勧農積穀
養老6年(西暦722年)閏4月25日、長屋親王率いる太政官は「勧農積穀」をスローガンに「百万町歩開墾計画」を打ち出した。
将来的な人口増加を見据えて、全ての国民に口分田を支給する班田収授を長期的に実施するためには、田地の開墾は必要不可欠であった。また、日本を中国と互角に渡り合える大国とするためには、農業の飛躍的な増産が求められた。当時の日本の経済は農業が主体であったから、経済成長には農業振興が不可欠なのである。
しかし、その内容はあまりにも非現実的なものであった。
「は?勲章?」
四比忠勇は思わず耳を疑った。
場所は中臣酒人古麻呂の家。古麻呂の友人たちが集まり、話題は必然的に「百万町歩開墾計画」へと移っていった。
何しろ、百万町歩と言えば当時の農地の約二倍の面積。政府は田地倍増どころか、田地三倍増を掲げたことになる。一体どうやってそれを実現させる気なのか、政府は果たして正気なのか、話題になるのは当然であった。
「ああ、そういうことだ。新しく土地を開墾して成果を上げれば勲章を与えるのだそうだ。」
古麻呂が吐き捨てるように言う。
「そんなもの、もらったところで収入が増える訳ではないのに、百姓が働くわけ無いだろ。」
「ああ、今の政府は現実が見えていない。百姓が望むものは勲等ではなく、食料だ。」
二人の会話を聞いて、古麻呂の友人の一人として来ていた池上大歳が言った。
「しかし、この国の田地を増やして開墾をしないといけないのも事実。勲章以外に褒美になるものはありますか?」
「無いな。」
古麻呂はあっさりと言う。
「そもそも本当に百万町歩もの開墾が必要なのか?俺は疑問に思っている。」
「百万町歩かはともかく、田地の開墾自体は必要でしょう。」
「そうかな?口分田は既に足りている気がするが。」
「いやいや、我が国の出生率を見ると直に足りなくなりますよ。」
二人の議論が水掛け論になったのを見て忠勇は言った。
「ところで、そろそろ行かないか?」
「ああ、お寺か。お前は本当にそういうのが好きだなぁ。」
古麻呂が笑いながら言う。今日は忠勇がある高僧にみんなで会いたいと言っていたのだ。
「龍福寺だったか、確か義淵という偉いお坊さんのお寺だったはずだな。」
そういう大歳に忠勇は答えた。
「ええ、しかし、義淵僧正は忙しいので弟子の長宣という者が寺を管理しております。その長宣様に会いに行こうと思うのです。」
一行が龍福寺に着くと、長宣とその弟子が快く出迎えてくれた。
「これは四比忠勇殿、他の官吏の仲間と一緒に来られるとは、有難いことです。仏の教えは官吏の皆様に学んでもらって国政に活かしてもらわねばなりません。」
「ありがとうございます。今日もよろしくお願いします。」
「いやいや、今日はですな、少しここにいる沙弥の道鏡に皆さんへ説法をさせようかと。」
「長宣様の弟子ですか?それは期待したいですな。」
道鏡は手元の経典を示しながら言った。
「ありがとうございます。今日は皆様に『妙法蓮華経』と言うお経の話をさせていただきたいと思います。」
「『妙法蓮華経』か、聞いたことはある。」
忠勇が言うと古麻呂が言った。
「俺は初めて聞くお経なのだが、いや、俺自身が仏教に疎いこともあるが、一体、どういう経典なのだ?」
「はい、これはお釈迦様が晩年に説かれたお経であります。お釈迦様がある日弟子を集めると、弟子だけではなく神々も集まってきた、さらに龍や乾闥婆や阿修羅や迦楼羅と言った、この世ではないあの世の生物も集まってきた、と、そういう風に冒頭には記されています。それは何故かと言うと、簡単に言えば、お釈迦様が世界最高の真理を説こうとされていたから、ということになります。」
「ほう、それでその世界最高の心理とは何なのだ?」
「それは話すと長くなりますが、では『妙法蓮華経』の中でも最も肝心の教えである『如来寿量品』について説明しましょう。まず冒頭でお釈迦様が『我成仏してよりこのかた、復此れに過ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫なり』と言われています。劫と言うのは、天女が衣で岩を一つ無くしてしまうぐらいの長い時間が一劫ですので、これは永遠の昔から、というような比喩で述べられていますね。お釈迦様と言うと色々と修業をして悟りを開いてから仏になった、と言うように思われている方も多いですが、ここではそうではない、お釈迦様はそもそも永遠の昔から仏であった、という事になっています。」
