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果ての防人  作者: 草枕 駁
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九.面の縁

 斗賀紘戸(とがひろと)は、静かなジャズの流れに反して、心がざわつくのを感じておりました。

 エプロン姿の職員がブラインドを下げ、目の前の男性が忙しなく本を閉じ退室し、明るさを一段下げた室内を見回してから、ゆっくりと勉強部屋を後にします。

 通路にて貸本を棚に戻し、忘れ物、居残る人を確認して回る職員を尻目に、声の代わりによく響く靴音を響かせ気配の薄くなった館内を歩きます。

 入館ゲートを跨いでから振り向き、閉館を告げるチャイムの中で、自分が最後に出た客であることを確認すると、この上なく満たされた気分で帰路に着くのです。

 この短い時間は、紘戸に勉強の意欲とささやかな幸福を与えてくれました。

 学校は煩わしく、教室に残っていれば成績優秀な同級生が席におり、気後れしてしまいます。いちゃついているクラスメイトも目障りでした。

 図書館には余計なものがありません。資格勉強している青年、テラスで優雅に新聞を広げるおっさん、児童文学に熱中する少女、設置されたパソコンで何かを検索している女性、催し物を眺める男性……それらは全て一緒に勉学に励む同志であり、余計な音を発しない丁度良い背景でした。唯一の誘惑である、気になる本たちは、借りて家に持ち帰り、寝床のお供になりました。

 紘戸は、今日もささやかな満足感を噛みしめながら図書館からの帰路に就きます。

 今日は苦手な数学が捗った。合同の式への応用が上手くいかないから明日は先生に聞いてから図書館に行こう。借りてた本がそろそろ終わるな。古典当たりを攻めてみるか。最近の催し物はお面だったな。歌舞伎以外で使う機会はあるんだろうか……


 家に着いた紘戸は、いつものようにダイニングテーブルに腰掛け、用意されていた晩御飯を温め直さず、被せられたラップを外しました。


 「お帰り。いつもごめんね」


 「ただいま。これくらいは、ね」


 食器洗い、アイロンがけ、米研ぎ。それをこなした紘戸は早々に自室へと退散するようになった紘戸の頭にチラつくのは、共働きの親の疲れた顔でした。

 余計なことをしてはならない。親を心配させてはならない。家事をこなして、勉強すれば、少なくとも心配はされないだろう。


 

 「……最近詰めすぎてないか?顔が強張っている時があるぞ」


 翌日の放課後。予定通り数学を教えて貰った紘戸は、担当教師からの一言に思わぬ衝撃を受けました。


「最近よく図書館に行ってから勉強できるようになったんです。全くやらなかった勉強をやりだしてるので慣れれば大丈夫ですよ。むしろ疲れるくらいじゃないと追いつきませんし」


「それならいいんだが……図書館か。実は今週末にイベントで講師の大学教授が来てくれるんだが、受講生が少ないんだ。数合わせで申し訳ないが、古典の勉強と思って参加してくれないか」


  

 「面屋祭」と題されたイベント会場はまばらでした。解説文が添えられた古い仮面のレプリカや道具を懐かしげに眺める老人、特に気にせず休憩をとる人くらいしかおらず、まだ閉館時間でない会場内は、どこか薄暗さすら感じられました。

 その薄暗さの一番奥で、蛍光灯とショーケースに守られていたのは一層に古い道具たちでした。顎が朽ち果てた木彫りの面、巻物、杖、何本もの管が束ねられた何か……そしてそのショーケースを、一人の老人が眺めていました。


「気になりますか」

 

 視線に気づいた老爺の声に、紘戸は思わず、ここに展示されているものは何かと尋ねました。


「ここにあるのは、雅楽に使われた道具です。これは竜笛(りゅうてき)といって、立ち昇る龍鳴き声に似るといわれています。これは(しょう)。翼を立てて休む鳳凰に見立て、天から差し込む光を表現したといいます。そしてこれは篳篥(ひちりき)地に在る人々の声を表し、余程の名手になると屋敷に押し入った強盗達すら聞き入り、改心したそうです。」

 

 雅楽。触れる機会と言えば、中学の頃、音楽の授業で演奏の映像を眺め、琴を多少弄らせてもらった程度の経験しかありませんでした。今となっては、国語の教科書のコラムに載っているのを流し読みしたくらいしか覚えてません。

 

「そしてこの面は、採桑老(さいそうろう)という舞に使われた面です」


「サイ……?この半開きのお面が、主役なんですか」


「そうです。採れば不老不死になる桑の葉を求めて彷徨(さまよ)う老人が、杖を突きながら徐々に衰弱していく様を表したものです」


「いやな話ですね。年老いて不老不死を求めて、何も得られずに死んでいくなんて……何のために」


「もっといやな話をすると、その舞を演じた人は遠からずに死んでしまうという噂がありました。今となってはそもそも演じられる人がいなくて、今となっては真相もわからずじまいです」


