。


「娘の家令は誰が良いかしら?」

「どういう男でしたら信頼なされますか?」

「そうねぇ、長らく私たちに仕えてきた池上大歳のような男だと安心なのだけれども。」

「ああ、確かにそうですね。しかし、彼は解放されたとはいえ雑色人の出身。それを問題視するものも出てくるでしょうね。」

「そうなのよねぇ。では、いっそのこと、池上大歳に選ばせるのはどうかしら?」

「ああ、なるほど。それでは彼はどうなされますか?」

「彼は春宮坊が廃止されるから、後はどこかの国司にでもした方がいいんじゃなくて?」

「なるほど。とりあえず、池上さんを呼びに行ってまいります。」


 池上大歳は廃止される春宮坊の残務整理をしていた。


「大歳さん、藤原夫人から人事について相談があるので至急来てほしいとのこと。」

「人事、か。藤原夫人の家令職員についてか?」

「いえ、違いますの。詳しくはこちらに来てから・・・。」


 池上はかつて右大臣が住んでいた豪邸の門をくぐる。そして、この豪邸の新しい主の部屋に通された。安宿媛の姿を見て池上は平伏する。


「大歳殿、長くの忠勤、大義であった。」

「勿体ないことであります。」

「そなたの忠勤に応え、伊勢少掾に推薦しようと思う。」

「ありがたき幸せに存じます。」

「が、それには一つ問題があるのだ。」

「と申しますと?」

「そなたは春宮坊で長らく仕事をされたが、春宮坊は廃止されてしまった。我が家の家令職員には目星がついておる。だがな、娘の家の家令に誰か適任がおらぬものだろうか。もしもそなたが誰か適任の者を知っていれば教えてほしいのだが。」

「ああ、そういうことでありますか・・・。ええと、家令でありますか?」

「そうだ。ただの職員ではない、家令となるものはおらぬか?」


 なるほど、と池上は思った。官位相当において家令は正七位上であるが、その中で幼い女の子の家令が出来る男となると限られてくる。官位相当は絶対的なものでは無いとはいえ、天皇の娘の家令の身分が極端に低くても困るだろう。とは言え七位程度のものと天皇や夫人が直接会うことはそうないから、臣下に聞くのは合理的な判断だ。

 そこで池上の脳裏には一人の男の顔が浮かんだ。彼は今、順調に出世していれば正七位上のはずだ。少なくとも、七位であることは間違いない。


「それでは、四比忠勇という男を推薦したいと思います。」

「理由は?」

「酒にも女にも興味のない堅実な男であります。」

「付き合いが悪いのは困るのぅ。」

「いえ、付き合いは悪うございませぬ。現に私とも知り合いでありますし、また、義淵僧正の弟子の長宣という僧侶とも親しい方です。」

「ほぅ、僧侶と親しいのか。それは興味深い。」


 僧侶と親しいと聞いて安宿媛の声色が変わった。


「実はな、私も仏教に興味があるのだ。話が合うかもしれぬ。」

「それは、それは。」

「ただ一つ気になるのは、四比と言うのは日本人ぽくない名前であるが、もしかして帰化人か?」

「百済貴族の末裔を聞いております。」

「そうか。まぁいい、こちらで何とでもできる。ご苦労。」


 5月13日、朝廷は中国人の子孫である女官の薩妙観を始め、帰化人やその子孫を含む人たちに新しい姓を授けた。

 その中には、四比忠勇もいた。彼には椎野連の姓を授けられた。

 そして椎野忠勇には、阿倍内親王家の家令の地位が与えられた。


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