それを聞いて忠勇が質問した。
「最初から仏であった?では、お釈迦様が悟りを開いたと言うのは?」
「悟りを開いた、と言うのは、方便であったとお釈迦様は言われていますね。私が考えるに、自分が仏であることを自覚した、というのが、お釈迦様の悟りだったのでは無いでしょうか?大乗仏教では全ての衆生には仏性がある、と説きます。そのことを全ての人が理解すると、お互いがお互いの仏性を尊重しあう、平和な世界になると考えています。」
すると長宣が口を挟んだ。
「道鏡の話は相変わらず中々高度な話であるが、仏教の初心者には些か難しすぎるきらいはあるな。この『法華経』は国家を守るお経であると言われておるのだ。それはまぁ、道鏡の言った通り、正しい大乗仏教の教えが弘まると国家が良くなると言うのも、当然ある。」
大歳が手を挙げて質問した。
「少しよろしいですか?仏教では身分制度はどのようになっていますか?」
長宣が答えた。
「元々、お釈迦様は身分による差別に反対しておられた。だから当然、仏教では身分制度は無くすべきであると言う立場だ。律令では奴婢の得度も許されている。また、一度得度すると俗世での戸籍からも抜かれ、氏族からも抜けることとなる。僧侶は皆お釈迦様の子という事で『釈』を姓とし、氏族の名前を姓とはしないのだ。」
「なるほど。出家すると氏族とも関係が無くなる訳ですね。」
「その通り。俗世の氏族だの出自だのに捉われていては出家とは言えぬ。」
池上大歳はこのことを聞いて感服する一方で、朝廷を騒がしている一人の僧侶のことが脳裏に浮かんだ。
(彼も同じ思想に立ってそれを実践しただけなのだろうか?)
池上大歳は東宮の職員として様々な情報を耳に挟んでいた。その中で行基と言う僧侶の話を聞いた。行基は政府の制止を無視して民衆に仏教の教えを説き、一つの教団を築き上げたと言う。
行基の教団は土木工事や灌漑工事のような公共事業も行っていた。そこで地方の豪族も行基の活動を好意的にみており、中々朝廷も取り締まれていない。
長宣も行基の弟弟子であった。長宣と行基の思想が近くでも可笑しくは無かった。
(とは言え、それをここで聞くわけにもいかないしな・・・。)
朝廷の官吏に迂闊に本音をこぼすこともあるまい。大歳は敢えてこのことについては黙っておくこととした。
この年の5月から7月にかけて、雨が一切降らないと言う異常気象が発生した。稲の不作が予想された。
8月14日、天皇は今年の租税免除を決断した。租は税として納める稲であるが、農作物中心の財政が成り立たないことは明白となった。
9月22日、成人男性が布や特産物で納めることとなっていた調について、近畿地方の諸国は銭で納めることとなった。
養老7年(西暦723年)1月10日、皇太子の母親である藤原宮子が従二位となる。だが、東宮ではお祝いのムードとは、成らなかった。
「ごきげんよう。」
池上大歳は女官の県加利に声を掛ける。
「ごきげんよう。」
「藤原夫人におかれましては・・・・。」
「相変わらずですわ。」
「やはりそうか。殿下が可哀想だ。」
藤原宮子は文武天皇の夫人(妾の一人)であったが、皇太子を産んでから精神を病んでおり、息子と顔を合わすこともしなかった。やがて即位する皇太子の為にも様々な措置が取られたが、精神状態が回復する兆しは見えなかった。
4月17日、太政官は新たな命令を出した。開墾した土地の私有を認め、さらに灌漑設備等も自分で整備すると孫の代まで私有しても良い、というものである。後に『三世一身法』と呼ばれるこの法律は、田地の私有財産化を大幅に解禁するものとなった。
このことは行基らの活動を事実上黙認することにも繋がった。前年の不作を経て、朝廷も「勧農積穀」のためには手段を選んでいる場合ではなくなったのである。