「わざわざ仮面を被って、そんな不穏なものを演じるんですか。廃れて当然じゃないですか」


「なんででしょうねえ。けれど、静養の演劇なんて悲劇が持て(はや)されて久しい。外で優秀なお父様が、家では子供に暴力を振るうなんて話もある。誰だって何らかの仮面を被って生きているんだ、たまには違うものも演じたくなるんでしょう。」


 

 講義室には、いつも教室で勉強している優等生が前の席に陣取っていました。参加者も少ないだろうによくやるなと、内心溜息をつきつつ席に着くと、雲居名乗る教授が、教壇に立ちました。


「ペルソナという言葉があります。近頃は同じ名前のゲームがすっかり有名となったのでご存知の方もいるかもしれません。これはラテン語で『仮面』という言葉を意味し、転じて人格を表すようになりました。人前でよく見せようとしたり、逆に期待されない為にぐうたらしている人を見たことはありますか」


 仮面、人格。ショーケースで出会った男と、講師の話は、妙に紘戸の胸の奥に刺さりました。親を心配させまいと振舞う自分は、どうにも「仮面を被っている」として気になって仕方ありません。勉強をして、親を手伝って、その先にあるものを思い描けない紘戸にとって、今の仮面を被った自分は、振り返ると滑稽にしか映らず、採桑老を思い出してしまうのです。

 

 ショーケースの前には、もう誰もいませんでした。あるのは、朽ちた顎をだらしなく伸ばし、半開きの目でこちらを見る老爺の仮面と、もう音は出せないであろう楽器達でした。やがて自分もこうなるのだろうか。心の奥にしまい込んでいた、「何者にもなれない」という不安が、ゆっくりと紘戸に広がってゆくのを感じます。


「今日の講義は、どうでした」


 突然の声にドキリと首をすくめて振り返ると、老爺が杖にすがりながら立っていました。


「考えさせられることが多い講義でしたよ。人格を仮面としてまとえるなら、いっそ英雄になれるお面でも被っていたい。」


 ほう、と話を促す老爺に、紘戸は最近の出来事を話しました。親に心配されるまいと頑張っていること、図書館で勉強をし、そして帰っている間だけ、自分が自分でいられること。


「なれば、私があなたの顔を作って差し上げましょうか」


 そう言って老爺が指さしたのは、いつの間にか持っていた、数枚の面でした。一つは文字通り張り付けたような笑顔で、一つは何を考えているのかわからない無表情で、一つは最早顔なのかどうかすらわかりません。


「それら全てがあなたの顔。本当の姿など一つも無い。そら、自分の顔を撫でて見なさい。鼻はありますか、眼はありますか。口は、耳は。」


 見えているのに目の位置がわからない。聞こえているのに耳の位置がわからない。そして、声を発しようとして、ある筈の口が開かないことに気づきました。


「そう、あなたには顔が無いのです。その面をお渡し下さい。作ってあげますよ、あなたの顔を……そしてあなたの顔になってあげますよ」



 伸ばした手を、横から掴まれる感覚と共に、老爺と自分の間に加わる気配ありました。掴む腕の力は強く、握っていた仮面をあっという間に取り上げられ、今度は顔に強い衝撃が加わりました。そして顔から衝撃が離れていくのを感じ取った時、紘戸は咳き込みながら、自身の声を聴き、呼吸を整えながら老爺と自分の間にある者の姿を捉えました。


「演じる者無く被る者無く、誰かの顔に取って代わろうというのか」


 老爺に迫る男は恐ろしく、背中越しの激しい怒りが伝わってきます。


「わ、私は、人の顔になりたくて」


「役は終わったろう。不老不死でないのは人も物も同じだ。」


 杖を蹴飛ばされ、後ろに倒れ込んだ老爺が腰を打ち付け、頭を地につけた瞬間、後に残ったのは男と紘戸だけでした。



「自分が持ってる仮面が見えたか」


 振り向いた男の声は、打って変わって穏やかなものでした。うまく声を出せない紘戸は、首を縦に振って答えます。


「それは全部、貴方の顔だ。心配かけたくないと言って頑張る顔も、疲れてうまく表情を作れない顔も、何者なのかと悩む自分も、全部が貴方自身だ。誰にも渡してはいけない。悩みを捨ててはいけない……」



 紘戸はその後も図書館に通い続けました。勉学に励み、家事を手伝い、大学へ入り、そしてこの講義を縁として雲居教授の研究室を訪れるまで。

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