四比忠勇
四比忠勇。大和国宇智郡、後の五條市の出身である。
当時のこの地域は、都会とまではいかないが、平城京まで日帰りで往復も不可能ではない、ある程度便利な地であった。
四比氏は百済の貴族の末裔である。先祖の代で亡国の憂き目にあったとはいえ、忠勇は百済貴族の誇りを失わずに勉学と就活に勤しみ、遂に官人としての職を得るに至った。
和銅7年(西暦714年)6月25日、時の元明天皇の孫にして皇太子である首親王の元服式が行われた。それに伴い、勤務の成績が優良な官人には位の昇進が行われた。四比忠勇は正八位上から従七位下へと昇進した。
位階が昇進してもそれに見合う官職が与えられるとは限らない。当時、従五位下以上の貴族階級を除くと、位階に見合う官職が与えられるという官位相当の制はあくまでも「原則」であって、多くの例外があった。従七位以上に相当する官職の多くは管理職であり、ポストの数が少ないという事情があったのである。
四比忠勇も直ちに官職の昇進は叶わなかったが、特典として薄緑の朝服を着ることを許された。これまでは八位の身分であることを示す深縹という藍色の服を着ていたが、その上位である緑色の朝服を着ることは官人にとって大きな栄誉であった。
忠勇は意気揚々と実家へ戻った。給与が増えたわけではないが、緑色の朝服を着た姿を実家の家族に見てもらいたいと思ったのである。
果たして、実家に戻ると父親がこう言った。
「忠勇、出世したのか!良かった、良かった、我が家にとって久しぶりの明るいニュースだ。」
「久しぶり?私、そんなにこれまで父上に心配をかけるようなことをしていましたっけ?」
「いや、お前のことではない。姉貴、お前の伯母さんが大変なのだ。」
「伯母上・・・信紗おばさんのことですか?あ、まさか、またおばさんの旦那が浮気をしたとか!」
「違う。あの男が遂に死んだのだ。」
「それは嬉しいことではないですか!おばさんを哀しませて、自業自得だ!」
「忠勇、まぁ、聞け。」
忠勇の伯母である四比信紗の夫は、氏果安という。この男は大変な浮気者で、二人の妾との間に五人も子供を設けていた。
「実はな、姉貴は自分の子供三人だけでなく、妾の子供五人も我が子として育てるというのだ。」
「バカな!妾の子など妾の実家に返せばよい!あの浮気男の尻拭いをなんでしないといけないのだ!」
「まぁまぁ、そこは姉貴には姉貴なりの考えがある。」
「納得いきません!おばさんと話してきます。」
「ハハハ、お前と会っても姉貴の考えは変わらないであろうが、その服を見ると姉貴も元気を取り戻すだろうな。」
翌日、忠勇は信紗に会いに行った。
「おばさん!女手一つで子供を8人も育てるとは正気ですか!?」
「おお、忠勇、立派になって!出世しても百済貴族の誇りを失うではないぞ。」
信紗は忠勇の出世を喜ぶばかりで、彼の言葉をまともに相手にはしなかった。
「おばさん、実家に帰りましょうよ!父上も母上もおばさんと一緒に暮らすことに反対しないはずです。経済的な援助であれば私がします!私も時期に出世するはずです。」
「忠勇、私は夫の家に嫁いだのです。夫亡き今、家を守るのは私しかいないのですよ。」
「そんな!おばさんは氏直の氏族ではなく、誇り高き百済貴族の四比の氏族の一員です!」
「百済貴族の誇りがあるからこそ、夫の子供を見捨てることなどできませんよ。」
「ああもう!これまで結婚すると幸せな人生が待っていると思っていましたが、おばさんは苦労ばかり背負っている。夫の家族の犠牲になっていいのですか?」
「これこれ、私は犠牲になどなっていませんよ。夫を愛しているからこそです。」
「おばさんを見ていると、結婚への幻想が無くなりそうです。」
「うふふ、可愛い子ね。幻想を無くしてこそ本当の幸せが判るのですよ。」
忠勇は納得できなかった。平城京に戻るとその足で民部省に向かった。
「節婦を表彰する制度があったはずだが。」
「ああ、はい。具体的にどういう案件でしょうか?」
無位であることを示す黄色い朝服の受付員が四比忠勇の緑色の朝服を見ながら言う。
「私の伯母がだな、夫の生前その家族によく仕えた上に、夫の死後も離婚をすることなく家族に仕え、さらには夫の子供を妾の子も含めて育てている。これは節婦に該当しないか?」
「それが事実であれば該当しますね。ちょっと国府に調査させますので、国郡の名前とそのおばさんの姓名をお願いします。」
「大和国宇智郡の四比信紗だ。」
「はい、大和国宇智郡のしい・・・ええと、どういう字で?」
「四に比べるに信じるに糸偏に少ないだ。」
「あ、はい、信紗、と。日本人っぽくない名前ですけど、帰化人ですか?」
「いや、日本人だ。先祖は百済の貴族だがな。」
「ああ、もしかして白村江の戦の時の?」
「そういうことだ。」
「わかりました。暫く連絡を待ってください。」
同年11月4日、四比信紗は晴れて天皇より節婦として表彰された。そして終身に渡る租税の免除等が許可された。
信紗は望外の栄誉に涙を流して喜んだ。だが、忠勇はこの結果に満足しなかった。
「古麻呂、私は今回の件で改めて我が国の律令について調べてみたんだが、ちょっと酷くないか?」
忠勇は治部省の一室に顔を出した。官吏の一日は朝早く、午後は休みだ。仕事を終えて一休みしている友人に会いに来ていた。
「うん?突然どうしたんだ?」
治部省に勤める忠勇の友人、中臣酒人宿祢古麻呂が怪訝な顔をする。
「戸令を見ろよ、人が死ぬと財産は全て嫡妻の長男が相続する、一部の財物は半分だけ他の兄弟に分ける、という規定だぞ?あまりにも不平等じゃないか?」
「そんなこと言ってだな、そのお蔭でお前の伯母さんの子供も財産を相続できたんだろ。もしも妾の子供にも財産を分けるってことに成ってみろ、悲惨だぞ?」
「確かに、嫡妻の方が妾よりも重視されるのは当たり前のことだが、伯母さんが相続した財産は皆無だぞ?」
「お前なぁ、この広い世界の中で、女性に財産の所有権がある国があったら教えてくれよ。中国も新羅も、天竺だって女性に財産権は無いと聞いたぞ?」
「いや、ちょっと待て、この国の天皇は女性じゃないか、その理屈はちょっと変じゃないか?律令の改訂とかの議論は無いのか?」
「ああそうだな、確かに律令を改訂する動きはあるにはあるぞ。だがな、間違っても、それはお前の仕事じゃない。」
「釈然としないなぁ。」
「お前はな、俺よりも位階は上になったが、お前よりも上の人間はこの世にたくさんいることを忘れるなよ。」
「ああ、私の意見が通らないかもしれない、という事だな。」
「いや、通らないだけじゃなくてだな、律令の改訂について迂闊に発言すると、政治的な闘争に巻き込まれるだろ?そのあたり、よく考えて行動しないとな。この前のお前の伯母さんの件だってな、一歩間違えれば民部省を敵に回すところだったんだぞ?」